昔





万が一

これだけのスピード

次から次へと通り過ぎる

昔の人は 想定してただろうか

万が一

ほとんど ありえそうもないこと

今は スピードゆえにありうること

果たして 万が一

現代 それはたやすく到達する

それも 短時間でおこりうること

たやすいがゆえに 文明の利器を利用する

天国と地獄を 肝に銘じて






2016年(平成28年)1月1日(金曜日)島原新聞付にのっていた記事がおもしろかったので
ご紹介します。
1637年(寛永14年)島原の乱後、1639年(寛永16年)戦後処理に派遣された高力忠房という殿様に随伴した了憶という
僧侶が「怨親平等」(敵味方を問わずすべての犠牲者を供養した)をかかげ、島原の崇台寺(そうたいじ)は
境内や本堂の寄進を受けて、犠牲者を供養したもの。
なぜその寺紋が六文銭になっているか。
高力忠房公の正室(本妻)の「まののの方」は真田信之(真田幸村の兄)と小松姫の娘であり、幸村の姪にあたる。
小松姫は、徳川家四天王の一人である本田忠勝の実の娘で、徳川家康の養女となってから、
真田信之に嫁いでいる。
さすがに大河ドラマの真田丸のはじまりにこれはうれしいことですね。

また、2016年(平成28年)1月1日(金曜日)島原新聞付で、1616年(元和2年)島原に大名として派遣された松倉重政は
1618年(元和4年)島原城の築城にとりかかる。
どのようにして、大名となるか。知りたかったのですが。
明解な答が島原新聞に載っていました。
筒井家の家臣として関ヶ原の戦いで、軍功をたてる。
筒井家の没落後、大和国二見郷五条の地一万石を賜る。
さらに大坂の陣で、一番首級を挙げるなど働きが目覚ましく、肥前国高来郡4万石となり、島原へ入国。
そこで、またまた、驚いたのは、大阪の陣の陣地図で、大河ドラマの題名になっている「真田丸」
これは、陣地の名前でもあるが、真田丸の真ん前に松倉重政の陣地がある。
ちょっと、驚きました。
NHKの大河ドラマ「真田丸」で出てこられるだろうかな!?
まだ、詳しく知りたい方は、平成28年1月1日島原新聞を読んでください。







平成27年1月2日(金)朝、江東寺にて、またまた、驚きました。
また、調子に乗って、家族の方の子供さんに涅槃像の横の板倉家の説明をしていたら、
素直に聞いてくださっていたのですが、
なんか、自分の感が働いたのか
「板倉さん?」と尋ねてみると、
子供さんが頷かれました。
またまた、失礼しました。
板倉家の方々でした。












平成25年3月25日(月)朝、江東寺にて、驚きました。
松倉家の菩提にお参りの方が5人みえていました。
そこで、集合写真を撮ってあげて、どちらからとお尋ねしたら、
神戸と宮崎と福岡?の方からお出でとのこと。
少し、調子にのって、松倉氏と板倉氏の説明を少しさせて
いただいたら、
なんと、松倉家の末裔の方々でした。
遠いところから島原を訪れていただき、
ありがとうございました。
まさかのできごとで
驚いています。
また、島原にお出でください。
では、お元気で!!






平成21年7月、だいぶ前にテレビ番組で(なんのテレビか忘れました)聞いた話ですが、京都の島原の名前は、
島原の乱の後、つけられたそうです。
その江戸時代初期、あまりにも、規模の大きい戦いだったために、全国で、有名になっていたみたいです。
島原の乱のときの原城の壁にかこまれたつくりに、京都の遊郭のつくりがにていたために、
京都に島原という名前がついたそうです。
また、京都の移転騒動の乱れた様子が、島原の乱の時の様子と似ていたためとか(ウィキペディアより引用)
諸説、あるみたいですが、
興味のある方は、調べてみてください。















平成19年12月上旬夕方、島原市出平町の下針金作屋敷跡の様子です。
掲示板によると
下針金作氏は本名を駒木根八兵衛友房といい、慶長五年九月関が原の戦いにおいて敗れた熊本宇土城主小西行長の家臣であったが徳川家一族の捜査の眼をのがれ、残党と反旗をひるがえす機会をうかがい猟師となってここに隠れ住んでいた。
彼は鉄砲の名人で針を下げて数間(十四〜十五メートル位)の位置からこれを正確に撃ち落すことができたので、だれ言うとなく下針金作と呼ばれた。
寛永十四年冬(1637年)、小西行長の軍師であった森宗意軒を参謀として原城に篭り三会村のキリシタン1千四百二十名とともに戦い、鉄砲の狙い撃ちで幕府軍をなやませた。
また、徳川方から派遣された初回の総帥板倉内膳重昌も彼の手にかかったといわれている。
島原市教育委員会

だんだんと、島原の乱の様子が、伝わってくるようです。











平成19年8月中旬昼近く、南島原市口之津町開田公園の様子です。
南蛮船来航の地です。
永禄五年(1562年)有馬義直(義貞)氏 (江戸時代前)
口之津港を貿易港として開港
開港二十年間、南蛮貿易港として栄えた。
昭和十六年1月17日長崎県史跡指定 口之津町教育委員会
詳しいことは、掲示板を読んでください。











平成19年6月下旬ごろ、所ジョウジさんの番組で、餃子をいちばん食べるのは、どこか?ということで、番組で調べていました。
大体が、いちばんは、栃木県の宇都宮(江戸時代の島原に来られた殿様、戸田氏の出身地)であると知られていますが。
ところが、今回、あらためて、調べてみると、静岡県の浜松(江戸時代の島原に来られた殿様、高力氏の出身地)であると、わかったみたいです。
どちらも、江戸時代、島原にゆかりのある地だなと、思いました。
ただ、それだけですが・・・・・・・・・。












平成19年6月10日(日)のNHK大河ドラマ「風林火山」23「河越夜戦」で8万の上杉の軍勢と戦う北条軍勢8千と驚きました。
ところが、島原半島での竜造寺軍と有馬・島津軍の戦いもそういえば、竜造寺軍5万八千の大軍に対して、有馬・島津軍も一万ぐらいの軍勢でなかったか?
島原の沖田畷の戦い、そう、大河ドラマそのままですね。(江戸時代前)












本丸跡

田町御門跡

内馬場跡

城壁跡

大手門跡

掲示板によると、史跡 原城跡 国指定 昭和十三年五月三十日
原城は、明応五年(1496)、領主有馬貴純氏(八代目)が築城したものといわれ、別名「日暮城」と呼ばれている。(江戸時代前)
城は、県下最大の平山城で、周囲三キロメートル、47万平方メートルの規模をもち、有明海に面して、南東に突出した岬を利用した要害である。
城構えは、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されている。


慶弔十九年(1614)、島原藩主有馬直純氏(14代目)は日向国県城(宮崎県)に転封され、元和二年(1616)、松倉重政氏が大和五条(奈良県)から入部した。
松倉氏は、一国一城令により原城を廃城とし、元和四年(1618)からの島原城(森岳城)の築城にあたり、構築用の石材として、この城の石垣などを運んだものと見られている。(江戸時代)
平成二年三月三十一日 設置
文部省
南有馬町教育委員会
もっと詳しいことが掲示板に書いてありますので、興味のある方は見に行ってください。
なぜ、日暮城と呼ばれたのか、知りたいですね。また、CGを駆使して(自分にはできませんが)、当時のお城の夕暮れに染まるのを見てみたいですね。(ということかと勝手に想像してみました)












平成19年5月下旬昼頃、原城跡の様子です。
左から、島原の乱のときの幕府方総帥 板倉内膳正重昌の碑ホネカミ地蔵天草四郎氏の墓碑十字架天草四郎氏銅像です。
これは、原城において、島原の乱のときに関係する人たちです。(江戸時代)
詳しいことは、掲示板に書いてありますので、読んでみてください。
島鉄の原城駅で降りるといいです。徒歩何分かな?













平成19年5月下旬昼ごろ、南島原市北有馬町日野江城跡付近の様子です。
マムシ注意の看板がありました。注意してください。
また、日野江城まで、道案内で次から次に5人の北有馬の方々に親切にしていただきました。
有難うございました。

掲示板によると、日野江城跡は、戦国大名有馬氏の居城であった。築城は1216年(健保4年)ごろと見られる。日向延岡(宮崎県)に転封となる1614年(慶長19年)までの約400年間、城主は有馬氏であった。
築城以降、勢力を拡大していった有馬氏は、1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有した。また、現在の長崎県、佐賀県十一城(といちじょう)とよばれる支城の連絡網を張り巡らせ、広大な領域を支配した。
豊臣秀吉の天下統一以降、有馬氏は、豊臣秀吉、そして、次の天下人である徳川家康の臣下となり、島原半島4万石を支配するにとどまるのだが、有馬氏が行ってきた、南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は有馬にヨーロッパなどからの様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させることになったのである。北有馬2002 (国指定年月日:昭和57年7月3日指定面積115.992u)

有馬氏が戦国時代の戦国大名であったとあらためて知りました。
もっと詳しいことは、インターネットで、南島原市を見てください。












平成19年5月下旬昼すぎ、南島原市深江町熊野神社付近 深江城跡近辺からの様子です。

掲示板によると 深江城跡 
深江入道蓮忍の後を承けた安富頼清が深江浦地頭職として文永二年(1265年)に鎌倉幕府の命令を受けて下向し、天正十二年(1584年)、落城までの319年の間に、構築・整備された安富代々の居城跡です。

その後は、「深江氏」を名乗って佐賀市水ヶ江町に代々居住です。
深江町教育委員会
もっと、詳しいことや地図が掲示板に書いてあります。
えー、こんなところにけっこう大きいお城があったのかと思います。
もっと知りたい方は、見ににいってください。

現代地図で佐賀市水ヶ江町を調べると、佐賀城すぐそばでした。













平成19年5月下旬夕方、雲仙市国見町神代長浜海水浴場(竜造寺軍上陸の地)からの様子です

掲示板によると、竜造寺軍上陸の地
天正十二年(1584)三月、竜造寺隆信氏は、約五万八千の大軍を率い、有馬・島津の連合軍を征服しようと島原半島遠征を企てた。
竜造寺軍は、三月十八日須古城を陸・海に分かれて出発し龍王崎より出帆、海路高来郡に向かい、一団は十九日、神代に着船した。
この地より上陸し、城を離れて大手の方、外郭の内小路へ陣を敷き、ここで軍の評定を行い三会に進出した。
同月二十四日に両軍は激闘を繰り返し、沖田畷において竜造寺隆信氏はあえなく討死にした。五十八才であった。
国見町教育委員会 平成十二年三月
もっと、くわしいことは、長浜海水浴場の掲示板を読んでください。













平成19年5月 時代劇チャンネルで、森 鴎外氏原作の阿部一族(1995年放映)があってます。
この中で、最初のナレーションで、江戸時代初め、、阿部一族が、島原の乱で功を立てることにより、肥後、熊本の細川家に仕えていたことが語られます。
ちょっと、暗い映画かなと思って途中で、やめようとしたのですが、いつのまにか、最後まで見てしまいしました。
山崎 努氏、佐藤浩市氏、蟹江敬三氏、真田広之氏、藤真利子さん他が、熊本弁を駆使しながら、その時代を乗り切っていかれる姿を、演じてました。
その言葉に、「いいよんなさる」という言葉をいわれたので、びっくりしてしまいました。
よく、島原でも使われている言葉だったからです。
その時代が、江戸時代初期の島原の乱が、沈静した後の平穏な時です。












昨今、島原に住んでいて、思われることがあります。
それは、肥前国 有馬氏と島原城時代が、ごちゃまぜである自分の認識です。
また、どのようにしたら、肥前国がわかりやすく認識できるのだろうと。
だいたい、郷土史家の方に怒られるかもしれませんが、江戸時代前、島原半島の北有馬の日野江城から、肥前国(どこからどこまで)をどのように治めていたのか?
もっと、ポピュラーに「有馬さんな、あそこんとこからあそこんとこまで、おさめちょらしたげな」とすぐ、こたえることができんとやろか。
肥前国、有馬氏は、最後のほうで、徳川家康のひ孫の国姫ば、もろちょらしたげな。
そいけん、有馬晴信氏の息子さんは、お父さんの罪をもろにかぶらんでよかったっですね。
そんときん、お父さん有馬晴信氏の罪は、なんじゃったろか。
どうも、ながさきんほうのひとんかんけいしちょっとじゃなかろか。(岡本大八事件)
そいばってん、有馬晴信氏は、デウス号という外国船ば、おそっちょらすとばってんか。
そんときんは、徳川家康氏は、有馬晴信氏をほめちょらすげな。
どうも、有馬氏が江戸時代初期までで、そのあとを松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、そのあとをずっと
松平氏が、つづいているみたいですね。
それで、一般的にお城を建てたのも、ずっと統治していたのも、松平氏につなげてしまっていました。
ただ、やはり、島原にいる自分は、まさか、島原半島から、政治が、発信されていたとは、どうも
考えることができませんでした。
でも、日本全国から言わせる肥前国は、島原半島からの統治ですね?
なんか、その歴史が、島原半島に存在するんですね。 
そして、その上に日本全国に知られている、江戸時代の島原の乱、島原大変が存在しますね。
島原の乱に大阪での徳川と豊臣の戦いと同等の軍勢12万人を投入。
ところが、初期の原城での犠牲者は、幕府軍の方が3千人近く、キリシタンの方が数十名
いかにキリシタンの方が強かったか?
最後の原城ではキリシタンの方々が3万7千人殉死
そこに、出てくる登場人物だけでも、徳川家光(将軍三代目)、天海和尚、春日の局、松平伊豆守(島原の乱幕府方総大将二代目)、松倉勝家(島原殿様)、板倉重昌(島原の乱幕府方総大将一代目)、天草四郎時貞(キリシタン方総大将)、宮本武蔵
島原大変に・・・・・・・・。
島原大変に関しては、イタリアのポンペイの話が、浮かびます。
最近、テレビでも、ポンペイの話が、とりあげられ、全国の美術館でも、展示品が公開されていました。
テレビでは、そのときの様子がシュミレーション化され、ドラマとともに、そのときの様子が、でていました。
実際、ここ、島原に住んでいて、自分の住んでいたところが、海だったんだなと思います。
およそ200年ぶりに噴火したので、なおさらでした。
江戸時代の島原の乱の後、155年後ぐらいに島原大変という、災害に出会わなければならなかった
島原の乱後 155年後
現代から およそ200年前
島原や周辺の人々の心の葛藤はどんなものだったか?
それに伴う政策の断行、実際の人々の行動は?
それが、位置的に似たほぼ地球の緯度35度から45度間にあるイタリアと
緯度30度から40度の間にある日本の出来事だということです。
イタリアポンペイは約2000年前の西暦79年8月24日、
日本の島原は、約200年前の西暦1792年5月21日、
イタリアベスビオ火山  1281メートル(参考文献 インターネット ウキペディア辞典)
日本の普賢岳   1482、7メートル(参考文献 2007島原市市勢要覧)
自分の思い込みでしょうか、なんとなく似ているように思えますが?










現実

君、現実を見ろよ!!

そんな言葉でいうのは

やめてくれないか!?

なんでだよ?

なんとなく、ごつごつしてるからさ

そりゃ、今を見なくちゃ、いけないよ!

でも・・・・・・・・・・・・・・

そうそう、これこれ

「今を見ろ!!」ぐらいに

しといてくれないか?

じゃ、現実を見ろって、いうんだったら

具体的に一緒に考えてくれないか?

今、どうすればいいのか?

何をすればいいのか?

できれば、お金に換算してもらいたいな!!

君・・・、矛盾するね・・・・・・・!?















平成17年5月の青葉町の甚三郎山付近の様子です。
寛文三年(1663)ごろから島原に滞在し、高岳山晴雲寺と浄林寺の兼務していた
柳川出身の雲渓桃水和尚は、幾度も隆長氏に対して善政に立ち直ることを諌言要望したが
聞き入れぬ。
寛文六年(1666)七月、高力左近太夫隆長は眉山の麓に幔幕を張り巡らし、
多くの美女を侍らして酒宴を続けているところに
まかり出た、家老の志賀玄蕃允(しがげんばのすけ)甚三郎の諌言に立腹し一刀のもとに斬りすてた。
甚三郎の墓は快光院の共同墓地内にある。
かくて寛文八年(1668)2月27日、幕府の決断により領地没収、改易の宣告が下された。
隆長氏は家族とともに城を出て、伊福(瑞穂町)の海岸から船に乗り鹿島(佐賀県)の母が浦に上陸し、
そして宝聚寺(ほうじゅじ)に父の忠房氏の遺骨を預けたまま、
松本という家臣を残し幽閉地として幕府から指定された仙台城(宮城県)への旅を重ねた。
(参考文献 島原城の話  渋江鉄郎氏著)
(江戸時代 4代目将軍 徳川家綱時代です。)












平成17年11月中央公園付近の浜の城跡です。
浜の城の由来として、石碑に説明が載っています。
その一部を紹介します。
この付近は、海に突き出たところで、有馬氏の一族と豪族島原氏の「浜の城」が築かれていましたが、島原大変(1792年)で埋まり現在のようになりました。
この頃の領主島原純茂は、キリスト教の宣教師であるアルメイダに対し布教を許し、教会をこの周辺に建てさせたといいます。(1563年)
詳しいことは、この説明板である石碑を見てください。
「へー、町名はそこから来ているのかあ・・・・・」
また「島原第二小学校は、こういう場所に建っていたのか・・・・・」













平成17年2月の雲仙市国見神代鍋島邸です。
国見町教育委員会の掲示板によると、神代地域が豊臣秀吉の九州平定後、三千石が有馬領から割かれて
鍋島直茂にあたえらえれたのは天正十五年(1587)で当時の領主鍋島直茂氏は、この地を兄鍋島信房氏の所領と決定した。
したがって、信房が神代鍋島家の始祖となる。
この長屋門と石塀は、元禄時代(1688〜1704)に建立されたとされる。
詳しいことは、掲示板に書いてあるので、見てください。
ここで、驚かされるのは、江戸時代前、神代地域が、有馬領だったことです。













平成16年8月昼、武家屋敷です。
掲示板によると、この付近一帯を鉄砲丁といい、町筋が七つ、上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下の丁、江戸丁、新建と碁盤の目のようにできています。
ここには、扶持取り七十石以下の徒士屋敷その他が、柏野の屋敷を加えて、六百九十戸ありました。
鉄砲丁のいわれは、一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥まで丸見えで鉄砲の筒の中をのぞいたようだったことからきているらしいです。

また、鉄砲組すなわち歩兵の住居地帯であったからでもあります。
しかし、後に、藩主の命により今日見るような石垣が
各戸に築かれました。











平成19年1月の雲仙市雲仙地獄です。
地獄の歩道を歩いていると、八万地獄、キリシタン殉教碑、お糸地獄、真知子岩、大叫喚地獄、邪見地獄、婆石と鏡石と、人間への戒めとキリシタン弾圧の足跡がありました。
また、真知子岩には、50年ぐらいの前にラジオから流れてくる言葉がかいてありました。
忘却とは、忘れ去ることなり、
忘れ得ずして、忘却を誓う心の悲しさよ。
菊田一夫
氏作

たまには、雲仙を歩いてみませんか?
心の中に自然への脅威と人への懐かしさが混在するような気がします。











平成18年9月朝、白土湖です。
掲示板によると、
寛政四年(1792年)、普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊とともにできた湖です。
このときの大地変で、地下水が噴出して南北十町(約一キロメートル)東西三〜四町(約三〜四百メートル)の池となった。
藩で、領内の一万人を集め、池の水を流すためにつくった水路が現在の音無川だそうです。
川が人口水路だとは驚かされます。

島原城主松平忠恕氏から忠憑氏のとき。(江戸時代)












平成18年9月、雲仙市吾妻町山田城址です。掲示板によると、山田城は、南北朝時代の応安五年(1372年)に山田荘の総地頭であった豊後の田原氏能氏によって築城された。後に、在地土豪の山田一族の居城となった。(江戸時代前)
山田氏は、代々主家有馬氏の重臣であり、特に、有馬晴信夫人が山田氏から出た
慶長19年(1614年)、有馬氏の転封に伴い、山田氏も主家とともに、延岡に移ったために廃城となった。(江戸時代)
詳しいことは、掲示板を見てください。












平成18年4月、雲仙市国見八斗木の金山城跡(別名 結城城)の桜です。
あいにく曇り空ですが、きれいですね。
ここの説明板によると、
戦国時代のはじめに、築城され、有馬氏から金山城を古賀氏へ与えられたが、
1579年、
竜造寺氏(佐賀方面)が攻め入り、古賀一族がことごとく戦死した。(江戸時代前)
1602年、
有馬晴信氏より、呼ばれて、肥後(熊本県矢部町)から切支丹武士結城弥平次が、入城した。
その時代に、有馬晴信氏の
マカオ船マードレ・デ・デウス号の攻撃に参戦した。
1613年、有馬晴信氏の子
直純氏の時代には、切支丹信徒一掃で、城を後にした。
その後は、廃城となった。
(江戸時代)












平成18年9月の朝、二本木神社です。
掲示板(島原市教育委員会)によると、沖田畷古戦場跡、二本木神社
竜造寺氏は、古くから佐賀を根拠とし、周辺を領していた。(江戸時代前)
竜造寺隆信公になって、肥前国を制圧、やがて、島津氏と九州の覇権を競った。
天正十二年(1584年)三月、竜造氏隆信公は、約5万八千の大軍を率い、有馬・島津の連合軍を征服しようと島原半島遠征を企てた。
海路より神代(雲仙市国見町)に上陸し、三会(島原市)に進出した。
三月二十四日に両軍は激闘を繰り返し、沖田畷において竜造寺隆信公はあえなく討死した。
五十六才であった。
二本木神社は、、竜造寺隆信公を失った家臣のうち住みついた人たちが戦死をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て、霊を祀り、二本木様と仰ぎ、病除けの神としてたたえて来たのが始まりである。
この付近一帯を沖田畷といい戦闘はこの一帯で行われた。
ここから国道258号線を諫早方面へ150メートル行った右の奥には供養の碑が祀ってある。
追記
寛政重修諸家譜によると竜造寺隆信公の戦死後、当時家老であった鍋島氏が領国政治を委任され徳川幕府から肥前佐賀藩主として認められた。
この政権交替を江戸時代に戯曲として表したのがいわゆる「鍋島猫騒動」といわれている。

この掲示板(島原教育委員会)を見ると、島原半島の有事に島津氏(薩摩)がかけつけているということがわかり、島原と鹿児島は、なにかつながりがあるのか?
肥前 有馬一族 外山幹夫氏著によると、天正十年(1582年)十一月、竜造寺隆信の圧迫に苦しんだ有馬鎮純は、島津氏に救援を求めた。とありました。

また、島原城の話 渋江鉄郎氏著によると、有馬氏は、藤原氏の一族ということで、薩摩の鹿児島郡の一部と島原半島南部をかけもちで、地頭職であったという経澄は、有間村に根拠を置いたが、有馬村と改めてそれをおのれの姓とした。
朝澄----家澄と続いて、4代目は兄が鹿児島を生活の地とし、弟の連純が島原人となり日野江城(北有馬村)を築いた。(抜粋)
有馬氏が戦いで、困っているときは、島津氏はかならず援軍をさし向けた。
詳しいことを知りたい方は、島原城の話を読んでください。













平成18年3月、 弁天山です。
弁天山は、島原大変前は、松島と呼ばれ、宗像社と弁財天を祀るでした。(江戸時代)
寛政四年(1792年)島原大変のとき、眉山の南半分が崩壊して、陸続きになりました。
明治28年(1895年)9月、弁天山に大師堂を建立したのは、廣田言証和尚(はだしの坊さま)でした。
正式名称は、弁天山理性院です。
写真に見える塔は、うてなさん天如塔です。(からゆきさんの寄付からも)
理性院の境内には、十二支本尊、松島弁財天堂があります。
弁天山の坂をのぼりながら、松島という島の傾斜を登ってると思うと、200年前にタイムスリップするみたいですね。
詳しいことは、説明板を見てください。











平成16年4月江東寺です。



平成21年7月6日、兵庫県の山口さん、島鉄を利用して、涅槃像をおとずれていただき、
ありがとうございました。
佐世保からの強行軍にもかかわらず、江東寺から、雲仙にいかれ、帰宅されるそうで、
いつのひか、また、島原をご訪問ください。
では、お元気で!

涅槃像、森岳城(島原城)をつくられた松倉豊後の守重政の墓(寛永七年〈1630年)11月16日、小浜温泉で、謎の死。57歳。)、
寛永十四年〈1637年)島原の乱
のときの
幕府方総大将板倉内膳正重昌の墓
寛永十五年(1638年)1月1日、原城攻撃にて、戦死した。51歳。)があります。

辞世    新玉の年の始めの散る花の

                   名のみ残らば、先駆けと知れ


(ただし、どちらにも、普通一人の人物に対して、墓石が一基なのに、墓石が二基づつあります。そのなぞの答えが説明板に書いてあります。)(江戸時代)

詳細は参考文献 宮崎昌二郎氏著 島原城構築物語を読んでください。

                    参考文献 山岡荘八氏著 山岡荘八歴史文庫 徳川家光〔2〕を読んでください。     




         平成24年5月21日(月) 江東寺で新たな掲示板を見つけて、喜んでいます。
                        掲示板の最後の2行、私が勝手に気に入りました。
                        
                        島原の歴史上重要な「島原の乱」に関わった
                        二人は、死後も「島原大変」に関わりました。
       
                                       島原市教育委員会
                         
                         江東寺の涅槃像の横には、「島原の乱」と「島原大変」の二つの
                         史実のキーポイントがあるんですね。

                         












島原城(別名 森岳城)(江戸時代)
松倉豊後守重政が、関が原の戦い、大阪夏の陣、冬の陣で、勲功があったので、
元和二年(1616年)奈良の五条城(二万石)より、
有馬氏のかわりに原城にはいった。

松倉豊後守重政が寛永元年(西暦1624年)の夏ごろ、小高い丘、森岳の地に島原城竣工

二代目松倉重次氏のとき、寛永十四年(1637年)島原の乱

寛永十五年(1638年)、浜松城(静岡県)より、高力摂津守忠房が島原城へ入る。
島原の乱後の復興、各藩からの移民。

高力左近太夫隆信が高力家二代目である。(この殿様のときに、現在の甚三郎山のいわれ)

寛文九年〈1669年)福知山〈京都府)城より、松平主殿守忠房、島原城へ入る。(松平文庫)

寛延二年(1749年)戸田氏が宇都宮より、島原へ。(藩札発行

安永三年(1774年)、松平忠恕氏、宇都宮より、島原城へ入る。(松平文庫
このとき、寛政四年(1792年)、島原大変

晩飯を食ったもんは助かって
晩飯を食わんやったもんは助からんやった
松の木にしがみついておれなかったそうです
昔の言い伝えです
田崎さんありがとうございました。


詳細は、参考文献 渋江鉄郎氏著 島原城の話を、読んでください。
参考文献 松尾卓次氏著 島原街道を行くを、読んでください。

         これからすると、島原城は、江戸時代にはいってからの建物だと、あらためて、認識しました。

もっと、島原の地でのできごとがたくさん書いてあります。
それに、いろんなところから島原の地へ、今で言う赴任してこられたのだな・・・・・。
それに、高力氏から松平氏へ、移るときに、4万石から7万石になったのは?
あ、そうか、姉妹都市は、こういうことだったんだと、いまさらながら、わかりました。
最近、吉三四(きっちょむ)という本屋さんで見つけた有馬抄録 近藤宗顕氏著(北有馬の方)がありました。
自分みたいに、おもしろいところをピックアップして読むものにとっては、読みやすい本です。
吉三四書房について、島原の郷土歴史の本がよく揃っているところです。上の町にあります。

それに、南柏野町月光堂という本屋さんもあります。
いろいろ、見て回ってみるのもおもしろいですね。


最近、南島原市の大野木場に、土器破片が8万点ちかく出たそうです。

島原半島、どうなってるんでしょうね?!


縄文、弥生時代、もしかして、まぼろしの邪馬台国、有馬一族〈江戸時代前)、貿易、
キリシタン、江戸時代に、島原の乱、島原大変、松平文庫、島原の子守唄・・・・・・・・・・。








人生のヒーロー、ヒロイン!?

いつも、君の心は、ヒーロー、ヒロインさ!

映画を観たあとも

芝居を観ても

歌を歌うときも

人と話すときも

その主人公になりきるだろう?

なりきったって、いいんじゃない?

君とともに、時は動いている!!

このことって、すごいことなんじゃないかな?

君自身が思うことは、自由さ!

だれも、心の中を覗くことはできない

だから、このことは、人に話しちゃいけないよ、シィー!

だって、笑っちゃうだろう?

ばかにされたくないもんな!

でも、

君も、

おじさん、おばさんも、

おじいちゃん、おばあちゃんも

みんな、ひとりひとりが、人生のヒーロー、ヒロインなんだよ!!



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