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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

クラウンテディ

千絵の独身仲間の美子が、突然の結婚宣言。
1人孤独感にショックを受けて、素直に祝福できない千絵。
ぶらりと買い物に出た彼女が出会ったのは、クマのような男が店主のテディベアの店でした。

 「金曜にカンパーイ!」
ガチャン!
中ジョッキをガンとブチ当てて、ガーッと生ビールを飲み干す。
キンキンに冷えたビールが、乾いた身体にスウッと染み渡り、スカーッと爽快感が脳味噌を満たす。
「あーっ!最高!明日は休みだしチョー幸せ!」
泡髭つけた美子が、目を閉じて余韻を楽しんでいる。
「ん、やっぱこれだね!私も美子と来たっきりだから一月ぶりかな。美子は休みが土日って訳じゃないから、なかなか一緒にならないもんね。サービス業って大変ね。」
千絵も頷きながら、べろりと口の周りを舐めた。
「まあね、ホテルには休みは関係ないから。
事務方はまあ、休める方よ。」
「へいっ!お待たせ!焼き鳥に揚げ出し、シュウマイ上がり!」
カウンターの向こうから、親父さんが威勢良く皿を差し出して並べる。
ここは言わずと知れた焼鳥屋「修繕」。
変な名前に小さな店だが、結構繁盛しているので早めに来ないとカウンターはすぐに埋まってしまう。
まあ、テーブルも四つあるし奥には座敷もあるのだが、やっぱり焼鳥屋はカウンターだ。
テーブルに行くと、注文分焼いてから持ってくるのが常だが、ここカウンターでは焼けたらその都度皿に載せてくれる。
焼きたての美味さと言ったら、これがカリッとフワッとジュワジュワッと何とも言えない。
美子が皮をさっそく口に運び、ムグムグと噛みしめる。
サクサクぷよぷよ、噛みしめるほどに味が出て美味しい!
「皮って、この鳥肌が苦手だったけど、ここに来たら止まらないわねえ。んまい!」
「あんた皮だけは食べず嫌いだったよね。」
まずはつくねを食べていた千絵も、次は何を食べようか迷っていた。
「当たり前さね!うちはいい鳥使ってるからね!皮はコラーゲンもたっぷりだ!
皮食べてもっと美人になってくんな!」
親父さんが、汗をふきふき焼き鳥を焼きながらニヤリと笑う。
二人はここの常連なのだ。
別に名前を知られているほどではないが、すでに顔見知りではある。
二人は高校からの親友で、こうして上京してからもそれぞれ別の職場に通いながら、時々会って食べるのが楽しみの一つだ。
美子はチェーンホテルの事務、千絵は小さな下請けの土建業の事務と同じ事務業だけに話も弾む。
嫌な上司に、下品な男共の話し。
お互い彼氏も居ないので、たまに千絵は美子の部屋に遊びに行ったりして、寂しい一人暮らしではあるがそれなりに楽しく独身をエンジョイしていた。
「ああ、もうすぐ夏のボーナスね。
楽しみだわあ!不況ではあるけど、無いって事はないだろうし、普段が安いんだから有って当たり前よね。」
美子がそう言ってグウッとジョッキを飲み干し、頬をほんのり赤く染めてお代わりを頼んでいる。
「そうねえ、でもうちの会社は業績悪いから安心できないわ。早々他に鞍替えも出来ないし、どうした物かしらね。」
「あら、じゃあいい人見つければいいじゃない。」
千絵の沈んだ声に、美子が待っていたように身を乗り出す。
その対照的なウキウキした様子に、千絵はふと嫌な予感が走り思わず顔を背けて笑った。
「やあねえ、自分だっていないクセに、良く言えたわね。
でもさあ、もう三十の大台に乗っちゃったし、何だか毎日仕事に追われて男作る暇がなかったわねえ。
大体今時の男って、フラフラして何だか頼りにならないのよ。土建業だってフリーターが多いからさ、見ているとすぐに仕事辞めちゃう奴バッカだし、あの業界でいい男って期待するのが無理よねえ。
それにさあ、おやっと思った奴にはほとんどすでに彼女がいるんだもん、みんな目ざといわ。
でもさ、私はね、仕事と結婚は別よ。結婚するから仕事を辞めるなんて、今時遅れてるわ。」
「んふふ、そうねえ・・」
意味ありげに俯いて、美子がブランド物のバックからハンカチを取り出す。
千絵は小さく首を振り、そのバックを横からつまんで取り上げた。
「こんな物にお金かける気が知れないわ。
私のを見てよ、バーゲンで千五百円よ。
あんまり変わらないじゃない?」
「返して頂戴よ。
これの価値がわからないなんて、誰が遅れてるやら。千五百円とは全然違います!
もう!これだけは話が合わないのよねえ。」
「あら、悪かったわね。貧乏人のひがみよ。」
「まあ、そう言わないでさ、よく見なよ。
なかなか出来がいいし、これって一生物よ。
あなたもお財布くらいなら買えばいいじゃない。三、四万も出せば買えるわよ。
ほら、あたしの見てご覧なさいよ、飽きないし壊れても修理して貰えるから、かえって経済的よ。」
バックからブランドのマークが付いたかっちりとした財布を取り出し、千絵に差し出してくる。千絵はいらないと手で遮って、ジョッキを飲み干しお代わりを頼んだ。
「馬鹿ねえ、財布が三万でも中がほとんど空ならお笑いじゃない。見栄なんて必要ないわ。
服だって、収入相応の物着て、それで十分よ。」
嫌味に聞こえたかも知れない。
美子は今日、食事に多少着飾ったのか、ブランド物のTシャツを着ている。
決して派手ではないが、ホテルに勤めているせいか、美子のファッションは洗練されて上品だ。
バブルの頃、引く手あまたの都会に一緒に上京したときには変わらなかったのに、職場環境で二人には大きく差が付いてきたように思う。
土建業で汗臭く、荒っぽい男達に囲まれている千絵は、ファッションも雑誌を真似るので精一杯だ。
しかも最近は生活に余裕がないので、安い服を時々しか買えない。
持っている物を使い回すテクニックは長けてきたが、洋服ダンスには古い服ばかりだ。
「バブルの頃はさ、随分お給料も色つけてくれたのに、今じゃいつリストラされるか冷や冷やして馬鹿みたい。
まともな服なんて、田舎にも帰らずに、正月に夜から並んで初売りで買った福袋が最後よ。貧乏ってやあねえ。」
「だからさ、いい男早く見つけなよ。
仕事辞めたくないならさ、それを副収入に出来たら随分気が楽になるじゃない。」
揚げ出し豆腐をつまみながら、美子がニヤリと口端を上げる。
千絵は募る不安に、思い切って美子に切り出した。
「ね、あんた焼けに今日は私に彼を見つけろってしつこいわね。まさかあんた・・」
フッと、一息ついて美子が千絵を向く。
にっこり、幸せそうなその微笑みは、まるで勝ち誇っているように見えた。
「実はね・・結婚するんだ。」
「え・・・?」
「ごめんね、実はさ、最近付き合い始めた彼が転勤になるんだ。それで、思い切って結婚して・・・付いて行くの。」
ドガーーーーンンッッ!!!
千絵の頭に、雷が落ちた。
ついでに手から焼き鳥がポロリと落ちる。
ポカーンと開けた口は、たった今飲んだビールが一気に蒸発してカラカラに渇いていった。
 「修一っ!修ちゃんっ!ちゃんと帽子被って遊びに行くんだよ!」
バターン!ガタガタ!
「キャアア!キャハハハハ!はーいっ!」
「ほらっ!静かになさいっ!」
ドタドタ!ガタンッ!
「お母ちゃん、行ってくるねー!」
バタバタバタ!バターンッ!
 子供の忙しい足音に、勢い良くドアを閉める音、そして何をしているのやらドーンドーンと隣の人が薄い壁にぶつかる音がする。
沿線の住人も、こんなにやかましくはないだろう。しかしいつもの騒音が目覚ましになって、重い瞼を徐々に開く。
暑い。
扇風機が、低い唸りをあげてパタパタ回り、ぬるい風をそよそよ送る。
枕元のタオルで、額と胸元の汗を拭いた。
クーラー・・欲しいなあ・・
ぼんやりした頭で、うつらうつらと考える。
しかし、クーラーをつけると部屋のアンペア数も上げなければならない。そうすれば、自動的に電気代も上がる。
だから千絵は、涼しさを求めてクーラー完備の美子の部屋に泊まりに行っていたのだ。
狭い四畳半の天井が恨めしい。
千絵の部屋は、古いアパートの二階。
この部屋の隣りには玄関、そしてキッチンと、トイレが一緒になった古くて狭いユニットバスがひしめき合っている。
薄い壁とベコベコする床を除けば、破格の家賃で風呂とトイレが部屋にあるのは好条件だ。
お隣は、家族三人でこれと同じなんだからなかなか力強く生きている。
文字通り狭い部屋で片寄せ合って、だ。
今時のバラバラ家族より、かえって楽しいかも知れない。
薄いカーテンから穏やかな光が漏れて、時々そのカーテンが隙間風にフワリと舞い上がる。
サッシなのに、窓枠が腐っている為にいくらか歪んできちんと閉まらないのだ。
大家に何度か言ったけど、なかなか直して貰えない。
雨も降り込むけど、一応鍵はかかるし何とか許容範囲だ。
まあその内、公団住宅が当たればいいな・・
どんなに古くて安いところでも、お役所の息がかかっていればここよりマシだろう。
「さて・・と・・起きるかなあ・・」
枕元の時計を探り当てた。
「ちぇっ!三時?なんだ止まってるじゃない。
そうだ、最近時々止まるんで買いに行こうと思っていたんだ。」
隣の家族がうるさいから寝坊することはない。
だからつい買いそびれていたけど、いちいち携帯電話見るのも面倒だな・・
バックを取り、中からゴソゴソと携帯を取り出す。 
「何だ、十時かあ。あーあ、もっと寝てようかなあ、休みだし。」
窓を開けて布団にぺたんと座り、見るからに安物のバックをまじまじと眺める。
ブランド物か・・
「美子のバック、ステキだったな・・」
財布を取り出し、中を開いた。
昨日飲んだから、少し減って二万七千円と小銭が入っている。
千絵にとってはちょっと大金。
ようやく満期が来た積立貯金の一部だ。
あんな話しがなければ、美子に日帰り旅行に行こうと話を持ちかけるつもりだったのだ。
あんな話し・・
『結婚するんだ』
美子の幸せそうな顔に、思わず頭が真っ白になった。
親友なのに、彼がいるなんて全然知らなかった。
バックを抱いて、ゴロンとまた布団に横になる。目に何故か、うっすらと涙が浮かんだ。
どおりで最近、綺麗なはずよ!
だって、恋をしていたんだもの!
ブランド物とか、最近派手になったなって思ってたけど、あたしとは給料が違うもん。
だってだって・・
部屋だって、1DKのマンションだもん。
クーラー付いてたもん。
お風呂とトイレが別だもん。
システムキッチンだもん。
再生紙じゃなくって、パルプ百パーセントのトイレットペーパーだもん。
だってだって、洋服もいいの着てたもん!
目に浮かんだ涙が、表面張力も限界に来たのかポロリと流れる。
くやしい!こんなに悔しいなんて、思いもしなかったけど、やっぱり悔しい!
「ううう・・・うう・・・ひっく・・」
神様の意地悪!
美子と千絵、スタートラインは一緒だったのに、勤めた職場で差が付いてしまった。
給料もいい上に、彼まで!
『相手は違うホテルなんだけど、仕方ないから彼のホテルで披露宴するのよ。
知ってる?赤坂のTホテル。
だから私の職場の人呼びにくくって。』
美子が困った顔をして綺麗なハンカチで口元を隠す。
呆然としている千絵を、笑っているのかも知れない。千絵は美子の行動一つ一つが悪意に満ちているように見える。
千絵は何とか自分を装いながら、引きつった口元でパッと喜んで見せた。
『おめでとう!凄いじゃない!何だ、彼がいたのなら教えてくれてもいいじゃない!
馬鹿ねえ、おめでたい話しなんだから、人がどう思うとか考えなくてもいいわよ。
そうかあ、結婚かあ。』
Tホテルって・・老舗の一流じゃない。
何で?どうして?
神様って、こんなに不公平なわけ?
どうして美子ばかり・・
『・で・・・だから、披露宴が済んだらすぐに引っ越しなのよ。
支店のね、支配人だから栄転じゃあ有るんだけど、知り合いとかいないから・・・
それで、思い出作りと彼を紹介ついでに、来週の日曜にドライブはどう?
目的地は千絵が好きなところでいいって、彼が言うんだけど、遊園地でも何でも・・』
千絵が鬱々と考えている間にも、酔っているのか恥ずかしいのか知らないが、美子はほんのり赤い顔で一人で喋っている。
『ね、どう?』
・・って、どう?もないもんだ。
人のデートに、寂しく後ろから一人で付いて行くなんてまっぴらごめん。冗談ポイ!
こいつ、馬鹿?
『ああっと、ごめん。その日、用があるんだ。悪いね。』
全然悪くない!お前が悪い!
『何だ、じゃあ都合のいい日有るかな?
私達何とか合わせるから。
千絵にはね、ちゃんと紹介しておきたいんだ。』
千絵の顔色が信号のように青から赤に変わる。
俯いてワナワナと震える手を押さえながら返事に窮していると、美子がふと顔を背けた。
『私、ね、秘密にしてた訳じゃ・・なかったんだよ。つい、言いそびれて・・』
『別に!いい話じゃない!ただ、寂しくなるから・・!』
うそ
『そうよね、急な話だもん。でも、時々会えると思うのよ。それに今は電話とか、メールとか、あんまり距離を感じないでしょ?』
『そんなに会えないわよ!お金無いもん!』悔しい!
美子の顔を見ていると、憎々しくて飛びかかってガリガリ引っ掻いてやりたくなる。
しかし何故か千絵の心は次に、体裁を繕うのか引きつった笑いを浮かべ、懸命に平常心を引き寄せる。
そして誤魔化すために、何か違う話題に持ってゆこうと画策していた。
『あ、そうだ、私今度旅行を計画してるんだ。
だから暫く会えないと思うわ。
やっと貯金に満期が来たのよ、だから少しリッチに計画立ててんの。』
『あら!本当?どこに行くの?』
ドキッ!
『え!えーっと、ヨーロッパかハワイかな?』
うそうそ!
『あら!じゃあ、パスポートとか急いで取らなくちゃ!私もハネムーンにフランスへ行くのよ!
彼はオーストラリアって言うんだけど、私はフランスの田舎までじっくり回りたいから。
そしたらね、彼ったらいいワインを見つけるのにいいなですって!本当仕事人間なんだから!先が思いやられるわ。』
ドカッ!ドカッドカッドカッ!
枕を思い切り両手で叩いた。
クソーむかつく!
「私、おフランスへ行くの。」
シナを作ってにっこり。
「ケッ!何だよ、人の気持ちも知らないでさっ!誰に外国なんて行く余裕あるかっての!」
とてもじゃないが、日帰りバス旅行なんて、貧乏くさい話し言えなかった。
「先が思いやられるわ!オホホホ!
あーっ!くそっ!昨日は飯がまずかった!
そんなリッチなら、飯くらいおごれってのっ!」
フンッと起きだし、リッチにシャワーを浴びてパンを焼く。
朝のシャワーは贅沢だけど、さっぱりすっきり気持ちいい。胸のモヤモヤをほんの少し洗い流して洗い晒しのTシャツに短パンをはくと、アイスコーヒーに氷を浮かべ、マーガリンをたっぷり塗ったきつね色の食パンにかぶりついた。
カランカラン
コップの中で、氷が涼しそう。
箸を一本取って、ガラガラと混ぜ合わせる。
じんわりコップが汗をかき、よく冷えてるよ!美味しいよ!とサインを送る。
サクサクと、食パンの耳を先にかじり取り、じっくりマーガリンの染み渡った内側を食べた。
「そう言えば、どうして食パンの焦げた所って耳って言うんだろう?変なの。」
テレビもつけずにシンとした部屋の中、隣のテレビの音が漏れてくる。
遠くからは、救急車のサイレンが風に乗って誰かの不運を伝える。
ヒュウウ・・
いい風が部屋を吹き抜け、飾っていたバラの造花がコトンと倒れた。
「あ、」
ほんの少し窓を閉めて、花瓶を起こす。
よく見ると、造花のバラは日に向いている方が随分色あせてピンクが白っぽい。
「なあんだ、これも買い時かあ。
いつもそうよね、貯金の二年満期が来ると、何でも買い替え時なの。馬鹿にしてる。」
コンと、壊れた目覚ましが足に当たった。
そうか、これも引退なんだ。
買ったときにはお気に入りだったバックも財布も、昨夜からやけに色あせて見える。
「ヨシッ!今日は買い物に行って、パーッと使おう!予算二万五千円!パーッと!」
あんまりパッとした額でもないが、家で鬱々としているよりもいい。
「何か美味しいランチ食べて、たまには服を買うのもいいわ。そんで目覚まし買って、百円屋さんで造花を買って、パーッとやるぞ!」
グズグズしていられない。
明後日の月曜日には、また明るい顔で出社しないと愛想が悪いと言われかねない。
会社には、自分の他に女性は三人。
もう一人、事務のおばさんと後は現場に出るアルバイトの女の子だ。
高卒で就職した千絵は、図らずも一番長い。
しかし値上がりを続けていた給料も、この不況を理由にかなりカットされてしまった。
リストラを目の前にぶら下げられては文句も言えないが、今の若い子は給料をカットされたり、ちょっと怒られるとすぐに辞めてしまう。
不況で人の出入りが激しい事もあって、親友何て出来る暇がない。
美子と時々会う一時は、そんな千絵のオアシスだったのだ。もちろん、美子もそうだと思いこんでいた自分の思いこみが恥ずかしい。
美子にとって自分は、沢山の友人の中の一人だったのに、何て思い上がりだろう。
親友って、一体何・・?
心から理解し合える友達?
でも、自分がそう思っていても、相手がそう思っているかはわからない。
自分がそれ程価値のある人間にも思えない。
心がどんどんしぼんでゆく。
千絵は小さな手鏡を握って、写り込んだ自分の顔に酷く落胆した。
 「お似合いですよー、それに合わせてこちらもいかがですかー。」
派手な店員が、鏡で合わせていると横からちょっと地味な服を差し出してくる。
もの凄く趣味じゃない。
無表情な店員の顔が、目を合わせるといきなりにこっと営業スマイル。
「これ、趣味じゃないんだけど。
シャツがほら、綺麗な黄色でしょ、何かもっと冴えるやつない?」
店員のにこっが、くすっに変わった。
ような気がする。
初めて来た店だが、やっぱり自分には若すぎたか?
目覚ましを買った後、フラフラと人気のある複合ビルを回遊していると、この店先に飾ってあるシャツに派手さを押さえた上品な可愛さがあって、凄く目を引いた。
初めて入る店は緊張するが、値札を見ると買えない金額じゃない。店員は派手だが、他にも客がいて集中砲火を浴びなくても良さそうなのでそうっと入ったのだ。
しかし、やっぱり手に取ったこのシャツ、デザインも可愛い系で私には若すぎるかも知れない。でも気持ちが沈んでいるせいか、やたら派手な服に目が行く。
サッサッとスカートを探っていた店員が、今度は凄く派手なスカートを持ってきた。
デニムが複雑にカットしてあり、フリンジや刺繍が凝っている。
合わせると、凄く洒落ている。
「秋物なんですけどー、デニムだから季節関係ないんでー、今から楽しめますよー。 
年齢も気にならないですしー。
お似合いですよー、いかがですかー。」
年年って、一々うるさいわね!
店員は気に入らないが、しかし合わせると凄くステキだ。欲しい!
「ちょっと着てみるわ。」
「どーぞー、こちらフィッティングルームになっておりますー。」
壁の一枚がカチャンと開き、成る程カーテンで区切られた部屋が三つ並んでいる。
千絵はその一つに入り服を掛けると、まずは気になっていた値札を見た。
シャツは・・八千五百。よし。
えーっと、スカートは・・
ガーンッ!
二日連続のガーンッ!
やっぱり洒落ているはず、三万四千円もする。
何て店員!私のこの格好を見て、エンゲル係数の高さがわかんないのかしら!
どうせ買えないだろうって、馬鹿にしているのよきっと!何奴もこいつも馬鹿にしてるう!
しかし・・
ウインドウを見て歩いた後、こうして鏡を見ると、千絵の格好はどう見ても安っぽい。
数年前に流行った安い衣料量販店のノースリーブのシャツに、ストレッチジーンズ。
サンダルはかかとがすり減ってるし、その上このバッグよ!
もう!腹が立つから試着だけしてみよう。
 さらりと脱いで、いそいそ着込んだ。
「あらっ!やっぱりいいわあ・・」
さすがいい物を着ると五才は若返る。
鏡の前でクルクル回っていると、あの店員がやってきた。カーテンの向こうから、ひっそり声をかけてくる。
「いかがですかー、サイズはよろしかったでしょうかー。」
「え、ええ、でもちょっと予算オーバーだわ。」
千絵がカーテンから顔を覗かせる。
店員はにっこり営業スマイルで、大げさに声を上げた。
「わあ!すっごくお似合いですうー!お客様にピッタリー!お若いし、スラリとしていらっしゃるからー!全然似合いますうー!」
何だか凄い嫌味に聞こえる。
誰がスラリですって!何よ!全然似合うって!
最近の子って、ほんと言葉が変なんだから!
「もういいわ、脱ぐからカーテン閉めて。」
千絵の曇った声に、店員がだめ押しする。
この駆け引きがちょっと緊張で千絵は苦手だ。
「お支払いでしたらカードも使えますよー。
そのスカートは残り一点の人気商品ですからー、今じゃないと手に入りませんー。お似合いですのに、もったいないわあー。
是非お勧めしますうー。」
その言葉に、ジーンズのファスナーを上げる手が、ピタッと止まった。
一点、これ一点・・
ぬぬ・・今買わないともう手に入らない・・
バーゲン以外で買うのは久しぶりだからもったいないけど、先取りって言うのはやっぱりバーゲンにない良さがある。
カードで・・買っちゃおうか・・
でも、もし結婚式に呼ばれたら・・
お祝いに二万か三万、包まないと・・
『結婚するの』
憎々しい美子の顔が思い浮かぶ。
フンッ!何よ!
「これ、頂くわ!カード使えるでしょ!
えーと、六回払いね。」
「有り難うございますうー!ではお包みしますのでー、こちらにどうぞー。」
服を着た千絵から商品を受け取り、店員がうやうやしく先を行く。
レジに行くと、店員が手際よくシャツとスカートをたたんで薄い紙に綺麗に包み始めた。
それに見とれていると、横から別の店員が電卓を差し出した。
「合計こちらになります。お支払いはカードになさいますか?」
「あ、ええ、六回でお願いね。」
慌てて財布を取り出し、サッとカードを渡す。
高い買い物だったけど、たまにはいいわ。
気分がすっきりしたもん。
フッと一息ついて店を見回していると、他の店員もうやうやしく頭を下げる。千絵は女王様の気分で鼻歌を小さく歌い出した。
「あの、お客様、こちらのカードですが・・」
カードを受け取った店員が、困った表情でカードを差し出す。
「え?何か?」
「あの、申し訳ございませんが期限が切れておりますのでご使用できません。
新しいカードは届いておりませんでしょうか?」
「ええっ!」
慌ててカードを覗くと、確かに先月で切れている。そうだ!書留を取りに行くのを忘れていた!昼間いないから、不在通知が入っていたのを忘れてた!
ど、どうしよう!四万五千円なんて持ち合わせが・・
スカートとシャツはすでに梱包も済んで、洒落た大きな手提げ袋に入れて綺麗なシールで封がしてある。
店員の顔から愛想のいい営業スマイルが消えて、”おいおい、冗談じゃないよ!”と呆れた声が聞こえるようだ。
千絵は全身がカアーッと恥ずかしさで燃えあがり、次いでサアーッと血が引くような感覚に襲われ、呆然と立ちつくしてしまった。
どうしてよ!こんな不幸あり?
千絵の顔は赤くなったり青くなったり、頭もぐるぐる考えが巡ってまとまらない。
「いかがされますか?持ち合わせが不足でしたら、お取り置きでも構いませんが・・」
取り置きですって?恥ずかしい!きっと笑い者よ!二度と来たくない!
「あの、あの、ごめんなさい!せっかく包んで貰ったのに!ごめんなさい!また来ます!」
店員からカードをひったくり、一目散で店を飛び出した。
 複合ビルを後にした千絵は、真っ暗な気持ちでフラフラ歩いていた。
もう、恥ずかしくてあの店に行けない。
行きたくない。
がっくり肩を落とし、バックを覗き込む。
セールで買った安物の目覚ましが、財布やポーチに挟まれて苦しそうにしている。
洒落た店が沢山並んでいたけれど、やっぱり安い物を選ぶとデザインも冷めている。
「ああ・・シャツだけでも買えば良かったかな・・」
でも、すでに気持ちも冷めてしまって、何だか洋服なんか欲しくない。
つくづくついてない日だ。
もう、ランチ食べて帰ろう。
腕時計を見ると、一時だ。少し遅いが丁度いい時間。
どこかいい店はないか、考えた千絵は最近評判のレストランを目指して大股で歩き出した。
どうせならうんと美味しいところがいい。
少し離れてはいるけど、さほど時間はかからない。
すたすた急いで歩く。ランチは確か二時まで。休日で多い通行人を次々と追い越しながら、息を切らせて何とかたどり着いた。行列も無いようだし、ラッキーだ。
「ふうっ!やった!空いてるじゃん!」
小走りでドアの前に進み、小さなドアのノブに手を伸ばしかけて、はたと張り紙に気が付いた。
【本日貸し切り】
ガーンッ!
一体何度目のガーンだろう。
どこの何奴よ!こんな事するのは!
中を覗くと若い子がわいわいパーティをやっている。昼間っから何て幸せな連中だろう。
こうして延々歩いてきた私は馬鹿みたいだ。
くそー、
もうどこでもいい、腹減った!
周りを見回し、レストランを探す。
しかし、見たところ有るのは喫茶店ばかりだ。
軽食なんか、食べたくない!私はちゃんとご飯が食べたいの!
ぶらぶらキョロキョロ歩き出す。
しかし、やっぱり休日にランチの時間はどこも人が溢れている。
疲れた、足が痛い。
こんな事ならパンでも買って家に帰れば良かった。
歩みを停め、道行く人にぶつかられながら立ちつくす。
ふと、横を見ると細い路地がある。
こんなに表通りは人が多いのに、ちょいと横に入れば誰も通っていない。
千絵は何となくふらりと横道にそれ、ゆらゆら歩き出した。

 表通りは綺麗なのに、裏に回れば随分古い家ばかりだ。建ち並ぶビルの狭間で、個人の家はひっそりと無言で歴史を刻んでいる。
「ふうん・・」
民家が数件並んで、店らしい店が見あたらない。
なあんだ、無駄足か。
がっかり、
それでもどこか懐かしさを感じて、千絵は俯き加減でぶらぶら歩き、回り込んで表通りに出ようと角を曲がった。
引き返すのはもったいない。
ふと顔を上げると、塀の上では猫が寝そべっている。
のんびりしてる。可愛いの・・ん?
そこで何だか、視線を感じて立ち止まった。
猫・・じゃないよね。
ぐるりと見回すと、猫に気を取られて向かいの店に気が付かなかったらしく、普通の民家のような小さな縫いぐるみの店がある。
小さな出窓のレースのカーテンの奥から、沢山の人形や縫いぐるみが外を覗いている。
「何だ、こいつ等か。」
じっと見ていると、いきなりその奥から三十代くらいのボサボサ頭にひげ面の男性が、ヌッと顔を出して千絵と目が合ってしまった。
ドキッ!
そこで目をそらすのも失礼だろうかと、糖分の足りない脳味噌が慌てて考える。
考えている内に、この可愛い店に似つかわしくない相手のひげ面の男性は、千絵に愛想良くにっこり笑いかけた。
思わず仕事上の条件反射かにっこり笑い返す。
千絵はしかし、こういう人形や縫いぐるみにほとんど興味がない。だから部屋にも、旅行の土産に貰った小さな土人形が一体あるだけだ。よって、そのまま何とか目をそらして通り過ぎると、風に乗って近くからいい匂いが漂ってきた。
見ると向かいの一軒先に、古びた小さな食堂がある。
『ちょっと屋』だって!変な名前!
入り口には、可愛く、表に小さな黒板をイーゼルで立てた看板が立っていた。
【お昼ご飯おすすめ、八百円均一
    ぷるぷるオムレツ定食、
    つくねダンゴ三兄弟定食、
    男泣かせの肉じゃが定食、他・・・】
プッ!
何?このメニューは!変なの!
八百円か、まあいいや。
年季の入った木のドアをそうっと押すと、カランとベルが鳴る。
意外なことにカウンターに二人と、三つの小さなテーブルは窓際の一つを残して客がいる。
あら、流行ってるのかしら、こんな所で。
千絵は空いている窓際の席に座ると、置いてある小さなメニューを取った。
飲み物を別にして、メニューは外の看板と同じだ。
「いらっしゃい。」
コックさん姿のスラリとした背の低い、年輩の真っ白な髪のおじさんが、水をコトンと置いた。
へえ、ここって、一人でやってるんだ。
味は期待できないけど、ぷるぷるに心引かれる。
「オムレツ下さい。」
「はい、ぷるぷるオムレツ定食ね。コーヒー紅茶どちらがいいですか?」
「えと、コーヒーで。」
にっこり、軽く頭を下げて奥へと消える。
ふう、やっと食事にありつける。
千絵はパンパンになった足が辛くて、人目を気にしながら靴を脱いで足の指でグーチョキパーをした。
今日はとことん付いてなかったなあ・・
外を何となく眺めると、さっきの店が目にはいる。
じいっと見てると、出窓に並んでいるクマの内、淡いピンク色した三角帽子のクマが、ころんと横に転がった。
あんな物に、お金出すなんて馬鹿みたい。
一体いくら位するんだろう。
それにしても、あの髭面まさか店員?
異常に似合わないわねえ。変態。
客の一組が食事が終わったのか、レジの前に立った。しかし、他に誰も見あたらない。
「親父さん、お金置いとくよ!」
「おうっ!釣りは?」
「丁度!じゃ!ごちそうさま!」
物騒にも客はポンとお金を置いて出てゆく。
奥からは、どうやらオムレツを焼いているらしい、フライパンで卵が踊っている音がする。
盗まれたりしないのか、心配でチラチラ見ていると、他の客も同じようにポンポン置いて帰ってしまった。
呆気にとられて見ていると、おじさんがようやくトレイを持ってやって来る。
ホッとしてにっこり微笑んだ。
「お待たせしました、ぷるぷるオムレツです。
どうぞごゆっくり。」
トンとトレイを置くと、振動で大きなオムレツがプルルンと揺れる。
キノコたっぷりのデミグラスソースが、甘酸っぱい匂いをさせて鼻をくすぐった。
「コーヒーは今持ってきますか?後で?」
「あ、えと、今でいいです。」
何だか手を掛けるのが気の毒だ。おじさんはお金を後回しにカウンターでコーヒーを入れると、先に持ってきてくれた。
何てのんびりした人だろう、こんな世の中で信じられない。
「あの・・お金、心配ですね。」
思わず小さな声が出てしまった。
おじさんは穏やかに笑って、ああ!とお金の散らばったレジのカウンターを見て笑う。
「あいつ等は常連なんで、一人の時はつい甘えちゃってね。まあ、ごっそりやられた時はがっかりしたけど、人間悪い奴ばかりじゃないだろうから、そう何度もないさね。」
「はあ、」
やっぱり変な人だ。
八百円の割に添えてある野菜に負けないボリュームのあるオムレツ。それに小さなカップに入った黄金色のコンソメスープと、デザートだろう、ピンク色のムースまで付いている。
「ムースはね、スイカのムースだよ。」
「へえ!」
ご飯を先に一口食べてみる。
うん、美味しい。
オムレツは、ナイフを入れるとトロトロッと半熟の卵が形を崩す。
うん!デミグラスソースはトマトが利いて、さらっとしてさっぱりと、味も最高!
凄い!こんな変な所で大当たりだ!
ああ、我慢して良かった!満足、満足!
こんなに美味しいなら今度は美子と・・
「・・・・・」
ああ!もう!何であいつなんか誘うのよ!
知らないっ!
嫌なことは忘れて、気分よく食べてコーヒーを一口。
顔を上げるとまたあのクマたちが目に入った。
あの髭面さんが、さっき倒れた三角帽子のクマを起こしている。
コロン、コロン、
何度起こしても倒れるので、髭面さんが首を傾げて窓の外を見回した。
思わずまた目があって、にっこり笑い合う。
何だか馬鹿みたい。
髭男は、困った風な顔で三角帽子のクマを見ると、とうとう店内に引っ込めてしまった。
あら、あれは可愛いと思うけど。
ちょっと残念に思いながら、スイカのムースをスプーンですくう。
何故か、あのクマ見ていると、どこか懐かしい気が遠くからやってくる。
どうしてだろう・・
あんな縫いぐるみなんて・・
あれ?違うわ、私・・小さい頃は縫いぐるみ大好きだった。
そうよ、大好きだったけど、なかなか買って貰えなくて、嫌いなフリして目をそらしていたんだわ。
可愛い縫いぐるみが、欲しくて欲しくて。
でも、お母さんはいつもお金が無い、今月も足りない、赤字だってお父さんに愚痴ばかりこぼして、お父さんはゴルフだ釣りだってほとんど家にいてくれなくて。
買ってって、
なかなか言い出せなかった。
だから嫌いになろうとして、次第に興味を失って・・それが当たり前になっちゃった。
好きな物から目をそらすのがクセになったのかしら?
千絵の頭には、顔を会わせれば口喧嘩の絶えなかった、父母の若い頃の姿が思い浮かぶ。
父は自分の好きなことばかりして、母は家事と仕事に追われていつも不機嫌で。
よくまあ、あれだけ仲の悪かった夫婦が別れなかったものよねえ。今じゃ二人とも丸くなっちゃって、年金生活でエンジョイしてる。
勝手よねえ・・
いつも目の前で口喧嘩見ていた私と妹は、やっぱり結婚になかなか魅力を感じきれないで未だ独身なんて、これって被害者じゃない?
『結婚するの』
美子の幸せそうな顔が浮かぶ。
少し頭が冷えたのか、今は冷静に考えられた。
そうか、あんただって、決して結婚生活も平坦な道じゃあないかも知れないって事だね。喧嘩ばっかりして、しょっちゅう電話してくるかも知れない。知らない土地に行くんだから、寂しくて泣きついてくるかも知れないね。携帯が、メールが来たと音楽を鳴らす。
千絵は何となく重い動作でバックから取りだした。
どうせ、彼女からだ・・
ピッ!ピピッ!
『都合のいい日、出来るだけ早く教えてね。 これからも友達でいたいから、絶対会って 欲しいの。
 今まで通り、気兼ねなく会える大事な友達 でいたいから。
 メール、待ってるね。』
さらりと読んで、大きく溜息が出た。
どうしてわざわざ、休みを調整してまで会う必要があるのかわからない。
私はあんたの親でもなければ、兄弟でもないじゃない。
好きに結婚して、勝手に引っ越せばいいじゃないの。
人の気も知らないで、幸せそうな姿を見せつけたい気が知れない。
「バーカ」
千絵は”大事な友達”という言葉が空々しく感じて、そのまま携帯をバックにしまい込んだ。
返事なんか出す気はない。
放って置いて欲しい。
このまま静かに結婚式を迎えて、静かに笑って送り出す。
それ以上彼女は千絵に何を臨むのか、またぶつけようのない気持ちが次第に沸き上がる。
「フン!」
ごくごくと水を飲み干し、また靴を履いて立ち上がった。
もう、帰ろう。
レジに進むと、奥からおじさんが出てくる。
ちらと千絵が綺麗に食べ終えた皿を見て、にっこり笑った。
「美味かったかい?」
「あ、ええ、とても。」
美味かっただろう?と言わないからには、自信がないのだろうか。
千絵がくすっと吹き出しながら千円札を渡すと、おじさんははにかんだ顔でお釣りをくれた。
「どうもね、あのソースが気に入らないって常連が多くてね。手を掛けてるのに、ケチャップにしてくれなんて言いやがる。
古くさい奴らばかりで参るよ。」
「そうかなあ、わたしはあのソースが好きですよ。女性には受けると思いますけど。」
「嬉しいねえ!でも不幸なことに、うちの常連の女性陣は中年のご婦人ばかりだ。
卵はコレステロールが気になるんだとよ。」
首を振って、残念そうな顔で溜息をもらす。
しかし、これ程の味なら、表通りに看板を出せばもっと繁盛するだろうにと不思議だ。
こんな所には常連しか来ないのだろうか?
「常連って?さっきは若い男性がいらしたじゃないですか。」
するとおじさんは、ガッハッハッといきなり笑い出した。
「ありゃあ裏のアパートにいる一人者だよ。
常連は近所の奴らばかり、食う時だけ静かな女性陣はここらのババアばかりだ!
わっはっは!みんなあんたみたいに若い別嬪さんなら、腕の振るいがいもあるがな!」
「ま!私もいずれはババアですよ。」
「おや、そうか。これは失礼!また来ておくれ!」
「はい、ごちそうさまでした!」
「ああ、そうだ。」
何か思いだして、レジの周りを探し始める。
そして、あったあったと小さなピンクのカードを千絵に差し出した。
「ほら、これ、向かいの怪しい、クマ売ってる店の割引券だ。ケチケチしやがって、たった一割引きのサービスだとよ。 
向こうもしけた商売してるからな、ボランティアと思って鉛筆でも一本買ってやってくれるかい?変な奴だがいい奴なんだ。」
「へえ、」
なにげに受け取ってみると、成る程『人形とテディベアのお店、ラブベアーハウス』とある。あの髭面がぽっと浮かんで、思わず吹き出した。
 おじさんに礼を言ってドアを出る。
さて・・とラブベアーハウスの前を通りながら、何となくまた出窓に目が行った。
「あ」三角帽子のクマは、倒れないように他のしっかりしたクマに支えられて座っている。
と思ったら、千絵と目が合うなり、またパタンと倒れた。
「あら・・何だか根性のないクマねえ。」
しかし今度は髭男も気が付かないのか、起こしに来る気配がない。キョロキョロ覗き込んでも人の気配がないような気がして、少し気になってきた。
食堂のおじさんに貰ったカードを取り出して見る。
全品一割引。
しかし有効期限が残り一週間もない。
今週中にもう一回来る可能性は低い事を思い浮かべていると、何だかもったいなく思える。
ちょっと、覗いてみようかな?
別に買わなければいいんだし・・
そうっと玄関先に立ち、ノブレバーに恐る恐る手を差し出す。
新しく見えた店は、近くで見ると、古い家をリペイントしてあるだけのようだ。流行のリフォームをしてあるんだろう。
ピカピカのノブをグッと押して、キイーときしんだ音を立ててドアを開く。するとフワッと柔らかなフローラル系の香りが鼻をくすぐって、思わず微笑んでしまった。
「わ、いい香り。わあっ!凄い数のクマ!」
クマ!クマ!どこもかしこもクマばかり!
見回すと、壁一面の棚にぎっしり座るいろんな毛色のクマが色々な色の瞳をこちらに向ける。
他にはアンティーク風の人形が数体、クマに囲まれながらも存在感のある風情はお安くない様な気がする。他にはやたら可愛い雑貨が置いてあるが、色褪せている物もあってあんまり売れていないようだ。
「やっぱさあ、場所も悪いけど、店主があれじゃねえ・・」
あれとはやっぱり・・
「あ、いらっしゃい。」
あれが奥から出てきた。
近くで見ると、背が高いだけに見下ろされて更に鬱陶しい。
この可愛い少女趣味の店に、何でこんな鬱陶しい男がいるのか。もしかしたら、臨時の店番かも知れない。
何となく興味がわいて、千絵は店内を見回しにっこり笑った。
「クマばかり沢山あるんですねえ。」
「ええ、可愛いでしょう?愛らしいでしょう?
友人が作っている事もあってショップを開いたはいいけど、可愛くて可愛くて、お譲りするのが辛くって。もう、全然商売にならないんですよ、ははははは・・」
そう言って、近くのお気に入りらしい一つを取り、ギュッと胸に抱きしめている。
思わず引きつった笑いを浮かべて、千絵は一歩足を引いた。
「あ!でも、ちゃんとお売りしてますから!
どうぞお気に召したベアをお迎え下さい。
あなたならきっと大切に可愛がってくれるでしょう。」
「は、はあ。」
良く分からない会話だ。
髭男はニコニコしながらレジの向こうにストンと座る。
千絵が店内を歩き回るのを、微笑みながらじっと観察しているのが気味悪いような、気持ち悪いような・・
クマはどれも似たような物だし、奥にひときわ大切そうに飾られた、三、四十センチはある迫力のある人形に興味が引かれて、ちらっと目を走らせた。
何だか高そう。
ビスクドールかしら?西洋人形って感じじゃない、真っ白な細面で怖い感じ。
ウエーブした黒髪に沢山の髪飾りをつけて、豪華なドレスを着ている。
ン?値段は・・一十百千万・・
「えっ!うそ・・」
千八百四十万?!
「それ、綺麗でしょう?名のある人が作った、コンクールで優勝した品なんです。
売りたくないから、”嫌よ”でその値段です。
それでもバブルの頃は、欲しいって人がいて慌てましたよ。」
「へ、へえ・・」
変な店。つまり、売りたくない物には、とんでもない値段が付いているんだ。
ぐるりと回っていると、さっきの出窓があって手前に棚がしつらえてある。
あった!ころんと転がったままの三角帽子のクマさんだ!
まあ!近くで見ると、三十センチくらいか結構大きい。フワフワの毛並みは桜色して、ブルーのラインが入ったピエロみたいにフリルのような襟と、白い三角帽子についたブルーのボンボンが可愛い!
ラベルには、クラウンテディとある。
つまりピエロのテディベアらしい。
まあ、どうしたことだろう。
興味はないはずなのに何故か懐かしくて、凄く興味をそそられる。
そうっと手を伸ばし、抱え上げてみた。
「ああっ!」
突然の髭男の叫びに、千絵の身体がビクッとする。
「か、可愛いデショ?それ。ウフフフ・・」
彼が身体を乗り出し、不安そうな顔で不気味に苦笑いをしている。
どうやらこれも売りたくないらしい。
千絵は彼を無視して、そのクマをクルクルと品定めした。身体は思ったより凄く堅い。
普通の縫いぐるみとは手触りが違う。
でも、縫製も丁寧で高そうな感じだ。
ちらっと値段を見た。
彼が売りたくないなら破格の値が・・
えっ!
五万!五万五千円!
こんなただの縫いぐるみが?
冗談!とても私に買える値段じゃあないわ。
やっぱり止めたと棚に返すと、彼もホッとしている。
しかし、このクマ信じられないほど座りが悪い。しっかりしているのにどうした物か、コロンコロンとまるで千絵の気を懸命に引いているようだ。
「もう!」
仕方なくバッタリ倒したまま置くと、プイッと目をそらして雑貨を見た。
コップも文房具も間に合っている。
他のクマは、何故か色褪せて見えて興味を失うと、千絵はとうとう玄関に向かってしまった。
「ああ・・ありがとうございました。またどうぞ。」
彼ががっくり、肩を落としてレジの横に肘を突く。売りたくないけど、売れないのも困るなんて複雑な心境らしい。
千絵はノブに手を掛けると、もう一度あのクマを振り返った。
黒い瞳が、寂しそうに千絵を見送っている。
『帰っちゃうの?』
『買ってくれないの?』
なに言ってンの、あんた!私みたいな貧乏人にふざけた事言うんじゃないわよ。
五万なんて、あのボロアパートの家賃と同じじゃない。
五万出せば、さっきのスカートだって買えたのよ?何でこんな役にも立たないクマなんか、冗談じゃないわ!
買うだけ無駄よ!お金の無駄!
あんた、ご飯炊いてくれるわけ?
風呂洗ってくれないでしょ?
冗談じゃあ・・
フンッ!と一歩踏み出す。と・・
あれ?・・・あれ?踏み出す方向が違うわよ!
足が何故か、引き寄せられるようにクマに向く。まるで地引き網を引かれているのか、蜘蛛に糸をからみ取られてしまったのか、千絵は気が付くと三角帽子のクマの前に立っていた。
心臓がドキドキ、汗がじわっと流れる。
五万・・・
フッ、でも私は今日お金持って来てないし、カードも使えないのよ。
残念ね。ホホホ!あんたなんか絶対買えないんだから!無駄なあがきはよしなさい!
心の表面でそう叫びながら、その奥底では欲しい欲しいと叫びを上げている。
千絵はドッと脂汗を流しながら、欲求に懸命に抗っていた。
しかし所詮どんなに欲しくても金がないのだ。
奇跡でも起きない限り、清水の舞台から飛び降りる必要もないだろう。
千絵は高をくくって、くるりと髭男を振り返り、にこっと笑った。
「ね、今日持ち合わせがないんだけど。
このクマ、今日半分、次に来た時半分ってどう?」
一応言ってみたわよ。もう充分でしょ?
「今日・・半分ですか・・」
溜息混じりで暗い顔。
「いいですよ。」
ほーら!無理だった。ええっ!
「ちょっと!あなた!私今日初めてこの店に来たのよ?本当にいいの?」
「仕方有りません、その子はあなたを必死で呼んでるから。」
「何?それ。このクマ、いわく付き?」
「いいえ、この子は正真正銘の新品で、ここでずっとお迎えを待っていた子です。
とうとうその日が来たんですねえ・・くすん。」
何がくすんだよ、おい。
こいつ言ってることが飛んでる。
ああ!それよりも、五万よ?五万!
どうすんのよ!こんな物に五万なんて!
駄目よ!駄目よ、千絵!今なら間に合うわ!
もう一度よっく考えて!
「ねえ、本当に私持って帰っちゃうわよ。
もしかしたら払いに来ないわよ。」
目をウルウルさせて髭男が差し出す手に、千絵が恐る恐るクマを渡す。
彼はレジの後ろからかっちりした箱を取り出し、それに丁寧にクマを入れると、ポップなクマ柄の紙袋に入れて千絵にハイと差し出した。
「あのー・・」
「いいです、今日はいくら入れてくれますか?
うう・・マー君といつかはお別れだと思っていたけど、こんなに早くその日が来るなんて。
さあ!早く連れて帰ってください。
俺は・・俺はこれ以上耐えられない!」
髭男がクッと涙をのんで、千絵に背を向ける。
やってられない、売り物にマー君ってつけるなよ。
「あのー、じゃ二万ここに置いておきますよ。
一割引いてくれるんでしょ?残りは今度ね。じゃ、ほんとに持っていくわよ。いいのね。」
千絵が袋を手に、そうっとドアへ向かう。
キイイイ・・
きしんだ音を立て、千絵はとうとう外へ出ると表通りへと歩き出した。
ああ!買っちゃった・・千絵のバカバカ!
こんな高い物・・と、紙袋を見るとショックで脱力する。後々後悔しそうで、何となく足取りが重い。
変な店員だったわねえ、でも・・
「はあーあ、変な店に飲まれてとうとう買っちゃった。こんな飾り物に五万なんて、私って馬鹿。やっぱり今日は・・・・」
「おーい!マーくーん!元気でなー!
可愛がって・・うう・・貰え・・よー!」
何と、髭男が店の表に飛び出して、涙ながらに手を振っている。
「げげっ!」
振り返り硬直していると、近くの家の窓から住人が顔を出した。
「まーた健ちゃんがやってるよ。売れる度に別れを惜しんでちゃ、商売にならねえだろうによう。」
まったくだよ、その通りだよ。
何だか追ってこられそうで怖い。
千絵はぺこりとお辞儀すると、慌てて表通りの方へと歩き出した。
 「おはよう、千絵ちゃん。」
「あ、おはようございます。」
朝の体操も終わり、作業服姿の従業員はみんな現場へと出てゆく。それを見送り、事務で同僚の大場さん・・・自称愛称”おばさん”と軽く挨拶を交わして席に着いた。
悶々と過ごした休日も終わり、千絵は会社へといつものように出社して見回した。
なにも変わらない日常。
それでも美子の顔を思い出すと千絵の心は沈んで、自分の職場が色褪せて見える。
「出てきます!三時頃一度帰りますから・・」
最後まで残っていた営業の男性が、忙しく出てゆく。
いい人なんてさ、私は男探しに働いてるわけじゃないのよねえ・・
ピルルル・・・
ボウッとしている千絵をよそに、向かいのおばさんが素早く電話を取った。
「はい!大橋建設です!まあ!いつもお世話に・・はい、はい、少々お待ち下さい。」
おばさんは、あまり仕事はさばけないが電話だけは出るのが早い。話し好きな事もあって、電話に出るのが苦にならないようだ。
だから二人、必然的に大まかな仕事が別れてくる。
怪訝な顔で彼女は、電話を慣れない手つきで操作して内線に回している。千絵がこっそり身を乗り出した。
「誰?」
「ほら、白岡工業さんだよ。社長にだって、何かヒソヒソ話すんだ、変だろ?」
「ふうん。」
何となく聞き流し、計算機を手に手元にある書類を開く。
カチャカチャと、流れるような計算機さばきはすでに職人芸だろう。
桁の大きな数字を難なく計算機に入力して難しい計算をするのも、書類をパソコンで整理するのも、千絵には朝飯前のこと。
しかもミスも少なく、今まで大きな間違いをしたこともない。
数字に強いから大学にも理工系に進みたかったのに、結局受験に失敗したあげくなにもキャリアをつけなかった自分には、事務職しか出来ることもなかったし、また、これが性に合っていたのだ。だからこうも長く続いたと思う。
「千絵ちゃんは、本当に計算機が上手だねえ。
パソコンも何て事無く使いこなせるし、こんな小さな会社にはもったいないよ。」
「別に、いいんじゃない。」
これもいつもの会話。
最初は嬉しかったのに、いい加減毎日聞くと、おばさんの嫌味に聞こえる。
バタンッ!ドスドスドス!
隣室にいた中年で背の低い社長が、ハゲを真っ赤にしてズレ落ちた眼鏡にも気が付かず、部屋に飛び込んでくると真っ直ぐ千絵の方に歩いてくる。
外面はいいけど、この社長、従業員には気が短い。何て事無いことでも、もの凄い剣幕で怒るのには最初面食らったが、その内慣れてしまった。
「おいっ!千絵!お前何て事してくれたんだ!
わしの会社を潰す気か?!」
あれ?私何かしたっけ。
「何でしょうか?何かミスがありましたか?」
「ミスだ!大ミスだ!今、白岡工業から電話があったぞ!お前、俺を通さず勝手に支払い回したな?」
「はあ?ええと、私は一応、社長にハン貰ってからしか支払いませんけど。」
こんな小さな会社で、資金繰りを勝手に出来るわけがない。一時は本当に自転車操業状態で、今にも倒れそうな時期もあった。
事務をやっていると、それがはっきり見えているからポンポン勝手にやると、最悪不渡りを出してしまう。
「なにい!お前は・・」
カアッとヒートアップする自分を冷ますように、社長がワナワナした手でバンッと机を叩く。
血圧の高い社長は、カッと来たら怒りを何かにぶつけてはけ口を探すのだ。
おばさんは思わず飛び上がり、「お茶、お茶入れますから。」と逃げてしまった。
「俺はな、お前を娘みたいに思って可愛がってきたんだ。だからあの苦しいときも、絶対首にするまいとだな・・
いや、それはいい、お前は気が利いてるから、俺が忙しいときは良くやってくれる。
しかし、これは許せん!許せんミスだ!」
「だから、どんなミスです?」
よく言うよ、娘なんてさ、気持ち悪い。
「お前、白岡工業に勝手に小切手切ったそうじゃないか。その価格がな、一桁間違ってたんだよ!ゼロが一つ多かったんだ!
わかるか?五百六十万が五千六百万だぞ!
向こう様が気が付いてくれたから良かったもんを、そのまま銀行に回してたら大変なことになってたんだ!
でっかい会社ならそんな金は、はした金だろうがな!今の俺には・・」
「ちょっと待って下さい!私切ってません。
白岡工業に切った覚えがないんです。」
「でも、お前が小切手は預かっているだろう!
金庫の鍵だって、お前が管理しているはずだ!」
「でも!切った覚えがありません!」
「現に向こうは小切手を貰っているんだぞ!
言い訳するな!」
「言い訳なんかしてません!本当のことを言ってるだけです!」
だって!本当に覚えがないんだもん。
小切手切るときは細心の注意を払っているし、何度も見直しを・・
「もういい!」
社長がドカッとおばさんの椅子に座る。
「だって、本当なんで・・」
「もういい!帰れ!首だ!家帰って頭冷やせ!」
ガタッ!
千絵は、呆然と立ちつくしてしまった。
社長は、腹立たしそうに立ち上がるとまたドカドカ歩いて自室に帰って行く。
そうっと、おばさんがどこからか来て、千絵の顔を面白そうに覗き込んだ。
「おお怖い怖い、一体何だったんだい?
あたしゃ社長も悪いと思うよ、だって千絵ちゃんの話全然聞こうとしないじゃないか。」
このババア、勝手なこと言ってる。
もう!腹が立つことばっかり!私じゃないって!言ってるのに!もう!もう!
ブワッと溢れる涙を隠すように顔を背け、千絵は自分の机から私物を取り出すと手近の袋に入れ、バックを持って表の駐車場へ走り出た。
外の空気を思いっ切り吸って、駐車場を突っ切り駅の方角へ歩き出す。
「千絵ちゃーん!帰っちゃうのかーい!」
おばさんが、遠く事務所の玄関先から大きな声で叫んでいる。
千絵は無視して、涙も拭かずに向かい風を受けながら、ひたすら前に前に歩いていた。
風を受けて真っ黒な雲が集まって、遠くから雷鳴が小さく聞こえる。
混乱する頭で、キッと空を睨み付けた。
あれ?天気予報じゃ降水率二十パーセントの曇りだったのに、天気までついてない。
カッカッカッカッ!ヒールがすり減ってしまいそうなくらい足音を立て、走り出しそうなほどにスピードを上げた。
しゃくり上げるのどを、上がった呼吸でごまかす。
やがて駅前まで来ると、千絵はハンカチを取り出し、化粧が崩れないようにそっと涙を拭いた。
ポツポツ雨が降り出し、グレーの制服に黒い水玉模様のシミを作る。
悔しさも、虚しさに変わる頃、千絵は下を向いて大きく溜息をついた。
雨が酷いときは、小さな現場に出ている人達が帰ってくる事がある。
冷たいお茶、冷えてたかな?おばさん、気を利かせて出してくれるかな?
もう、どうでもいいと頭の中で思いながら、どこか片隅でまだ仕事を思う気持ちが、思わず後ろを振り向かせる。
駅前の広場には、バスを待つ人が数人と、客待ちのタクシーが一台。しかし、大橋建設の青い軽自動車が追ってくるはずもなく、千絵はそこで初めて声を上げて泣きながら駅のトイレに駆け込んだ。

 チュンチュン、チュチュン!
昨日の雨も上がり、そしてまた、いつものように朝を迎える。
「修ちゃんっ!行ってらっしゃい!気をつけていくんだよ!」
「行ってきまーす!」
ドタドタ!バターン!ダダダダダ・・
千絵がゆっくり腫れぼったい目の片方を開け、そしてまたタオルケットを被る。
子供も夏休みというのに、こんな早くからラジオ体操だろうか?ご苦労なことだ。
こんな事なら時計なんか買うんじゃなかった。
暫くじっとしていると、じわっと汗が噴き出してくる。
「あー!もう!」
バサッとタオルケットをはね除け、匍匐前進でプルプルゆっくり回る扇風機のもとまで行くとカチッとスイッチを押して強くした。
ブオオオオオ・・・
唸りを上げて羽根が勢い良く回り出す。
千絵は羽根の前に顔を上げて汗を吹き飛ばすと、バタンとまた布団に倒れ込んだ。
清々しい朝だというのに、暗い気持ちでじっと天井を見る。
「首か・・」
ぽつんと呟き、覚えのないことで首を切られてしまった腹立たしさを、もう一度考える。
「テレビだったらさ、訴えてやるって社長に向かって怒鳴ってやれるのにねえ・・」
そんなこと、する気も起きないし、もう会いたくもない。
「はあ・・」
これからどうしようかと、コロンと転がり、ふと先日買ったクマに目が行った。
ちょこんと花瓶の横で、お座りして千絵を見下ろしている。買った日の夜は相当後悔したが、諦めてやっぱりもう一度よく見ると、成る程いい物だけに不思議な魅力があって、口元の刺繍が優しく微笑み、見ているだけで心が和む。
「マー君・・あんたいい子ね。」
でも・・
ガバッと起きあがり、手を伸ばして大切にクマを抱き上げ、ギュッと抱きしめる。
昨日で枯れたと思った涙が、腫れぼったい目にまたじわっと溢れ出してきた。
「やっぱりね、ごめんね。お姉ちゃんには無理みたい。あんたみたいに高級品は無理なの。
ごめんね、またお兄ちゃんの所で、今度こそお金をいっぱい持っている人に買われてね。」
散々後悔したけど、新しい家族と思って納得して・・ちょっと喜んで、馬鹿みたい。
千絵は押入から箱の入ったクマ柄の袋を取り出し、マー君をまた箱に戻して袋に入れた。
返しに行こう。
また今度、次の職場がすぐに決まるとは思えない。
これから貯金を切り崩してゆく生活に、五万もするクマなんて贅沢以外の何物でもない。
あのステキなスカートも、今思えば本当に買えなくて良かった。
定期も丁度満期が来てて良かった、もう旅行やら結婚式どころじゃないわ。
くすっと力無く笑う。
千絵は何かにすがるように、頭に浮かぶシャボン玉のようなラッキーを求めて頭の中の暗闇を探っていた。
 ノロノロと、ようやく身支度を整え、だるい体でラブベアーハウスへと向かう。
何だか凄くキツイ。
駅の階段で息が切れるなんて、昨日のショックで心臓でも悪くなったかしら。
電車はさすがに昼間は空いている。
千絵は見納めに箱からクマを取り出すと、人目も気にせず話しかけた。
「ごめんね、もうすぐだから・・
お髭のおじちゃん、あんた引き取ってくれるかしらねえ。」
「ねえ、マー君、あんたにはわかるでしょ?
私はねえ、ショックだったのよ。
なにがって、わかるでしょ?首になったからじゃないの。私はね・・」
また涙腺が緩んで涙が浮かぶ。
千絵はクマをギュッと抱きしめると、箱に戻して後はただ、目的地までを呆然と過ごした。
 表通りからあの路地へ。
とぼとぼ歩いていると、あの髭男が店先を掃除している。ゴミをちり取りに掃き込むと、ホウキを構えて素振りを始めた。
ブンッ!ブンッ!
じっと後ろから見ていると、楽しそうで何も悩みがないように見える。
「いいわねえ、幸せな人は。」
そのつぶやきが聞こえたのか、髭男がくるっと振り向いた。
「あ、邪魔ですか?邪魔でしょうね。」
サッと端っこによって、千絵が通り過ぎるのを待っているらしい。
しかし肝心の千絵はスタスタと髭男に近寄ると、「これ」と袋を差し出した。
「これ?僕にプレゼント?」
「返品です。」
「がああああーん!」
彼が後ろに二三歩よろめき頭を抱える。
「一体誰?誰が気に入らなかったの?どの子?」
どうやらもの凄くショックだったらしい。
蒼白な顔で首を振り、それでも袋を受け取ろうとしない。
しかし、それよりも千絵は首を傾げた。
「あの・・あなた私を覚えてないの?」
「ど、どちら様でしたっけ?」
彼はキョトンとプルプル首を振っている。
呆れた!
「私はね!ほら!あなたが名前も聞かずに支払いを分割でいいって言った、ほら!土曜日の!」
「えーっと、土曜日・・あの日はえーっと、確か売り上げが二万とちょっとで・・
あっ!マー君?まさか君、マー君のお母さん?」
「お、お母さん?」
誰がお母さんだって?私はクマなんか産んだ覚えがない!
「まあいいわ。そうよ、マー君返しに来たの。」
「どうして!あの子は君を凄く気に入ってたのに。君、マー君嫌いなの?」
さっきまで後ろによろめいていたクセに、今度は責めるように髭男はズイズイ千絵に寄っていく。無精ひげが鬱陶しい。
「違うけど、一身上の都合なの!お金の都合が付かなくなっちゃったのよ。」
千絵は鬱陶しさも忘れて、何しろ引き取って欲しい一心で袋を更に差し出した。
「ふうん、金ねえ・・」
ふむと彼が考え込む。
「そうだ!残り十回払いってのどう?
えーっと、あれは確か残り三万とちょっとだったから、月々三千円!お買い得でっせ!」
いきなり営業スマイルで揉み手。
そんな事されても、無い物はない!
「駄目よ!早く引き取ってよ!二万円返して!」
「理由は?理由を聞かせてくれよ。」
「そんなこと、プライバシー侵害よ。あなたに関係ないじゃない。」
「いいや、大ありだね。
俺はこの店に預かっているベア達を、責任を持って運命の家族に渡しているんだ。
マー君は君を選んで、君はマー君を見ると凄く嬉しそうだった。だから俺はマー君を君に譲ったんだぜ?
お金だけじゃないだろう?何かあった?」
彼の髭面が、急に優しく千絵を覗き込む。
千絵が驚いて袋を下げると、彼は紳士のようにホウキを後ろ手に、右手を胸に当ててお辞儀した。
「お嬢さん、この髭クマでよろしければ、お力になりましょう。」
「え?え?・・・」
今度は千絵が一歩後ろに引く。
なんてキザでふざけた奴。でも・・でも・・
涙がまたブワッと溢れ出す。
思わぬ所でポッと触れた優しい言葉に、千絵はどんなに押さえようとしてもまた涙腺が全開になってしまった。
「わっ!ちょっと、そりゃまずいよ!俺が泣かせたみたいだろ?あ、あ、あ、こっち!こっちで聞くよ!行こう!」
そう言って彼は、向かいの食堂『ちょっと屋』へ千絵の手を引いていった。
 食堂はまだ早い時間のためか、丁度誰もいない。彼と千絵は奥のテーブルに二人、斜めに向かい合い座る。すると厨房からおじさんが顔を出して溜息をついた。
「健ちゃん、まだ準備中だよ。あー、女の子泣かせちゃいけねえなあ。」
「おっちゃん、飯出来る?」
「ああ、出来ねえことないさ。」
「じゃあこの子にランチね、おれはいつもの。」
千絵が驚いて涙を拭く。
「そんな!私、無駄遣いできません!」
「無駄はないだろ?おじさんが泣くよ。
今日は俺の驕り。君、昨日当たりから食べてないだろ?もう、何だかげっそりしてるよ。
せっかくの美人が、魅力半減さ。」
「あ、」
思わずハンカチを出して涙を拭いた。
みっともないところ見せて、今更恥ずかしい。
今朝、鏡を見て、泣きはらした目と浮腫んだ顔に自分でも驚いた。髪も綺麗にする気が起きなかったし、服もシワだらけで張りがない。
「食べて、腹一杯になったら身体も元気が出るよ。食べたくないって気持ちも分かるけど、落ち込んだ時ほど美味い物食べて、自分に応援するんだ。」
「自分に?応援するの?」
「そっ!俺なんかしょっちゅうよ!ドーンと落ちて、バーンと飯食って飛び上がるの。
そんでベア見て癒されるって訳よ。
それ、マー君だろ?見せて。」
千絵が袋を渡し、彼が箱からマー君を取り出す。
パッと明るい顔でクマの身体を撫でると、ハイと千絵に渡した。
「いい顔してるよ。やっぱりマー君は君が好きなんだな。」
そう言われてみても、千絵には良く分からない。千絵がクマをテーブルに置こうとしたとき、彼がそれを手で遮って止めた。
「辛いときや嬉しいときはね、ベアを抱いてフワフワの毛並みを撫でながら、話を聞いて貰うといいよ。ほら、気持ちいいだろ?
ベアは君が何かを話してくれるのを待っているんだよ。」
なんて、彼の外見と不似合いな言葉だろう。
「うふふ、あなたってロマンチスト?」
「見てわかるだろ?俺ってロマンチックなの。」
クスクスと千絵が笑って、髭男の健ちゃんがニヤリと笑う。
「お店は?いいの?」
「いいのいいの!閑古鳥だもん。ほら、ここから見えるからいいよ。実は良く来るんだ。」
「ああ」
振り向くと、窓から正面に彼の店が見える。
「つぶれないのが不思議だろ?」
「ほんと。」
二人は、顔を見合わせて笑い合った。
彼は、マー君をどうするのか何も聞かない。
ここにいる間にもう一度考えなさいと言うことなのか、もう一度考えて、それでも駄目なら彼は引き取ってくれるだろう。
マー君の、フワフワの毛並みが千絵の心を優しく落ち着けてくれる。
しかしそれでも、今の千絵に五万の縫いぐるみはどう考えても重荷でしかなかった。
「ハーイ!お待たせー!」
おじさんが、千絵にまたオムレツを。そして彼には・・これはパフェと言うべきだろうか?ガラスの器いっぱいの真っ白な生クリームに、ただバナナだけが沢山乗っている。
じっと見る千絵に、彼はちょいと器を差し出した。
「食う?これ、俺専用メニューなの。生クリーム大好きなんだ。」
「へ、へえ・・」
すごい。謹んでお断りする。
「まったく!いくら好きでも見てるだけで気分が悪くなるさ、なあお嬢さん。
お嬢さんのオムレツ、今日は中に肉じゃが入りだよ。何があったかしらねえが、それ食って少しでも元気出しな。」
「ありがとう。」
マー君を隣の席に座らせて、スプーンを握る。
思いがけない優しさに触れながら、そうしてしんみり食事を済ませているうちに、千絵はマー君の返品に迷いが生まれてきた。
チャチャラ、ララー・・
バックの中で、携帯から短く音楽が流れた。
きっとまた、彼女からのメールだ。
バックをじっと見つめて、少し溜息が出た。
今は放って置いてよ・・
「見ないの?メールだろ?」
「ええ、いいの。」
「ふうん・・今の娘ってさ、みんな店に来てもメールばっかりしてて、全然真剣にベアと向き合ってくれないんだよね。
そのくせメールに夢中になる奴って、寂しい奴らが多いんだ。」
彼はそう言いながら、皿のクリームを舐めるようにスプーンで綺麗にかすり取る。
「あなたは持ってないの?携帯。」
「俺?必要無いよ、俺はいつもあの店にいるから。」
ピッとスプーンで店を指す。
「それに、俺は相手の声が聞きたいんだ。」
と、その時、年輩の女性が忍ぶようにそうっと店に入るのが見えた。
「あちゃちゃ!お客さんだ!ここ、ツケとくよ!おっちゃん!彼女の分もね!
君はゆっくりしてきなよ。じゃ、お先!」
慌ただしく彼が出ていく。
見ていると、また愛想笑いを浮かべながら、ペコペコして店に入っていった。
「健ちゃん、いい奴だろ?」
仕込みが終わったのか、奥からおじさんが出てきてカウンターに座り、新聞を広げる。
「え?ええ、まあ、そうね。」
良すぎるんじゃない?これじゃ商売成り立たないわよ。
「あれでもよ、なかなか苦労してんだよ。
可愛い奥さん貰って喜んでたら、一流会社をいきなりリストラだろ?
しばらくは酒浸りで荒れてたら、奥さんは健ちゃん支えるどころか、さっさと他に男作って出てっちまって。
しばらくはどっか旅に出てたんだけど、帰って来るなりあんな縫いぐるみ屋始めやがった。
この辺のみんな、心配してなあ。」
「・・・どうして、こんなに優しくしてくれるのかしら。まだ、二度目なのよ、会うの。」
「あっはっは!男が女に優しくするのに、回数なんて関係あるかい!気が合えば、それで十分よ!」
戸惑いがちの千絵を、おじさんが笑い飛ばす。
その豪快な笑いに、千絵もつられて笑った。
「まあ、しいて言えば健ちゃんも寂しいのさ。
見てくれはむさ苦しいが、店のクマまで名前つけて、売れるたびに別れを惜しんでやがる。
初めて会う奴ぁ薄っ気味悪いかもなあ!」
「そうね。ちょっと変態よね。うふふふ・・」
みんな、何かしらの苦労してるんだ・・
それでも今の彼は、好きなことをして生き生き見える。
 食べ終えて、マー君を箱に戻しながら、ふとバックに手を差し入れ携帯を取り、一つ溜息をついてメールを見た。
「あ」
それは美子じゃなく、同僚の現場に出る女の子からだった。
『昨日の犯人、おばさんだったよ。みんな、すっごく社長に怒ってる。
あんなおばさんだろ?一人で仕事がどんどん詰まってきてさ、怒られる前に自分の事棚に上げて社長に怒ってやンの。
大丈夫だから出社しなよ。みんな待ってるよ。社長も、私達には何にも言わないけど、そわそわして落ち込んでる。きっと悪いって思ってんだよ。みんな待っているよ。』
やっぱり・・・おばさんだったんだ。
だから違うって言ったのに。
今まで一生懸命がんばってきて・・
だから、信じて貰えなかったのがとても辛かった。
「マー君、わかる?わかってくれるよね。
私は、信じて貰えなかったのが悲しかったんだよ。社長、私のことを、信じてくれなかったんだ。」
心がキュッと締まって、頭がグラグラする。
この後、社長へ挨拶に行こうか。犯人が分かったのなら、首も取り消してくれるだろう。でもきっと、これからギクシャクした毎日に違いない。
会いたくないと思うおばさんとだって、昼間はほとんど二人っきりになる。
やっぱりこのまま辞めてしまおうか。
溜息をついて彼の店を見ると、丁度さっきの婦人がクマ柄の袋を手に出てきた。
見送りをする健ちゃんに、嬉しそうにぺこりとお辞儀して帰って行く。
その後ろ姿は、まるでスキップでもしそうな程軽やかに、楽しげに見えた。
店先に出てきた健ちゃんが、千絵を見ておいでと手招きする。
千絵はマー君片手に、バックを提げて食堂を後にした。
 余程暇なのか、じっと店先で千絵が来るまで待っていてくれる。千絵は何だか悪いような気がしたけど、これも返品させない彼の作戦かな?と、子供のような考えでくすっと微笑んだ。
「飯、美味かった?」
「え、ええ、ごちそうさまでした。売れたの?」
「ああ、店に入ろう。」
誘われるままに店に入ると、あのフローラルの香りが心を安らげる。
「いい香りね。ハーブなの?」
どうぞと差し出された椅子に掛け、レジの向こうに立つ彼を見上げた。
彼はニヤッとして、カラフルなクマが並ぶ棚から一匹取り出す。そしてハイと千絵に差し出した。
「わ!凄い香り!」
その派手なピンクのクマを受け取ったとたん、甘いハーブの香りが鼻先をくすぐる。
抱いて楽しむには、少し強烈でもあった。
「これはね、中にハーブが入れてあって、背中にこのオイルを時々垂らすんだ。
ルームコロンだよ。見て楽しんで、香りで楽しむんだ。
他にも面白いベアはあるよ。こっちはほら、湯たんぽベア。お腹の中に湯たんぽが入ってる。今の季節は関係ないけどね。
こっちはパジャマベア。まあ、ありきたりだけど。」
「ほんと。」
千絵がちょいと肩をすぼめて、クスクス笑う。
見るとパジャマベアの背中からは、二匹のクマが顔を出していた。
「それにね、ベアは詰め物の違いでハードとソフトがあるんだよ。ほらこっちが・・」
だんだんベアの話しに熱が入ってくる。
ここにいると柔らかな香りと沢山のクマに囲まれて、身体がゆったりと心地いい。
彼の低い声に耳を傾けながら頬を染め、うっとりしていると、健ちゃんがレジ横に両肘を付き顔を覗き込んできた。
「元気、出た?」
ベアの話しに熱が入っていたと思うと、急にまじめな顔をされて千絵がドキッとする。
「はい。」
そっと俯き、ちらと彼の顔を上目遣いで見上げ気恥ずかしそうに微笑む。
あれ?
ふと気が付けば、二人きりでいても疲れない。
まるで、幼なじみのように、分かり合えるような錯覚を覚える。
なんて楽しい人だろう。
でも、彼にとって千絵はただ、客の一人に過ぎないのだ。
「マー君、どうする?」
千絵が膝の上のマー君を、レジ台に置く。
目の高さにあるマー君と、千絵はじっと、その黒い瞳と見つめ合った。
『僕を、置いていかないで』
その瞳が悲しそうに揺れる。
『僕を、捨てないで』
呟くマー君の瞳が、何かと重なる。
ずっと昔、遠い、子供の頃・・
クマの、面影・・
あれは、何だったんだろう。
トントン、トントン、トントン
ネジを巻いて、太鼓を叩く、三角帽子のクマ
トントン、トントン、トントン
「あっ!」
千絵が声を上げて、不意に顔を上げた。
「どうしたの?」
ああ・・そうか・・だから、だからマー君が気に入ったのかも知れない・・
「昔ね、小さいときマー君そっくりの、ほら、クマが太鼓叩くおもちゃ、持ってたの。」
千絵が気恥ずかしそうに、ばちを持ってお腹の前の太鼓を叩く仕草をしてみせる。
健ちゃんが、ああ!と頷いた。
「今もあるよ、きっと。」
「そうかしら、凄くお気に入りだったのよ。
でもね、近所の男の子に壊されちゃった。」
「フフッ、それも良くあることだ。」
「やっと買って貰ったのに、あっけなく壊れて。その子は謝ってもくれないし、親には物を大事にしないって怒られるし、悲しくて、悔しくて凄く泣いたの。」
「可愛いね。」
「でしょ、でもその後もついてないのよ。
今思えば凄く恥ずかしいけど、私、復讐だっ!て、燃え上がっちゃって、台所にあったフライパン持って、その子を追いかけちゃった。
そしてとうとう、男の子を玄関先まで追いつめちゃってさ、クマさんの敵だ!このやろー!って、エイッてフライパンを振り下ろしたら、ガシャーン!運悪く玄関の大きなガラス割っちゃった。
それで、また親に怒られて。
なのに、呆れた!そんなに悔しい思いしたのに、私その事を忘れていたわ。
呆けたのかしら?」
「ぷっ!あはははははは!」
健ちゃんが大笑いして、苦しそうに腹を抱える。そしてレジ台に両肘を付き、上から覗き込むように千絵の前に顔を出した。
「クックック・・君って、ほんとに面白いね。
さっき来た時は、まるで幽霊みたいに憔悴しきって、思い詰めた顔して、この世の最後みたいだったのにさ。」
「そーよ!悪かったわね!私の人生なんて、全然ツキがないんだもん。いつだって悪い方に走っちゃうんだから、落ち込んで悪い?」
あんまり大笑いされて、千絵がむくれる。
でも、本当。ここに来るまでの落ち込みようが嘘みたい。
まるで、低気圧のど真ん中で嵐に揉まれていた軽飛行機が、青々と澄み切った青空が広がる雲の上にようやく抜け出たような・・
この人と話していると、だんだん心が軽くなって行く。
「いやいや、君はマー君と出会った。それはついてるよ。だろ?」
健ちゃんがクックックと含み笑いして、ちらっと悪戯小僧のように覗き見る。
思わず千絵が頬を赤くして、プイと顔を背けた。
「さあ?私はマー君を返しに来たのよ、忘れないでね。」
「駄目だよ、マー君は返品なんかされたくないってさ。お金、どうしても都合付かないの?」
何となく、嫌なことを思い出して千絵が俯く。
どうしようもなく怒りにまかせて、首だと言い捨てた社長の理不尽さが、また脳裏によみがえって目を伏せた。
「会社で、ミスがあって・・私じゃないのに、社長が首だって・・・・
でも、誰がミスしたかはわかったらしいの。
でもね、社長、何にも言ってこないし。
何か・・考えれば嫌になることばかりで・・」
「辞めちゃうんだ。会社。」
ズバリと言われて胸がどきんとする。
辞めるなんて、口先で言っても本当に辞めるなんて考えたこと無かった。
「だって・・謝りもしないのよ。男って・・
社長も、おもちゃを壊した子も。どうして?
悪かった、すまないって、どうして言えないのかしら。
私、黙って我慢するしかないの?」
彼に言って、どうなる事じゃない。迷惑なのはわかっているのに、千絵が身を乗り出す。
しかし健ちゃんは身を起こすと、薄く笑って腕を組み、後ろの棚に寄りかかった。
「男ってね、言えないんだよ。
ごめんの一言が、ね。
だからさ、そこですれ違うか・・
それとも・・わかって、くれるか、ね。」
千絵がハッと口を押さえ、目をそらす。
彼女は自分の事で精一杯で、食堂のおじさんの言葉をすっかり忘れていた。
「ごめんなさい、あなただって辛いのに、こんな事聞いて。私、図々しかったわ。」
「ああ・・おっちゃんから聞いたんだ。
いいよ、別にもう昔のことだから。
君もついてないだろうけど、俺もさ、オクサンに逃げられたついてない男さ。
でも、俺って思うんだ。人間って死ぬまでのツキって、微妙に釣り合ってんじゃないかなって。」
「微妙に?」
問いかける千絵に、そう、とまるで秤を見るように片目を閉じて指を差す。
そしてまた、レジ台に両肘をついて手の平に顎を乗せた。
「こういう俺だからね、旅に出て多少はね、悟ることもあったのさ。
ツキがないときは、ああ、今はツキがねえ時なんだって。バタバタしても、溺れるだけ。なら、水に流すしかないよ、流れに任せてね。
ほら、人生は株価と一緒さ。
ずっと低迷してても、いずれはツキも、ああ、こいつに行くの忘れてたよって、名簿をチェックしながらやって来るのさ。
まあ、ツキも大小あるだろうけど。
で、それがね、ツキがあるのと無いの、人生みんなを平均すると大体釣り合うってね。」
「ふうん、流すねえ・・
でも、流せないこともあるわ。
さっさと彼を作って結婚する友達が、私に彼を見せたいって言うのよ。
私・・・嫌だわ。ほっといて欲しいわ。」
何だか、彼に人生相談みたい。
嫌われそうでほんの少し怖い気持ちが、胸の片隅にポッと浮かぶ。しかし、その気持ちも、彼の笑顔でかき消されてしまった。
「いいねえ、フフフ・・青春してるじゃない。
俺だって、オクサンが今の彼と結婚したいって言って来たときは、もう勝手にすればいい!俺なんかほっといてくれって・・・はは、俺何言ってンだろう。
お互いさ、ついて無かったんだよ、ね。
順番がさ、君が遅かった。友達が早かった。
それだけなんだ。
それに、結婚が必ずしもついているとは言えないよ。別れた俺が言うと、説得力有るだろ?」
「ああ・・そうねって、言っていいのかしら。」
「いいんだよ。ついてない時期ってのは、人生の修行の場さ。
そこでとことん落ち込むか、修行に耐えて這い上がるか。男も女も同じ事。
辛い時期のない人間なんていないさ。君の、その友達もね。
いいんじゃないの?」
「何が?」
「会うとか会わないとか、俺が言う事じゃないけどさ。大事な友達ならね、一応大事にするの、一応。」
「一応?」
「そ、人間って奴はね、本当に嫌な奴で、自分がついている時、相手にツキがない時ってのは悪い面も出やすいのさ。優位に立つと余裕が出来てね、隙ができる。」
「ふうん、隙ねえ・・」
そんな物かしら、と千絵が傾げる。
「女も一緒だろう?こういう事って。
だから、そう言う時こそ見極めるチャンスだよ、いい奴か嫌な奴か。
友達を失うよりいい。
たまにはクラウンになって、道化を演じながら人間を見るのさ、この子みたいに。
あっ!この人だ!って運命を感じたら、一応から格上げ。
この子が君を捕まえたようにね。」
千絵がくすっと笑って、ウインドウの上に置いたマー君を撫でる。
運命なんて、大げさだこと。
でも・・
「辛い道化ね。独り身にはきついわ。
この子を連れて行こうかしら。」
フフフと、健ちゃんが身を起こす。
彼もじっと考えて、そばにある天使のベアを抱っこした。
「じゃあ、一人じゃなかったら?」
「駄目よ、私の周りの人って、みんな結婚してるもの。結婚してないのは、一応のランクから上がりそうにない人ばかりなの。」
それに、会社に行けるかどうか・・
「ランクアップは至難の業かな?
じゃあ・・」
彼がギュウッとベアを抱く手に力を入れる。
そして一時置いて、キョトンとした顔で見る千絵にニヤリと笑った。
「俺も、トライしてみようか?」
千絵が口をぽかんと開ける。
「あなたが?それって・・」
どういう意味?
まだ、だって・・まだ会うの二度目よ。
彼ははにかんだ顔が真っ赤に染まっている。
クーラーはガンガン利いているのに、体がカッと熱い。
「冗談・・でしょ?」
「あれ?トライには、何か条件があるの?
髭、嫌だったら剃るよ。気に入ってるけど。」
ジョリジョリと、残念そうに顎の髭を撫でる。
千絵はゴクンと息を飲むと、不思議そうに問いかけた。
「ねえ、一応から、ランクアップしたら・・
それって何かな?」
「さあ・・女だったら、親友?男は?何だと思う?」
「・・親友?」
ガクッと彼が膝を折る。
「ひでえ!じゃあ幾つランクがあるんだ?
男って可哀想だと思わない?」
「さあ・・」
茫然自失の彼女の膝に、マー君がレジ台からコロンと転げ落ちる。
「あ、」
慌てて拾い上げて顔を覗くと、マー君がパチンとウインクしそうな気がした。
『ね!僕を買って、良かったでしょ?』
そうね・・・
クスッと笑いがこみ上げ、健ちゃんがン?と不思議そうな顔をする。
「私もそのお髭、好きよ。クマさんみたいで。」
「だろ?」
パッと彼の顔が明るく、真っ赤になった。
チャチャラ、ララー・・
また、携帯から短く音楽が流れる。
美子からだろうか?でも今は、見るのが怖くない。
千絵はバックから携帯を取りだし、どう返事をしようかと胸がドキドキしてきた。
ただ、一言目は決まっている。
『結婚おめでとう』
美子は驚くかも知れないけど、それが今、心から思う親友への言葉だった。