間中喜雄先生について 平成2年8月
間中喜雄先生記念東洋医学研究所の由来
平成2年8月

間中喜雄先生との御縁 平成2年2月


間中喜雄先生の霊前に捧ぐ

 

闇盲 妄混     アンモウ ボウコン

東陲 滄溟     トウスイ ソウメイ

光輝 忽焉     コウキ コツエン

間中 天     マナカ テンコウ

喜仰 雄渾     キギヨウ ユウコン

紹志 彰眞     シヨウシ シヨウシン

 

くらく乱れる

東のかなたの洋に

突然に光があらわれた

マナカ という星が

喜び仰ぐ力強さ

志をついで眞をあきらかにすベし
 


特定医療法人 温知会 間中病院 ( 小田原市 本町 4-1-26) の 英姿

間中先生との御縁
間中喜雄先生が他界されてはや二ヶ月経ったのに、先生を偲ぶと万感胸に迫り、おもいを言葉に表すすべもない。天から与えられた御縁というか、永遠のきずなを感ぜざるを得ない。
この私なりの御縁について述べたい。
 私が東洋を指向したのは京都での学生時代からであった。永い日本歴史や文化、伝統の中心地であったし、誇るべき京都学派であり、その頃沢潟久敬先生の医学概論にあるべき姿としての全体性、綜合性をあげられ、当時台頭したストレス学説、ソ連のネルヴィズム、東洋医学について説かれ、強く印象に残っている。
 私事にわたって恐縮であるが、父僖七は熱烈な真宗信者であり実践家で、金子大栄氏、暁鳥 敏師、西田天香師に私淑していたが、これも不思議な御縁で大谷光瑞師に師事して京城別院に来られた未だ紅顔の岡西為人氏を当時父は京城で眼科開業中であったが、祖母が何かとお世話したらしい。その後、岡西氏は満大(南満医学堂)に来られた時は父は奉天で開業しており永く親しくおつき会い頂いた。又、有名な四庫全書を管理した図書館長には父と義理兄弟の契を結んだ漢籍に詳しい金経九氏(大谷大学出身)が居られ、これらの交遊で父の書斎には東洋医学書が数多く有り、当時中学生だった私には”医界の鉄錐”がその特異な題名によってか強く記憶に残っている。又、長兄・杏太郎は父の影響もあったが、旧満州国政府官僚時代に直系上司の川上六馬氏と立案して矢数先生、竜野先生を満州国政府に招聘したり、長野県医師会裁定委員長時代に代田文誌氏をカバーしており年月を越えたえにしを感ずる。
 私が開業し多くの患者を診てから、オーソドックスな大学医学に未解明な分野が有るのではと気付き本格的には東洋医学の勉強にとりかかった。矢数道明先生に教えを賜ったりしたが、日本西端の僻地で幸か不幸か自由で、ある意味では気まま我が儘な研究を続け、どうやら書き上げたのが本邦では初めての 腎虚研究書となった ”腎虚の現代医学的考察” であった。今では若気の至りで汗顔ものであるが、無知の怖さを知らずで おりしも 東洋医学を 現代の科学の進歩発展途上に創造的にとらえようとしておられるユニ-クを著作等で拝見して 小田原の間中先生宅に参上した次第てある。そして拙著の序文を頂けるようお願いしたのが、最初の出会いであった。「この世にはこんな変人もおるのか、未だ若いから見てみよう」との寛大なお心だったか、流石に先生らしい序文を賜った。その後腎虚一本やりで三歩前進二歩後退を続け”上下次元の病態観”、”頚診”へと進んで行くが、”頚椎診”の発見に至って当時では容観化の証明が出来ずにスランプに陥った。心身医学的な解明は出来ないものかと九大心療内科の池見酉次郎先生の許で勉強させて頂き頚椎診の心身医学面が明らかにされ非常に有益であった。その間にも間中喜雄先生からは相変わらぬ温いおはげましを頂いている。”頚椎診”、”上下次元の病態観”はやっと最近医学の知見とテクノロジーで解明されようとしており、特にアメリカ やソ連での宇宙空間の長期滞在のレポートをかいま見ると、永年の腎虚の下虚上実.陰虚火旺に関する研究が認められ、将来、”宇宙医学と東洋医学”という新しいテーマに対応出来る時も近いと信ずる。新しい出番をひかえて、之からも老骨に鞭打たねばならないと覚悟している。これが永年の先生の御恩顧に報ゆる道と考える。
 未だに間中喜雄先生に申上げてなかった数々を含めて、更めてみたまに報告申上げる次第でございます。
 先生御自身が時空を超越した宇宙感覚の方であり(霊界つうしん、そろばんのむだ ま)、玉霊界にあっても常に我々を加護してくだされ、飛んで来られてインスピレーションを吹き込まれ、靜の世界の先に展開する末來医学の開発 に御教導頂けるものと確信しております。私が東洋医学を志してから、前にも述べたような不思議で有難い御縁を頂いていることに気付き、この御縁の糸は間中喜雄先生へと力強く結ばれて、更に先生の後をたどって行くのが老後たのしみである。6月には、ニューサイエンスとビハーラ(サンスクリット・休息の意)を視野においた21世紀指向の病院が完成するが、その中に間中喜雄先生記念ホールを設けて、先生を偲び、先生から”気”を得てそして先生の志を継いでゆき度い。