桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

赤い髪のリリス 戦いの風 35

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103、

イネスが結界に阻まれている魔物を前に、目を閉じ深呼吸する。
ヨーコ鳥が飛んできて、彼の肩に留まりまぶしい結界の放つ光から目をそらした。

「何をしている。お前はどこかに隠れろ。」

「チュン!何言ってんのよ、あたしはリリスからあんたのことを頼まれてるの!
あたしがいれば無茶は出来ないでしょ?チュッチュン!」

「馬鹿なことを、俺は死ぬ気なぞ更々無いぞ。」

「そ、ならいいわ。あたしのことは気にしないで。あたしだって死ぬ気はないから。」

「好きにしろ。」

フフッと微笑み、少し肩から力が抜けた気がする。
魔物相手に戦えるのは自分一人だ。
ここの魔導師達に、戦うスキルのないことは十分わかっている。
今はリリスも、兄巫子もいない。

回廊を出て、立ち木の並ぶ庭に出る。
一番立派な木は、死にかけたリリスに気を与えて半分が葉を落とした。
イネスがその前でリリスのフィーネの音を聞きながら剣舞をしたのも懐かしい。

バシッ!ゴオオオオ……

バサッ!バサ、バサッ!

巨大な真っ黒いドラゴンが、羽根を羽ばたかせ結界の攻撃を物ともせず何度も向かってくる。
その頭にある角の先端に、小さく人物が見えた。

「危のうございます!巫子様!」
「どうかお下がりを!」

兵がばらばらと集まり、イネスの前に出て震える手で剣を構える。
遅れて息を切らし、魔導師達も駆けつけイネスの後ろに控えた。

「巫子殿!」

「さすが巫子殿の結界!しかし、あれでは時間の問題でございましょう。
人が数人飲まれたとの情報もあります。いかがなさいます?我らもお手伝いを……ああっ!」

ルネイが身を乗り出した時、頭上のドラゴンが形を変え、巨大なカエルとなって結界を引き裂くように破って隙間から顔を出した。
頭の角が引っ込み、口を開けるとべろりと舌をこちらに伸ばす。
その舌の先には黒いローブを着て長い杖を突いた魔導師らしき人影が、ゆるりと頭を下げた。

「今宵ハ、ナント素晴ラシキ夜。
覚エ高キ地ノ巫子殿、オ初ニオ目ニカカル。
我ガ名ハ魔導師ぜる、コノヨウナ夜分ニ恐レ入リマスル。」

「何の用か!ここをレナント領主ガルシア殿の居城と知っての無礼か?!」

「オオ、オ怒リモゴモットモ。
我ラハ、めいす様ヲオ迎エニ参上シタ次第。
コチラヘ保護サレテオラレルノハ承知シテオリマス。ドウカオ引キ渡シヲ。」

イネスが心の中で舌打ちする。
今彼は仮死状態、殺したと勘違いでもされたら面倒だ。

「メイス殿はもうお帰りにならぬ!
ようやく心身共に落ち着きを取り戻したのだ。このまま我らの元で静養して貰う!
早々に立ち去れ!無礼者!」

ゼルが、ぴくりと顔を上げる。
ローブの中の双眸が青く光り、杖でとんと舌を突いた。
漆黒のカエルの腹が見る間に膨らみ、水滴のように腹から風船がイネス達の前にぶら下がってくる。
中には数人の町の人々が、暴れる様子もなく詰め込まれていた。

「あれは!飲まれた人たちでは?!」
「イネス様!」

後ろでルネイ達の声がした瞬間、イネスの手が腰の剣を抜き、カエルに向けて閃いた。
遠く上空のカエルの腹が鮮やかなほどにスパッと断たれ、人々の入った腹の袋ごと下半身が分離される。
しかし、その瞬間カエルの腹は繋がり、人々はまた腹の方へと持ち上げられた。

「オオ、危ナイ危ナイ、サスガハ地ノ刃(やいば)ノ巫子、隙ガ無イ。
サテ、取引ヲナサイマセヌカ?
コチラノ方々ト、交換デハイカガナモノデゴザイマショウ?
無事二返シテ欲シクバ、めいす様ヲオ返シ願オウカ。」

空には結界の反発する光りが瞬いて、それを物ともせずカエルは裂け目からますます身を乗り出してくる。
しかし、またイネスが剣を構えるとスッと後ろに引いた。

「チッ、警戒しているか。」

まず最初の一撃で、魔導師を狙うべきだったと今さら後悔する。
人の形をする相手を切ることが出来ない甘さを、こんな所で晒してしまった。

「イネス様、引き渡しますか?」
「いかがなさるので?イネス様、引き渡しましょう!」

兵達が、口々にメイスの引き渡しを迫る。
レナントの人々にとって、メイスと囚われの町の人々を秤にかけても答えは一つしかないだろう。
だが、彼は修行も積んでいない巫子なのだ。
それを引き渡すことの意味が、どれほどまたこの国の脅威となるか、巫子である自分は良く知っている。

「ならぬ、あれを引き渡せば、またその力を利用され、この国の脅威となるだけだ。
先日襲ってきた時を、そして本城の魔導師の塔が崩れたのを忘れたか?!」

イネスの高い声が響き、兵達のざわついた声が静まった。
皆、メイスが巫子らしいとは耳に入っている。
その力が利用されるとどう言うことになるのか、彼が魔物に支配された姿を目の当たりにして恐怖を感じた者も少なくないのだ。
巫子とは強い力にもなり、また強力な敵ともなる。

「コチラモ引ケヌゾ、地ノ巫子。
主ガオ待チナノダ、館ヲ潰シテデモ返シテモラウ。」

不気味な魔導師の声に、人々が思わず一歩引く。
イネスは身じろぎもせず、魔導師とにらみ合いながら心中でひたすら活路を模索していた。



仮死状態のメイスの横で、カナンが剣を握りしめて閃光が漏れる窓を見つめる。
ドアの外では兵達がバタバタ駆け回り、イネスの言いつけで数人が警護に就いていてくれている。
しかし、それでも魔物に普通の人間がいくら抗っても、時には意味のない物だと良く知っている。
緊張の中、ノックの音がしてハッと聞き耳を立てた。

「カナン殿、魔導師グロスがまいりました。」

ホッとして、ドアを開けるグロスに思わず笑みが出た。

「良かった、私一人ではどうにも……グロス様に来ていただくと助かります。」

「魔物はメイス殿を引き渡せと来ているようじゃ。イネス様が毅然と断られているようですが、どうなる物か。
ここまで来られては守りきれるかわからぬ、一応守りの陣をしきに来たのじゃ。
周りに魔導で文字を書く、さ、ベッドを部屋の中央に。」

「は、はい。」

邪魔な椅子やテーブルを隣の部屋に移し、ミランが急いで準備を始める。
グロスが窓に目をやり、ふと漏らした。

「わしが作る複製のまやかしではすぐにわかってしまおう。せめて身代わり石があれば……」

「身代わり石?……確か、神殿にあると聞いたことはありますが……魔物もだますことが出来るのでしょうか?」

「あれはヴァシュラム様が気まぐれに作られる魂の鏡。魔物もしばらくは気がつくまい。
だがそれだけに希少品じゃ。神殿以外では見たこともない、残念な事よ。」

唇を噛みながらメイスを見る。
今、仮に渡すと判断したにしても、仮死の状態では騒ぎを大きくするに違いない。
イネスで、この状態を上手く乗り切れるのか    ……

「セレス様が……」

カナンがセレスがいたならと、つい口から出そうになって飲み込んだ。
今はイネスを信じよう。

グロスがとりあえずはメイスの周囲に文字を書き始め、魔導で守りの陣を引いていく。
その時、静かにドアが開きサファイアが部屋に滑り込んできた。

「サファ……」

「しっ」

指を立て、サファイアが腰からナイフを抜く。
メイスへその切っ先を向けた時、思わず叫びそうになったカナンの口をグロスが覆った。

104、

「サテ、ワシモ気ガ短イ。めいす様ヲ、早ウオ返シネガエヌカ?
ソレトモ、コヤツラハ見捨テルカ?」

「見捨てるなどと、ほざくな卑怯者め!」

「イネス、落ち着いて。チュチュッ」

いらだつイネスに、ヨーコが耳元にささやく。
攻撃しようと思っても、イネスの剣を恐れてか魔導師は人質を盾にして最初のように身を乗り出してこない。
隙あらばと、イネスがギュッと剣の柄を握りしめる。
その時、戻って来たサファイアが、イネスの背後で声をかけた。

「今は引き渡しのご決断を。」

「何を馬鹿なことを!」

「もう、お連れしました。」

驚いて振り向くと、メイスがおどおどとしてサファイアに手を引かれている。
そして背を押され、前に出てゼルに向け顔を上げた。

「オオ!確カニめいす様!サア、コチラヘ。りゅーず様モ、ゴ心配シテオイデデゴザイマス。」

カエルがヒュルヒュルと手を地上に伸ばし、メイスの身体を優しく手の平に載せて引き寄せた。
不気味な魔導師の姿におびえる様子を見て、軽くうなずき舌をトンと杖で突く。
カエルの腹から再び人々の入った袋を降ろし、人々を放り出してようやく解放すると、カエルが結界から頭を上げた。

「デハ、サラバ」

カエルはまたドラゴンに姿を変え、夜空の暗闇に消えて行く。
皆が息をついて捕らえられていた人々に駆け寄るなか、イネスがサファイアに詰め寄った。

「貴様!誰の許しを得て……!」

「また、恐らく来ます。」

「なに?!」

「ヴァシュラム様から頂いた、身代わり石を使いました。
メイス殿の血を吸わせたのでしばらくは持つと思いますが、今度は怒り狂って来るかもしれません。」

イネスがあんぐりサファイアを見る。
どっと力が抜けて、膝に手を付いた。

「わかっていれば、あいつごと切り捨ててやったのに……」

「いえ、あの場はあれで良かったのです。
戦いへの備えが十分ではございませんでした。」

確かに、あの不気味な魔導師が、イネスの刃で果たして死ぬのかわからない。

「身代わり石って爺様の作るあの土人形みたいなの?
あたし達の家族も全然気がつかないのよ。
あれって凄いわよ、チュンチュッ」

「そうだ、ヴァシュラム様のお得意の技。
何度木偶相手にだまされたか……でも、それが役にたったんだな。」

「先ほどは、あれしかございませんでした。
メイス殿が仮死の状態である以上は引き渡すことも出来ません。」

「良い、助かった。これからの事は考えよう。
リリが帰るまで、俺も全力で戦う。」

ふと屋敷を見上げると、ガルシアの部屋の近く、ランプを手にバルコニーから部屋に入って行く人影が見えた。
恐らくガルシアだ、イネスの力も見られてしまったことだろう。
安易に使いたくない力なのに……この力は魔物だけでなく人も切ってしまう。
当てにされるのは恐ろしい。

「イネス様、神殿から応援を呼び寄せましょう。」

ハッと、イネスが顔を上げて息をのむ。

「なにを馬鹿なことを」
「お一人では無理です。次に魔物が単独で来るという保証はありません。」

サファイアの言葉が、胸にズシンと重い。
呼び寄せるのは簡単だ。
しかし、神殿の守りが薄くなる。
水の神殿が出た話を聞かない以上、本城からも要請が来ているかもしれない。

「まだだ、まだ……がんばれる。」

「リリス殿が帰ってこられる保証もありません。」

サファイアからは絶対に聞きたくなかった言葉に、イネスがカッとして手を上げ、ギュッと握って手を降ろした。

「リリは、帰ってくる!俺は信じている!
……ガルシア殿に、報告に行く。」

くるりときびすを返し、歩き出すイネスから飛び立ち、ヨーコがサファイアの肩に留まった。

「あたしも、リリスは帰ってくると信じてる。」

サファイアは無言でイネスの姿を見つめる。
ヨーコは裂け目を閉じて元に戻ったらしい結界を見上げ、ため息をつくようにチュンと一鳴きした。

「そう言えば、刃の巫子って……どうしてあんな凄い力持ってて、メイスが襲ってきた時使わなかったの?」

手元で剣を一降りしただけで、遠く離れた黒いカエルが両断された。恐らく誰もが初めて目にした物だろう。
不思議そうに問うヨーコにサファイアが、イネスの背を追いながらつぶやくように言った。

「イネス様は……すべてを断つこの力がお嫌いなのです。
あれは、魔物だけでなく人も断ちます。一つ間違えれば人の命さえも奪うもの。
鋭い刃の巫子でありながら、自らなまくら刀であろうとされる。
リリス殿にも決して見せたことのない力。
どうか……どうか、リリス様にはご内密に。いずれご自分から語られるまで……」

なにか、あの力にはイネスにとって大きな確執があるに違いない。
しかし、目にした兵士は、さすがは巫子といくぶん安心感も持ったようだ。
イネスは、持っている力を鼓舞することなく、ひっそりとセレスの影に隠れている。
そんな印象さえ受ける。
もっと堂々と、力を使ってみんなを安心させればいいのに。
ヨーコはイネスの痩せた背中を見つめ、その重責はきっと彼には重すぎるのだと思っていた。




そして、城内では自室に戻りながらガルシアも腕を組み、顎をさすりながら先ほど見た光景を考えていた。
イネスが、どうしてあのように強力な力を隠しているのか。
遠く離れた巨大なカエルは、確かに彼の力で真っ二つになったではないか。
しかし、今夜でさえ彼はその一振りしか使わなかった。

「さて、使えるのか使えないのか。
それよりもまず、今まであえて危機に置いても使わなかった意味も聞く必要がありそうだ。
クリス、イネス殿を呼べ。」

大きな力を得たような安心感と、底知れぬ不安感が入り交じる。
どうも今夜もまた眠れそうにないなと、ようやく静けさを取り戻した星空を立ち止まり、窓から見つめた。






国境を越えてトランに入った、セレスが同伴する一行は、山深い山中で夜を過ごしていた。
トランは山と森に囲まれ、レナントから城のある中心部までは結構な距離がある。
しかも一行は馬と馬車とは言え、あまりスピードが出ないのんびりとした行程だ。
途中、リューズに襲われるのではと肝を冷やしていたトランの兵も、特に襲われることなく順調な旅でホッと一息ついている。
皆と少し離れた場所で、たき火を囲んで休んでいたセレスがふと目を覚まして身を起こし、星空を見上げた。

「セレス様、いかがなされましたか?」

ルビーがたき火に木をくべて声をかけてくる。

「いや、イネスもようやく本気を出すことにしたようだよ。」

「本気……と申されますと、あの凄まじいお力でございますか……」

「そうだね、あの子はあの力をたいそう恐れていたから。
あの子は賢い子だ、自分の力も良く知っている。きっと大丈夫だよ。」

「はい」

「………ルビー」

「はい」

「お前は地の神殿に行ってレナントに加勢を呼んでおいで。」

「……それは、私の仕事ではありません。」

ルビーが、主の突然の命に眉をひそめて返した。
そのことばが何を意味するか、彼には容易にわかるからだ。

「私は、ルビーは地の巫子セレス様の従者です。ヴァシュラム様は『共にあれ』とおっしゃいました。
私はお側を離れません。」

セレスが困ったように、そして少し嬉しいのか微笑みながら火を見つめる。

「融通の利かぬ奴。
私は死なぬがお前は死ぬ。」

「存じております。
しかし、あなた様の復活には必ずその、お身体が必要だと言う事も。」

「ヴァシュラムか、困った精霊よ。私に隠れてコソコソと。」

「首だけでも、腕一本でも構わぬ、必ず持ち帰れと厳命されました。
でも、私はこの命に替えても、今のあなた様をお守りするのが役目です。」

「精霊のわがままに付き合うのも酷だね。
まあ、それがあの方との契約だけれども。
滅多に姿を見せぬくせに、危ない時にだって来もしないくせに、ただ私の存在だけは守ろうとする。」

「愛されておいででございます。」

「そう見えるのかい?フフ……残念ながら違うよ、それが契約なんだ。
ただの契約、それ以上もそれ以下もない。
……私は巫子という言葉を隠れ蓑に、自分の目的のために彼に寄生して生きながらえてるのさ。
ルビー、2代前のルビーは私のために命を落とした。お前はお逃げ、私とあの方の事にこれ以上犠牲はいらぬ。」

「いいえ、私は私の意志でお側にいたいのです。どうかお許し下さい。
そして、どうか私の事はお気になさらず、セレス様の目的をお果たし下さい。」

足下にひざまずくルビーに、セレスが大きくため息をつく。

「私は、城まで彼らに同行するだけだよ。」

「いいえ、同行とは別に目的があるのはわかっておりました。
この儚い普通の人間にとっては、これでも長いお付き合いでございますので。」

「……好きに、するがいい……
でも、お前は死んではならぬ。」

「はい」

セレスがヴァシュラムに付けられた腕輪をもてあそぶ。
転生を繰り返すうち、彼はヴァシュラムの影響が強く出て精霊に近くなり、人間としての存在が時折あやふやになって、その元々持っていた力はどんどん強くなっていった。
あれは何度目の転生だったか、慌てるヴァシュラムに気がつくと、力が暴走し始めて自分の身体さえ無に帰そうとしていた。
あのまま消えていたらどんなにラクだっただろう。
ヴァシュラムの力で事なきを得たが、その事でひどくヴァシュラムは機嫌を損ねたのか、腕輪をセレスに与えると神殿にはほとんど姿を現さなくなってしまった。

あの……地の精霊王は……
こんなちっぽけな人間一人の命に、契約とは言えずっと関わることが、すでに苦痛でたまらないのだろうね……

腕輪は力をセーブし、イネスを守るために、監視のために外せないよう呪をかけて付けられている。
これをはずして力を最大限に使えば、一体この世はどうなるのだろう。
自分と共にすべて灰燼に帰すのか、それも面白いとさえ思う自分は慈悲や哀愁を感じることもなくなったのか。

物思いにふけるセレスを、ルビーがじっと見つめる。
たき火に照らされるその美しい顔には、精霊が離そうとしない……執着する気持ちもわかる。
確かに、この方は他の巫子様とは違う……ヴァシュラム様に、愛されている。
自分はそれがよくわかるのに、あまりにも長い年月はこの方にその感情さえ気がつかせない。
セレス様……セレス様はもしや御身共々敵の魔導師を葬るおつもりでは……

ルビーの表情が、緊張に変わる。
セレスの視線がチラリと向いて、クッと笑いながら彼を見下ろした。

「なんだい?心配性だなルビーは。
俺はこのために生きてきた……いや、生かされてきたのだよ、ルビー。
事が終わればすべては終わる。
そう、全部終わるんだ……」

セレスが燃える火に目を移し、力なく笑う。
ルビーが愕然と彼の横顔を見つめた。

なんという……顔をなさるのです……
この方のこんな表情……初めて見る。

彼が自分のことを「俺」という、似つかわしくない言葉を発する時、それは吐き捨てるようで酷く乱暴だ。
いつも自信に満ちてミステリアスでさえもある微笑みとは、打って変わったこの残酷なほどに寂しい微笑み。
ルビーにはそれが自嘲めいて、「死なない」と言いながらもただ死だけを見つめているような危うさを秘めているように感じて、心に大きな不安が生まれた。

105、

夜もすっかり暮れて、部屋からは穏やかなランプやろうそくの明かりが漏れてくる。
ヒヤリとした風に、これから始まる長い夜を見回る兵達が、身を引き締め星空を仰いだ。

本城ではリリス達は湯浴みも済み、ようやく旅の汚れも落とし、身ぎれいにしてザレルと遅い食事を囲んでいた。
フェリアの事も聞いて、少々ガッカリした様子でリリスが食事に向かう。
リリス自身、最悪の事態の覚悟もしているので、出来れば一目会っておきたかった。
元気で飛びついてくる可愛い彼女の姿を思い浮かべると、恐い思いをさせてどんなに心細かったろうと思う。
しかし、もし自分が命を落とす結果になる時は、彼女がいなくて幸いするかもしれない。
フェリアには幸せになって欲しい、自分の死の瞬間など見せたくはない。

リリスの瞳がぼんやりとグラスの水を見つめ、スープをすくっていた手が止まる。

「どうした?食欲がないのか?」
ザレルが少し心配して尋ねた。

「あ、いえ。ちょっと考え事です。」

「イヤイヤ、さすが本城は食事も上品で美味しゅうござるな。
リリス殿も、早う酒が飲める男になりなされ!」

明るく話すブルースも、さすがに羽目を外さない様子で酒をちびちびとやっている。
食事は手間だが厨房から隣室へ運んでとりわけ、侍女が一人一人に皿を出す。
遠慮無く、特にリリスに食べて貰うためだ。
ザレルも出来るだけのことをしようと、リリスの身の安全と共にレナントの騎士のために配慮を配った。
給仕を勤める二人の侍女のうち一人は、ザレルの懇意にしている兵士の妹だ。
リリスのことは、召使いではなくザレルの息子と理解してくれている。

「私は大食堂の方でよろしかったですのに。」

リリスが、給仕して貰いながら気の毒そうに小さくなる。
隣のミランが、相変わらずだと笑った。

「本当に、リリス殿はお世話していただく事に慣れてないのですね。」

「そうなのだ、ミラン殿。この子は小さい頃から気がつきすぎるのでな。」

ザレルがあごを撫でながらため息混じりに酒を飲む。
リリスがその仕草に、赤い顔でむうっとむくれた。

「だって私はそれが普通なんです。
皆様のお世話をさせて頂くのが私の仕事でしたから、そうしているのがラクなんです。」

「するとリリス殿を辟易させるなら、散々お世話すればよいと言うことですな?
それはよい!あっはっは!」

赤い顔のブルースに、ガーラントが睨み付ける。

「ブルース、飲み過ぎだ馬鹿者。」

ブルースはニッと笑い、彼のグラスになみなみと酒を注いだ。

「お前も飲まぬから、人が飲むのが鼻につくのだ。それ飲め!」

「まったく、緊張感のない奴だ。」

酒を控えていたガーラントも、眉間にしわを寄せながら一口飲む。
思わぬ美味さにもう一口と口に運んでいると、ザレルもグラスを掲げた。

「良い酒だろう。ただし、今夜はその一本だけだ。」

その言葉に、ガーラントがハッとしてグラスを置く。
ブルースもその言葉の意味がわかったのか、グラスを置いて肉を食べ始めた。

「ザレル様は、ずっとこちらに詰めていらっしゃるのですか?
ご自宅はお近くなのですか?」

「うむ、最近は落ち着いているが、これも王命でね。
こちらにはサラカーン様親子もいらしているので、当分は守りを固めているのだよ。まあ、俺が一人いる所で大した力にもならんがな。」

「えっ!」

リリスが目を丸くしてザレルを見つめる。
会話していたミランとザレルが、怪訝な顔でリリスを向いた。

「なんだ、どうした頓狂な声など上げおって。」

「だって、ザレル様が謙遜されるなんて、初めて見たんですもの。」

本当に驚くリリスに、ザレルの顎がガクンと落ちる。
この年で成長などと、言うのもはばかられて小さく首を振った。

「おま……え、今度ゆっくり話をせねばならぬようだな。」

がっくり肩を落とすザレルに、リリスの明るい笑い声が響く。
その声が耳障りなのか部屋の外にいた騎士の一人が眉を寄せ、給仕の侍女が運ぶトレイを止めてフタを開けた。

「何をなさいます。こちらは……」

「あの赤い髪の奴隷に給仕か、随分贅沢だな。
このジュースはなんだ?」

「こちらはリリス殿に、疲れが取れるよう温かな飲み物をと騎士長のご配慮です。
おやめ下さい、料理が冷めます。」

「ふん。」
「あっ!なにをなさいます。」

騎士はわざとフタを横の飾り壺の上に置き、プイと顔をそらす。
侍女がそれを取る隙に、ジュースに懐から取り出したビンの中身をすばやく入れた。
侍女はフタを手に、急いで料理を運ぶ。
それを見送りながら、騎士は不服そうに小瓶を指でつまみ、窓から庭に投げ捨ててため息をついて暗い廊下を歩き始めた。



隣室で料理をとりわけ、冷めないうちにと侍女が2人で手分けして料理を出す。
果物をすり下ろした温かいジュースは、色んな果物をミックスしていて軽くジンジャーやハーブを加え、セフィーリアの作る物で身体に良くリリスが大好きな飲み物だった。
セフィーリアには留守にする前にレシピを渡されて、リリスが帰ってきたら出すよう頼まれていたのだ。

「こちらはセフィーリア様から頼まれておりました、温かなジュースです。どうぞ。」

「あっ!これ……」

それは見慣れた薄いピンクの優しい色で、甘酸っぱい香りが立ち上り、カップを持つとジンジンするほど暖かい。
リリスは思わぬ気遣いにパッと顔を明るくして、ザレルを見た。

「セフィーリアが絶対出せとうるさくてな。
さあ、冷めぬうちに飲むといい。」

リリスが嬉しそうに、フウフウ息を吹きかけてそっと口に含む。
甘酸っぱくて、ほんのり良い香りがしてぴりりとちょっぴり辛い。
昔、小さな頃からセフィーリアは夜リリスと二人っきりになると、良く寝る前にこれを作ってくれた。
それはどんどん美味しくなって、大きくなるとピリッと辛くて身体が温まる味が増えていった。
これは、リリスにとって母の味なのだ。

「ああ……美味しい、とっても美味しいです。」

嬉しそうに、ザレルに微笑む。
涙がほろりと出そうになるのを押さえ、すっかり飲み干した。

「セフィーリア様はリリス殿のお母様と仰ってましたね。」

「はい、私は使用人でしかなかったのですが、幼少の時よりとても良くして頂きました。
魔導の師匠でもありますが、師を越えて母にとお申し出頂いた時は、とても嬉しいことでしたが結局はお偉い方々に認めていただく事は出来ませんでした。
本当に、こんな身分もない自分には、もったいないことです。」

視線を落としながら思いでいっぱいになるリリスに、ザレルが一つ咳払いする。

「俺はお前の父だがな。」

「うふふ、家ではそうでしたね。でもここでは……」

「父でよいのだ。もうすぐ正式に籍にも入る。
お前の先日の働きで、上にも許しを得ることが出来た。すぐに願いを出したから、手続きが済むのももうすぐだろう。
広間にいらした貴族殿はご存じではなかったようだな。」

「えっ!」

思わず立ち上がり、ザレルの顔を見る。
思いがけない朗報に、リリスの手からカップが落ちそうになった。

「うそ……」

「嘘ではない、今度は大丈夫だ。
お前が帰ってくるまでに手続きを終わらせたかったが、この騒ぎで時間を取ってしまった。
だが、明日にも終わるだろう。
お前の名はリリス・ランディール。そう名乗るがよい。
この名はお前が勝ち取ったのだ、よく頑張った。」

どれほどの手間をかけたか知れない。
ずっと、お互いがそれを望んできたことは、互いが十分知っている。
ようやくその日が、この微妙な時に来ていたとは。

「良かったですね、リリス殿。」

「おお、これはめでたい。」

「おめでとうございます、騎士長、リリス殿。」

ガーラントが見たこともない明るい顔で、グラスを掲げた。

「感謝する、我が子に乾杯だ。」

ザレルの言葉に3人の騎士がグラスを上げ、入っていた残り少ない酒を飲み干した。
リリスはただ驚いて、口をポカンと開けたままストンと座る。
祝いの言葉をかけられても、それも耳に届かない。
自分がこんなに幸せでいいのか、目を見開きニヤリと笑うザレルをただ見つめていた。



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