何故「宝生」から「金剛」へ…島原藩の能楽-忠候時代、川島朋子准教授が研究

 江戸時代、島原藩は地方都市でありながら元禄期に宝生流、文化文政期には金剛流の能楽が武士や商人、農民に至るまで広く浸透し、親しまれていた-。

 そう話すのは、中世国文学(芸能史)が専門で室町時代の物語や能楽・狂言の研究に取り組んでいる明石工業高等専門学校准教授・川島朋子さん。国の科学研究費の助成を受け、平成18年度から島原藩松平文庫の能楽関係資料の調査研究に着手、今年3年目になる。この秋9月18日にも来島し、3日間『藩日記』など史料を閲覧。新たに判明した忠候時代(文政2~天保11)の状況などを話した。

 川島さんが最初に目をつけたのは、「文政七年 喜多尾久右衛門 借写」の奥書きがある大蔵(おおくら)流の狂言台本『間狂言(あいきょうげん)』だった。

 その途次、松平忠房時代(寛文9~元禄13)に姫路藩でおきた能伝授のもめごとに関する記録『宝生太夫正月七日播州江参候物語聞書』を発見し、島原松平藩時代初期の流派が「宝生流」であったことを突きとめた。

 ところが、宇都宮時代の25年間を経て再度島原に帰還したのち、忠恕、忠馮、忠候の後期「化政文化」期に入ると、一転して「金剛流」に変わっている。それは、天保3年(1832)忠候が筆写した『乱伝書』等の一連の能楽史料のうち、『道成寺』なる資料に、藩主に稽古をつける能役者「大友勘之丞」の名前が見え、『島原藩日記』に彼の名前とともに「金剛右近」あるいは「金剛大夫」が出てくることが一つ。ほかに、『謡本』のなかに「下懸(しもがか)り」と明記されてあることからも判断される、という。ちなみに能楽五流派のうち、「下懸り」は金剛、金春、喜多の三流派。観世と宝生は「上懸り」にそれぞれ分けられる。

 「大友勘之丞」は、松平藩主の江戸藩邸で抱えられた専属の金剛流能役者であり、代々「勘之丞」を襲名したらしい。文化2年(1805)の島原藩役職人の記録『藩中人数割』には、「大友勘之丞伜(せがれ)大友福三郎」とある。つまり、「大友福三郎」が文政2年(1819)に藩主に就いた忠候時代の「(のちの)勘之丞」。彼の父も「大友勘之丞」を名乗り、忠馮もしくはそれ以前の忠恕時代、「金剛流」能を指南していたと判断されるのだ。

 問題は、前期松平島原藩の「宝生流」が、宇都宮時代を経た後期に何故、「金剛流」に変わったかだが、川島准教授によると「何らかのきっかけがあったと思われるが、今のところ不明(調査中)」とのこと。その変わり目と思われるのが"謎"の宇都宮時代。今回、同期の『藩日記』を中心に資料を閲覧・調査を進めた。

 「忠馮、忠候は島原大変の災害のあとの藩主。こんにちの島原と重なる事情もある。文政13
年(忠候時代)には、能を"百姓たちに見せた"ことも記録されているし、大変な時代に芸能が果たした役割もあるかも-」と添えた。

[2008/09/27:島原新聞]

ラベル:


<< Home
島原新聞
F-Secure 優待販売
広告募集
ニュース検索

ニュースアーカイブ

ブログパーツ
| ホーム | カボチャテレビ | しまばらTV | みどころ | 宿泊マップ | イベント | リンク | ショッピング | 履正不畏 | 問合せ | 運営会社 |
Copyright © 2006 Cabletelevision shimabara. All rights reserved. counter