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KOHZAN

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I'm sorry for
my brokun English .


1956年、長崎県島原市生まれ。

兄、姉、姉、私の末っ子。


■幼小学時代

小さい頃から絵を描いたり、工作をしたりするのが好きだった。

小学4年生の時、自動的に学校の鼓笛隊に入隊。

笛も吹けないのに隊列のシッポを形成。

吹かずに指だけ適当に動かし行進していた。

音楽には全く興味がなかった。

興味のないことを、やらねばならぬ世の中の不条理と苦痛を

このころより、感じ始める。


小学校、中高学年生の頃の家の手伝いは、五右衛門風呂の風呂焚きだった。

炎の揺らぎを眺め、パチパチという木や竹の燃える音を

聞いていると妙に気持ちが落ち着いた。


このころの興味は、人間はどうして「めし」を食うと嬉しくなるのか、

美味いものを食うと、どうして体じゅうを快感が走るのか、

幸福な気分になるのかということだった。

飯を食いながら、じっと観察した。

いつ、どこらあたりで、どんな風に、その快感が走るのか、走るのかと。。。

しばしば箸を持ったまま固まった。

「こいつは、馬鹿か」と親父からよく怒鳴られた。



小学校6年生の春休みと夏休みに、ちょっとした病気で

2ヶ月程、福岡の九大病院で暮らした。

生まれて初めて、文明の光を浴び、文化人に接し、文化的な生活をした。

水洗トイレにエスカレーター、公衆電話にチンチン電車。。。

目にはいる全てのものが新鮮で輝いていた。

中でも、同じ小学生の分際で、筆記体の英語をスラスラ書ける子が

いるのには、コペルニクス的カルチャーショックを受けた。

自分が「公立」の小学校に通っていることを、初めて知った。



■中学時代

中学2年の夏、どういういきさつか知らないが

画家の「長尾淘汰」氏が、しばらくの間、親戚の家に居候して絵を描いていた。

同級生の従兄弟とよくその部屋(アトリエ)を訪ね、絵を見せてもらった。

その絵達に囲まれていると、自分の心の中に閉じ込められていた気持ちや想像力が

無限にふくらむ様な、解放されるような気分になり、とても心地よかった。

本物の芸術は、いいなあ。と思った。これが芸術なんだと。


ある日、淘汰氏と近所の「ひょうたん池」辺りを散歩した時、

淘汰氏は、「にわとり小屋」の前でつぶやいた。

「ここの にわとり達は、可哀相だ。にわとりとして生まれても、生涯、土を踏むことがない。」

こんなちょっとした自然主義的発言が、感受性豊かな中学生の心に突き刺さり、

その後の私の人格形成に多大な影響を与えた。

この矢は、何度も抜き取ろうとしたが、いまだに、突き刺さったままだ。


また散歩しながら、淘汰氏は、その辺に生えている雑草を、

「これは食べられる草なんだよ。」と言って

何の躊躇もなく、ムシャムシャと食べ始めた。

やっぱ、芸術家の興味というか教養は、私達凡人とは違うんだと、いたく感動した。

が。。。淘汰氏が、翌日、ひどい下痢をしたと後で聞き、

芸術家の行動の無謀さと大胆さに、あらためて感服した。



■高校時代


高校時代は、とても 「元気、一発!!」でもなければ、

「スカッとさわやか。。。」でもなかった。一言で言うと

自分の心のおもむくままに「自然に生きたい」という気持ちと、

とにかく「勉強しなければならない」という急かされた気持ちとの

「葛藤」そのものだった。

なんの抵抗もなく、何の疑問もなく、自然体で

がむしゃらに勉強に取り組める周りの人達の心境が、

計り知れなかったし、また羨ましくもあった。。。

要するに、ただ「遊び足りなかった。」だけである。



■大学時代

大学は九州芸術工科大学という、ちょっと変な大学へいった。

この大学も、今や風前の灯火だ。もうすぐ、九大と統合されてしまう。

設計家を目指して、はいったものの、なんか自分の性格にしっくりいかなかった。

芸工大というのは、デザインセンスを磨く所かと思っていたら、

そうでもなかった。

自分の設計したものが、いかに凄いかということを、

いかに論理的に上手に説明(プレゼンテーション)できるか。

このことを訓練する場であった。

私のような人間にとって、いわゆるプレゼは、

ただややこしいだけの作業で、興味が持てなかった。

良いものは説明するまでもなく、一見すれば

直感的に分るものだったからである。

美しい女性は、涼しげにすましているから美しいのであって、

「私は、こんなに美しいのですよ。」と本人が説明し出した日には、

百年の恋も、覚めてしまう。。。

商業主義の手先に、なりたくないと思った。


大学では図面に向かっているより、工作工房にこもり、

木や金属やプラスチックとかいった色んな材料を、

それこそ色んな工作機械や工具を使って、四苦八苦しながらも

自分の思うままに加工することの方が余程楽しかった。

その一方で、芸術に対する興味は、観念的な方向へと進んでいった。


19世紀のイギリス。産業革命後の機械万能主義の時代の中で

人間の手から生まれる仕事の喜び、生活の芸術化を訴え、

人間本来の豊かさを取り戻そうとしたWilliam Morrisの思想に感銘。

「真の芸術とは、人間の働く喜びを人間が表現することに、他ならない。」

彼の、こんな言葉が、またもや胸に突き刺さる。



■大学院時代

大学で設計家になることに挫折。

興味は、次第に美術史、工芸史へと向かった。

我が人生の中で、この頃が、一番良く勉強した。

来る日も、来る日も、辞書を片手に、日がな、洋書と格闘した。

自慢ではないが、このころ何度か英語で夢を見たことがある。

そこに英語ペラペラの自分がいた。。。

ちゃんと間違ってない英語をしゃっべてるよなあ。。。

と、英語で何度も確認しているもう一人の自分もいた。

ところが、いざ目覚めてみると、

からきし英語がしゃべれないのである。

夢のまか不思議である。



■その後。。。

学校は出たものの、自分の好き勝手なことばかり遣っていたので

就職はなかった。我がままの報いである。

そんな中、先生や先輩の手伝いで、焼き物にかかわったり、

あちこちの窯元を訪ねることがあった。

窯元の人達も生き生きとして、気楽で楽しそうな生活をしている様に見えた。

自分にもできるような気がして、ちょっと遣らせてもらったのが

切っ掛けで、この世界にはまってしまった。

陶芸が、その後の私の人生の「なりわい」となるとは思いもよらなかった。

人生の舵なんて、ほんのささいな事から大きく転換してしまう。



そして、その後は略して、今に至る。

現在、中2、小1の二人の息子の父で、

良妻(と紹介しないとうるさい妻)の夫。



とにかく好き勝手なことばかりやって来た。

悪く言えば、我がまま。

良く言へば、感性を大切にして生きてきた。

そんな人生かなと思う。

焼物に限らず、手で物を作るのが好きで、

それが上手くできた時の喜びを人生最良の喜びとする。

そんな単純な人間である。

これから先、どこへいくのやら。

我がまま人生の旅は、さらに続く。。。


お暇な方は、KOHZAN秘密基地

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