「 草枕


焼きものやってる人というのは、世間の人から

「ちょっと変わった人がやっているんじゃなかろうか。」と

思われているのかも知れない。

時々、テレビや雑誌の取材を受ける。取材する人の期待に答えて、

自分の人生を劇的に熱く語り、芸術家を演じるのも大変だ。

平凡だと面白くない。ニュースにならない。

私たちがテレビや雑誌の中で知る世界というのは、

大方そんな歪んだ事だらけなのかも知れない。



私という人間は、どこにでも転がっているような

ごくごく普通な人間である。

焼きものをやっているからといって、自分の人生に

これといった野心を持って生きているという訳でもなく、

ただ、ただ、好きなことを日がなやっているだけの話である。

ちょっとした弾みで私と人生を共にすることになり、

日がな私の助手をやらねばならぬようになったカミさんは、

いい迷惑かもしれない。



私は、自分の作品について、あまり多くを語りたくない。

作品の良し悪しは、手にする方が直感的に決めて下さることだと

考えるからである。

しかし、カミさんによると、お客さんに、あれこれ説明すると、

迷いも晴れ、納得されて買って下さる事も多いんだそうだ。

私としては、どこか知らない所で、お客さんに使ってもらって

喜んでいて頂ければれば、ただそれだけで良いと思っている。

どちらかというと私は作品について、あれこれ語るより、

手を動かして無心にものを作っていることの方が好きだ。

失敗も多いが、自分で工夫してものを作り、

それが上手く出来た時の喜びは何ものにも代えがたい。

こういう毎日を生涯続けることができればというのが、

私のささやかな願いといえば、願である。

カミさんには苦労をかける。

でも感謝はしている。




漱石の「草枕」の冒頭に次の一節がある。



山路を上りながら、こう考えた。


智に働けば角が立つ。

情に棹させば流される。 

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。



住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画が出来る。



人の世をつくったものは神でもなければ鬼でもない。

やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯(ただ)の人である。

唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

人でなしの国は人の世よりも猶(なお)住みにくかろう。



越す事のならぬ世が住みにくければ、

住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、

束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職が出来て、

ここに画家という使命が降(くだ)る。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、

人の心を豊かにするが故に尊い。


尊いかどうかは知らないが。

私が焼きものを始めた所以もここにある。