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雲仙普賢岳・山頂の写真 真正党
評 論 No. 080201
テーマ "戦争反対"に反対    
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 評論 No.080101

 評論 N0.080201

 
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1. 序
   日本では、多くの人達が、何の疑いも抱かずに、当然至極のように、"戦争反対"
   と言う。私は、このこと("戦争反対")に、反対である。
   物事を単純化して、本質と本質とを対峙させて較べてみればすぐにわかること
   なのだが、小学校や中学校や高校の進歩的知識人ぶった平和教師達から、
   「戦争は悲惨です。絶対にやってはいけません。」と教え込まれると、可哀相な
   子どもたちは、その間違った考えに一生の間、心を支配され続けて生き、そして
   死んでゆく羽目に陥る。その間違った考えが、恐らく、善意に基づくものである
   ことは敢えて否定はしないが、真理からは凡そかけ離れた考えであり、最終的
   には日本国民に大きな災厄をもたらすものである。
   今の日本の、この悲しい現状を何とかしなければならないと思う。

2. 戦争は悲惨ではあるが、悪ではない。
   佐賀県に吉野ヶ里遺跡というのがあるらしい。"らしい"というのは、実際に見た
   わけでもなく、テレビ等で見知っているだけにすぎないからだが、しかし、この
   ことは、これからの話の筋にいささかの影響も与えない。
   西暦200年ごろ吉野ヶ里環濠集落(以下、A集落)と隣のB集落があったとしよう。
   A集落はやや高い台地にあり、B集落は川辺の低地にあったとしよう。台風か
   梅雨末期の集中豪雨でB集落の田畑の作物が全滅し、A集落の田畑は
   かろうじて損害を最小限に止められたとしよう。A集落とB集落は、日頃、
   土地の境界や水利のことでもめていたとしよう。このような状況下で、B集落
   の人達は、おとなしく飢餓を受け入れ座して死を待つだろうか。A集落の
   人達は、仲間内から何割かの餓死者をだしてでもB集落の人達を援助する
   だろうか。答えは、否である。常にというわけではないだろうが、A集落と
   B集落とは戦争になることも有り得たであろう。戦争の恐れがあったればこそ
   環濠が築かれていたと理解すべきなのである。仮に戦争になったとして
   この戦争は、A集落にとっては自衛のための正義の戦争であるということには、
   小中高の自称平和教師の先生達も異を唱えないだろう。問題は次である。
   実は、B集落にとっても、この戦争は正義の戦いなのだ。ここが、重要なのだ。
   B集落の人達にとっても、大事な子どもや妻や年老いた両親のための命がけの
   正義の戦争なのだ。つまり、正義と正義がぶつかりあっているのだ。
   ぶつからない(戦争しない)に越したことはないが、敢えてそうせざるを得ない
   状況の中で人類は戦争の歴史を繰り返してきたのだ。
   A集落とB集落の中では、悲惨な目にあった人達が大勢出たことだろう。
   しかし、悪ではないのだ。日本の戦国時代の大名と大名の戦いは、
   正義と悪の戦いではなく、正義と正義との戦いだったのだ。
   単純な戦争反対論が、如何に戦争の本質からかけ離れたものであることか。
   小中高の自称平和教師達による単純な反戦教育が、日本の将来を担う
   子供達の眼をどれだけ曇らせてきたことか。その子供たちが、今や定年を迎え、
   一部は既に鬼籍に入らんとする時期にまできてしまった。そして今、孫や
   ひ孫達の眼が曇ったままなのだ。
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3. 太平洋戦争は悲惨ではあったが、悪ではなかった。
   太平洋戦争は、米国が正義で日本が悪ではなかったのだ。双方とも正義の戦いをしていたのだ。にも拘らず、一部の日本人と日本国を悪者に仕立てあげ、そのことを正当化するために極東軍事裁判なるショーを繰り広げ、野蛮人同様に、国際法も近代の刑事法の諸原則(罪刑法定主義・遡及処罰の禁止)をも無視して一部の日本人を血祭りにあげたのは一体、誰が、何のためにしたのか、心ある日本人は冷静に勇気を以って心に留めなくてはならない。米国は米国の都合でやったのだろうから,とりあえず、とやかくは言うまい。問題なのは、これらの事の本質や実態に関して恐るべき無知のままで、単純な反戦平和を唱えている一部の日本人達である。この日本人達の中には小中高の教師等がいて、したり顔で生徒たちに「日本が悪かった。もう二度とあんな悲惨な戦争をしてはいけない」と吹き込むのである。腸が煮え繰り返る思いでいっそテロリストにでもなって彼等を物理的に排除しないことには解決しないのだろうかとさえ思うこともある。
   上述の悪者に仕立て上げられた一部の日本人とは、旧日本軍、就中、旧日本陸軍上層部を指す。武士道精神からかどうかは知らぬが、言い訳をせずに潔しを尊ぶ価値観からか、天皇陛下に累が及ばないように配慮したからなのか、黙として、悪役の名札をつけられたままになっている。旧日本陸軍上層部の百人中百人共が皆、正しかった、立派だったというつもりは毛頭ないが、立派な軍人が多数おられたことを我々は忘れるべきではないし、彼らの名誉を回復する義務が我々にはあると信ずる。
   上述の極東軍事裁判なるショーでは、米国の意図がはずれ、パール判事の歴史に残る判決文が公になった。この国際法の碩学が残してくれた真理を、小中高の自称平和教師等は、その存在さえも知らないのではなかろうか。
   将来、この美しい日本国の中に何発かの核ミサイルが打ち込まれた後でも、進歩的知識人や小中高の平和教師達は、日本が悪かったと言ってミサイルを打ち込んだ国に対して謝るのだろうか。

4. 国際公法上、戦争は犯罪ではない。
   もしも戦争が犯罪ならば、歴代のアメリカ大統領はずっと犯罪を犯してきていることになる。国際公法学者の大部分は、主権国家の採りうる最後の手段が戦争だといっている。犯罪ではなく、逆に、権利だと言っているのである。国際公法学者の言っていることと、日本の進歩的知識人やら反戦平和教師等の言っていることと、どうしてこんなにも違うのだろうか。進歩的知識人やら反戦平和教師等は、大学で一体何を学問してきたのだろうか。それともアジ演説満載の街頭ビラを読んだだけで事足れりとしてきたのだろうか。

5.  戦争は必ず起きる。
   日本がどんなに正しいことをしていても、戦争は必ず起きる。
   日本がどんなに外国を援助していても、戦争は必ず起きる。
   日本がどんなに平和的な対話を重ねても、戦争は必ず起きる。
   この悲しい現実を正視できなければ、日本は滅ぶ。
 決して戦争を望んでいるわけではないが、この悲しい現実を、正確に、明確に、認識しないことには、戦争を仕掛けられつつあることに気がつくことができない。真の"戦争反対"とは、戦争を仕掛けられつつあることに気がつく能力を身に付けることであり、かつ、戦争になったならば相手を打ち負かす能力を身に付けることである。このような能力を身に着けていれば、日本に戦争を仕掛けようと考える国は少なくなるだろう。それでも、完全になくなることはないと思わなければならない。
   何年か前に、韓国が、日本の航空自衛隊の保有する中距離空対空ミサイルよりも
性能の良いミサイルをアメリカから購入しようとしたことがあった。目と鼻の先の韓国に
制空権を握られたら一体どうなっていたことだろう。この時は、航空自衛隊があわてて
アメリカから同じミサイルをサンプル購入した上で、現AAM4を開発し間に合ったから事なきを得たが、そもそもこのような野心に満ちた韓国の行動は、何を意味しているのだろうか。この点に関して思いが及ばない国民と政治家が日本国内に一定の勢力を保持していることに、問題の一端がある。"反戦"という念仏主義を克服しないことには、真の反戦平和は実現できないと識るべき時にきている。

6.  党綱領との関係
   この評論のほとんど全てが、実存主義の発露である。
   単純な好戦主義でも国粋主義でもないことは明白であろう。
   党綱領では、文脈上触れなかったが、「実存主義」と「心の自由」とは
   不即不離の関係にある。
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