桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

サスキアでの日常  100ダラスコインを持って

ブルーは1人、町を彷徨いながら悩んでいました。
それは、お金。
その魂が抜けたような彼が、町で出会った老婦人とは?
突き落とす馬鹿もいれば、拾ってくれる神もあり。サスキアの日常、ライトな短編です。


 1ダラス。

それは円に換算すると、2倍と考えていい。
つまり1ダラス=2円。

カインでは、サスキアの他に2つ、大きな都市がある。
その都市だけが発展している現状は、カインの政治家にも頭の痛い問題だ。
何しろ、交通の便が悪い。
三大都市の先進国ぶりと裏腹に予算不足は深刻で、地方にまでなかなか金が回らない。
昔の戦争の影響か、荒れ果てた土地が多く、水がないから町や村が発展しない。
朝夕の気温較差は激しく、戦争で荒れた荒野での工事は難所も多い。
水道も、鉄道も、道も、全て金。
都市を繋ぐ飛行場は出来ても、三大都市を辛うじて繋いでいるだけ。
見捨てられた地方の町や村は、まだまだ開拓途中の貧しい人々が多い。
歪で均等の取れないこの星全体の問題は、やがて貧富の差を生み、生活レベルの格差から次第に人々の心に差別意識をはぐくんでいる。
地方の若者に夢は?と聞くと、10人に10人が答えるだろう。

「サスキアか、他の都市に行きたい」と。

しかし、サスキアに住む人々の言葉は違う。
ここは勤めに出る人々がほとんどで、時間に追われ、人間関係のストレスにさいなまれ、車が溢れ、犯罪は増加の一途をたどる。

「いつかのんびりと、不自由でも良いから田舎で暮らしたい」

みんな酒を飲み、お茶をすすりながら夢を語るときはそう漏らすのだ。




 都会の喧噪に一人、ぽつんとたたずむと、やたら大勢の中にいながら、孤独感がひしひしと胸を覆い尽くす。
先日派遣先の山麓の貧しい村から帰ってきたばかりの彼には、このサスキアの方が人間にとって毒々しい物に感じられて、何となくショウウインドウに映った自分の姿に見とれていた。

いや、見とれてと言うには語弊があるだろう。

彼は男としては、兄弟の中のある一人のように、男のくせに突出して美しいと言うほどでもない。
普通だ。ごく普通。
まあ、真っ黒な髪と、青く澄み渡る空のような瞳は、自分でも気に入ってはいる。

しかし、ウインドウに写ったこの顔はなんだ?

驚いて、思わず立ち止まってしまった。
つまりこうだ。
ゲッソリして見るからに疲れはてた顔、ツヤを失いパサパサで寝起きのようなボサボサの頭。
極めつけは、まるでこそこそ世間の隅っこを歩くネズミか害虫のように、小さく丸めた背中と縮こまった肩。
ヨレヨレになるまで着古した、ジーンズとシャツ、ジャケットがそれに花を添えている。

俺って、今確か21のはず。

それが40は越えて見える。
まるで生活に疲れたおばさん。

「俺って・・俺って・・・一体・・」

何か、最近嬉しい事ってあっただろうか?
考えても考えても、いつだってこのサスキアに帰るたび気持ちがずんずん重くなる。
他の兄弟は、どうなんだろう。
こんなに苦しいのは自分だけじゃないだろうか?
いや、それぞれ何か問題はある。

グレイはシャドウの女遊びが気になって気が重いって言ってたし、グランドはレディの体重を増やすんだって燃えるのに、それが空回りするってぼやいてたし・・なんだ、みんな大した事ねえ。

今の俺の悩みに比べりゃ「へ」だ。

後でどうにでもなる問題ばかりで、どん詰まりの俺とは質が違う。
俺の悩み・・

つまり・・・金だ。
また金だ。
それが半端じゃねえ。

派遣先が山麓のド田舎だって気のゆるみがあった。
あの馬鹿でも、いくら何でもなんに金を使う?
楽勝!が、一気に地獄へ真っ逆様。
今度ばかりは兄弟にだってとても話せねえ額だ。

200万ダラスだ。
いいか?200ダラスじゃねえ、万!だ、万!
ふっ!こうなりゃ笑っちまうしかねえ。

ある物一切合切持ってきて買い取りに持って行ったけど、あるのはセピアの趣味の悪いバッグやらドレスやら、それに指輪にネックレスをベッドの下に隠しているのも見つけて、俺等の部屋にある金目の物全部ひっくるめて、カードに入金して貰っても11万5千ダラス。
溜息付いて、カードをジーパンのポケットに入れていたのが・・

無い。

無い!無い!無ーい!!
財布ごとなーい!!!

ひいいいいいーー!!

俺が一体何をした!
この品行方正な俺がああ!!
しくしくしく・・・・

「もー、俺首でもくくろうか・・・」

ポリスにも届けたけど、「もう諦めた方がいいねえ」だってさ。
ポケットを探れば、100ダラスコインたった1個。
お笑いだね、これじゃパン1個、買えるか買えないかだ。
バンとウインドウに手を付いて、ズルズルしゃがみ込む。

『可哀想にね』
『きっと失恋よ』
『ああ言う奴がきっとしつこいんだ』
『ざまあみろ』

何だか色んな勝手な言葉が頭に飛び込んでくる。
そうか、俺はそんなに可哀想に見えるのか。

・・・え?まてよ、失恋?

ハッと今まで気にもとめなかったウインドウの中を見る。
と、バーンッと目の前に、ド派手なウエディングドレスが!
どひゃああ!!これじゃ俺って余計に悲惨!
ダアッと駆け出し、その場から一目散に逃げ出した。

 あたふた走って町中を走りまくり、何となく馬鹿馬鹿しくもなってようやく歩き出す。
相変わらず回りには人が多く、昼時で家族連れが楽しそうに歩いている。
一つ大きな溜息をつき、見上げるとそこはカイン一大きなデパートの前だった。
一階には、何やらセピアの好きそうなブランドとやらの高級な店が並んでいる。
見ているだけで場違いな洒落た雰囲気に気圧されて、そそくさと行き過ぎると、買い物客が休むようにしつらえてあるベンチの、空いているところに腰掛けた。

「ふう、」

大きく一つ、溜息をつく。
ドカッと後ろから叩かれた。

「お兄さん、10ダラス。」

振り向くと、一人の婆さんが手を差し出し立っている。
じいっと、目が合う。
険しくも気難しそうなバア様だ。

「お兄さん、10ダラス出しな。」
「は?」

婆さんは、紺のロングスカート、白いブラウスに若草色のレースのカーディガンを羽織り、白い髪も綺麗に結い上げて鍔の広い白く洒落た帽子を被っている。
ステッキも艶々と磨きの掛かった高そうな木で、それを持つ手も白いレースの手袋をして、身なりから物乞いとは思えない。

ブルーはポカンと口を開け、意味が分からず婆さんの心を覗いた。
すると、いきなりまたステッキが飛んできて、ドカッとブルーの肩を思い切り叩く。
ギャッとたまらず悲鳴を上げて立ち上がり、ブルーはバタバタ足踏みしながら痛みを堪えた。

「いてえっ!何すんだよ!婆さん!」
「失礼な、人の心を覗き込むような顔をするからだよ。まったく、最近の若い者はなってないね!」

ギクッと思わず体が固くなる。

ブルーが慌てて心を閉ざし、婆さんを怪訝な顔で見ると思わず身構える。
もしかしたら、この婆さんはクローンなのか?
しかし、綺麗な青い目だ。ならばクローン擁護派か?
彼らはクローンには天敵と言われる。
つまり命を狙われてもおかしくはない。

「いいから、10ダラス!」

カンッとステッキで路面を突き、元気良くブルーに向かって手を差し出す。

「だから、何で俺が金をあんたに払わなきゃなんないわけ?」
「あんた、人の後ろで思い切りデカイ溜息をついただろう?
私はそれが酷く不快なんだよ。だから、はい、10ダラスで勘弁してやるよ。安いもんだ。」

えーと・・・
安いとかの話しじゃなくって・・
・・・・なんで?

「えーと、つまり慰謝料・・すか?」

「そうだよ!良く分かったね。あんた、一応まだ魂は抜けきってないようだ。」

婆さんはなぜか勝ち誇った顔をしている。
ブルーはガックリ、年寄り相手に真面目に相手するのにも疲れてポケットを探った。
しかし、ポケットには100ダラスのコインが1枚。それしかない。

「あのー、俺これしかないんですけど。」
「まあ!しけたガキだね!こんなリッチな場所で、持ち合わせがたったそれかい?
確かに・・・・あんた、随分苦労してるみたいだよ。まるで女に貢ぎすぎて借金取りに追われる、だらしない男だ。」

ぎくぎくっ!
婆さん、勘が良すぎ!その通りざんす!

しかし、このコイン一枚が俺の全財産なのだ。

「お釣り、ありますか?俺、それしかないんで晩飯に困るんです。」
「晩飯?お前さん、たった90ダラスで何買えると思うんだい?」

えーっと、何買おう。

「パン2個くらいは買えるかなあ・・って、へへへ。」
「呆れたね、いい男がそれかい?」

うーん、確かにわびしい。

まあ、一応は食べる分はみんなで出し合っている「食費カード」を使えばいい。
問題はあれだ。
しかし、給料の前借りは原則禁止だし、俺等のように毎月赤字だと知れ渡っていると、他人は誰も貸してくれない。
頼みの兄弟は皆、暫く帰ってくる予定も無し。

200万ダラス・・・やっぱ首でもくくるか、夜逃げするか。

「あのう、それでどうしましょう。」
「どうするもこうするも、なんてだらしない。
お前さん、その年でもう少しパリッとしたらどうだい?鏡くらい見たのかね?」
「はあ。」

何だか言われ放題だが、確かに今朝起きてから髪も手櫛で、服は昨日脱ぎ捨てて丸めていたのを着ただけ。
昨日サスキアに帰ってからと言う物、金のことで頭がいっぱいでろくに眠れなかったし、頭から魂が抜けていたと思う。
元凶のセピアは、どこに行ったのやら起きたらすでにいなかった。
きっとまた、金のことも忘れて遊びに行ったんだろう。

「はー・・・・・」

つい、また溜息が出てしまった。
ハッとして、バッと身構える。
ところが婆さんは呆れたように首を振り、コンコンコンと何やらステッキでリズムを取っている。

「ふむ、」

思案に耽ってブルーの顔を見ると、くるりと踵を返し歩き出した。

「ついて来るがいいさ、文無し坊や。」
「え?ええ?」
「まあね、一日くらいは雇ってやるよ。
ちょうど庭の芝が伸びてきたし、雑草も目立ってきたからね。」
「はあ、雑草すか。」

見ず知らずの彼を雇おうなんて、酔狂なことだとまた溜息が出そうになり、慌てて飲み込む。しかしまあ、それが少しでも生活の足しになればいい。それに当てのない借金を背負い、じっとしているのも精神衛生に悪いだろうと、ブルーはとぼとぼ彼女について行くことにした。




 暑い暑い夏が過ぎ、ようやく最近は昼間でも気温が下がってきた。
夏場、昼間のサスキアは地獄の一丁目。
それでも朝夕は気温差が激しいことが幸いして、涼みがてらに街をうろつく人が多い。
商店やデパートも、夏場は営業時間を伸ばして対応しているのだが、この季節になると次第に閉店時間が早くなっていく。
夕暮れになると高台のこの家からは、街の明かりがポツポツと見えて、なかなか絶景だと木の上からブルーは見とれていた。

そう、木の上から。

「俺って・・一体・・」

呆然と、ノコギリを見る。

「ちょっと!お前さん何してんだい!さっさとしないと日が暮れちゃったじゃないか!
まったく、今時の若い者はグズグズしてなっちゃないね!
ほら、昼間刈った芝と雑草と、この切った枝は一つにまとめて置くんだよ!
明日も来て、ちゃんと裏で燃やすんだ、わかったね!」

「えっ!明日も?」

「当たり前だよ、まだ半分木が残っているじゃないか!この年寄りにやらせる気かい?こんなだだっ広い庭、あたしの手には余るんだよ。」
「はあ、そうっすよね。」
「どうせ仕事もしないで遊んでるんだろう?」
「はあ、まあ、明日も休みなんですけど・・」
「じゃあ、決まりだね。」

言うだけ言うと、スタスタ婆さんは家へ帰って行く。
夕日に照らされる大きな家は、遙か彼方、数百メートルは先にある。
この庭はあの、管理局のヘリポートより広いかも知れない。

『さあ、ここだよ。芝を刈って、雑草取って、時間が余ったらこのニョキニョキ生えてる木の無駄な枝をはらっておくれ。無駄な枝だよ!わかるだろ!不細工な格好にしたら、お前さん今度は家の掃除までやらせるからね!』

タクシーを降りて庭へ案内され、呆然と広大な庭を見るブルーに、婆さんはこう言ってのけた。
その時時間はすでに昼も回っていて、これを半日でやるのは無理だと思ったのだ。
しかし、懸命に黙々とこなし、雑草をバリバリ取って、日が傾く頃はようやく芝を刈り終えた。
いわゆる死にものぐるいって奴だ。
ところが、一息つく彼に「はい」と婆さんが差し出したのは、お疲れさまのお茶などではなく、今度はしっかりノコギリだった。

体力だけは人並み外れている。

それが幸いしたか、災いしたか、散々こき使われたのだが、これだけのことをしても、ブルーはヒョイと木から降りてタッタッタッと軽いフットワークで母屋へ駆けだした。

「でけえ家。でも、このくらいが俺等兄弟で暮らすのに丁度いいかな。」

ずっと、みんなで集まると家の話しになる。
引退する頃には、みんなでこんな家を買って住むのが夢なのだ。
自分たちの家。
自分たちの、自分たちで掴む場所。
一生の夢だ。
こんな、古くてもいいから、大きな家じゃなくてもいいから、ずっと田舎でもいいから、不便でもいいから・・
夢を語り出すと、みんな止まらない。
目を閉じなくても、いい家を見ると自分たちがそこで生活しているビジョンが浮かぶ。
ああ、しかし、今は200万だ。

・・・現実に戻ってしまった。

何度見ても大きな古い家だ。
ここへ移住した、最初の頃に立てられたのだろうか?
見たところ、ここに婆さんは一人で暮らしているらしい。
寂しいから昼間はあんな町中で、人間ウオッチングでもやっているのだろう。
薄暗い空にはうっすらと星が瞬いている。

すっかり遅くなったけど、家へ帰ってもセピアが食事を作ってくれているわけもない。
いつだって、食卓でスプーン片手にドンドンテーブルを叩いて催促するのが関の山。
したがって彼がこれから買い物して帰って、それから料理しなければ食事もおぼつかない。
疲れる・・けど、90ダラスで何が買えるだろう?食費カードを忘れてきたのは良かったのか悪かったのか。
財布ごと無くして、その上食費カードまで無くしていたら泣きっ面に蜂、明日から・・いや、今夜から飯の食い上げというものだ。
不幸中の幸い。

「90ダラスか・・プリペイドに変えるのも面倒くせえ。
ごみ箱でもあさるか?まあ、顔の利く小店に行けば現金でも買えるからいいか?
酒はシャドウのが買い置きあるし、あとはパスタに・・小麦粉か・・そうか、出来ねえ事ねえな。グレイが買い置きしとくって言ってたから、冷凍室に何かあるだろう。
ああ、腹減った。」

昼からかなり日差しが強くて暑かったから、シャツが汗くさい。
まさか肉体労働させられるとは思っていなかったので、タオルも何も持っていなかった。
だくだく流れる汗も袖で拭いていたので、白いシャツは真っ黒になっている。
それを隠すようにジャケットを着込んだ。
さすがに水だけは飲ませて貰ったけど、おやつが飴玉だけとはシケていた。
最高にケチケチな婆さんだ。
これじゃあ手間賃も期待できないだろう。
庭から家の中を覗いてみるけどいない。
婆さんはどこへ消えたのやら、ドッと疲れが来て、ドッカとテラスの小さな椅子に腰掛けた。

すっかり日も落ち、スウッと涼しい風が肌に心地よい。
フッと軽く息を付き、髪をかき上げてぼんやり庭を眺める。
広々として、何もないけどいい庭だ。
これなら暇なとき、ボールでも蹴って遊べる。

「あ・・何かいい匂い。」

くんと鼻を立てると、トマトっぽい甘酸っぱい香りが鼻をくすぐり、腹がぐーーーっと鳴った。

「そうだ、トマトソースの缶詰あったかな?」

パスタをゆでて、そして・・
婆さんが、傍らにやってきてブルーの膝にドンと紙袋を置いた。
ほんのり温かい容器の感触が、膝に堅い。

「なに?これ。」

覗くと、大きな蓋付きの入れ物が一つと、二周りほど小さな入れ物が二つ入っている。

「どうせ誰かと暮らしているんだろう?
あんたずうっと晩飯の心配ばかりしているじゃないか。
誰かに作ってやらなきゃなんないなら、もう遅いからね。それで足りるかい?」

口をあんぐり開けて、ブルーが頭を上げる。
なんて洞察力があるというか、勘が冴えている婆さんだろう。
これじゃあ、参りましたとしか言葉がない。

「ああ、助かるよ!ほんと、助かる!
何かな?美味しそうな匂いだ!」

「ふん、そりゃあ帰ってからのお楽しみだ。
嫌いな物なんて許さないよ。みんな食べておしまいな。」

「もちろん!そんな贅沢言わない、言わない!
これならあと、パンケーキでも5,6枚焼いたらオッケーじゃん!ラッキー!
サンキュ!じゃあ、ありがたーく貰っていくよ!ひゃあ!楽しみだ!生きててよかったあ!」

「フフフ・・・大げさだねえ。
じゃあね、明日も来ておくれよ。
少ないけど、お駄賃は明日払うからね。」

「オッケー!オッケー!じゃあまた明日!」

作ってばかりだと、人が作った物が妙に嬉しい。ブルーはピョンと元気に立ち上がり、スキップ混じりに駆けだした。

「ああ!お待ち!ここから走って帰るつもりかい?遠いんだろう?車を呼んであげよう。」
うーん、確かに遠いが金がもったいない。
「いいよ!走って帰る!あんがと!」

大事そうに紙袋を抱え、玄関ではなく庭へ向かって走り出す。
婆さんが驚いて後を追いかけ、大きな声で叫んだ。

「お前さん!どこへ行くつもりだい!」
「こっち!家なんだ!真っ直ぐ行くよ!」
「真っ直ぐって・・そっちは・・」

あれよという間に、庭の高い垣根を、ポーンと飛び上がり越えてしまった。

ワンワンワン!!

「わあああ!!犬だあああぁぁぁぁ!!」

けたたましい隣の犬の声が、元気に遠ざかる。婆さんは腰に手を置き、フウッと一息ついて呆れると、空を見上げてフフッと笑い出した。

 フウッと一息ついて、カーペットに寝っ転がる。
食後の、この一時が至福の時だ。
「ねー、ブルーはこのミートローフもう食べないね。このポテトサラダも食べないね。
これ、パンケーキ残ったの・・」
「ああああ!!うるせえ!食えっ!好きなだけ食えっ!全部舐め上げろ!」
「うん。」
カチャン、ズルズル。
ムシッ!モクモク。
ハグハグハグ、ペロンペロン。
寝っ転がったまま目を閉じていると、セピアの食事は実ににぎやかだ。
今更良く食うなあと感心する。
どんなに大きな借金作っても、たとえ今夜夜逃げすることになっても彼女の食欲は衰えないことだろう。
まったく、200万をどう思っているのか。
少しは心配して相談なり・・
「ねえ、ブルー。あたし・・」
おっ!
こいつもやっぱり人並みだったかと、少しホッとする。
やはり、腐っても女だ。
頼られたら、いざとなったらやはし護らねばなるまい。
力がどんなに人並み外れても、女の子なのだ。
フッと口の端から力無く微笑みが漏れる。
「あたい、まだ足りないよう!腹減った。
ねえブルー、パンケーキ足りないよう!焼いてよ!」
カンカンカン!
スプーンで皿を叩いて容赦ない言葉を投げつける。
フライパンの大きさのパンケーキ。
ブルーはいつも1枚だが、今日は2枚食った。
全部で7枚、フライパン2つを駆使して次々焼き上げた。
はずだ。
ガバッと起きて、皿を見ると何もない。
確かに綺麗に舐め上げてある。
「ねえブルー、今度焼くときお砂糖効かせてね。もう付けるのなんもないから。」
ジャムのビンも、バターも空っぽ。
眉をひそめてみると、にこっと笑う。
ブルーは大きく溜息をついて、バタッと倒れた。
腐っても女じゃねえ、こいつは腐った女なんだ。
「ねえねえねえ!パンケーキ!」
カンカンカン!
仕方なく、ズルズル起きてキッチンに立つ。粉の入った10キロの大袋から、カップでドサッとボールに放り込むともくもくと粉煙が立った。
砂糖を放り込み、水を入れてガシガシ練る。
折り曲げてぴらぴら揺れる袖が、薄くなってとうとう破けているのが目に入った。
何だ、また破れたか・・
あて布して縫うか、捨てるか・・
このシャツが一番くたびれている。
襟も背中も破れて繕っているから、人前でジャケットは脱げない。それでも、少ない洋服だから捨てられないのだ。
やっぱもったいない、縫おう・・
ゴミ箱に捨てると、レディが拾っちゃうしなあ・・俺とレディはしみったれジジイだぜ。
カンッ!
フライパンを火に掛けて、油を引く。
生地を練るうち段々頭がぼんやり、この生活が嫌になってきた。
町に行っても、するのはいつもウィンドーショッピング。格好いいお気に入りのブランドの服も、はるか昔に一度買ったきりだから店の人はいつも冷たい。
そう言えば懐かしい・・そのジャケットはとっくに売ってしまった・・
以前は試着だけでも・・としていたのが、店員のうんざりした心の中を聞いてしまうと最近は手が出ない。ただ見るだけで、それを着た自分の姿をイメージして満足して帰る情けなさ。
ああ・・・

俺はどうしてこいつに振り回されてんだろー
俺はどうして働いても働いても好きな物一つ変えないんだろー
俺はどうして・・

カンカンカンッ!
「ねーブルー、甘ーくしてね!」
ハッと我に返り、もくもくと煙の上がるフライパンに慌てて生地を流し込む。
「ハハ・・俺って今、ちょっと飛んでた?
あり?」
何だか焼いてる生地の中に、つぶつぶと赤やら黒やら何かが見える。
「ゴミかな?練ってるとき気が付かなかったけど。ま、いいや、一度くらい腹こわして丁度いいだろ。」
ポンとひっくり返し、もう一つフライパンを取りだしてもう一枚焼いた。
「おらよ。」
「キャン!待ってたわよん!」
皿に3枚盛ると、嬉しそうに両手に一枚ずつ持ってがっつく。
黙々と食べていたセピアが、ピタッと動きを止めた。
「ん?どした?」
アガッと口を開け、涙をポロポロ流してブルーを見る、その顔の凄いこと。
「ひーー!!からーーい!!」
ダアッと流しに走り、蛇口をくわえてガブガブと水を飲みはじめた。
「辛い?俺そんな物なんも入れてねえぞ。
あ・・ああ!そうか、なあんだ。」
そうか、あのつぶつぶはコショウだったか。
意識が飛んでるとき、無意識に入れたに違いない。きっと恨み辛みが一気に吹き出したんだろう。
「ほんじゃ捨てるか。食えねえなら仕方ねえ。
お前水飲んで腹膨らませろ。俺は風呂に入る。」
「えええーー!!焼き直してくれないのお!」
「くれないね。」
「けちっ!」
「ケチだよ。」
「じゃあいいもん!意地で食べるから!」
ギュッと目を閉じ、一気に食べ始めた。
相当辛いのか、ヒーヒー言ってる。
俺も夢見るようになっちゃあおしまいだなと、空いた皿を片づけた。
婆さんの食事は優しい味で、上品でとても美味しかった。
あの人らしい、愛情のこもった食事だ。
結局今日だって、あの人がこき使ってくれたおかげで少し気が晴れたのだ。
泥の中を彷徨うように、どうしていいのかわからず最低の気分が少し楽になった。
まあ無意識のうちドカドカあいつにコショウをお見舞いするほど疲れはしたけど、あのままうろついても財布は戻りゃしないし、金の当てもない。
最終手段はレディアスの口座の金だ。
彼の口座はほとんど手を付けないから十分金がある。
本当は兄弟で、絶対に手を付けないと取り決めているのだが、こうなったら借りるしかない。ぼちぼち絶対返そう!何があっても!
引き落としまであと3日。
明日婆さんの所に行ったあと、管理局へ行って何とかポチに通信をつないで貰おう。
ジャアアア・・
水を出して皿を洗いながら、頭の中はぐるぐる考えが回る。
珍しくセピアが流しまで皿を持ってきて、はいと渡した。
「辛かったけどさ、あとは慣れちゃったよ。
へへ・・・ね、ブルー。」
「なんだよ。」
「ね?あのね、お金、あたい何とかするから。
ね?ブルーはね、気にしないで。」
「何とかって、何するわけ?」
彼女の何とかは当てにならない。
「あのね、借りるの。」
「誰に。」
「えーっと、誰か。」
「誰かって、誰?!」
ギッと、ブルーが彼女の頭を読む。

『えへへえ、大佐とかあ、研究所の博士とかはウルトラリッチじゃーん!
金はあるところから頂けばいいのよーん!
でへへへへ!セピアちゃんえらーい!』

「えらくなーーーいいぃぃっっ!!」
「キャン!またブルー、乙女の胸の内を読んだわねえ?」
ぐはーぐはー、心臓が痛い。もう死にそう。
「てめえは研究所までハジさらすくらいならいっぺん死ねーっ!」
皿持って、バタバタ追い回す。
何だかこのまま窓から飛び降りてしまいたい気分のブルーだった。

 緑が溢れ、綺麗に整備してある道の両脇を重厚な門構えの家が並んでいる。
昨日は気が付かなかったが、初めて来る町だけに改めて目を見張った。
やはり自分のような貧乏人もいれば、世間には信じられない金持ちもいるのだ。
フワッフワの毛並みをした犬を散歩させる、まるで今から結婚式にでも行きそうにお洒落をしたおばさんとすれ違う。
『あら、まさか泥棒かしら?随分貧相です事。』
おばさんの心の声が、ブルーの頭に飛び込んでくる。
どうやらまじまじと見たのが悪かったらしい。婆さんに借りた、タッパーを入れた袋をブラブラさせて歩きながら、キョロキョロして捜すと、見覚えのあるこの辺でも一番古い家が目に入った。
「あった、あれあれ!」
何だか場違いな雰囲気に、一気に駆け抜け門前まで来た。
キョロキョロ門の前をうろうろしていると、やっぱり泥棒と間違われそうだ。
インターホンもないし、どうした物か考えて腹を決めた。
ザッと足を踏ん張り、スウウウウウッと息を吸い込む。

「こんにちわーーーっっすっ!!!」

ちわーーっす・・ちわーっす・・ちわー・・
声が通りに反響する。
カチャッと門に音がして、キイッと自分で開く。
「あれ?」そうっと恐る恐る押して入る。
「入ッタラ閉メロ!」
ドキッとして見ると、足下に犬の置物型のロボットが口をパクパクさせる。
「何だ、おめーに言えば良かったのか。ちぇっ!」
門を閉めて玄関に急ぐと、玄関はまた閉まっている。
一人暮らしの婆さんらしく、きっちりしている。
「こっから裏に回れるかな?」
仕方ないので建物の横にある外壁との間にある鍵のかかった小さな柵を越え、草が茫々生えた所を草むしりしながら進む。
そしてようやく裏に出ると、すでに婆さんは落ちた木の葉をホウキでかき集めている。
ブルーに気が付くと、腹立たしそうにホウキを差し出した。
「遅いよ!遅い遅い!何してたんだい!
そんな物そこに置いて、さっさと作業を初めておくれ!またすぐに日が暮れちゃうよ!」
「は、はいはいはい!」
袋をポンと椅子の上に放り、持ってきたタオルを首に掛けて腕まくりをする。
「ハイは一回でいいよ!まったく、しつけがなってないね!」
バア様は相変わらず、自分でやった方が良くないかと思えるほど元気がいい。
ブルーも何だか元気を分けて貰えるような気がして、クスッと笑って急いでホウキを受け取った。
 怖いバア様を後目に、ブルーはダッシュで庭を駆けめぐり、残った半分の枝払いと掃除、そしてついでに壊れた柵や壁を直したりしてやっぱり全てが終わったのは夕方になってしまった。
今日は帰りに管理局に寄って、グランドに通信をつないで貰おうと思っているのに、これじゃあ時間外なのではっきりした用がないと入れて貰えないかも知れない。
こそこそ隠れて入るつもりだが、警備が厳しいので特に用のない者は勝手には入れないのだ。それも当直のみの、手薄な状態だから警戒してのことだけど、これはやっぱり不便だ。
引き落としはあさって。
明日でも間に合わないことはない。
ただ、最悪の場合はお手上げになる。それを考えると胃がギリギリ痛い。
溜息をつきそうになって、慌てて口を押さえた。
道具を言われたところに直して、綺麗になった庭を眺めながらテラスの小さな椅子に座る。
ボウッとしていると気持ちいいが、ポケットは寂しい。
今日も100ダラスしかポケットにはない。
今日はバイト料をくれる約束なので、ほんの少し期待している。
寂しい懐だが、「生活費カード」だけは落とすとお手上げなので家に置いてきた。
昼は婆さんがパンをご馳走してくれたけど、また夜ご飯をくれるわけないから、今日こそは考えねばなるまい。
粉だけは買い置きが沢山ある。
いっそ、粉だけバフバフ食うか・・
「中へお入り、お茶をご馳走するよ。」
お茶なんて飲んでる暇・・・断りかけて、空を見た。
日はすっかり傾いて、遙か彼方にそびえるビルに見え隠れしている。もうそろそろ真っ赤に燃え出して、もう今日は諦めなとつぶやくだろう。
「もう、どうにでもなれ・・か・・・」
ガックリと肩を落とし、首に掛けたタオルで顔を拭いて部屋に入る。
この居間に入るのは初めてだ。いつも庭の小さなテーブルと椅子でご馳走になっていたから、ブルーはまじまじと部屋を見回した。
質素で、使われていない様子の暖炉の上には、沢山の写真が並んでいる。
高そうな壷や絵画はさりげなく、絨毯もすれてはいるがいい味を出している。
レースのカーテンが風に揺れ、上品で趣味のいい猫足の家具はアンティークっぽくて豪華に見えた。
「ほんじゃ、お邪魔しまっす。」
ふと座ろうとして、婆さんが慌ててダメダメッと手を振った。
「駄目だよっ!その椅子はスプリングが壊れてるんだ。座っちゃ駄目、こちらに腰掛けなさい。」
その椅子は、2人掛けの椅子だ。見た目は変わらない。だから放ってあるのだろう。
「その椅子はね、嫌な奴が来た時のためにそのままにしてるのさ。いいだろ?」
はあ・・・ただでは起きない婆さんだ。
跳ねっ返りの娘のような顔で笑い、とすんと座って紅茶を入れ、差し出してくれる。
美味しそうな香りが鼻をくすぐり、ハイッとお待ちかねのケーキが出た。
「すると、俺は嫌な奴じゃないんですね。
じゃあ頂きます。」
フフッと笑い合い、お茶を飲んで色んな話しになった。
家族や仕事のこと。当たり障りなく簡単に話し、婆さんの死んだ旦那と、別に暮らす娘さんの話も聞いた。
ブルーも両親が居ないことを話しても、あまり驚いた風でもない。
婆さんも、やはり一人娘が可愛いのか、娘さんの話になるとやたら弾む。
「まあ、最近の若い子もしっかりしてるから、心配はしてないんだけどうるさくてねえ。」
「へえ、うるさいんですか?」
ブルーには親子関係が良く分からない。兄弟と同じような物だと思っている。
「人を年寄り扱いして電話ばかりかけてくる。
来月からはここに帰ってくるって言うんだよ。
娘もいいおばさんだ、こんな所でババア二人暮らしなんてゾッとしないね。色気も何も、あったもんじゃない。」
ブスッとしながら、それでも嬉しそうだ。
こんな大きな家に、やっぱり一人は寂しいに違いない。
「あんたは6人も一緒ならどうなんだい?
相当もめるんじゃないかい?」
「ああ、俺等は仕事の関係で出張ばかり何で、滅多に全員揃わないんですよ。
だから、揃ったときは嬉しいですね。」
「ほう、じゃあ離れているときは心配だろう?」
え?・・心配?・・
してるのかなあ、みんな心配。
俺は自分の事ばかりで・・・そうか、自分の事ばかり考えてる・・
頭に兄弟の顔が浮かんでも、それぞれ危険な仕事に当たり前のように就いていても、心配なんて考えなかった。
言い換えれば、いちいち心配していたら仕事なんてやってられねえってのが本音だ。
「心配・・しなきゃ駄目なのかなあ。」
「ま!ホホホ!面白い子だ!十分心配しているじゃないか。あんたの顔は、兄弟のことを話している時が一番嬉しそうだよ。
それは裏返せば、兄弟の無事を願っている、つまり心配しているって事さ。
心配って言うのは、やたら気に病むと普通の考えが回らない。当たり前のことを間違って判断することもある、やっかいな優しささ。
あんたぐらいで丁度いい。」
「はあ、そうっすか・・・」
何か良く分からないけど。
一口お茶を飲んで、一息つく。
ケーキもペロリと食べて、ついセピアにも食わせてやりたいと思うのが腹立たしい。
俺ってあいつに洗脳されているかも・・
「ところで、あんたは何を悩んでたんだい?
随分憔悴していただろう?」
ハア、憔悴か・・そう見えたか。
「実は、兄弟の一人が凄い買い物の魔物で・・・給料以上にたまに買い物するもので、金策に困って・・」
「そりゃあ、金策に走るお前さんも悪いね。
そいつに走らせればいいんだ。」
それはまったくごもっとも。しかし、それは最悪の状態をもたらすのだ。
「みんなもっともな意見をくれるんですけど、あいつに一度金策やらせたら、凄いことに・・・」
へえっと、婆さんが身を乗り出す。
何だか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか?ブルーは婆さんの心を読みたくない。
「見境がないんです。金に関しては、全くのバカ。誰彼構わず借りればいいと・・」
「ふうん、色々あるんだねえ。」
「はあ、色々と。みんなの心配の種で。」
「で?今度は何にいくら使ったんだい?」
面白そうににっこり聞いてくる。
ほっといてくれと言いたいところだが、ブルーはその時、誰かに聞いて欲しかった。
「実は、家を。」
「家?」
「派遣先で騙されて、家を安く売ると言われてポンとやっちゃったんです。
ところがそこは他人の家で、売った奴はまったく関係ない奴で、捜したけどもう手遅れで。」
バア様がようやく気の毒そうな顔で身体を起こした。お茶を飲んで、やってられないよと首を振る。
まったく、あんなところでポリスの世話になるなんて、ハジもいいところ、最悪。
帰って局長に火がつくほど怒られたし、今の休みだって実は謹慎中なのだ。
「まったく、少しはその子も懲りたのかね?」
「さあ、朝早く家を出て夜遅くに帰ってくるから、何してるかさっぱり。
ただ食欲は・・昨日なんてパンを8枚ですよ!8枚!俺は2枚だってのに、俺はあいつに骨までしゃぶられちまう。」
「ホッホッホ!そいつは噛みつかれないように気を付けないとね。
ああ、こんな時間になっちゃったよ。
悪いねえ、じゃあこれがアルバイト料だよ。
それと・・」
婆さんが、ポケットから小さな箱を取り出す。
「これを貸してあげるよ。あんたが兄弟と連絡が付くまで、何とかなるだろう。」
「え?」
恐る恐る手を出すと、ポンと手に載せてくれる。
古い古い箱だが、ビロードに金細工が綺麗で相当の価値があるように思える。
「開けてご覧。」
パカッと開いて中を覗くと、そこには大きなキラッキラ光る緑色した宝石が付いた、一体いくらする品かわからないような豪華な指輪だった。
どひえええええええ!!!
アワアワと落としそうになって、急いで蓋を閉める手が震える。
「こ、こ、こんな大層な物お借りできません!」
慌てふためくブルーをよそに、婆さんはのんびり考えている。
「ああ、そうだねえ。じゃあ、貸し賃貰おうか。あんたが返しに来た時返すよ。
それでいいだろう?」
「え?え?え?借り賃って・・」
バイト料に目が行く。これしかない。
「じゃあハイ、100ダラス。あんた持ってただろう?」
「100・・・ダラス?」
一体何考えてんだ?この婆さんは!
「それとこれ。あんたがいきなりそんな物持って金貸し行っても、盗品だと言われかねないからね、ここに行ってこの手紙を出すんだよ。ここは私の知り合いがやってるから、あんたの言い値を出してくれるだろうさ。」
受け取った手紙には、サスキアでも一番大きな質屋の名前がある。
「この本店に行くんだよ。悪いようにはしないさ。じゃあ100ダラス。」
どうしていいのかわからず、ブルーが箱と手紙を手に迷って俯く。
「でも・・」
「人の好意は素直に受ける物だ。それにあたしはそれをやるとは言っていない、貸すって言ってるんだ。
それは私の大切な指輪だからね、ちゃんと返しておくれよ。」
ブルーはポロポロと涙を流し、その場に立ち上がって深く深く頭を下げた。
こんなに人から良くして貰った事なんて無い。
こんなに・・こんなに・・・
ババアって言ってごめん、今度からお婆様とお呼びしまっす!
「ほら、あたしが電話して置いてあげるから行っておいで。落とすんじゃないよ。」
うんうんとブルーは頷き、100ダラスコインとバイト代を差し出した。
しかし婆さんはバイト代をブルーのポケットに入れ、100ダラスコインだけしか受け取ってくれない。
最後にギュッとブルーの身体を抱いて、ポンと背中を叩き早く行けと押してくれた。
ブルーはすっかり暗くなった道を、何度も何度も頭を下げながら見送ってくれる婆さんに手を振る。今はそのくらいしかできることがなかった。
「またおいで!今度は兄弟と一緒にね!」
潤む涙でかすむ婆さんは、暗い中で輝く天使のように見える。
ギュッと箱を握りしめ、ダアッと一目散に質屋を目指した。質屋はお金をカードに振り込んでくれるから、それで万事急場はしのげる。
あとは兄弟に相談すれば何とかなるだろう。
 一軒一軒が広い敷地の高級住宅街を走り抜けながら、また行ったときにはあの広い庭を草むしりかなと苦笑いが浮かぶ。
でも、あのバア様の笑い顔を思い浮かべると、今度は誰かとお礼を持っていこうかと何だか少し楽しみになってきた。

 何とか急場をしのぎ、ようやく心が落ち着いたブルーは翌日、何と昼過ぎまで眠っていた。
起きるとセピアの姿はすでに無い。
金はないのに外食か・・と、ジャケットのポケットを探ると・・がっくり。
「やっぱやられた。」
昨日貰ったバア様からのバイト料が半分無い。
舌打ちしてキッチンへ行き、食事を作るのも面倒でコーヒーを入れてぼんやり飲んでいた。
ピルルルルル・・・
けたたましい電話が鬱陶しい。
取るのも面倒臭いので、ジイッと見る。
切れろ、切れろ、切れろ、切れろ・・
ピルルルルル・・・
それでも鳴り続ける。
ならば仕方ねえ、とズルズル嫌々歩いて廊下の電話まで行って取った。
テレビ電話は部屋の中まで写るので、廊下に置くのが普通だ。まあ、画面を切るのも手だが、それも失礼なのでブルーは相手に壁だけ見せて自分は電話台の足下に座る。
どっちが失礼かわかったもんじゃない。
カチャッと取って黙っていると、「もしもし?もしもし?」と、相手の声が聞こえる。
どうやら知らない奴だ。
「・・・あんた、誰?」
ボソッと言うのも面倒臭い。
礼儀にやかましいグレイやグランドが居たら、ボコボコに殴られるだろう。
電話で何も喋らないレディよりマシと思うのだが。あいつは良く、用があっても無言電話のイタズラと間違われる。
「もしもし?リメインスさんのお宅ですか?
こちらはポリスですが。」
半分寝ていたブルーが、ガバッと飛び起きて電話にしがみついた。
まさかあいつ!銀行強盗でもやらかしたんじゃ・・
「はいっ!はいはいっ!リメインスです、間違いありません!俺はブルー・リメインスです!」
「あ、はあ、変わった名前ですな。それで、お宅の・・エー、セピア・リメインスさん?」
「はい!います!確かにうちの厄介者・・いえ、兄弟です。」
ああ、とうとうやってくれたか。どうしよう、家から犯罪者を出しちまったぜ、うう・・・
「凄いですなあ、自分で犯罪者を捕らえるとは頭が下がりますよ。」
「は?捕まえた?」
「ええ、先日被害届の出ていた詐欺の件で。
バカな奴で、サスキアに逃げてきていたところを2日前に見つけて。
一旦は見失ったのを探し回ったとかで、今日宇宙港にいたのを捕まえたんですなあ。
偉いですよ、管理局の方にも連絡は入れましたから、局長さんもみえるそうですよ。」
ぎゃああああああ!!!!
どんなにお手柄でも、今は謹慎中だぜ!
余計な世話だ!局長に報せるなああ!!
バンッと切って、慌てて部屋を飛び出した。
自分の車はどうやらセピアが乗っていったらしい、無いのでグランドのバイクを借り、ガンガン飛ばしてポリスに行く。
ポリスの玄関の自動ドアが開いたとたん、「うわああああああああんんんっっ」と、セピアのけたたましい泣き声が聞こえた。
そうっと、泣き声の方へ忍び足で行く。
「うるさいっ!!」
キーンッと聞こえる聞き慣れた怒鳴り声。
そっと覗くと、泣きじゃくるセピアの前には・・
「あら、ブルーさんは今頃起きたのかしら?
まあ、謹慎中に、昼過ぎまで寝るとはよいご身分だこと。ホホホホ・・・」
ゾオオッと背筋が凍り付く。
目が笑ってない、目が!
この世で一番恐ろしい、デリート・リー局長がピシッとシワ一つ無いスーツ姿で立っている。
さすがに早い。
この人もテレポートが出来るのかもしれんと思いながら、苦笑いでセピアのそばにスススッと寄ってゆく。
怖々立っていたポリスマンが、局長を気にしながらそうっとブルーに話しかけた。
「あの、被害金だけど、150万近くは確認できたので来月か再来月は返金できると思いますから。」
「あ、はあ、150万ですか、200万だったんですが。」
「男が豪遊したらしくて・・民事裁判に持っていけば、いくらかは帰ってくるかと。」
「よろしくお願いします。」
「ああ!それとこれ、落とした財布見つかりましたよ。ここにサインお願いします。」
「ああ!よかったあ!」
カキカキ、サインして受け取っていると、更に局長の視線が突き刺さる。
「ホホホ!誰かしら、謹慎中に財布を落とすなんて。たるんでる証拠よっ!!」
びくーんっ!
ああ、オシッコが出そう。
「す、すいません。」
ぺこりと、何だか昨日から頭を下げっぱなしだ。しかしまあ、見つかって良かったし、いくらかは戻ってくるならもっと良かった。
「セピア、じゃあ一応取り調べと手続きは済んだのね。」
「うぇっく、うぇっく、ずびばせーん。」
コクンと頷き、ジュルジュルと流す鼻水を横からブルーがティッシュでチンとふき取る。
「もう、ブルーはいい加減に甘やかすのはお止めなさい。もう21なのよ。」
「ハア、わかってはいるんですけど。」
ブルーの煮え切らない返事に、局長が肩を落とす。
でも、だからどうこうと、関係ない事のせいにする人ではない。
「帰るわよ!」
そしてポリスマンに会釈して、玄関に向かった。
ぞろぞろと、何だか怖い母ちゃんに連れられた悪ガキみたいだ。
外へ出ると、気が付かなかったが局長の真っ黒いスポーツカーが停まっている。
バカッとガルウィングのドアを開けて車に乗り、チャッとサングラスを掛けて革の手袋をする。そしてこそこそと車とバイクへ向かう二人に窓を開けて、思いっ切り叫んだ。
「ブルー!母の指輪、流したら北極へ派遣するからね!」
ウオンウオン!キキキュキュキュ!!
ブヲオオオオォォォ・・・
呆然と見送るブルーは、魂が抜けている。
ヒュオオオオ・・・
吹きすさぶ風にへろへろと吹き飛ばされかけて、セピアが慌てて支えた。
「どしたの?ブルー。」
もう死にそう。
まさかあのバア様が・・局長の・・母・・

 その後、ブルーが連絡の付いたグランドに泡食って訳を話し、レディアスの口座から金を借りて、転がるように指輪を取り戻しに行ったのは言うまでもない。
指輪を返しに行ったセピアは、残り3日の謹慎中をバア様の家に泊まることになり、帰ってきた時はすっかり憔悴してゲッソリとやつれていた。
まったく恐ろしい親子だが、セピアには毒をもって毒を制すと言ったところか。
 それから数ヶ月はセピアも買い物から遠ざかっている。
しかし、いつまた大きな反動が来るかと考えると、ブルーもビクビクしながら過ごして気が抜けない。
あれから毎月のように、家にいる誰かが草取りに招集され、兄弟ではあの家を、みんな「リー収容所」と言って未だ恐れていた。
 ピルルルルル・・・
電話が鳴ると、条件反射か身体がビクッと飛び上がる。
『もしもし?もしもし?庭の草が茫々生えてきてるよ!気が利かないねえ!
そろそろいかがですか?ぐらい、電話をかけてきたらどうだい?弱い年寄りはいたわるもんだよ!』
せっかくの非番なのに、やっぱり来た。
「はあ、」
『ハアじゃないよ!さっさとおいで!』
ブツン、プープープー・・・
誰が年寄りは弱いと決めたのか、文句の一つも言いたくなる。
「なあにい?どこから?」
「いや、知ってる奴。」
「ふうん、ブルーさあ、買い物・・じゃなくて、何か見に行こうよう。見るだけ、ねえ?」
「うーん・・・良し、俺がいい所に連れてってやるよ。」
「きゃあん!やったあ!」
ルンルンと、彼女がお洒落に精を出す。
まあ、婆さんは憎めないし、庭は広くて気持ちいいし、お茶くらいは出してくれるし、いい所じゃ無いとも言えないと思う。
どんなに怒るか知らないが、それでもまあいいかと今日もタオル片手に、リー収容所へと出かけるのだった。