桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

明日図書館で会おう

中編。大学受験を目指す冷司は、同じ浪人中の図書館で会う光輝(コウキ)だけが唯一の友人だった。しかし彼は仕事を選び大学受験を止めてしまう。接点を失って別れた二人だが

 夏も終わり、学生達は休みも終わって日中は姿を消し、学校へと戻って行く。
若い男が昼間から町をブラブラしていると、やたら冷たい目で見られる、そんな気配が戻ってきた。
彼、樹元冷司は大学受験を目指し、図書館へ毎日通っている。
大切な時期を突然の入院で大学を受けることも出来なかった彼は、卒業後も結局2年棒に振る羽目になった。
いつも一番壁際のスミに陣取り、自分の参考書を広げ、資料を借りたりして自習している。
しかし今度こそと思っても、保証のない行き先に不安を覚え、思わずため息が出た。

「よう、ため息付くと魂抜けるぞ。」

ポンと肩を叩かれて、くすっと笑った。足音で、見なくても分かる。
彼はほんの少しスニーカーの底を擦って、シュッ、シュッとリズムにも特徴があるのだ。
毎日この時間に落ち合う声の主は、さっそくイスを引き、いつものようにぴたりと隣の空いた席に座った。
彼、光輝(こうき)は冷司より一つ上。現在チェーン展開している飲食店でバイト中だ。
仕事は面白いらしいが、今年も一応大学に再チャレンジの予定。
図書館へは毎日勉強のつもりで来ているのだが、彼は図書館で本を広げると猛烈な睡魔に襲われてしまう。
以前あまりのいびきに周辺の冷ややかな視線を見かね、冷司が何度か起こしたことで友人になった。
「何だよ、あっついのに相変わらず長袖?よく我慢できるなあ。」
光輝があきれて冷司のシャツをつまむ。彼は寒がりなのか、年中長袖だ。
ムッとして、冷司はパシンとその手を払った。
「冷房で寒いから着てるの、余計なお世話だよ!今日、遅かったね。寝坊したの?バイト?」
「ああ、夕べ仕事のあと店長から話があって遅くなってさ、今朝は寝過ごしたんだ。おかげでいつもの電車に乗れなくて、例の彼女見られなかった。またここで会えればいいな。」
「例の彼女って、今時ポニーテールの?」
「あれって可愛いじゃねえ?」
「暑いだけだろ?それにきっと年上だよ。」
ぶすっと言い返す。余裕のない今、女の話なんか聞きたくもない。
「ちぇっ、冷司は女に目がいく余裕ねえよなあ。男かよ。」
「どうせ冷たい冷司ですから。」
「可愛くねえの。」
「可愛くなくていいんだよっ、男なんだから。今日、勉強は?」
言われて急にかしこまり、光輝が冷司を覗き込む。
「なあ、店長の話って気にならねえ?」
「さあ、僕が聞いてどうすんのさ。関係ないね。」
「でもよ、俺が話したい訳よ。」
前置きが長いなと、くすっと笑う。何気なく話しても、彼には意味のない会話なのだろう。
「わがままだね、光輝はさ。」
「そー、聞いてくれないと寝転がってバタバタするぜ。」
「あははは、すれば?」それも面白そうだ。
「へへ、実はさ、正社員になってくれって。」
「ええっ!」思わず冷司が声を上げ、周りを気にして口をふさぐ。
「正社員だぜ、正社員。ラッキーだぜ、真面目にやってきて良かったあ!」
「そ、そう、だね。ラッキーじゃないか。」
思わぬ話にショックを受けて、冷司の心が沈んでゆく。
それは、一緒に大学を目指す、その共通の目標を失うことだ。
これから、また以前のように一人で勉強をする日々に戻るだけなのに、それがひどく寂しい。
「大学もいいけどよ、やっぱ頼むって言われたらなあ。正社員なんて今は滅多にチャンスないしさ。ああー!やっと自分の居場所が出来たぜ!やりいっ!」

自分の居場所
その言葉に、冷司の胸がギュッと詰まった。

居場所……なんか、自分には……

浮かびそうになる涙を、唇をかみしめグッとこらえる。
輝くような笑顔で振り向く光輝に、顔色を失った冷司がようやく微笑んだ。
「さあ、明日から忙しいぞ。冷司、しばらく来れねえけどさ、また暇になったら会おうぜ。」
「あ、ああ、そうだね。また…また、会おう。」
「へへ、今から事務所に呼ばれてるんだ。な、一緒にいかねえか?電車ですぐなんだ。」
冷司がドキッと落ち着きをなくす。
「いや、僕は……バスは?バスなら。」
「あー、バスは路線はずれてんだ。
そっか、お前電車とか混む所苦手だもんな。車とか持ってればいいんだけどよ。」
「そう…駅とか、電車はちょっと……」
比較的日中空いているバスなら抵抗無いのに。
神様は意地悪だ。
「勉強の邪魔したな、ごめんごめん。じゃ、俺行かなきゃ。じゃあな。」
「あ、あ、じゃあまた。また……会えるよね。」
立ち上がった光輝を追うように、冷司も立ち上がって手を伸ばした。
「そのうち、暇になったらな。お前も電車くらい乗れるようになれよ。じゃ」
人の気も知らず、光輝は手を挙げると図書館から消えてゆく。
「また…また、会えればいいね。コウ……」
携帯も持たず、お互いの家も知らない二人の、ここは唯一の接点だった。
仕事を選んだ彼は、もう来るはずがない。
暇になったら…曖昧な言葉は、すでにどうでもいいような響きが聞こえる。
会いたいと思っても、どこに行けば会えるのかさえ……
せめて一緒に行けたなら…………

電車に乗れない、ただそれだけで唯一の友人を失ってしまった気がして心が落ち込んだ。
あたりはいつもと変わらないのに、冷司の耳にはただ、彼の足音だけが残っている。
あふれてきた涙を抑えることも忘れ、冷司は心に開いた穴に吸い込まれてしまいそうな、そんな気がして、胸を押さえながらいつまでも呆然としていた。



 数日後、冷司は久しぶりに図書館に行っていつもの角席に座り本を広げた。
全く勉強する気を失い、家でぼうっと過ごす日々が続いたのだが、母親も心配するし気分を変えようと出てきたのだ。
しかし、やはりいつもの時間になっても彼が現れるわけもなく、本を開いているだけで目を通す気も起きない。
頭の中で、あれからずっと決意を固めている。
眠っては夢の中で、光輝と電車で遊びに行く夢を何度も見ては落ち込んだ。

電車、せめて電車に乗れれば…………
あの時光輝の勤める店にも行けたのに。
電車…………駅…………
そうだ。
そうだ、今日、せめて駅まで行ってみよう。
今度会った時は、普通に光輝と一緒に………

ガタン!

突然、光輝がいつも座る隣のイスが乱暴に引かれた。
ドキッと見上げると、知らない男が小説を手にしている。
「あ……」
思わず目が合い、ジロッと睨まれた。
冷司の背に、サッと冷たい物が走る。
その男の視線が、暗く重い記憶を思い起こさせる。

心臓がドキドキと緊張して鼓動を強く打ち、それが次第に早くなって行く。
手がかすかに震え、浅く、早くなる呼吸に胸苦しさを覚えながら、目を閉じて何とか整えようと努力した。

駄目、駄目だ。やっぱり駄目だ。

冷司は小さく首を振り、本を慌ててたたむと片づけ、逃げるように違う席を探す。
壁側の席はどこも誰かが座っていて、あいていても誰かの隣だ。
せめて左右、隣の席との間に空席を置きたい。そうしないと耐えられない。
迷っていると、スッと真横を中年の男が通り過ぎ、冷司はビクンと驚きつんのめってしまった。
「あっ」ガタン!
えっ?と男が、ぶつかった訳でもないのにと訝しい顔をする。
「す、いません」
視線に耐えられず、冷司は青い顔でカバンを抱きかかえ、急いで部屋を出ようとした。

ドンッ!「あっ!」「キャッ!」

バサッと、ぶつかった女性が手から荷物を床に落とす。
「もう、なに急いでんの?」
「ご、ごめんなさ……」
冷司はパニック状態のまま、床に散らばったそれに手を伸ばす。しかしそのまま四つん這いで、手足が動かなくなってしまった。
「はあ、はあ、はあ」
息が、苦しい。
動けない。
「どうしたの?ねえ。きゃっ!」
女性が彼の背をポンと叩くと、驚くほどにびくんと跳ね上がる。
冷司は真っ白な顔をして、自分の荷物もそのままに、出口に這って出ようとあらがい始めた。
「ちょっと、あなた大丈夫?誰か!」
ザワザワとした中を、図書館の司書達が驚いて集まってきた。
「大丈夫ですか?どうしました?ああ、樹元君?樹元君だわ。誰か手を貸して。」
「また?樹元君?今日は一人?」
たくさんの声が冷司に集中し、無数の視線が集まってくる。

誰か…………誰か、お母さん、誰か!コウ!光輝!

たすけて!

声にならない声を上げ、そのまま意識が遠くなって行く。
「樹元君?」
どさりと横になり、何か記憶を探るようなその女性の声に見上げると、ぼんやりとポニーテールが揺れていた。





 冷司の目が覚めた時、目を開けるとそこは図書館の一室だった。
子供達の声が壁の向こうから聞こえ、見慣れた木が窓の外にちらりと見える。

これじゃ、駅……行けないな…………

ぼんやり思いながら、もぞっと薄い布団を引き上げ、顔を伏せた。
「あら、気分はどう?」
「すいません、またご迷惑かけたようで。」
「倒れるの、初めてじゃないそうね、樹元君。」

あれ?図書館の人じゃない……?

返事も忘れ、冷司が手元を見ていると、若い女性はトントンッと本をそろえガサガサと大きな紙袋に資料らしい物を入れる。
その袋には、小さく新聞社の名が印刷してあった。
「新聞?図書館の人じゃないの?」
冷司がそれを見て、眉をひそめる。
「あ、しまったなあ。ばれちゃった?私、川池美奈よ、よろしく。」
女性はぺろりと舌を出し、さっと名刺を出す。
揺れるポニーテールに冷司がハッと目を見開いた。
彼女こそ、光輝が密かに思いを寄せていた女性だ。以前一度、本を探していたときに気が付き、光輝が嬉しそうに教えてくれた。
「お父さん、お元気?私、一度銀行の方へ取材に行ったことがあるのよ。」
女性は愛想良く聞いてくるが、冷司は無視して答えない。
やがて起きあがりベッドを降りると、ふらつく足下をグッと踏みしめながら、テーブルにある自分のカバンに手を伸ばす。すると、さっと横からカバンをさらわれた。
「送ってあげるわよ。遠慮しないで。」
「返してください。自分で帰ります。」
「顔色悪いわよ、鏡を見てごらん。また倒れたい?」
はあっと大きくため息をつく。
ここで彼女と言い合う元気は今の冷司にない。
それに、バスにも乗りたくない。タクシーも、女性ドライバーを頼むのも面倒だ。
冷司は仕方なく、彼女に送ってもらうことにした。


 彼女の車に乗ると、時計がすでに2時を過ぎていた。
この時間、家には誰もいないだろう。母親は外出すると言っていた。
「食事、行こうか。おごるわ。」
彼女は有無を言わせず、キュッと信号を反対に曲がってゆく。
冷司は身を起こしてバンとボードを叩き、彼女を思いきり睨み付けた。
「帰してください、僕は何も食べたくありません。」
「何言ってんの、さっきからグーグー聞こえてるわよ、あなたのお腹の虫。」
ハッと胃を押さえる。
確かに、さっき一度鳴ったっけ。こんな時に、腹が立つ。
「美味しい店知ってるのよ。最近昼も始めたから、行ってみようよ。」

まったく……

ボスッとシートにもたれ、諦めて流れる景色に目を移す。
「……僕を、また取材するの?」
「ふふ、そうね、できたらね。」
「もう終わっただろ?今更なんだよ。僕だって忘れたいんだ。新聞に、あること無いこと書き立てられて、父さんは地方の支店に単身赴任。母さんにもずっと肩身の狭い思いをさせて、息子は普通の生活もまともに出来ない。……誰が被害者かわかったもんじゃないよ、あんた達のせいでさ。」
「だからこそ、今を知りたいのよ。図書館の人に聞いたわ。最初は…」
「最初は1人で家から出られなかった。それから玄関先、道へ出て、次第に距離を伸ばしていって、何とか空いている時間にはバスに乗れるようになった。そして、ようやく1人で外出。それだけにやっと2年。
きっと、早い方だと思うよ。」
「そうね。でも、やっぱり図書館では何度か倒れてた。聞いたわ、司書さんに。それが、友達出来てから倒れないようになったんだって?」
ああ…そうだ。
光輝と一緒に勉強するようになって、それからは倒れたことがない。
それどころか、毎日楽しみになって、図書館へ行くのが一番好きだった。



 「いらっしゃいませー」
元気な声に迎えられて入った所は、彼女らしく夜は居酒屋になる和食の店だった。
店員と話をつけて、冷司を気遣い個室に通してもらう。
案内されてあとをついて行く横から、いきなり声をかけられた。

「冷司!」

ハッと冷司が顔を上げ、声にゆっくりと振り向く。
それは、制服姿で注文を取っていた、久しぶりに会う光輝だった。

ああ……
光輝!

駆けだして、飛びつきたい衝動に駆られながら、冷司の胸に熱い物がこみ上げてくる。
しかしその時、仕事も放り出してよろよろと歩んでくる彼が、あっと小さな声を出し彼女に気が付いた。
「冷司君、こっちよ。」
ポニーテールを揺らして美奈が振り向き声をかけると、光輝の顔が微妙に怒ったように引きつる。
「ち、違うんだ…コウ。」
つぶやくようなかすれ声は、彼に届くのか。
思い人を奪われたと、光輝はきっと怒ったに違いない。
「光輝!注文はどうした!」
小さく潜めた声で怒鳴られ、光輝が上司に一礼して背を向け、仕事に戻った。
愕然としながら冷司が動けずにいると、彼女が怪訝な表情で戻ってくる。
「どうしたの?」
「い…え…なんでもありません。」
奥の個室に行きながら、締め付けられるような気持ちで胸を押さえる。横で彼女が心配そうに覗き込んできた。
「苦しいの?」
冷司は無言で首を振り、振り返る勇気が出ない。
あれほど会いたかった光輝と背中合わせで次第に距離を離しながら、並ぶ個室がひどく閑散とした牢獄のように思えて、唇をかみしめながら神に祈った。



 運ばれてくる食事も、食欲のない冷司が遅々として進まず、ずっと考え込んで何か迷って見える。
「ちょっと、おトイレ行ってくるわ。一人で大丈夫?」
「ええ、すいません。」
「謝らなくてもいいのよ、ちょうど休めていいじゃない。私も、美少年につきあってもらえるなら、最高よ。」
くすっと、ようやく冷司が微笑んだ。微笑み返し、美奈がトイレへと向かう。
「フフ、笑うと可愛いじゃない?」
つぶやく彼女の声を、光輝が偶然耳にする。
「あいつ……」
唇をかんで店内を振り向き、ちょうど来た同僚を捕まえた。
「ゴメン、ちょっと抜ける。」
「なんだよ。」
「トイレ!ごめん!」
「おい!」
同僚に両手を合わせ、光輝がトイレに向かう。
この心のもやもやを、どうしても払拭したい。冷司は本当に彼女と付き合っているのだろうか。
冷司が彼女と店に入ってきた時感じた、このイヤな気持ちは何なんだろう。

イヤだ。何かイヤなんだ。
彼女を俺はそんなに好きだったのか……?
……いや違う、わからない。
とにかく、とてもイヤな気持ちだ。イヤなんだ。

光輝は制服の合わせを握りしめ、迷いながら冷司の横顔を思い浮かべた。







美奈が用を済ませてドアを出ると、携帯に子供から電話がかかってきた。
「……ええ、パパと行ってきて。ごめんね、ママは美少年とデートなの。フフ、パパには秘密よ。じゃあね。」
ピッと切って携帯をバックにしまう。
細い通路を部屋に向かっていると、そこに光輝が現れた。
「あら、あなた図書館でよく見かけたわね。ここで働いてるの?」
「あんた、冷司と遊びな訳?」
「は?」
眉間にしわ寄せ、突き放したような話し方は、怒りが目に見えている。
「私が?あの子と?あなたあの子と友達?」
「あんた、結婚して子供もいるんだろ?冷司に不倫の相手なんか……あいつは優しいから断れないだけだ。
あいつを傷つけたりしたら、俺は絶対あんたを許さねえ。別れろよ!」
ぷうっと美奈が吹き出し、光輝の顔がカッと怒りの表情に変わる。
美奈は慌てて一歩下がり、そしてにやりと彼にほくそ笑んだ。
「あんた、好きなんだ。あの子。」
「は?何言って…」
「好きなんでしょ?仲良さそうじゃない?それともストーカー?」
カアッと光輝の顔が真っ赤にゆで上がる。怒ったり赤くなったり、可愛いっと思わず美奈は笑った。
「あ、あんた馬鹿かよっ!普通、親友?とか聞くもんだろ!男同士に…馬鹿かよ!」
「あら、いいじゃない。
ああ、そうか……あんたじゃない?あの子の友人って。最近時々図書館であの子探してたんでしょ?司書さんに聞いたわ。でもあの子、このところ図書館に行かなかったらしいから。」
確かに、光輝は連絡先を伝えるのを忘れたと思って、別れた翌日から数日図書館へ行っていた。しかし、いつもの席に彼はいなかったのだ。
「行かなかった?何で?」
「さあ、知らないわ。」
急に、戸惑ったように怒りがしぼんだ。
ブツブツつぶやき、指をかんで答えを探している。
「…あいつは、勉強一筋で…なんでだ?」
「今日、図書館で倒れたのよ。」
「倒れた?!どうして?病気?」
「そう、何にも知らないんだ。」
「え?なにを?何のことだ?」
フフッと笑って、美奈が自分の名刺を差し出す。彼は何も知らない、そして、誰よりも彼のことを知りたいのだと思う。
「これ、私の職場。聞きたければ来なさい。個人的に教えてあげるわ。まあ、個人情報保護法があるし、新聞記事程度ね。いろいろな記事ストックしてるし。」
「何を?」
「彼のこと。じゃ、ね。あの子待ってるから。」
名刺を握りしめ、光輝は混乱しているのか立ちつくしている。やがて同僚に呼ばれ、慌てて仕事に戻っていった。
美奈が部屋に戻りながら、フッと笑って顔を上げる。気が付くと、冷司は部屋から出て通路に立っていた。
「あら、ごめんなさい。」
冷司が、厳しい顔で美奈を見ている。美奈が距離を置いて立ち止まった。
「聞いてたの?」
「…話すの?」
「来たらね。」
「行くわけ無いよ。」
「私は来ると思うわ。」
冷司は無言のままサッと美奈の横を通り過ぎ、玄関へ向かう。美奈は慌てて勘定を済ませ、店を出て駐車場へと歩く彼の後を追った。
「あんたはやっぱり僕の気持ちなんか分かってない。僕は、光輝にこれ以上嫌われたくないんだ。」
「どうして嫌うと思うの?そんなこと」
「そんなこと無いって言うの?僕がどうして真夏にも長袖を着ていると思うんだ?傷跡を見たら誰だって逃げていく。まるで汚い物でも見るような顔をして!」
「それは思いこみよ!誰だって最初はビックリしても、あなたのことを理解すれば」
「理解なんて、誰もしようとさえしないじゃないか!」

理解しようと言う人がいたなら、こんなに苦しくはなかった。

「樹元君、人はもっと信じてもいいのよ。」
冷司が、立ち止まって振り向き彼女の顔を見る。

信じる事なんて、出来やしない。

人に、さんざん裏切られ、そしられてきたこの2年。
真っ直ぐな瞳で見てくれる、光輝がいてくれてこその、この半年。
暗くて、手探りで歩いていた自分を、明るく照らして勇気づけてくれた。
なのに、それさえも汚すのか?
「あんたは神様じゃないだろう?何の権限があって…あっ!」
店から、息を切らして光輝が駆けだしてきた。
冷司の姿をとらえ、ダッシュで走ってくると目の前に立つ。
そして冷司の手をギュッと握った。
「俺、また行くから。明日……いや明後日だ。きっと、きっと絶対行くから、図書館で会おう。」
そう言って、またダッシュで店に戻ってゆく。
「コウ……」
涙が、浮かんで一筋流れた。

君は、僕を嫌いにならないでくれる?

心の中で、大きく叫ぶ声が体中を響き渡る。
見上げてゆっくりと流れる雲に、冷司も風に乗って空を飛んでいきたいと、思わず手を空へ伸ばした。





その翌日、光輝は仕事までの時間を、ある駅の前で立ちつくしていた。
ポケットから名刺を取りだし、裏のメモを見てひっくり返し、じっと美奈の名前を見る。
たった今、彼女から冷司のことで色々な資料、と言っても新聞や雑誌だが、見せて貰ってきたのだ。
もう一度名刺の裏を見て、息を飲む。
そこには、何度見返してもこの駅の名とホームの番号が書いてある。名刺をグシャリと握りしめ、一つ溜息をついてポケットに入れる。
Tシャツのすそをめくり上げ、かがみ込んで顔の汗を拭いた。
暑いのに、寒い。
奇妙な感覚に襲われながら、案内板にあるホームの番号を見上げ、改札口を目指した。
うつむいて歩いていると、シミだらけのコンクリートの床がいやでも目にはいる。光輝も玉に利用する改札だが、それを別段気にすることもなかった。
顔を上げ目指す改札口の前に来た時、ちょうど電車が到着した直後でドッと人がこちらへと押し寄せて来る。
光輝は人の波に押されながら、ドキドキと恐怖に震える心臓を押さえた。
やがて電車が去り、人の行き来も減って行く。
ようやく空いた改札の前、光輝は目を閉じ、そして大きく深呼吸して足元を見た。

うっすらと、大きく残るシミ。

そのシミは、まるで床にポッカリ空いた落とし穴のようだ。
光輝はザッと背中の血が下がる感じを覚え、たまらず両手で顔を覆った。

まわりの音が消え去り、そして頭の中で、冷司がその場にいた時の、その様子が容易に思い浮かぶ。
逃げたい衝動を抑えて、もう一度ジッとそのシミを見つめる。

そこに、血だらけで横たわる学生服の冷司の姿が、そして助けを求めて手を差し伸べる、彼の姿が想像された。
痛みと恐怖が、まるで自分のことのように身体の中に沸き立ち、鳥肌を立てながら小さく震えそうになる。
執拗な攻撃は、まわりに沢山いたであろう人々がまるで無人であったかのように、ただ1人彼に向けられ、それは様々な憶測を呼んで更に彼を傷つけた。

ああ、冷司、冷司、冷司…………

頭の中をたくさんの読んできた記事がグルグル巡り、身体ばかりでなく心まで傷つけられた彼の気持ちを思うと涙が浮かぶ。

構内をアナウンスが響き、また電車が着いた。
ドッと一斉に降りた乗客が、改札を通ってくる。
誰もがそのシミの事など忘れたように、踏みつけて通り抜けては、邪魔な様子で光輝を避けて行く。

なあ冷司……その時…………
お前を誰か、助けてくれたんだろうか。
お前は誰かに、救われたんだろうか。

助けてと、叫ぶ声が耳に響いたような気がする。
光輝はシミを踏む人々の足が冷司自身さえも踏みつけているようで、胸が痛み知らず涙がこぼれた。



 いつもはけっこう人の多い図書館も珍しく人が少なく、静かに冷司はいつもの席に座り、本を開いて勉強していた。
全く頭に入らないが、目だけが文字を追っている。
信じていいのか分からない。
ずっと前に、信じることをやめて楽になったと思っていた。
周りの誰しも、傷を引きずっている冷司にかまう暇は無かったのだろう。
誰もが関わりを持つことを避け、次第に足を遠ざけては背を向ける。
気が付けば、一人っきりで辛い後遺症と闘う日々が待っていた。

シュッ、シュッ、シュッ

聞き慣れた足音が、ひっそりと近くに寄ってきた。
冷司の手が震え、凍り付いたように顔が上がらない。
やがていつも光輝が座っていた席のイスが引かれ、彼がドスンと座った。
「よう、元気?」
ハッと息を飲み、冷司が恐る恐る顔を上げる。
それでも、彼の顔を見ることが出来ない。
二人ともしばらく押し黙ったまま、ただ真っ直ぐに部屋の一点を見つめる。
ごくんと一息のみ、冷司がようやく声を出した。
「聞いた?」
「ああ」

そう…………

スッと、なぜか冷司の背から重しが減ったような気がした。
フッと微笑み、ペンを指で転がして遊ぶ。
もう、何も怖くないと思った。
「高校、3年の、10月だった。学校帰り、駅でいきなり…………さ。」
「……ん」
「通り魔って言うのかな、両親も誰も知らない若い男。くだらない……本当にくだらない理由で……何度も……何度も刺されて……死にかけて。それでも、命だけは助かった。」
「……ん」
「で……も……」
冷司が口を開きかけて思いとどまり、ギュッと右手で左腕を握る。そしてもう一度口を開いた。
「そ……その犯人がさ、ひどい奴で……」
ごくんと息を飲む。
犯人に振り回され、マスコミに全てを滅茶苦茶にされた。あの悪夢のような時間が思い出され、背筋が寒くなる。
「そのころ銀行の役職だった父さんは、新聞や週刊誌にあること無いこと書かれて、とうとう地方に左遷された。
母さんも、悪い噂に振り回されて落ち込んで。
僕もさ、気が付いたら誰も友達なんかいなくなってて、残ったのは傷の後遺症とPTSD。
もう、家族も何もかも滅茶苦茶でさ、誰が本当の被害者かわかんないよ……なあ。」
じっと、光輝は身動きもせず聞いていた。
心のどこかで、ひたすら何かを願う冷司がいる。
誰しもが事件のことを聞くと、同情の言葉を残して、逃げるように去っていった。
もう、傷つくことには慣れている。
やがて言葉のない相手を不安に思い、冷司がそうっと横目でうかがった。

ドキッと心臓が、胸を叩く。

光輝は、ポロポロ泣いていた。
やがてゴシゴシとシャツで涙を拭き、キッと顔を上げて冷司を真っ直ぐに見つめる。
「ごめんな、レイ、ごめんな。」
「何、謝ってんだよ、光輝は別に…」
「俺、俺、何でもっと早く会わなかったんだろ。何で近くに生まれなかったんだろ。」
「そんなこと……」
「俺、俺、でも、考えてた。」
「何を?」
「俺に、出来ること。ずっと、ここに来るまでずっと考えてたんだ。」
光輝のその顔は、今までの友人と違って、とても輝いて見える。
冷司は目を見開き、そして自分の周りまで明るく世界が広がった気がしてきた。
「何を…何を考えてきたんだい?」
問われてふと、光輝が窓の外に目を移す。
「それは…………」

自分に何が出来るんだろう。
まだ、その答えが出ないんだ。
でも、すぐそこにある気がして……

外では図書館のスタッフが、ちょうどホースで植木に水をまいている。

サアアアア…………

涼しげな水音と共に、その水がキラキラと光を含んで輝き、まるで宝石のようだ。

きれいだな……

その輝きに思わず見入って、光輝がふと漏らした。
「え?なに?」
冷司が彼の視線を追って窓に目をやる。光輝がその横顔を見て、目を細め閉じた。

冷司は、冷司だ。
過去に何があっても。
これが俺の好きな……

ハッと目を見開いた。

好き?
……好き?

「ふふ、ふふふ。」
「なに?どうしたの?」

俺って…………馬鹿だな。

もやもやした気持ちが晴れて、一つうなずく。
自分の気持ちが、ここに来てようやくわかった気がした。
なんて不器用なんだろうと、自分で自分がおかしい。
そしてあらためて、彼の薄いブラウンの瞳を見つめた。
「冷司」
「え?」
互いに見つめ合い、互いの視線を探る。
日差しが窓から何かに反射して差し込み、2人の顔を穏やかに照らしていた。
「なあ冷司。あんな、ただの水もさ、光を当てるとダイヤみたいに輝くんだな。」
何気なくつぶやいた言葉に、冷司が首をかしげる。
「え?なにが?」
冷司の唇がかすかに開き、ちらりと覗く歯に何故かどきんと心臓が高鳴る。慌てて目を逸らし、カッと熱くなる顔を手の甲で拭いた。
「そ……そうだな、水だけじゃない、冷たい氷だってそうだろ?えっと……綺麗だなってさ、そう思わない?」
冷司がきょとんと、意味が分からず真っ赤な顔の光輝に見入った。
光輝が回りくどいことを言って、もじもじと恥ずかしそうにあたりを見回す。
「それって、どういう意味?」
ぽかんとした面持ちで冷司がぽろりとペンを落とし、床をころころ転がっていく。
「あ」
「ああ、俺が」
慌てて二人、同時にイスを引きかがみ込んだとき、ゴツンと互いの頭をぶつけた。
「いってえ」
「いたた」
頭をさすりながら、机の下に二人して潜り込み、ペンを探す。
「あ、あった。ほら!」
冷司が探し当てて光輝に見せたとき、間近にいた彼の息がスッと頬にかかり、唇が触れた。
「あっ」
驚いて離し、気恥ずかしそうに見つめ合う。
それが真顔に変わり、光輝が冷司の唇に軽くキスをして、耳元でささやいた。

「冷司、俺がお前の光になるよ。」
「コウ……」
「俺が、お前の光になる。」

あ…ああ………

何かが、心の中で溶けてゆく。
机の横を、誰かの足が知らず通り過ぎ、子供達が嬌声を上げて絵本片手に部屋に入ってきた。
冷司が、微笑む光輝に微笑み返して目を閉じる。
もう一度、キス。
そして、もう一度、口づけを。

「また明日、図書館で会おう」

誰も知らない図書館の机の下で、今、恋が始まった。