zennote21 内嶋善之助の世界
作品をお読みください
「愛はブルースのように」
内嶋 善之助
第一話 指 輪
その店に入ったのは友人の紹介があったから。「とっても広くって、音がいいの」と、僕にとって殺し文句のような理由でその女の子が誘ったので行ってみるしかなかった。なにしろ僕の仕事は音響オペレーター。それも、単純な機械操作の仕事だけではない。たとえば、ライブのできる店を作りたいからどんな構造がいいのか、音響設備を購入したいけど何をどう注文してよいかわからない、というような相談のほかに、演劇の台本を渡されて効果音や音楽を依頼されたり、CATVの番組用にオリジナルの音楽を作曲してくれとか、とにかく何でもやる「ヨロズ音響技士」ということになっている。もちろん、たまには都会からやってくる著名な音楽家の音響操作の仕事も舞い込んでくるけど、音響の仕事がないときは小さなギャラリーの受付アルバイトや、ライブハウスや舞台の裏方のアルバイトなんかもしている。そんなわけで、この町にある「音のいいところ」は、すべて確かめておく必要があった。でも、どうしてその子が僕を誘ったのか、店に行くまでわからなかった。
その店は、二千坪くらいの公園から商店街のアーケードへ抜ける通路の途中にあって、しかも二階だった。初めて行ったとき、玄関の幅三メートルもある階段がライブハウスには似合ってなくて、本当に音楽やる店なのかよぉ…と思ったけど、中は本当に広かった。音を遮るための二重のドアを通ると、奥行き二十五メートル幅十メートルという四角い店内に、アメリカ製のスピーカーが左右に四個ずつ積み重ねられていた。そのとき掛かっていたハウス系の音楽が、けっこう深みのある音で鳴っていたし、ロックだろうとボーカルだろうといい音で再生できると思った。そして僕は三分間いただけでその店が大好きになった。店の名前は「ヒップ」といった。入り口横に斜めに据え付けられたカウンターの高いスツールに腰掛けてハイネケンを注文した。黒いキャップのバーテンダーが緑の小瓶を小気味よい音で栓をあけて出してくれた。
「お客さまは、初めてですか?」と聞いたので、紹介してくれた女の子の名前を告げると「あぁ、希美ちゃんの知り合いですか。じゃ、真藤健市さんですね」と僕の名前を知っていた。それも僕の仕事が音響屋であることも話していたらしい。「オーナーを紹介しておきます」と奥の調理場らしい部屋へ声をかけると、青い光につつまれた四十歳前後の男があらわれた。説明しておくと僕には奇妙な感覚器の異常があって、目の前にいる人の身体が放っている光が見えるときがある。たぶん多くの人が「オーラ」と呼んでいる光だろうと思うけど、自分の体調の変化で見えたり見えなかったりするし、また見える人と見えない人がいたり、同じ人でも日によっても見えたり見えなかったりする。それが何なのか最初は悩んだりしたけれど、不定期に現れる光なので大して気にならなくなった。一番多くその光を見るのは、舞台で音楽を演奏している人だけど、観客の中にも強烈な光を出す人もいたりするので、誰がどういうときその光が出るのか確かなことはわからない。ただ、ときどき人間が放つ光をみる、というだけのことだ。
オーナーは僕の顔を見るなり「希美さんは、まだおいでではありませんが、これを差し上げてくれと頼まれております」と未開封のシングルモルト・ウイスキーの瓶をカウンターの下から取り出して置いた。その用意周到な無駄のない動作は映画の一シーンを見ているようだった。「ストレートがよろしければ…」と言いかけたので「オンザロック」と答えると、グラスを冷やし氷を取り替え栓をあけて注いで差し出すまでの動作も、まったく淀みがなかった。「どうぞ」とコースターに置いた手から、青白い炎のような光がぽっと立ち上ったので、思わず唸りそうになった。この人はどうして光を放つのだろうか?
希美とは五年くらい前からの友人だ。この町から巣立っていったバンドの追っかけを希美がしていた頃、彼らの音響の仕事を引き受けたことがあって、小さなライブハウスで知り合った。希美はちょっと不思議な感じの娘だ。無口なのに笑顔がよく気持ちを語っていると表現したらわかってもらえるかな。きっかけは指輪だった。僕が音響のブースで開演前の音チェックをしていたら、「ギターのアンプ…足りないんじゃないですか?」と舞台を指差す娘が近寄ってきた。彼らのマネジャー役の男を呼んで確認すると「あっそうそう、エレアコ用のアンプが来てないや」とあわてて楽屋口へ駆けていった。「希美です」と自分の名前を名乗り僕の音響席のとなりに居すわり、ライブがはねるまで黙って聞いていた。アンコールが終わって客がまばらになり始めた頃、「ねぇ、指輪ってどういう意味だか知ってる?」と訊いた。「えっ、指輪」「そう。あのメインボーカルの男の子から指輪もらったのね、一年前に。それで考えてるんだけど……わからないの」どうしてそんなことを尋ねるのかと思っていると「誰に相談しようもなくて……」と悲しそうな顔をした。僕は思ったままを答えた。「指輪ってさ、約束じゃないかな。たとえば、いつまでも貴女を愛していますとか」「…………」希美はしばらく指輪を見ていた。すると、指輪を外して僕に差し出した。「これ、あの子に返しておいてください」突然のことで僕は唖然としてそれを受け取っていた。「どうして?」と訊くと「あんな素敵な音楽、わたしなんかが独り占めにはできないもの」と作り笑いの顔で去っていった。
それ以来、希美がそのバンドの追っかけをやめたかどうか知らない。その年の暮れ、そのバンドがメジャーデビューのためにやったお別れライブで僕はふたたび音響の仕事をした。その全部が終わってステージの片付けをしているとき、希美が現れた。「あのときは、ありがとう」「別に大したことじゃないよ」「よかったら、今夜のライブのことを話してくれませんか?」「いま聴いてなかったの?」「ええ。どっか場所を替えて飲みながら話してもらえるとうれしいな」……断っておくけど、そのとき僕は四十三歳で妻子もいて、希美は本当に彼らのライブのことを聞きたいのだった。変な意味で誘ったのではない。僕はあっさりオーケーし、近くの居酒屋でチューハイを飲みながらライブの一部始終を話してあげた。僕の話をうれしそうに聞きながら、希美は黙って瓶入りのカクテルを飲んだ。そして最後にこう告げた。「やっぱり指輪を返してよかった」
ヒップという店は面白い店だ。店内にはスタンドでライブもやれる十分なフロアがあるのに、普段はそのフロアに七つほどのテーブル席を並べている。客の入りはまぁまぁで、若い男女に交じり中年のスーツ姿も何人かいた。音楽もいろんなジャンルが掛かるし、センスがよくて飽きなかった。僕はジーンズと化纖のジャンパーにスニーカーと黒いキャップで、どこから見ても舞台や音楽のスタッフ然としていた。
「お客様。いかがですか、この店」とカウンター越しにオーナーが訊いた。「悪くないですね。音的にも、雰囲気も」と本当のことを口にした。こんな場所でお世辞をいっても仕方がない。オーナーの青い光が気になって顔をよく見ていなかったが、見ると初めて会った気がしなかったので「どこかで会ったことがあります?」と訊いた。すると「昔、何度かお会いしたと思います」「えっ? どこで」「ライブハウスで」さらに話そうとしたら、新しいお客が数人入ってきたので「ちょっと失礼します」と彼はフロアへ出た。
ところで希美は、何のために僕をここへ呼んだのだろう。年に何回かライブやコンサートが終わったあと音響の片付けが終わるのを希美が待っていてくれて、そのまま軽いリキュールを飲みながら音楽の話をするという付き合いが五年続いていた。希美は本当にライブが大好きで、いきいきとした表情でさっき聴いたばかりの音楽について語るのだった。しかし、今夜はヒップで演奏がある様子もない。たまに、僕が仕事ではないライブに誘ってくれたり、コンサートのチケットが余ったからと、意外にいい席で一人で聴いて、演奏が終わったらゲートで待ち合わせして飲むこともあった。しかし……いや、待てよ。希美がライブやコンサート以外で会おうということは、これまで一度もなかった。いったい今夜は……。酔いが回ってきた頭で考えることは苦手だ。それもプリンスの新しいアルバムが掛かっていて、時流に反したスローテンポながら斬新なリズムが流れ始めたのだから。店内の客達はそれぞれに、おしゃべりしたり一人で黙ってグラスと向き合っていたりしている。僕は、深みのあるシングルモルトの香りと音楽に思わず目を閉じた……。
夢はどこから始まったのか、見ている本人にはわからないものだ。そして、人は苦々しいものを手がかりに過去を振り返るものらしい。希美との出会いで一番心に引っかかっているのは、どうしてあのとき「指輪は、約束」だなんてことを口にしたのか、ということ。あの一言が希美の人生を変えてしまったのではないか、という後悔だった。そのことが希美から誘いがあると断れない理由かもしれなかった。僕は好きな音楽や音響の機材に囲まれて生きていれば十分に幸せだし、パートをしている妻も小学生になったばかりの娘も平凡な生活をしているから、何の過不足もない。たまに希美のような若い子と、音楽のことを話しながら飲むのは、望外の幸福な時間だった。
「この店の音響機材は気に入っていただけましたか?」とつぜん、オーナーが声を掛けた。「あぁ、いいですよ。今度ここでライブがあるときは、是非聴きたいなぁ」「謙虚な方なんですね」とオーナーがくすくすと笑った。髪はオールバックでテカテカと整髪料が光っている。ブルーの光はやや弱くなったけれど、アルコールの炎のようにゆらめきながら全身から出ていた。その光に見とれていると、「この店でライブがあるとき、オペレーターをやっていただけますか」「えっ、仕事の話し?」「いえっ、もちろん仕事もお願いしたいのですが、必要でしたら真藤さんにこの店の機材をいつでも自由にお使いいただきたいのです。好きなときに遊びに来てくださって結構ですよ」僕は怪訝な気持ちになった。(この怪訝「けげん」という気持ちがわかってもらえるかな? 彼に騙されているような気がする一方で、同時に好意的な友情を示された気もするという状態だった。)「どうして、ですか?」「何がです」とオーナー。僕は酔った勢いを借りて思い切って訊いた。「あの、ここを気に入っても、初対面の僕にそんなに親切なことは言わないものでしょう」「ですから、初対面ではないんです。あっ、来ましたよ」「え」「真藤さんのお友達」
ドアの前に、希美が立っていた。「あ、真藤さーん、いらしてたんですか。こんなに早く来ていただいて、ありがとうございます」「先に飲んでましたよ」「長くお待ちになったんでしょう?」「いいえ。おいしいウイスキーと音楽で、ちょうどいい気分になってましたよ」希美は笑顔をかえしながらとなりに座った。オーナーが丁寧に言う。「何を飲みます?」「真藤さんと同じもの」「かしこまりました」と答えたので、僕は思わずカウンター越しに視線を移す。オーナーの手の動きをもう一度見ようと思ったのだ。すると、となりからも、その手に注目している光があった。希美だった。その、目から温かな深紅の光が放たれていた。しかし、気が付かないふりをした。すると、希美はまじめな声で言った。「真藤さんのお陰です……」びっくりして僕はふり向いた。「なにがです?」
「この指輪、憶えていますか」と希美は左手をカウンターの上においた。その薬指に青く光る指輪が見える。それは、決して高価ではないラピスラズリの銀色の指輪で、見覚えがあるもなにも、五年前に希美が目の前で外し、あのバンドのボーカルの男の子に渡してくれと託された指輪だった。(あっ)と僕は心の中で叫び、オーナーの顔を見た。彼は青白いの光につつまれて希美と僕をみて微笑んでいる。
「あの…、あなたは僕が指輪を返した…あのボーカルの子?」彼は、頷いた。
そのとき、不思議なことに指輪から青白い炎が立ちのぼった。それは、オーナーが放つ光と同じものだった……。
(第一話 了)
「愛はブルースのように」
第二話 蠍(さそり)
内嶋 善之助
その子が店に現れたのは四月の桜が咲いたころだった。小さな本とショルダーバックをカウンターに投げ出し「ブルーハワイ」と、ぶっきらぼうに注文したので印象に残っている。「かしこまりました」とバーテンは棚から一本の青黒い液体の入った瓶を取り出し、その直後、「へぇー、本物使ってるんだぁ」とその子は驚きの声をあげた。僕は、いつものようにカウンター端のスツールで、確か甘くないソーダ水を飲んでいたと思う。二人のやりとりに興味を覚え、見ていると「お客さま。よくご存じですね」とバーテンはその瓶をカウンターの上に置き、出来上がったカクテルのグラスに桜の花びらを数枚貼りつけた。その子はすこし笑顔になり、「これ、花から作るのよ…」と誰に言うでもなくつぶやいた。僕も飲みたいと思ったが、もうすぐ仕事だったので賞味できなかったけれど、こんど試してみようと思った。その子が一口飲み、その反応を見てバーテンはようやく笑顔になり、甘く煮込んだサクランボの皿を出して「どうぞ」とその子と僕にサービスしてくれた。サクランボの皿をはさんで、その子は僕を見て「あなた、ここでマイクの係をやってる人でしょ。よく見かけるもの」と話しかけてきた。
僕はこの町で「ヨロズ音響屋」をやっている真藤という四十五歳の家庭持ちだ。フリーの音響技術屋なので夜も昼もない。一週間も仕事がないときもあれば一ヶ月間休みなく働くときもある。夜中から仕事が始まるときもあるし、朝まで仕込み(準備)のときもある。不規則な生活だが、自分ではきわめて平凡な人間だと思っている。だが、一つ変わっているのは、ときどき人の身体から発光する光が見えることだ。それがオーラかどうかわからないし、何の光でどうして見えるのか調べたこともない。いつも見えるわけではないし、他人に見えるかどうかもわからないので誰にも話したことはない。話しても誰も信じてくれないだろう。そう思っている。
ところで、この「ヒップ」というライブハウスの店には、ときどき不思議なお客がやって来る。いや、不思議という表現は正確じゃないかも。僕にとって、不思議な光をもつ客、というべきかな。そのブルーハワイの子が「わたし、何やってるふうに見える?」と訊いたとき、僕にはその子の左肩から紫の光がぽっと昇るのが見えた。もちろん服の上からだった。「あぁ…、普通のOLかな」「どうして」「別に変わった職業ではないようだし、それに肩のタトゥーは素敵そうだし」と口からポロッと言葉が出てしまった。「え……」と、その子はちょっと驚いたけど、すぐ微笑みをかえした。たぶん、自分は思ったより酔っていてタトゥーのことを話したことを忘れたのだ、と思い込もうとしたのだろう。「あなたは信頼できる人ね。この蠍のことは、これまで二人しか話したことがないから、三人目…」と自分の左肩を見た。そして「私、あのシンガー好きなんだけど」と目で示した先に、今夜のシンガーがいた。年に二三度ヒップにやって来るブルースバンドのメインボーカルで、タカシという名前だった。しかし、どう見てもタカシは四十歳を越えていて、その子とは親子ほども年齢差があるように思えた。ファザコンかなと思ったとき、その子は僕の心を見透かすかのように「わたし、童顔なの。これでも三十二歳」と言った。へぇーと思ったが顔には出さなかった。「昔、あの人と付き合っての。もう何年も追いかけちゃって…ようやく付き合い始めんだけど…別の彼女ができちゃって…。ほら、あそこにいるでしょ」と伸ばした指の先に、落ち着いた感じの三十代の女がバックを膝に置いてコーヒーを飲んでいた。見るからに俗世間に不似合いな、どこかのお嬢サマというふうな子だった。
九時になったので、僕はその子に会釈して仕事にとりかかった。「終わったら、一緒に飲も」と背中に声を掛けられたが、聞こえないふりをしてサウンド・ブースに登った。そこには昨日までやっていたDJのミキサーとLP数枚が置いてあった。夕方のリハーサルどおりにマイクのフェーダーを上げ、エフェクターのツマミを回す。タカシは、ベースとドラムスとリードギターの三人と共に舞台に上がって客席を見回した。僕の方を見たとき小首をかしげた。何かが違うという顔をしたので、なにか操作を間違ったかなと手元を見たが、打ち合わせどおりだ。舞台に目を戻すと、なんてことはない。客席の誰かとアイコンタクト中だった。(これから唄う曲は、お前のためにやるんだぜ)という顔。相手は見るまでもない、お嬢サマ。曲はオリジナルのブルースで、スローテンポ。歌い出しは「君の面影は、いつもまぶたに……」というフレーズだ。これを唄われた恋の相手は胸がきゅんとなるかもしれない、そう僕が思うほど想いがのっていた。二曲目はドラムスが小気味よい案外ハイテンポな曲、三曲目がタカシのギターだけで弾き語りだった。前半のステージ最後の曲がはじまったとき、僕は、このタカシという男が、あのお嬢様サマへ向けて唄っているのではない気がした。他の誰かに想いを向けていることが、なんとなくわかったのだ。音響卓を操作中のオペレーターには、演奏しているアーチストが何を考えているか、どれくらい情熱を込めて唄っているか、そうしたことが客席にいる熱狂的なファンよりもわかるときがある。もちろん、マネージャーやディレクターなんかの冷静なスタッフには、もっとわかるものだ。歌を冷静に聞いて操作している僕は、タカシが確かにお嬢サマへ向けて真心をぶつけていないことがわかった。タカシは、本当はカウンターの元彼女を意識しながら、しかも無視を装っているようだった。
仕事が終わりマイクの片付けをしていると、タカシはお嬢サマのとなりで熱々ぶりを見せつけた。きっと、嫉妬のかたまりになった元彼女や周囲にむけた演出だと思う。タカシが持ち歩いているボーカル専用マイクをクロスに包み、返しに行くと「真藤さん。今日はとても良かったよ。とても唄いやすかった。ありがとう。則子も俺の声がキチンとしてたって」と彼女の肩を抱いたまま顔を見た。お嬢サマの名は則子というのか。感想を促されて「はい。とっても……」とうれしそうに答え、顔を斜めにして僕を見ながら会釈した。人間は、うれしいことをうれしいと表現しなければ気が済まない生き物なのかな。特に恋をしている人間はそうらしい。則子が僕の仕事に本気で満足したとは思えなかった。タカシの元彼女と僕がしゃべっていたから、そんなお世辞を言ったくらいの見当はつく。(ま、可もなく不可もなしとするか…)と思い「どうも、ありがとう」と会釈を返してカウンターへ歩いて行った。そこに手招きする女の子がいたからだ。
元のスツールへ戻ってくると「あたし、鏡子っていうの。はい、これ」と、コースターにのせたカクテルを差し出す。「これ、私のお友達」と微笑んで。「えっ?」というと、バーテンダーが説明してくれた。「これは、テキーラのスコーピオン・ブルーをベースにした当店のオリジナルでして」すると「三十八度よ、とっても強いんだから」と鏡子がろれつの回らない舌で補足した。「鏡子さんのお気に入りなんです。蠍…」と、バーテンは一本の瓶を目の前にゆっくりと置いた。なるほど蠍のシルエットがラベルに斜めに印刷してあった。飲んでみると、オレンジと二三のリキュールを少し垂らしあるようだが、きわめて強いテキーラ独特の味が口の中で痛みとなって「うっ!」と唸った。鏡子は「馬鹿ね、塩をすぐ舐めるのよ」と言うと塩の入った小さな皿をしめした左手の指を水のグラスに突っこみ、引き上げると塩の皿に押しつけてから僕の口に突っこんだ。マニキュアこそしてなかったが、女の子の指を舐めたのは初めてだった。唾液がリキュールを中和してくれたことより、鏡子のとった行動が僕をうろたえさせた。「どう?」と指をゆっくりと抜き出し、鏡子はその指を見つめた。それから、鏡子は「マスター、スコーピオンをちょうだい」と注文した。その「スコーピオン」というのは、ラムとウオッカとオレンジとレモンを入れたカクテルなんだが、その強いのを二杯飲んで、鏡子は完全に酔いつぶれたように見えた。まだ、タカシも彼のバンド・メンバーも飲んでいた。
僕はどうしようかと、思わずタカシのほうを見た。すると、タカシは僕を見るなり両手を合わせ合掌しながら小さく頭を下げた。心の中で(ゴメン)と謝っている。僕は手を左右に振って(そんなことないです)と否定した。四十五歳になって若い女の子の酔っぱらいに驚くほどの純情さは持ち合わせていないが、鏡子の話し振りや酒を飲むときの威勢のよさは男を惹き付ける。飲む相手としても話し相手としても面白いうえに、見ていてハッとする表情をふりまいて、それがとても新鮮だった。昔、鏡子のような女の子が何人かいたが、いまどきでは珍しいタイプだろう。カウンターに自分の腕枕で酔いつぶれた鏡子を見ていると、昔のことを思い出した……。
独身の頃、とても気になる女の子がいた。飲みっぷりも付き合いも男のようで、誰にでもわけへだてなくなく気さくに話してくれる女の子だった。彼女は行き付けの喫茶店に毎日のようにやってきては、年下や年配の男たちと談笑し一緒に酒を飲みに行ったりボーリングをしたりゲームしたりして遊んでいた。そして誰もがその子を好きになった。そのころ、僕は音響屋を始めたばかりで、仕事がないときはその喫茶店で時間をつぶしていたから、当然、その女の子と顔見知りになった。そのうち僕がその女の子に恋をした。他の客と同様に扱われたが、その女と付き合った二人でドライブに行ったりして一緒に過ごす時間が多くなった。僕は、何でも思った通りのことを口にするその子が好きだった。結婚して独占したいと思った。それでそう告白したら、「私にはたくさん友達がいるから、だめね…」と一笑に付され、この二人だけの話が喫茶店の常連客にもれた。客の中に年下の男の子がいて、姉のようにその女の子を慕っていたので、僕が結婚を申し込んだことを知ると、彼は全身をふるわせて不安のような戸惑いをその子に訴えたらしい。僕とその女の子は結婚するらしいよと噂を聞き、彼はとうとう僕に直接訴えてきた。「独り占めしないでよ…」その言葉は忘れない。あんな恐怖におののく男の目を見たのは初めてだった。急に熱が冷めた僕は、何の理由も告げず、女の子に「俺はもう君と付き合わない」と一方的に告げた。それから、その子がどうなったか知らない。ただ、男なら誰もがその子を好きになるくらい魅力のある女の子だった。もう、十五年前のことだ。当時、その子の気持ちがよくわからなかったけど、いまならわかる。その子はバンプだった。男を虜にさせる女の子だった。それは、蠍のように毒針をもつけれど、男なら一度はその毒牙にかかってみたいと思う、そんな女の子だった……。
鏡子は急に顔をあげて、僕の顔を見るなり「ねぇ、どうして私をそんな優しい目で見るの?」と訊いた。昔を思い出していたので恥ずかしかったが、正直に「たぶん、昔付き合ってた女の子によく似ているからだろう……」と答えた。鏡子は小さく頷くと右手をのばし、指で僕の右肩に触れた。それから、その指先を自分の左肩へ動かして撫で始めた。そして「私のタトゥーと同じね」というと、縫い目にそって布地をつかみ、(ビリビリ!)と引き裂いた。鏡子の真っ白な肩があらわになって、そこに棲んでいるタトゥーが見えた。肩の落ちるところに、紫の体長五センチくらいの蠍がいた。それは白く淡い光をまとって、燃えているように見えた。蠍は、本当に生きていたのかもしれない。いや、白いオーラの中で、蠍は毒牙とハサミがあることを悲しむかのように、鏡子によりそって泣いているようだった。僕は思わずその蠍に触れ、やさしく撫でた。すると蠍はピンク色に変わり、やがて深紅になって紫に変わった。僕は今見ている光のことを話そうかどうしようか迷っていると、鏡子は「真藤さんって、まるで私の…」と言いかけて肩を隠すと、僕の耳元にささやいた。「……タカシとは今夜でお別れ。もう、タカシの前には二度と現れないわ。そう決めていたの。ありがと……」僕はどんな表情をすればよいのか困った。鏡子は「それじゃ」とバッグを手に立ち上がった。そして僕の分まで支払いを済ませると、タカシをふりきるように出ていった。
鏡子がいなくなった店の中は、うっすらとした青い光につつまれていた。光の中で、タカシは憑きものが落ちたような、素っ頓狂な顔で突っ立っていた。それは、安堵でも悲しみでもなく喜びでもない、複雑な気持ちの中で戸惑う男の顔だった。
(そうだ)と、僕は二十年前のことを思い出した。(あの子と別れたとき、その不可解な気持ちの中で、確かこう思った。「もし僕がアーチストなら、きっと音楽を作るだろう」と……)ただ、僕はその代わりに別の女の子と結婚した……。
タカシはお嬢様と結婚するのだろうか、それとも音楽を作るのだろうか。鏡子が残した文庫本がテーブルに残されていた。ナボコフの有名な小説だった。
(第二話 了)