7、闇月夜

 宴の後、リリス達はキアンとは別にそれぞれ階下の部屋に別れた。
大きな屋敷の中は、客室も階級で別れている。
召使いや騎士用の二人部屋にそれぞれヨーコとアイ、吉井と河原、ザレルとリリスと、それぞれ以外と質素な部屋だが、村の宿より数倍上等、野宿よりはるかにいい。
「きゃあーん!ベッド久しぶりいっ!」
「あー!もう一度リリス様の演奏が聴きたい!」
「天国よねー!」
アイ達の歓声がシンとした屋敷に響き渡る。
ベッドはしっかりして、布団もフワフワいい香り。みんな部屋に入るとまず、ベッドに飛び込んでくつろいだ。
 リリスは部屋に戻るなり、すぐに出ようとする。ザレルがさっとその手を掴んだ。
「お放し下さい。王子のご様子を・・」
「大丈夫だ、休め。お前、疲れているだろう。」
リリスの顔は緊張の連続で白く青ざめている。食事もほとんど喉を通らなかった。
「でも・・」
「あいつは許婚と一緒だ。気を利かせろ。」
美しいフェルリーンとは、久しぶりの再会らしい。キアンも嬉しそうだった。
「ああ、本当に美しい方でした。人間にも、あんな綺麗な方がいらっしゃるのですね。」
「羨ましいか?お前にも良い人は出来る。」
その言葉に、リリスが花のように笑った。
「うふふ!私なんかより、ザレルが先です!ザレルは御師様がお好きなのでしょう?」
ザレルがきょとんとリリスを見る。
その間の抜けた顔に、また声を上げて笑った。
「やっぱり!」
「あれは人間じゃない。お前が一番知っているだろう。いいから子供は早く寝ろ!」
「はい、ではほんの少し。フィーネを弾いた後に御館様に頂いたお褒めの酒で、少し酔ったようです。」
「子供に酒はまだ早いのだ。腕は、落ちてなかったな。」
「ああ、フィーネですか?うふふ、何度も間違えたけど、誤魔化すのが上手でしょう?」
「誤魔化すのも腕の内か?呆れたな。」
「はい、どうぞ呆れてくださいませ。」
リリスはようやく気が楽になって頷き、コートのボタンをはずし始めた。
 チンッとグラスが鳴り、フェルリーンがうっとりと葡萄酒を口に含む。
キアンの部屋では、キアンとフェルリーンが二人で葡萄酒を酌み交わしていた。
キアンの部屋は、寝室と居間の二部屋だ。
居間のテーブルには美しい花と果物が添えてあり、葡萄酒がいい頃合いに冷えていた。
「ああ、いい気持ち。あの小さな魔導師さんのフィーネ、素敵でしたわね。
あれ程の弾き手は我が国にも二人といないでしょう。アトラーナは素敵な所ですわ。」
彼女の虜となっているキアンが言葉に詰まる。
彼女との話題まで、リリスの事は避けたい。
「そう言えば、ラクリスは君の国に留学しているんだって?一緒に来れば良かったのに。」
ラクリスはラグンベルクの一人息子だ。
従兄弟だが、キアンと違ってスラリと長身で、柔らかなブラウンの髪はリリスのように軽くウェーブしている。
ハンサムで頭も良く、叔父の自慢だ。
「え・・え、でも学校が休めないからって。」
「へえ、偉いなあ。秀才だもんな。」
キアンがそう言って、果物を一つかじった。
「彼は彼、今はあなたのお話よ。ね?
いいお仲間ですの?あの異界人も。」
気恥ずかしそうにソファーで向き合うと、フェルリーンは色々興味深そうに聞いてきた。
一緒に行きたいとまで言う困ったお姫様だ。
「ああ、言葉は悪いがいい奴ばかりだ。
吉井という男はよく親身になってくれる。」
「そう・・でも、よくあの子を選ばれたのね。
確かに実力はあるみたいだけど、旅に支障は出ませんの?」
あの子とはリリスだ。
「今のところは何とかね。でも、苦労するよ。
落ち込んだ時は、僕がよく慰めてやるんだ。」
自分に都合良く、真実なんて彼女は知らない。
「まあ、きっといじめられて育ったのですわ。
そんな子を・・大丈夫かしら?心配だわ。」
「え?どうして?」
「ま!だって、ずっと虐げられてきたのなら、高い地位を狙っているはずですわ。
ラーナブラッドも、取られないようにお気をつけなされませ。」
高い地位・・リリスはドラゴンとも顔見知りで親しい。もしあいつがドラゴンマスターに挑戦したら、すぐに全てのドラゴンは忠誠を誓うだろう・・でも、そんなことする奴じゃない!そうだ、僕が一番知っている!
「まさか!そんなことあり得ないよ!
あいつはよくしてくれる。」
「あら、それで油断させているのかもしれませんわ。あれは王たる者の証、お父上様のように常に身につけておくべきです。」
だが、そうしていて置き忘れたのはキアンだ。
「今、どなたがラーナブラッドをお持ちですの?キアナルーサ様。」
「ああ、今は・・」
言いかけて口をつぐんだ。
・・・石を誰が持っているか、誰に聞かれても決して話してはなりません・・
リリスの言葉が耳に残っている。
「フェルリーン、心配いらないよ。あれは信頼できる者が持っている。」
「まあ!誰です?その吉井とか申す者ですか?」
「いいや、違う。いいさ、誰でも。」
「いいえ!よくありませんわ!」
何故かフェルリーンがしつこく聞いてくる。
「私、こんな話を耳にしましたのよ。
あの子の優しい微笑みにしつこい程の丁寧な言葉。あれこそがあの子の常套手段だと。」
「手段?物騒だな。何のだい?」
フェルリーンに相応しくない言葉が、ますます小さくひっそりと愛らしい唇から放たれる。
やがて、思ってもいない言葉が飛び出した。
「よろしくて?ラーナブラッドの奪取と、この国への復讐でございますわ。」
「復讐?」
「ええ、もちろん自分を捨てた、顔も知らぬ両親と、悪魔よ化け物よとそしってきたこの国の民衆にでございますわ。」
「馬鹿な!!
フェルリーン、いくら君でも怒るよ!」
「いいえ!キアナルーサ様、私は心配なのでございます。だって、あなたは次の王となるお方。
それなのに凄くお優しくて、お人がよろしくて、私心配で仕方がないのでございますわ!」
フッとキアンが立ち上がり、フェルリーンの隣りに座ると彼女の手を握った。
「フェルリーンは心配症だなあ・・僕のことをそんなに心配してくれるなんて嬉しいよ。
フェルリーン、大丈夫。僕は無事にドラゴンマスターとなって戻ってくる!
君は僕を信じて城で待っててくれ。いいね。」
「え、ええ、でも・・」
長い金の睫毛を揺らして、人形のように美しい彼女が、これ程に自分を愛して心配してくれる。キアンは天にも昇る気持ちで幸せだ。
吉井やリリス、みんなに大声で自慢したくなる衝動に駆られる。
「僕の花嫁はこんなに綺麗な女性なんだ!」
これだけはリリスにも勝った!と思いながら、キアンは満足そうな笑顔を浮かべ、その後フェルリーンと肩を寄り添って彼女の部屋へと送り届けた。
 シンと静まりかえった長い廊下は、時々外からの冷たい風が吹き込んで、ゆらゆら蝋燭の灯りが揺れる。両側にドアがある長い廊下は、ボウッと歩いているとここがどの部屋か分からなくなる。
部屋数の多さはキアンの住む城と大差ない。
シビル城と皮肉を込めて下女達が囁いていたっけ。各部屋にある絨毯も、贅沢にもシビルの毛を使ってある。
フェルリーンを送った帰り、薄暗い廊下に点々と立つ蝋燭に照らされながら、キアンは寂しそうな自分の影をぼんやり眺めていた。
・・ずっと虐げられてきたのなら、高い地位を狙っているはずですわ・・
彼女の声が、何度も頭をこだまする。
キアンは頭を振ってその言葉を振り払うと、ベッドに飛び込んで寝てしまおうとドアを勢い良く開けた。
「もう、寝るんだ!くそっ!放っといてくれ!」
バサバサと、ソファーにシャツを脱ぎ散らかし、パジャマに着替える。
しかし、頭にはリリスの優しい顔ばかりが浮かんで、何だか涙が出てきた。
・・あれが・・本当はウソなのか・・?
リリス・・あれはウソなのか?
コンコン!
「よろしいか?」
この声はザレルだ。
「何だ!リリスはどうした!」
ザレルが音も無く入ると、パタンと後ろ手にドアを閉める。そしてそっと部屋を見回しキアンの傍により、片膝を床に付いた。
「何を泣かれている。」
「うるさい!目にゴミが入っただけだ!
お前は今頃何しに来た!」
「遅くなって申し訳ない。
リリスが伏せったので、一応報告まで。
ここは私が警護する。」
キアンがハッと顔を上げる。
だから、来なかったのか。
「部屋へ案内せい。何をしている、早う!」
立ち上がり、ガウンを羽織ってさっとドアへ向かったキアンに、ザレルはテーブルから果物を一つ取り立ち上がった。 
 暗い階段を下り、少し冷たい風が吹く廊下を進む。先を進むごとに、廊下を飾るタペストリーやランプなどの装飾が質素になり、部屋のドアにも飾りが無くなって行く。
客室にもいろんな種類があって、それは身分にもより部屋数や調度品等が様々だ。
二階降りたところから、廊下の灯りも蝋燭からランプに変わった。
一体何を燃やしているのか、蝋燭より照度が格段に落ち、しかも長い廊下にほんの数カ所と、何とかぼんやり薄明かるいくらいで節約の極みだ。
リリス達の部屋はキアンの部屋より三階下の、ドアの横に白い花が生けてある部屋だった。
遠くにアイ達のはしゃぐ声が聞こえる。
恐らくは同じフロアの部屋なのだろう。
少し苦々しく思いながら、キアンはザレルに先導され、彼らの部屋へそっと入っていった。
キアンの部屋よりうんと狭く、特別何も飾りのない部屋には質素なテーブルに椅子が二つ。
そして幅の少し狭いベッドがその奥に二つ並んでいる。
ベッドの間には小さなテーブルと、床には飾り気のない小さな絨毯が敷いてあった。
椅子の背もたれには見慣れた白いコートが掛けてあり、ベッドには小さく布団のふくらみがある。
ザレルが無言で指を差した。
そっと、そっと足を忍ばせ傍による。
布団を覗き込むと、リリスが白い顔で苦しそうに眠っている。彼の顔色は、薄暗いランプの明かりで一層具合悪そうに見えた。
「一体、さっきまでは元気だったじゃないか!」
リリスを起こさないようザレルに耳打ちする。
「ここに来て、限界を超えたんだろう。」
「限界?!こんなに歓迎して貰って、何が限界だと?!馬鹿な!」
思わず大きく声に出て、キアンが口を手でふさぐ。
しかしリリスがハッと目を覚まし、慌てて飛び起きようと体を起こす。
「これは!キアン様!お恥ずかしい、申し訳ございません!すぐ・・う・・・」
余程気分が悪いのか、思わず手で口を覆う。キアンが不機嫌な顔でリリスを見下ろした。
「いいから休め!こんなに具合が悪くなるまで、どうして黙っていた!」
「申し訳有りません、申し訳有りません、こんな大事なところで、申し訳有りません。」
ポロポロと涙がこぼれ、布団にシミを作る。
一番、自分が楯にならなければならない所で倒れるなんて、従者失格だ。とんでもない大失敗だ。ここでもし、王子に何かあったら、死んでも許してもらえまい。
まして御師様に大変な恥を掻かせてしまう。
「申し訳ございません、申し訳・・」
何度も何度も許しを請うて、それでも足りずにリリスは謝り続けている。
・・優しい微笑みにしつこい程の丁寧な言葉。あれこそがあの子の常套手段・・
フェルリーンの言葉が頭に浮かぶ。
キアンはそれを振りほどくように首を振り、リリスの手に指先でそっと触れた。
「もう、よい、休め。」
「ああ・・申し訳、有りません。」
涙に濡れた顔のリリスが、心なしかホッとしたように見える。
ザレルはリリスに心配するなと大きく頷いた。
「部屋に戻るぞ。」
くるりとドアに向かったキアンに、またフェルリーンが囁きかける。
・・・ラーナブラッドも、取られないようにお気をつけなされませ・・・
ふと立ち止まり、またツカツカとキアンはリリスに近づくと、さっと手を出した。
「石を・・返せ。あれは僕が持つ。」
リリスが愕然として目を見開く。
「キ・・キアナ・・ルーサ・・様・・」
「返せと言っている。」
リリスが枕元からそっと小さな包みを取りだし、震える手でキアンの手に渡す。
キアンはさっとそれを奪い取るように掴むと、急ぎ足で部屋を後にしてしまった。
バタン!
冷たく閉じたドアを呆然と見つめるリリスに、ザレルが手に持っていた果物を握らせる。
「今は休め、その為に二人いるのだ。」
ザレルはポンとリリスの頭を撫で、キアンの後を追って部屋を出た。
うっうっうっ・・
涙がぽろぽろこぼれて赤い睫毛を濡らし、色違いの目から止めどなく流れ落ちる。
この仕事の話が御師様の所へ来たとき、城の貴族達も良く思っていないのを心配して反対する師に、リリスは頭を下げてやらせて欲しいと頼み込んだ。
このために辛い修行を積んできたのだ。
ようやく自分も、育ててくれた御師様のために働くことが出来る。無数に覚えてきた呪文が、役立つときが来たのだ。
そして・・見たこともない両親も、喜んでくれるかもしれない・・・
もしかしたら、自慢できる息子だと、姿を現してくれるかもしれない・・
何度も何度も、しっかりと両親に抱きしめて貰う夢を見て、募る恋しさを思い浮かべながらがんばってきたのに、それが音を立てて崩れていくのが分かる。
師の怒った顔が、浮かんでは涙に濡れた。
「御師様・・・御師様・・ごめんなさい・・
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
見えない顔の両親が、遠く霧の中に遠ざかってゆく。
果物を小さな両の手に握りしめ、彼は今、ただ十三才の子供だった。
 暗く静まりかえった廊下に、場違いに明るい笑い声が響き渡る。もう、何時なのかまったく分からないまま、アイとヨーコは吉井と河原の部屋に行き、四人、二つのベッドの上に向かい合って寝っ転がり、いつ終わるか分からないほどにベラベラと止めどなくおしゃべりを続けていた。
キアンの頼りない王子っぷりはなかなか笑えるし、リリスの物知りぶりやこれまでの旅でのこと、ネタは尽きない。
しかし、何故か河原はここでの事をあまり話したがらず、ふと表情が暗くなるのが気になった。
「でさ、ここのほら、偉いさんが石狙ってんだってリリスが言ってんの、まあ大丈夫だろうけどさ。リリスも苦労するわ。
でね、もー!リリスもすごいんよ!
で、ございますで致しますって、異常な程丁寧でさ!国語の授業みたくて鳥肌よお!」
「何が鳥肌よ、リリス様ー!何て言ってたくせに。アイも習えば淑やかになるかもよ。」
「バーカ、ンな事いきなり喋ったら、あたしゃ精神科行きよう!キャハハハハハ!」
「あー、うるせえ。でもよう、キアンもここに来たら人が変わったと思わねえか?
やっぱ王子だよな、あんな舌噛みそうな言葉遣いに慣れてるもん。」
「バーカ!猫かぶってるじゃん。リリスには甘えてバッカのくせにさ!えっらそう!」
屈託のないおしゃべりに、なかなか河原は入ってこない。
時々笑って、時々暗い顔で俯いて、みんな不意に心配そうな顔で話を止めた。
「ね、河原。言いたくないなら話さなくていいよ。いっぱい辛い目にあったんでしょ?怖い目にあったんでしょう?
急がなくていいよ、ゆっくり治そ。」
ヨーコの目にうっすらと涙が浮かぶ。
吉井が、河原の肩をぽんぽん叩いた。
河原はじっと無言で俯いている。
四人・・ここにいる四人は、本当の親友だ。
でも・・
河原も自分に言い聞かせながら、ぽろぽろとこぼれ始めた涙を見せたくないのか、わっと顔を布団に伏せた。
「俺・・俺・・もう駄目だ・・」
「河原よう!何があったんだ!話してみろよ!
一人で抱え込むなよ!俺、俺も辛いよ!」
吉井も鼻声で、涙と鼻水を流しながら河原の背をごしごし力強く撫でる。
部屋中が、鼻水をすする音でじゅるじゅるといっぱいになった。
「うっ、うっ、俺・・わかんないんだよう!」
「何がよ!あんた、それじゃわかんないわよ!」
「俺さあ・・なあ、どうなるんだよう?」
「だからわかんないって!」
「・・・・に、されたら、どうなるんだよう!」
「はあ?なにって?」
河原の声が、小さく、小さくなる。
みんなの耳がゾウの耳になっていると、河原は一大決心して突然大きな声で言った。
「だから!男にされたらどうなるんだって!!」
「・・・」
アイもヨーコも、そして吉井も口をぽっかり、言葉がすぐに出なかった。
「お、お、男って、状況がわかんないんだけど。いきなし襲われたん?」
みんなの心臓が何故かドキドキ高鳴っている。
「違う。一度だけ・・なんか薬で眠らされて、朝起きたら男と寝てた。」
「は、は、裸で?」
うん、と彼は青い顔で頷く。
えーと、えーと、で、何を聞いて、どう答えを出せばいいわけ?
アイの頭が混乱する。しかし、ヨーコは異常に冷静だった。
「ンで、エッチされたかわかんないって訳?」
うん、とまた頷く。
「わかった、よーくわかった。
ね、河原。あんた朝起きたとき、お尻痛くなかった?」
「お、し、り?」
「そーよ!ケツよ!尻の穴!肛門様!」
んー、と考える。
「痛くなかった。様な気がする。」
「ねえ、相手がどんなに上手な奴でもさ、普通そう言う使い方する所じゃないんだからさ!
違和感は残るよ、きっと!
それ、違うよ、何もされてないよ!」
「そう?そうかな?」
「うん!あたしもヨーコに賛成!違うよお!
それってエッチされてないよ!」
「お、俺もそう思うぜ、河原。」
何だ!なあんだ!思い過ごしかあ!あはは!
暗かった河原の顔が、パッと赤くなった。
「そ・・そうかなあ!俺、凄くショックでさ!
朝起きて、ガーンって感じ?
泣けて泣けて、無茶泣いたらさ、御館様びっくりしてさ、待遇アップしちゃった。」
「女だったらラッキーだったのになあ。」
「吉井!」ギンッ!ヨーコが吉井を睨む。
「おお、こわ。」
一気に河原の様子がほぐれ、ホッとした雰囲気で笑いがこぼれた。
「御館様とはさ、その後も添い寝は何度かしたんだけど・・最初の夜だけは裸で・・そうか、ケツがキーポイントか・・なんだ、」
「そう、そう、ケツよ、ケツが大事なんよ。」
「添い寝ねえ、変わった御館様だねえ。」
みんなもほっと一息。
河原のケツの悩みも何とか一応解ケツだ。
「よいしょっと・・」
アイがふと思い立った様子でベッドを降りる。
「どうしたん?トイレ?」
「うん、ついでにちょっとリリスの部屋も覗いてくる。」
「暗いから一緒に行こうか?」
「いいよ、もう慣れた。」
慣れてもやっぱり怖い。
でも、ヨーコはやたら河原と楽しそうに話しているし、ここはがんばってみよう!
アイは勇気を出して一人、蝋燭を手にトイレへ向かった。
 キアンの更に上階の一室では、ラグンベルクとフェルリーンが窓辺で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
フェルリーンは、溜息をついて項垂れている。
「私も、グレタガーラ様の言われました通り、キアナルーサ様に申し上げましたが・・
不審に思われなかったでしょうか?
上手く行けばよいのですが・・それよりも私はラグンベルク様のお立場が心配です。」
「よい、心配召されるな。
たとえ謀反の汚名を被ろうと、このアトラーナと息子のためなら安い物。
ラーナブラッドさえ手に入れれば、あとはどうとでも出来る。」
「でも、ラクリス様はきっとお怒りになられますわ。」
ラグンベルクが窓を離れ、テーブルの葡萄酒をグラスにつぎ、一息にあおった。
「国のためと言えば動かざるを得まい。
あれならすぐにドラゴンマスターとなろう。
フェルリーン、我らの悲願の時も近い!
王は王たる者がなるべきなのだ!」
彼は葡萄酒を飲まずにいられないのか、次々にグラスを空ける。心の奥で兄王を裏切る罪の意識があるのだろうか?
実際、兄王を一番慕っているのは、次男サラカーンよりも末弟ラグンベルクなのだ。
フェルリーンは、その気持ちを察して胸を押さえると、そっと一礼して部屋を後にした。
 ヒュオオオ・・・・ザザザザ・・
山から吹き下ろす冷たい風に、館を取り巻く木々がザワザワとざわめく。
山々からは時々獣の声が響き渡り、夜も更けるごとに月が明るさを増して、山肌に立つ館を青白く浮き上がらせていた。
 スウッと、一瞬月を遮り大きな影が闇に溶ける。
廊下を行く見回りの男がふと、窓を開けて空を見上げた。
しかし空にはただ静かに星が瞬き、満月が煌々と輝いている。
気のせいか・・
窓に吹き込む冷たい風が肌を刺し、男は身を縮ませて窓を閉め、また見回りに戻った。
 パササッ・・
屋根の上から二羽の鳥獣グルクが微かな羽音を立てて飛び立ち、人影が数人、屋根に残された。
その人影は互いに頷きあいながら、屋根を移動していく。
やがて彼らは、慣れない手つきで縄を下のバルコニーへ降ろすと、ある部屋を目指してするすると降りて行った。
 短くなった蝋燭の火が、断末魔のようにいっそう明るく室内を照らす。
そのシンとした居間に、キアンの浅いいびきが寝室から漏れてくる。
ザレルは居間のソファーに横になり、眠っているのか目を閉じていた。
やがて流れたロウの中、火がぽっと大きく光り、スウッと消える。それは部屋にある数本の蝋燭が、話を合わせたようにほぼ同時のことだった。
後にはただ月明かりと、キアンのいびきとザレルの息づかいだけが残っている。
ザレルは眠っているのだろう。また蝋燭を新しく立てる気配がない。
ただじっと、彼は大きな体をソファーに休め、それでも帯刀したままの二本の剣が邪魔な様子で、動くたびにガチャガチャと大きな音を立てた。
寝室では大きなベッドに、ゆったりとくつろいだキアンが寝ている。
その寝室の窓に、黒い人影がすっすっと数人右へ左へと動いた。分厚いカーテンを嫌って閉めなかった為に、レース一枚なのだ。
やがて音もなくバルコニーへと続く窓が開き、肌に冷たい風が吹き込んでサアッとレースのカーテンが舞い上がる。
しかし布団のふくらみは、熟睡しているのか微動だにしない。
人影は薄い煙の立ち上る香炉を部屋に置き、また窓をそっと閉めた。
香炉からは優しい香りが広がり、煙が徐々に室内を満たす。
時間をおいて一人の合図で、頭から黒い布を被った黒い人影が四人、滑る様に寝室へと進入してきた。
眠りを深くする煙だろうか?
一人がそっとドアを開け、香炉を今度は隣の居間に置く。
その間リーダーらしき男がそっとキアンを覗き込み、ハッとしてバッと布団をめくった。
いない!
布団の下には、枕があるだけだ。
まさか!気付かれたのか?!
リーダーともう一人が思わずベッド周辺を探し、他の二人が慌てて居間へと忍び込む。
「待て!」
思わずリーダーが小声で叫ぶ。
ドッ!「ぐあっ!」
しかし時すでに遅し、忍び込んだ内の一人が、胸から黒い血しぶきを上げ、ソファーへと倒れ込んだ。
「ちっ!」
バラバラと剣を手に、残る三人が居間に飛び込む。
「相手は、狂獣ザレルぞ!」
リーダーの声に他の二人も剣を構えて心した。

8、狂獣ザレル

 バタンッ!ヒュアアア・・・
後ろの寝室の窓が風で開いたのか、冷たい風が吹き込み香炉の煙がサアッと消えてゆく。
しかしその時、三人の誰一人、すでに後ろを振り向く余裕はなかった。
そこには自分達とは違う大きな黒い影が一人。
剣を片手に燃え上がるような目で、微動だにせず立っている。
相手は一人、しかし、何という殺気!!
男達はその男から発する狂気じみた殺気に、ゾッと背筋が凍る思いで後ろに引いた。
これが・・狂獣ザレルか!!
いざ剣を振るえば、全ての敵を打ち倒すまでその剣は止まることを知らぬと言う。
命乞いなど聞き入れる事を知らない無情の男。
「お、王子は・・王子はどこだ。」
恐怖を振りほどき、声を絞り出し一人が問う。
それは、リーダーを務めるモルドだった。
ザレルが背にしている廊下側のドアは、中から開けられないよう、かんぬきで細工してある。逃げられないはずだ。
では、どこに隠れた?
ザレルはまるで、後ろにある小さな衣装かけを庇うように立っている。
王子は、あそこか・・!
あれはコートなど上着を掛けるための物だが、人一人、まして子供一人ならゆうに入れる。
こうなれば何としても石を手に入れなければ!
これで手ぶらでは、御館様に顔向けできぬ!
たとえ・・たとえ王子のお命を奪ってでも!
「フーーッ、フーーッ」
まるで肉食獣のような息づかいが、ザレルの口から不気味に放たれる。
心に固まった決意が、死の恐怖に押されて身体が前に出ない。
じりじりとザレルの足が前に出て、男達の足が怯えるように下がる。
ガシャン!下がった男の足が香炉を倒し、その場に灰をまき散らした。
ジャキッ・・
ザレルが剣を引く。
「うおおおお!!」
一人の男が恐怖を振り払うように雄叫びを上げ、意を決して飛び出す。
突かれて他の二人がザレルの側面から襲った。
ヒュンッ!ドカッ!
「ギャッ!」
何と、一人は剣を合わせる間もなくあっという間に切り倒され、大男のザレルは獣のように素早い動きでもう一人に迫る。
ビュンッ!ギャリンッ!
剣と剣が合わさって、暗闇の中、火花が散る。
「うおおお!」
かろうじて止めたザレルの剣は重く、男は後ろのテーブルの上へどっと弾かれた。
もらった!
その隙にモルドが衣装かけに迫り、今だとばかりにその扉へ剣を振り下ろす。
ヒュンッ!
ガキッ!「ぐおっ!」
その刹那、剣を持ったその腕が、ザレルの一振りで切り落とされた。
腕が剣を持ったまま飛び、モルドが切り口から血を振りまいてその場に倒れる。
早い!
ザレルの動きは、猛獣のそれだ。
大きな剣は重さを失い、あの鋼の身体は筋肉がバネとなる。
先程弾かれた男は、決して自分が勝てないことを悟ったか、剣を握ったままその場へ腰が抜けたように座り、身体が動こうとしない。
「ぐおおおおお!」
片腕を失ったモルドは、更に残った腕で短剣を抜きザレルに向かう。
ギャインッ!
大きなザレルの剣が難なくそれを弾き、そして容赦せずその切っ先を彼の喉元に突き立てようとした。その時!
”ザレル!殺してはなりません!”
頭の中で聞き慣れた少年の声が、痛いほどに大きく響いた。
ビクッと剣の動きが、今まさに皮膚を突き破る寸前で止まる。
「ヒイー、ヒューッ、ヒュー」
モルドの喉が、恐怖に大きく鳴った。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ!殺せ!」
大きく息をすると身体が動き、息を飲むと喉仏が上下する。そのたびに切っ先が喉に当たり、剣からしたたり落ちる血が、喉から胸へと流れていく。
ザレルの双眸が、暗闇に獣のように光る。
彼は恐怖と出血で、今にも失神しそうだった。
「やー、やめてくれー!」
テーブルの上に座る男が、ガランと剣を放り出し引きつった声で叫んだ。
もう、十分ではないか。
やるだけやった、しかしこれでは相手が悪い。
「もう、もうやめてくれ!」
ザレルがその男とモルドに視線を走らせる。
暗闇の中、がっくりとモルドも肩を落とした。
昔のザレルなら、命はない。
これで、俺も終わりか・・
モルドの頭に、家族の顔が次々と浮かぶ。
「・・・よかろう。」
ザレルが潔く剣を引き、モルドが驚いて顔を上げる。
信じられない顔でザレルを見て、被っていた布を取り、引きつった笑いを浮かべるとスッと気が遠くなってゆく。
「子供の、守り・・で、変わっ・・たか・・しか・・腕は、落ちていな・・い・・な・・」
朦朧とした意識の中で、モルドがザレルに昔のように親指を立てる。
ザレルは無言で目を伏せた。
それぞれが信じた主に仕える為に別れ、再会が斬り合いの場となった幼なじみの、これが懐かしいクセだった。
 コトン・・
「うっうっうっ・・ひぃっく!ううー・・」
寝室からキアンが泣きながら這い出してきた。窓からの月明かりにぼんやりと、居間の惨劇が見える。
「一体・・一体・・ううーっく、ひっく・・」
呆然とする彼は、寝室の窓にかかる厚いカーテンの中に隠れていたのだ。
ただただ、腰が抜けて立てないまま、泣くことしかできないでいると、ようやく廊下に面したドアが開いた。
「王子!ザレ・・・あっあっ!駄目です!アイ様!来てはなりません!」
「でも!キアンは?!キャッ!」
いきなり部屋を飛び出したリリスを追ってきたアイも、ついドアから部屋を覗き込み、息を飲んで立ちすくむ。
「見ては駄目です!」
リリスはアイを横に押しやり、部屋に飛び込んでキアンの手を取った。
「王子!お怪我はありませんか?
ああ、何と言うこと・・」
周りを見回し、男から庇うように抱きしめる。
「リリス!リリス!ああー!リリスうー!」
待ちわびたようにワンワン泣きながら、キアンがリリスにギュッとしがみついてきた。
モルド・・もう、遅いか・・
ザレルも剣をしまい、意識のないモルドを横にして、傷口の上を彼の手にある布を裂いて縛る。おびただしい出血は、すでにこの世界では死を意味していた。
 「ちっ!」
館の地下から水鏡で見ていたグレタが舌打ちする。
「おのれリリス!何故じゃ、ちゃんと御館様が酒に薬を混ぜたはず!
いつもいつも!良いところで邪魔を!」
そう言って水鏡に映った、座り込んでいるただ一人、無傷の男の身体に指を差し入れる。
男の身体がびくんと跳ねた。
「この腰抜けめ!リリスを、キアナルーサを殺せ!」
「どうして!どうして館の兵士が誰も来ない!
王子の僕が襲われているのに!」
「王子・・」
リリスが声を失う。思わずキアンから視線をそらし目を伏せたとき・・・座り込んでいた男が突然弾かれたように立ち上がり、腰の短剣を抜いて二人に襲いかかった。
「キアン様!」
リリスがキアンを庇って突き飛ばす。
ドッ!「あっ!」
右肩に叩かれたような痛みが走る。
「リリス!」
ザレルが飛び出し、剣を抜きざま居合いの加減でドッと男の身体を切り裂いた。
「うおおお!おのれ・・グレタめーっ!」
そう呟いて、男が血しぶきを上げて倒れる。
リリスも崩れるように倒れ込み、その場にうずくまった。
「リリス!」
慌てて剣を戻し、ザレルがリリスの身体をそっと抱き起こす。
「だ、大丈夫です、怪我はありま・・」
そう言いかけたとき、ぶわっと右の肩口から暖かい血があふれ出た。
「駄目だ!動くな!クソ!何てバカだ!俺は!」
ザレルが口惜しそうにリリスの肩を押さえる。
剣を先に収めるなど、どうしてそうしてしまったのか、今更悔やまれて仕方がない。
「切られたのですか?切られたの・・かな?」
他人事のように呟き、リリスはただ、肩口がカッと火のように熱いだけで切られた意識がない。
それよりも突き飛ばされ、呆然と泣きじゃくっているキアンに怪我がないのを見ると、ほっとしてさっと部屋を見回した。
「あ、あっ!あの方は・・モルド!モルド様!」
「駄目だ!動くな!・・・リリス!」
リリスが突然ザレルを突き飛ばして、片腕を失った男に駆け寄った。
モルドはすでに多量の出血から、血の気を失い意識がない。
「ああ!何て事に!急がないと!
医師を呼んで下さい!その間私が繋ぎます!」
「リリス!こいつはもう死ぬ!お前が先だ!」
珍しくザレルが感情的に叫ぶ。
「いいえ!まだ息があります!まだ、今なら!」
ズキンッ!右肩に初めて重い痛みが来た。
モルドはすでに暗い部屋の中でさえわかるほどに死の色が濃く、息も浅い。
しかし、リリスにはそれがたとえ誰であろうと、消えかけた命を放っておくなど出来なかった。
「死んではなりません!あなたを大切に思う方が悲しみます!死んではなりません!」
主に忠実な男の顔の向こうに、年老いた両親と、若い妻、そして子供の姿が見える。
「あなたには家族が、家族がいるでしょう?!」
リリスは潤んだ目をして両手を男の心臓に当て、呪文を唱え始めた。
「暗き門と光の門の番人よ、今一時その門を閉じて、この者を拒みたまえ。
イエサルド・キーン・ラルド・クーン!」
ポッとリリスの両手が光り始める。
「医師を・・医者を頼む!!誰か!頼む!」
ザレルが叫び、館の人間も騒ぎにようやく動き出して数人が駆けつけてくる。
「灯りを持て!兵を呼べ!誰か!
侵入者だ!キアン様が襲われたぞ!」
誰かが口々にそう叫び、蝋燭の明かりが部屋に走り、剣を片手に兵士が押し寄せる。
リリスは右肩を真っ赤に染めて、声を掠れさせながら苦しそうに時々息をつき、それでも呪文の詠唱を止めず何とかこの暗殺者を救おうと集中している。
兵士に押されながらドア口にアイが呆然と立ちすくんでいると、後ろからヨーコ達が駆けつけてきた。
「アイッ!キアンは?リリスは?!」
アイは声もなく、ボロボロ涙を流してヨーコに飛びつく。
「一体何が・・わあっ!」
吉井も部屋を覗いて、顔をこわばらせた。
「あいつ・・あいつだ・・」
河原はみんなの後ろで何かを悟ったように、やがてさっとどこかへ走り去ってゆく。
それに気が付かず、ヨーコも中を見ようとすると、アイがしがみついて首を振った。
「・・駄目、駄目・・見ちゃ駄目・・」
涙でグシャグシャのアイの顔に、ヨーコの不安が増大する。
「アイ!どいて!」
アイを引きずるようにして、ドアに群がり始めた館の人間を押しのけヨーコが室内を覗き込む。
しかし不安はそのままに、蝋燭が沢山持ち込まれて明るく照らされた室内は、凄惨その物だった。
三人の男が血を、内臓をぶちまけて絶命し、床には剣を握った腕が落ちている。
その腕の持ち主の傍らでは、身体半分を真っ赤に染めたリリスが、赤い髪を燃え上がらせて死にものぐるいで呪文を詠唱していた。
その横ではただ泣きじゃくるキアンを放って、ザレルが必死の面もちで何か叫びながら、リリスの赤に染まった肩を押さえている。
「うそ・・」
ヨーコには、あまりにも自分の世界とかけ離れたその光景が、現実だと認識するのに不思議と時間がかかった。
しかし、これが現実!と認識したとたんに、声を失い気が遠くなりそうになる。
ガクガクと震える膝を踏ん張り、もう一度死体を見ないようにして見回した。
キアンは・・兵士に囲まれ、泣きじゃくってはいるが怪我はなさそうだ。
「ヨーコ!もう部屋に帰ろうよ!」
後ろでアイが、泣きながら叫ぶ。
「でも!リリスは?」
ヨーコの目に、血に染まったリリスが映った。
「アイッ!こっち来い!」
後ろにいた吉井がヨーコにしがみつくアイを引き剥がし、しっかと胸に抱きしめる。
「リリス!」
ヨーコが叫んで、兵士が止めるのも聞かず室内へ飛び込んだ。彼女はその時まで、リリスの血は返り血だと思っていたのだ。
「もういい!止めろ!リリス!リリス!」
しかしザレルの指の間から流れ出す血、そして必死の形相のザレルの顔。
次の瞬間、彼女には分かったのだ。
「リリス!駄目!あんた死んじゃう!駄目よ!」
ヨーコがリリスに飛びつく。
それでも呪文を止めないリリスに、ヨーコが必死で抱きつくとそのヨーコごとザレルが後ろから抱きしめた。
「頼む!もう止めてくれ!死んでしまう!
お前が死んでしまう!」
「イエ・・サルド・・・キーン・・・ラ・・ド・クー・・・・」
リリスの声が、小さく掠れて消える。
血の気を失って、ガクガクと震えながら彼は、意識を失う寸前消え入りそうな声で呟いた。
「・・・ザレル・・・私は・・一人だ・・から・・いいん・・だ・・誰・・も・・・・」
悲しむ人などいない・・
 「今じゃ!リリスの意識が消えた!」
地下で水鏡を見ていたグレタが嬌声を上げる。
シャランと腕輪を鳴らし、両手を高々と上げた。
「水よ!汝リリスを巡るその美しく赤き水よ!
今その巡りを止めて、お前を操る憎き胸の鼓動を止めよ!
シードルクス・レン・キーン!
我が名を持って、その身は呪いに汚れよ!」
ビクンッ!
「あっ!あっ!」
リリスの身体がザレルとヨーコの手の中で大きく痙攣する。
「リリス!リリス!しっかりして!」
「うっ!ぐっ!あ、あっ!うっ!」
胸を掴み、大きくのけぞらせてもがく身体。
「死ぬな!死ぬな!」「リリス!」
祈るようにリリスを抱く二人の手が震える。
その時、リリスの指にある銀の指輪が一瞬カッと光りを放ち、そして弾け散った。
パーンッ!
「ギャアッ!」
グレタの身体に電気が走り、彼女の身体が奇妙にねじ曲げながらその場に倒れる。
「ヒイーッ!ヒイーッ!バカな!
呪い返しなどと!ヒイーッ!セフィーリアめ!」
髪を振り乱し、必死の形相で口惜しそうに叫んでいるその時。
「おいっ!この魔女ババア!」
ハッと振り向くと、そこに河原が飛び込んでいた。
「お前!何用じゃ!」
「やっかいババア!お前なんか・・!」
人の噂は、嫌でも耳にはいる。
アイ達の話を聞く内、それが何であるか、徐々に理解できたのだ。
お前なら御館様を止める事も出来たろうに!
怒りの河原が階段を駆け下り、手近に置いてあった杖を取って、それを振り回すとグレタに襲いかかる。
それは精神的に苦しんだ事への復讐も込めた一撃だった。
「ひええええ!!誰か!」
グレタは頭を庇って、かがみ込むので精一杯だ。耳にヒュンと杖が風を切る音が迫った。
「えいっ!」
バカーンッ!ガシャッ!ガシャ!ガラン!
「こんな物有るからお前は水鏡で余計なことばかりする!こんな物!こんな物!こんな物!」
ガシャン!ガシャン!ガシャン!
「ひいっ!あ、あ、私の、私のカメが・・」
指の間から粉々に壊されてゆくカメを呆然と見て、グレタの体中から力が抜けてゆく。
これ程大きいカメは、この世界では滅多に手に入らない。貴重品なのだ。
何度焼かせてもヒビが入り、水鏡をするに必要な完璧さ、黄金律などほど遠い。
「あ、あ、あああああ・・・」
「フンッ!お前なんかこれがなくちゃ、ただのババアだ!ざまーみろ!」
ドッと肩を落として百年は老け込んだグレタを残し、河原は清々した面もちで、みんなのいる部屋を目指して走り去っていった。
 「リリス!リリス!」
リリスがフーッと大きく息を付き、また苦しそうにだが目を閉じる。
ザレルとヨーコは顔を見合わせ、ホッと溜息が出た。
傍らでは死体が早々に片付けられ、キアンもようやく泣き止んでいる。
「医者だ!医者が来たぞ!」
バタバタと人が入り乱れ、それでも誰しもがキアンの無事を先に確認する。
「ちょっと!怪我してるのはリリスよ!」
ヨーコが憤然と立ち上がり、キアンの脈を診る医師らしい男に怒りをぶつける。
「あいつが、王子だからだ。」
ザレルがリリスを抱きしめ諦めたように呟く。
「王子が何よ!この世界の奴ら馬鹿!?」
死にかけた従者よりも、王子が先なんて!
しかし、ようやくそれにキアンも気が付くと、医師の手を叩き落として怒鳴った。
「馬鹿者!怪我をしておる者も分からぬのか!
早う!向こうへ行け!早う!」
慌てて医師がリリスと片腕の男に取り付いた。
モルドはまだ息があるらしく、早々に部屋から担ぎ出されてゆく。
服を引き裂いてリリスの傷を診る医師の後ろで、ヨーコは両手で顔を覆いようやく涙を流して立ちすくんでいた。
「ヨーコ・・」
キアンがよろよろと立ち上がり、ようやく彼女の前にたどり着く。
「ヨーコ・・」
「うっうっうっ・・うう・・」
「ぼ、僕は・・無事だったぞ。」
見当はずれのキアンの言葉に、ヨーコは頭に血が上りキッと顔を上げ、思わず手が出た。
パーンッ!
頬を叩かれ、またキアンの目に涙が潤む。
「な、何するんだよう!」
「あんたバカ?!やっぱりバカだわ!
リリスのこの姿見て、それでも自分の事しか浮かばないわけ?!マジ、バカよ!」
ヨーコの顔が真っ赤になって、あまりの情けなさにまた涙が潤む。
こんな奴のために命を賭けるなんて!
「よし、お前さん下の治療室へ運んでくれ。
一緒に来て傷を縫う間押さえてくれるか?
大丈夫だ、出血は止まっている。」
そっと、ザレルが優しく抱きかかえる。
医師に先導され、出てゆくザレルの後を追うヨーコを見送って、キアンはその場に立ちすくんでいた。
「みんな、みんなリリスだ・・リリスばかり!どうして・・僕が王子なのに・・」
ポケットから、ラーナブラッドを取り出す。
石は相変わらずふわっと輝いて、ピンク色をしている。
こんな物、何の役に立つんだ!
こんな物の為に!
こんな物!
「まあ、キアナルーサ様ご無事でしたのね。」
フェルリーンが心配そうに血の跡を避け、キアンに近づいてきた。
「フェルリーン、僕は・・無事だったぞ。」
ははっ、何てバカだ僕は。同じ文句しか出やしない。
「ええ、本当にようございましたわ。お怪我はございませんの?」
「え?あ、ああ。リリスが怪我を・・」
「ああ、あの魔導師のおチビさんですわね。
ホホ、それがあの子の務めですもの。
それより、ラーナブラッドはご無事でして?」
キアンが目を剥いて驚く。
そうだ、これが当たり前なんだ。あいつは僕を守るのが仕事。それで傷ついたとして僕が責められるなんて、それは変な話だ。
「ああ、ここにほら。あいつ等、これを狙ってたのか、それとも僕を狙ってたのか良く分からないんだ。」
「まあ!怖い!そうだわ!ね、キアナルーサ様、私によい考えがございます。」
フェルリーンが手を引いてキアンを廊下へ連れ出す。彼女の部屋へ連れてゆくのだろうか?疲れ切っていたキアンの胸が、少しドキッとときめき始めた。
 暗い廊下を歩きながら、フェルリーンが花の香りを漂わせ、可憐な唇をキアンの耳元へ近づける。
「ね、私がラーナブラッドをお預かりしますわ。ここにいる間、ね?誰もそんなことは考えませんでしょう?」
「ああ、そうだ、でも・・」
この石は、常に危険を呼び寄せる気がする。
そんな石を、この儚い女性に預けてもいい物だろうか?
リリスの顔がふっと浮かび、キアンはそれを振り切るように首を大きく振った。
誰よりも、自分がリリスに一番頼っている。
そう思うと無性に腹が立ったのだ。
キアンは何も考えず、さっと石を取りだしフェルリーンに渡した。
フェルリーンがパッと顔をほころばせて石を受け取る。
「まあ!確かにお預かりしますわ!綺麗な石です事!」
廊下の蝋燭に照らすと、キラキラと光りを反射して美しく光り輝く。
フェルリーンは何故か嬉しそうに、それにうっとりと見入っていた。
「駄目だよ、キアナルーサ。」
後ろから声がして、さっとフェルリーンの手からその石を奪い取る手が現れた。
「これは君の物だ。絶対に離しちゃいけない。」
そう言って石を差し出すのは、隣国にいるはずのラクリスだ。
馬を飛ばしてきたのか、緩やかにウェーブのある髪を振り乱し、スラリとした身体にまとった暗い色の乗馬服は汚れている。
「あっ!ラクリス・・様・・」
フェルリーンがばつが悪そうに俯く。
「フェルリーンがベスレムへ行ったと聞いて、もしやと思ったんだ。
父上のよからぬ噂も聞くし、君に何かあったらと思ったんだけど、遅かったようだ。」
「よからぬ噂って?」
ラクリスがフェルリーンの肩を抱き、キアンを誘って近くの部屋へ入った。
「フェルリーンの部屋には傍付きの侍女がいるからね。ここで話そう。」
そこはキアンの部屋の作りと大して変わらない、居間と寝室が別れた来客用の部屋だ。
廊下の蝋燭から火を借りて、部屋の蝋燭に火を入れると、三人はボスッとソファーに座り向き合った。
フェルリーンとラクリスが並んで座り、キアンが向かいに座る。キアンは二人の睦まじい様子に、何故か不安を感じていた。
「キアナルーサ、君とフェルリーンは結婚を約束された間柄だったよね。」
「ああ、僕が王位を継ぐことが決まった時点で結婚することになっている。」
ラクリスがスッと美しく整った顔を俯き、蝋燭に光る氷のような青い瞳を上げる。
「実は・・」
「ラクリス様、それは私から申し上げますわ。」
フェルリーンがスッと立ち上がり、キアンの足下に跪く。そして請い願うように両手をキアンに向けて合わせた。
「キアナルーサ様!これは裏切りであることは分かっています!でも、私たちは愛し合ってしまったのです!」
「なっ!」
「どうか!どうか私をお許し下さいませ!
いいえ!いいえ!許せとは申しません!
私を憎んでいただいて結構でございます!
どうかこの約束を、破棄させてください!」
キアンの頭が真っ白になって行く。
何がどこでどう狂ったんだろう。
あの城で暮らしているまでは、ずっと幸せで僕の人生にはシミ一つなど無かった。
そしてこれからも・・
そうなるはずだったのに・・
「そのラーナブラッドを持ち、そしてドラゴンとの契約を持った者に王位は継承される。
それが悪かった。
父上は、幼少時にこの片田舎のベスレムへ養子に出されたことから城への執着が生まれ、せめて僕なりとも王にして、城に住まわせたいという考えが生まれてしまった。
日頃、素晴らしい名君ぶりだったから、僕は凄くその父上の隠された願望にショックを受けてね。それでこの国を離れたんだけど、それが裏目に出てしまった。
父は母を失ったばかりだから寂しさをますます増強させて、僕と同年代の少年に添い寝させたりして、ますます変になっていく。
そして彼女も、何とか次の王を僕にしたい。
そんな二人が出会い、同じ目的を持つことで、密かに考えていた事を実行に移してしまった。」
とつとつと語るラクリスの話が、果たして真っ白な頭のキアンに少しでも入ったのだろうか。ぼうっと二人から視線を外し、キアンは隙間風に揺れるカーテンを眺めていた。
「つまり・・・叔父上と、フェルリーン、二人が石を狙ったんだ・・」
「ああ、その準備に、早くから父は水の魔導師を館に迎え入れたらしいから。」
あの女、グレタ・・ガーラか・・・
「お願い!二つの国の取り決めだけど、あなたからも口添えを頼みます!
私達、愛し合っ・・・・・・・」
キアンの耳は、それ以上の言葉を拒否した。
バッと立ち上がり、すたすたドアへ向かう。
「キアナルーサ!僕は!」
「もういい!分かった!分かったよ!
フェルリーン!僕は君なんか嫌いだ!君と結婚なんてまっぴらだよ!冗談じゃない!
どこの誰なりとも結婚するがいいさ!
僕は知らないよ!」
バタンッ!
勢い良くドアを閉め、ダッと走り出した。
階段をもつれる足で何度も転げそうになりながら駆け下りる。
そして知らず目指したそこは白い花が生けてある、リリス達の部屋だった。
バタンッ!
ノックもせずに部屋に飛び込む。
そこには真っ白な顔のリリスが横たわり、ベッドの横にはヨーコとザレルが心配そうに椅子に座っていた。
「ザ、ザレル、僕の警護は・・どうした。」
ヨーコの手前、泣き言を言うわけにも行かず、また見当違いの言葉が口から出てしまった。カッとヨーコの顔色が変わり立ち上がる。
キアンの胸がドキッとすくみ上がった。
ザレルが無言でヨーコを制し、キアンの背を押してリリスの傍へと連れてゆく。
キアンの頭に、リリスの血だらけの後ろ姿が思い出される。そして今、目の前にある血の気のない顔に、ゾッと冷たい物が走った。
「死、死ぬ・・のか?リリス・・死ぬのか?!」
「短剣だったから骨は断たれてなかったが、肩から背中にかけて傷が深い。それに何しろ出血が多かった。
しばらくは、動けない。」
「大丈夫、なのか・・?死なないのか・・?」
キアンがそっと覗くと、あのはつらつとした張りのある白い顔は、青白く透き通るようで色を失い、体中の血を流し尽くしたのかカサカサと艶を失っている。
しかし重く閉じた瞼が、その時微かに動いた。
「リリス!リリス死ぬな!」
キアンの叫びが聞こえたか、ゆっくりと重そうに瞼を開き、周りを見回している。
「リリス、気分は?どう?聞こえる?見える?」
どんよりと、焦点の合わない瞳を凝らし、キアンの顔をぼんやり捕らえると懸命に顔を動かし、引きつった微笑みを浮かべた。
「キア・・様・・」
力が入らず声がかすれて出ない。
キアンはそっと布団を握りしめて覗き込み、リリスの微笑みにほっとしたのか、ダムが決壊したように涙が溢れ始めた。
「リリスう、叔父上が・・叔父上が僕を狙ったんだ・・ラクリスを王にするために・・
ラクリスが・・そう言って・・えうっく・・」
キアンがまた、しゃくり初めて声が出ない。
握りしめた布団を顔に押しつけ、沢山話したいことが一度に溢れて、声になる前に詰まってしまった。
「キア・・様、叔父・・様・・責めて・・なりませ・・今回の・・不問に、なさい・・」
キアンが耳を疑う。
不問に?無かった事にしろだと?
「バカな!お前は知らないんだ!僕がどんなに怖い目にあったか!それを不問にだと?」
「は・・い・・どうか・・国を、乱しては・・それ、だけは・・避けて・・」
言いたいことが沢山あるのに、リリスに重く睡魔が襲う。ようやく開けた瞼は、どんなに抗っても二度と開いてはくれなかった。
「バカな!僕をバカにするのか?不問にだと?
あんな、あんな目に遭わせて、不問にだと?」
「そうだ。それが王としての采配だろう。」
ザレルが後ろからぼそっと呟く。
キアンは勢い良く振り向き、先程まで恐ろしい殺人鬼だった男を睨み付けた。
「お前が騒ぎを大きくしたんだ!
平気で人を殺して!しかもお前の主は誰だ?!
僕じゃない!お前はリリスに仕えているんだ!」
「キアン、静かにしなさいよ、怪我人の前よ。」
ヨーコがプイと顔を背ける。
「ヨーコ!お前も見ただろう?あれを無かったことにしろと言うのだぞ!この愚か者は!」
「あんた、よく考えなさいよ!これってさ、叔父さんとお父さんの権力争いじゃない?
それで国を分ける戦争になったらどうするの?
今はあんたさえ我慢すればそれで終わる。
そう言いたいんだよ、きっとリリスはね。
あんた、ここで許せるかどうか、王子としての器の大きさ試されてるんだよ。」
「器だと?!誰に?!」
「そうだね、神様かな?」
「神?何を馬鹿な・・神?神だと?」
キアンが次第に肩を落とし、神という言葉に真剣な顔で考える。
ヨーコの言葉は重いが、少し頭を冷やせば容易に考えつく。きっとリリスが言いたかったのはそのことだと思う。
理由はどうあれ叔父上は、息子に王位を継がせるべく、僕の命さえ狙ったのだ。
それが表立つと、この静かな国に何が訪れる?
僕は、みんなに平和に暮らして欲しい。
戦争を、僕はたった今経験したじゃないか。
あんな事、もうまっぴらだ!
そうだ、こんな時に頭を冷やさないでどうする。冷静に、冷静に。
ヨーコの言うとおりだ、僕は強くならなきゃ!
「ヨーコ。」
「ん?」
「分かった。僕にも分かったよ。」
「そう、良かった、あんたバカじゃないよ。」
「でさ、僕、失恋したんだ。」
「へえ、あのお姫様?可愛かったもんね。
で、あんた本当に好きだったの?」
「え?!」
思いがけない言葉に、キアンが改めて考える。
「好き・・だったのかな?でも、ショックだったよ。」
「あーあ、男ってみんなそう!見かけでふらふら、それで後んなって失敗したとか抜かしてさ、責任転嫁しながら不倫するのよ。
バッカみたい。」
何だか分からないが、きょとんとして、キアンがクスクス笑い始めた。
「フフフ・・お前に言わせると、みんなバカなんだな。本当に、バカなんだな。」
「バカよ!バカ!あーあ、あんたもバカ!
主のために命捨てるあの男達もバカ!人をポンポン殺すザレルもバカ!自分の命を軽く扱うリリスもバカ!バカばっか!!」
カチャッ!
ドアが開き、そっとアイ達が入ってきた。
ようやく落ち着いたものの、真っ赤に腫らした目をして顔をこわばらせている。
「ヨーコ、あたし。」
「分かってる、帰りたいって言いたいんだろ?
河原とも会えたしね。」
「ん。だって、ここ怖いもん。」
吉井は、しっかりアイの肩を抱いている。
河原はその後ろで、ヨーコと目が合うとスッと視線をそらした。
「わかった。でも、あたし最後まで付いて行くよ。」
「ヨーコ!一緒に帰ろうよ!どうして?」
「あたし、何にも出来ないけど、どうしても放っておけないんだ。バカばっかだからさ。」
「ヨーコ。」
がっくりと、アイが肩を落とす。
それでも、予想していたのかもしれない。
心の片隅で、やっぱり!と小さな声が聞こえた。
「俺、俺も行くよ。」
河原がツカツカと二人の前に出た。
「俺、これでもここの暮らしに慣れてるし。帰るのが今になるか、ちょっと後になるかの話しだしさ、肝心のリリスがこれじゃ、向こうへの出口も開けられないじゃん。」
「あ、そか・・」
リリスの真っ白な顔にアイがまた肩を落とす。
自由に行き来できないのは本当に煩わしい。
バーンッ!「きゃん!」
いきなり肩を抱いていた吉井が、アイの背を思い切り叩いた。
「わかった!ほら、おめーも腹くくれ!
みんな一蓮托生よ!」
「何?いちれん・・えーと・・・
もー!いいわよ!もう!しらない!」
アイがダッと部屋を出ていく。
「いいのか?」
ザレルが人ごとのようにぼそっと漏らす。
「いいのよ!どうしようもないんだし、今はあんたがやらかした斬り合いにびっくりしただけだから。一晩寝たら落ち着くわよ。」
ザレルが疲れたのか隣のベッドに腰を下ろす。
リリスの怪我に、あれ程うろたえたのだ。
彼にとってリリスは、やはり大切なのだろう。
「ね、ザレルってさ、リリスとどういう関係?」
ヨーコの言葉にパッとキアンが顔を上げ、ザレルの顔を見つめた。
ザレルがゆっくり首を巡らせ、徐々に明るさを持ち始めた暗い空を窓から眺める。
「これは、俺の・・師だ。」
「師?あんたのお師匠さん?年下なのに?」
「そうだ、心の、と言える。
昔、俺が狂獣と呼ばれていた頃、俺は人を切ることが快楽になっていた。」
「ゲッ!マジ殺人鬼?」
「そうだ、騎士という殺人鬼だ。
その頃、師に連れられていた、これに会った。
まだ十にも満たないこれは、闘技場で血だらけの俺から剣を取り上げ、一緒に旅に出ようと無理矢理引っ張った。
それはしつこく、まだ間に合うとな。
仲間に笑われながら、俺はこれの笑顔にどうしても逆らえなかった。」
「あはは!へえ!あんた、やっぱバカだわ。」
「でもよ、確かにこいつって、にこにこ笑ってンのに有無を言わさねえとこ有るじゃん。」
「あるある!あのニッコニコの笑顔が凶器よねえ。知らない内に付き合わされるの。
げえ!こんな所通れるか!って思うのに、文句言えないんだ。」
「それって、一番やっかいな奴じゃねえの?
俺、心配になってきた。」
河原が苦笑い。
ザレルが、思い出したのか珍しく笑った。
「これの旅は、想像以上に厳しかった。
子供だと侮っていたばかりに酷い目にあった。
当たり前に下げていた剣が無い事で、心の拠り所が無い辛さに恐怖心も大きく、俺は自分の小ささ、弱さがそこで改めて分かったんだ。
俺は、それから無闇に剣を使わなくなった。」
「ふうん・・」
やっぱりリリス、凄い奴。
ちょっと、普通じゃないかも・・
「でも、その御師さんって、良くそんな小さい子を旅に出すんだね。怖い人なの?」
フフッとザレルが笑う。
「これは、突然さっさと旅支度をして、では御師様行ってきますと出てゆく。
セフィーリアが泣きながら追いかけるのを何度も見たぞ。」
「やっぱり!それじゃ御師様大変だ!」
「あはははは!」「ふふふふふ・・」
みんな、何だか笑い出してしまった。
ドアがそうっと開いて、アイが顔を出す。
「なによう、みんなして楽しそうでさ!
あたし一人、ハチブじゃん。」
吉井がおいでと出迎える。
空は徐々に白んで長い夜の終わりを告げた。
「ああ、疲れる夜だったな。みんなウソばかり一度に押し寄せて・・もう、嫌なことはこれで最後にしてくれ。」
キアンはそう呟いてリリスの赤い髪にそっと手を伸ばすと、布団から覗く痛々しい白い包帯に目を伏せた。

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