島原市立第一小学校所蔵 青い目の人形

「リトル・メリー」と「ジョアンナ」

青い目の人形の由来

一日の生活イメージ

 日本で教鞭をとったことのある宣教師のシドニー・ギューリック博士は,1901年から数々の排日法を成立させたカリフォルニア州をはじめとして,あまりにアメリカでの反日感情が激しいのに驚きました。ギューリック博士は,明日ある子ども達に両国の未来をたくそうと,日本の子ども達に友情の人形を贈ろうと全米の子ども達たちに呼びかけました。それに対して270万人以上の人々が募金で応えました。多数のボランティアの人たちが,一つ一つの人形に服を着せて,靴をはかせ,帽子をかぶらせ,パスポートを携えさせて送り出しました。1927年(昭和2年)3月3日ひな祭りの日,アメリカから12,739体の青い眼の人形が船で横浜港に到着しました。
 アメリカからやって来た「青い目の人形」は横浜に到着し,日本中で大歓迎を受けました。到着した人形は各地を巡回後,文部省を通じて各県に配られ(長崎県内には214体),各小学校に届けられました。
(写真は1927年 日米親善人形の歓迎式)


青い目の人形のその後

体験学習イメージ

 雨情の「青い目の人形さん」の歌が流行ったこともあり,当時,貧しい日本の子ども達は見たこともないようなすてきな人形にたいへん喜びました。そのうえ,手にとって触れることができたのですから,子ども達はすごく嬉しかったはずです。
 しかし,太平洋戦争が始まり敗色濃厚になるにつれて,人形に対する見方も厳しくなり,日本に贈られてきた人形達は不幸な環境にさらされることが多くなっていきます。敵国の人形だからと見せしめに校庭で火あぶりにされたり,竹やりで刺されたりとほとんどの人形はなくなってしまいました。
 一方,そういうなかで平和大使の人形をなんとかしたいと,心ある先生方が守ってくださった学校もありました。そのため一体一体の人形それぞれに様々なストーリーがあるのです。現在,そうした人形が全国で約320体確認されているそうです。

(右写真は,島原市立第一小学校 所蔵の「リトル・メリー」)


第一小学校の「青い目の人形」

英語学習イメージ

 長らく失われたと思われていた親善人形が,再び日の目を見たのは,終戦から39年が過ぎた1984年。卒業生から学校に贈られたひな人形の箱の中にひっそりと隠されていたのを当時の校長が発見しました。人形にはモンペで作った服が着せてあり,敵国の人形とばれないように着せ替えてありました。
 最初は名前がなかったこの人形ですが,児童から名前を募集して「リトル・メリー」と命名されました。
 また,2005年には米国在住のギューリック3世夫妻から新 青い目の人形「ジョアンナ」が贈られました。
 現在,この2体の人形は平和の尊さを伝える生きた教材として活躍しています。
       (右写真は,新 青い目の人形「ジョアンナ」)