5、

 春美と芝浦は、食事の前に外へ出て庭園を散策していた。
予約の時間にはまだまだ間がある。
見事に咲き乱れた薔薇が、緑の中に美しい。
テラスにはドレス姿の女性客が、楚々と気取ってお茶を飲んでいる。
都会の中に、こんな景色があるなんて信じられない面もちで、二人も緑の息吹を胸一杯に呼吸しながら腕を組み、ゆっくりと歩いていた。
「ねえ、あの通販のお話しどうするの?」
「え?ああ、あれ?そうだなあ・・
日本中、どこにいても手に入れられるって言うのは、良くもあるんだけど・・」
確かに、ビジネスを考えると魅力のある販売方法だ。
「すでにさ、インターネットじゃ通販に乗せている販売店もあるんだ。でもね・・」
自分の作品が通販に紹介されているのを見たときは、とても複雑だったのを覚えている。
ベアには芝浦として独自にこだわりを持っていた事が、ほんの少し崩れてしまった気がしたのだ。
くすっと笑って、春美が組んだ腕をギュッと引き寄せる。
「ねえ、あなたは自分のベアとお客さんが、どんな風に出会って欲しいの?」
芝浦はちらりと春美を見て、空を仰いでうーんと考えた。
「うん、俺はさ、ちゃんと出会いを大切にして欲しいんだ。」
「出会い?」
「ん、ベアって、一つ一つが同じじゃないんだ。みんな違う顔の、みんな違う性格をした子達なんだよ。
だからね、買いに行くと沢山の中にたった一匹、そのお客さんと相性のいい奴が呼ぶんだ。
おい!買ってくれよ!俺はお前と一緒にいたいんだ!買ってくれよ!一緒に暮らそう!ってね。」
「アハハハ!懸命にアピールするのね?」
「そうさ。
ベアにはね、魂が宿ってるんだよ。」
「そっかあ、じゃあハルはクーとばっちりの相性なんだ。」
「そうだな、ハルにはクーが家族の一人なんだもんな。」
「じゃあ!」
春美が、タタッと先に行く。そしてくるりと振り返った。
「じゃあ、考えること無いわ。
出会いを大切にしたいのなら、そう言う売り方を通すべきよ。
崎森さんも、きっと分かってくれるわ。
そこに行かないと手に入らないと言われるなら、あなたが行けばいいのよ。
日本中どこだって。」
キョトンと聞いていた芝浦が、くすっと笑う。
「君、どんな仕事していたんだ?ベアはそれ程メジャーじゃないよ。
高い金出して買ってくれる人は、地方にはそれ程多くない。
足代、場所代、運送費。それじゃあ全然儲からないよ。」
「ま!じゃあ、通販でも使うのね。
出会いは出会い!一方的に送られてきたベアとの出会いだって、それは運命よ。」
「何だよ、結局それに行き着くわけ?」
「そうねえ、行き着いちゃうわねえ。」
「ははっ!何だか君までハルに似てきたね。
どうしようねえ、行き着いちゃうねえ、クー。ってさ。あはははは!」
「あらやだ、ほんと!あはははは!」
咲き乱れる薔薇の中、春美の笑顔が眩しいほど美しい。
彼女は突出するほど美しいわけではない、普通なみの容姿だ。それが何故か、芝浦にはその時、とても美しく感じられた。
今まで付き合ってきた女性の中で、誰よりも自分を理解してくれる。
ハルがいなかったら、彼女とは永遠にただのお隣で終わっただろう。
「ハルに、感謝だな・・」
芝浦が、ぽつりと小さく漏らす。
春美が覗き込んで、首を傾げた。
「なあに?」
「いいや、俺も今のままじゃ進まないと思うんだよ。だから今回の仕事みたいにね、大手と手を組んでベアを『シーバα』と言うレーベルで売り出すんだ。
数を作って、誰でも手が出やすい価格設定にしてね。
今回のベアが第一号。続けて出すかは今度の売れ行き次第さ。」
「そうね、販路が広がれば、もっと沢山作って、もっと安くできる。
そして、オリジナルはオリジナルブランドとしての価値を持たせれば、イメージダウンにはならない。こだわりのある人ならきっとそれを選ぶもの。
素敵ね!みんながあなたのベアを持てるわ!」
「だったらいいけどね。
売れなくて返品の山になるかもしれないよ。」
「あら!その時は私がリヤカーに乗せて、毎日行商して回るわよ。
こんにちは、テディベアいりませんか?」
「成る程、君にはそのドレスより似合うかも。
まあ、その時はお願いするよ。」
春美がぶすっとしてそっぽを向く。
「あなたって、必ず一言多いんだから。」
「ごめんごめん、今のは撤回します!」
芝浦が春美の手を取る。
春美も、顔を背けながら彼に見えない角度でにっこり笑い、彼の温かい手をしっかりと握り返した。
 浴槽の水音が消え、正義がガバッと身体を起こし、カーテンに手を入れて蛇口をカラカラと回す。
まさかっ!断水?!駄目だ、出ない!
ここまできて、どうし・・・はっ!
ドアに、何か気配を感じてバッと振り返る。
開いているドアの向こうには、クーが転がっているだけだ。
部屋には他に誰もいない。
ブルブル・・
突然クーが、小刻みに震え始めた。
正義が口をあんぐりと開いてじっと正視していると、クーがぴょこんと立ち上がった。
「ひいっ!」
バタバタ這い蹲って、風呂場の奥の壁際に小さくなる。
ここには、逃げ場がない。
可愛らしいクーがくるっと正義に顔を向け、トコトコ一人で歩いて風呂場の段差をよいしょと入ってきた。
「ゆ、許してくれ・・許してくれ・・」
泣きながら小さく丸まって許しを請う正義に、クーはトコトコ近づいてくる。
「許してくれえ!!金が・・自由になる金が欲しいだけなんだ!
婿養子には・・そんな金無いんだよ!兄さんが死んで、跡を継げば全部俺の物になる。
仕方ないんだ!あの女が悪いんだ!
女に払わないと・・俺は破滅だ!
だから、わかってくれよ!わかってくれ!
クー!」
トコトコ歩いてきたクーが、正義の足下に立ち止まる。
そしてじっと動かなくなった。
ギュッと閉じていた目を開きクーを窺うと、真っ黒な瞳が正義を見ている。
動かない・・・?
恐怖でガタガタ震える体をそうっと開き、少し余裕が出たのかクーを覗き込む。
そうだ、こいつはただのクマの縫いぐるみじゃないか。何を怖がる必要がある。
ははっ!ははっ!バカみたいだ。
クーを、怖々ながら蹴ろうと片足を出したとき、ブワッとクーの身体から白い煙が吹き出した。
「ひいっ!」
思わずその煙を見上げると、そこには何と煙の向こうにうっすらと洋秀の姿が現れたのだ。
お、お、お、お義父さん!
声にならない声を上げ、口をパクパクさせながら見上げると、洋秀は白い顔で悲しい目を投げかける。
「ひ、ひ、ひ、許してくれ!ゆ、許して・・!」
正義はドッと涙を浮かべながら、懸命に手を合わせ念仏を唱えていた。
 春美達が無人のエレベーターに乗り込み、空中庭園つまり屋上へのボタンを押す。
そのドアが閉まりかけたとき、サッとスタッフがドアに手を差し込み開延長のボタンを押した。
「申し訳ございません、少々お待ちを。」
何故か緊張した面もちで、ぺこりと頭を下げる。
「洋子様!ご案内を・・」
「いらん!自分の部署に戻れ!」
「しかし・・」
数人のスタッフに追われながら、毛皮のロングコートを着た派手な中年女性が向かってくる。
女性はイライラした様子で、追ってきたスタッフを追い払っていた。
「鍵は預かった、それでいい。
君は何故オーナーの私に案内がいると思う?いいかね?同じ事を私に二度言わせるな!」
「は、はい!」
ひっそりした声で、ピシャリと女性はスタッフを叱咤している。
「失礼。」
女性が軽く会釈してエレベーターに乗り込むと、春美が泊まっている階のボタンを押した。
今度は、春美が芝浦をドンと小突く。
二人、顔を見合わせ洋子の背中をチラチラと見ていた。
チンッ!
エレベーターが止まり、サッと毛皮を翻して洋子がエレベーターを出る。
二人も慌ててそれを追った。
「ちょっと!あれじゃない?
洋子って、ハルの叔母さん?凄い毛皮ね!
どうしてあんなに急いでるんだろう?」
「様子が変だな。行ってみよう。」
こそこそ後を追うと、走るようにして部屋に向かう。
ドアの外で待機していた村樹が、洋子に気が付き頭を下げた。
「これは、洋子様。何か?」
「村樹!中に入るわ。」
「それは!こちらはお客様の部屋です!」
「正義がいるんでしょ!用があるのよ!」
洋子が村樹を押しのけ、鍵を差し入れようとする。春美が思わず走り寄った。
「ちょっと!そこは私の部屋よ!勝手に入らないで!」
「うるさい!ここにお前を泊めたのは私だ!
文句を言うなら金を払え!」
「ぐっ!な、な、なんて失礼な・・」
しかし、洋子の言葉は的を得ている。
「うん、それは間違いないな。」
納得する芝浦をドカッと叩いた春美が言葉に詰まっているうちに、洋子はとうとう鍵を開けて中へ飛び込んでいった。
 「正義っ!」
ダッと駆け込んだ洋子が、勢いで奥まで飛び込み室内を見回す。
ついで村樹が入り、春美達もただ事ではない雰囲気に飛び込んだ。
「正義っ!ハル!どこ?!」
「洋子様!」
「ヒイイッ!クーが浮いてるう!」
村樹達三人がドアの開け放たれた浴室の前で凍り付いている。
くるりと踵を返して浴室に洋子が飛び込むと、宙に浮いていたクーがポトンと落ち、同時に浴槽の方で水が勢い良く流れ始めた。
「何っ?!これは!」
奥の床には、正義が頭を抱えて小さく身体を丸めている。
「正義っ!ハルはどこっ!」
洋子が正義の襟元に掴みかかり、女性とは思えない力で引きずり上げる。
その時、カチャンと音を立てて、足下にスタンガンが転げ落ちた。
「これは、まさかスタンガン?まさかあんた!」
「何?一体何?」
ピンときた芝浦と同じように村樹にも察しが付いたのか、村樹が飛び込みシャッと浴槽のカーテンを開ける。
「きゃああ!ハル!ハル!死んでる!」
「晴美!」
洋子達の顔から血の気が失せる。
浴槽に横たわって微動だにしないハルの姿は、顔の半分を水に沈めてすでに死んでいるように見えた。
「晴美様!」
「ハルッ!早く!村樹早く!」
洋子がドサッと正義を放り投げ、蛇口を慌てて閉める。
村樹がうっすらと水が溜まった浴槽に足を踏み入れ、ハルの身体を抱き上げようとした時、
ハルの目がパチッと開いた。
ゆらりとハルが、自分で身体を起こす。
そしてまるで何事もなかったかのように、にっこり笑った。
「ハル、あんた大丈夫なの?」
「ハル!大丈夫?ほんとに?!」
みんなが一斉にハルを取り囲み、心配そうな顔で覗き込む。
「ハル、大丈夫だよ。」
「晴美様、頭は?痛くありませんか?」
ハルの頭は、髪の毛の上からでもわかるほど腫れ上がっている。村樹が心配して触れようとした手をハルが振りほどき、ピョコンと立ち上がった。
「ムーキ、病院に行こう。痛いときは、病院だよ。」
ハルが目をぎょろりと村樹に向け、手を借りながら浴槽を出て、さっさと浴室を後にする。
村樹は洋子と顔を見合わせると、頷いてハルの後を追った。
「ハル、濡れているから着替えた方がいいわ。」
春美が慌ててハルを追って浴室を出る。
しかしハルは、それも無視して部屋を出てしまった。
「あっ!村樹さん!クーを!」
芝浦が落ちていたクーを拾い、ドアを出ようとしていた村樹に渡す。
「どうも。」
無愛想にぺこりと頭を下げ、村樹はハルの後を追って部屋を出ていった。
「ハル、何だか・・」
様子がおかしい・・頭を打ったかしら?
「あいつ、脳味噌にスイッチが入ったかな?」
芝浦も不思議そうに春美の横に立ち、閉まったドアを呆然と眺めている。
浴室からは洋子がギロッと二人を睨み付け、バタンと浴室のドアを閉めた。
春美達も部外者でいて、関係してしまったからには部屋を出るわけにも行かない。顔を見合わせると今度は浴室の中が気になって、浴室のドアに張り付き、聞き耳を立て始めた。
 
 浴室では、洋子がだらしなく乱れた姿で床に転がったままの正義を、腰に手を当て見下ろしている。
いつもの機敏で清々しい男のカケラも残らぬその姿に、夏美の気持ちを考えると洋子は胸が痛んだ。
「良くもまあ、とんでもない事してくれたわね。あのまま死んでたら、何て言ってごまかす気だったの?」
正義は床に座ったまま、無言で返事をしない。
洋子はスタンガンを拾い上げてコートのポケットに放り込むと、フンッと息巻いてタバコを取りだし火をつけた。
「正義、あんたの行動なんてお見通しなのよ。
フン!忙しい忙しいって、何で忙しいのかわかったもんじゃない。
昔の女追いかけて、それをネタに金を強請られて。恥ずかしいったらありゃしない。」
正義の肩がブルブルと震える。
見えない顔の下から、涙がポタポタとズボンに落ち、黒いシミを作っていった。
「知ってるのよ。
兄さんがガンと分かった後、あんたずっとハルの命を狙ってたでしょう?
女から何て吹き込まれたか知らないけど、猫いらずを庭にまいたりクッキー缶に入れたりしたの、あんたね?
今度はこんな物使って、事故に見せかける訳?
呆れた浅知恵だこと。サスペンス小説も腹を抱えて笑うわね。
ハルにセーギと呼ばせて、良くもまあそんなことが出来たものだわ。」
フーッと洋子が煙を吐く。
「あんたに・・・あんたに何が分かる・・」
正義が、絞り出したような声を出す。
洋子はバカにしたように笑い出した。
「ホッホッホ!わかんないわね!バカの考えなんか!
信用第一の銀行マンが、その先頭を行く者が、聞いて呆れるわね!
あんたは自分の前に、社員のことを考える立場の人間でしょう?」
「わかっているさ!でも、俺にはそれが・・」
「それが重荷なんて、へそが痒くなるような甘えた言葉言わないで頂戴!
今あんたがそれを言っても、浮気がばれた情けない男の言い訳にしか聞こえないわ。」
「じゃあ!どうしろって言うんだ!
俺だって・・まさかあんな女に・・」
がっくり項垂れる正義に、洋子も大きな溜息をつく。
「さあ、風呂場を出てこっちでゆっくり話しましょうか。向こうのお二人さんも、もう無関係ではないし十分説明しなければね。
不用意に事を漏らされても迷惑だし・・
口止めにまた大金がいるわ。
正義いいわね、この部屋を出たら今のことは忘れなさい。
ハルは自分で滑ったのよ。
これは事故、それで通すの。わかったわね!」
洋子がくるりと浴室のドアへ向かう。
微動だにしない正義に、洋子は肩越しに一言笑いながら言った。
「ああ、それとあんたを強請った恥知らずの女。ホホ!ちゃんとチンピラの彼がいたわよ。
可笑しいわねえ、ちょいと勇ちゃんの手を借りたら彼、さっさと逃げてったわ。
まあ、その後山に埋められたか、海に沈んだかどうかは知らないけど。」
「勇・・極勇会?女は?!女にも手を出したのか?!」
洋子の友人でも、勇ちゃんはその筋の組長だ。
一番たちが悪い。
しかし未だに女を心配してガバッと身体を起こした正義に、洋子が眉をひそめた。
「薄汚い未練なんかおよしなさい!
女にはあんたが金にしか見えなかったのよ。
男がバカにされたときは、どういう態度取るべきか分かるでしょう。
仮にも白川銀行のトップが、馬鹿にされても未練を言うような男とは思いたくないわ。
あなたも白川の家に来た時、覚悟は出来ているはずよ。」
プイと洋子が冷たく背中を見せる。
正義はがっくり項垂れ頭を抱えると、嗚咽を漏らした。
「うう・・おおおおお・・」
「馬鹿な男。」
浴室を出ると、そうっと様子を窺っていた二人が洋子に軽く会釈する。横に立つ芝浦は、むっつりした顔で吐き捨てるように言った。
「口止めなんか結構!俺達はハルの友達なんだ。金なんか無くても喋りませんよ!」
その言葉に洋子は薄ら笑いを浮かべ、フンッと吐き捨てた。
「口では何とでも言えるわ、きれい事なんか聞きたくない。
金が安全弁なんだから、貰ってくれなきゃ私達が心配なのよ。」
「フン!金持ちなんて、薄っぺらな人間ばかりなんだな。金しか信用できないんだ。」
「ええ、そうよ。
私は何度もそれで苦汁を飲んだ。
私だってね、大切な物を守るためなら何でもやるわ。私には守らなければならない物が沢山あるの!」
キッと、洋子が芝浦を見据える。
その迫力に、芝浦には洋子の後ろに、いくつもの会社とその従業員が見えた。
それを支える圧倒的な人間の強さを洋子は持っている、芝浦は押されて思わず身を引いた。
「そ・・れでも、俺達だって納得できるだけの金しか受け取りません。
俺達は、金が目当てでハルの世話をしたんじゃないんだ。ハルが好きで一緒にいただけなんだから。」
一気に喋って、芝浦が軽いめまいを起こして春美に支えられる。
それを見て洋子が、ホッホッホッと高らかに笑った。
「まあ、見てくれは情けないけど、根性はあるわね。いいわ、あなたの好きにすればいい。
ただし、必ずいくらかは受け取って貰うわ。
それが口外しないと言う契約金。
でないと、気の小さな私は今夜から眠れないのよ。
じゃあ、話をしましょうか。どうぞ・・」
誰が気が小さいだって?とんだ狸ババアだ。きっとこいつがハルがオニババと呼んでいた奴に違いない。
芝浦は善戦したが結局は洋子に惨敗すると、春美に促されてすとんと腰掛けた。
テーブルには二つしか椅子がない。洋子はドレッサーの椅子を出し、毛皮を翻してドカッと座る。遅れて、幽霊のような正義がドッと崩れるように床にあぐらを組んだ。
洋子がタバコをくわえ、ライターで火をつける。
重い気持ちを引きずって、洋子はハルの生い立ちから語り始めた。
 そして部屋の外では、その部屋の前に立つ婦人が一人、迷いながらベルに指を添えている姿があった。
その人の名はレティナ・グランディス。
ハルの生みの母親だった。

 村樹も難なく抱いているハルは、十五才とは言っても体は小さい。
飄々と前を見るその姿は痛みを堪えているようにも見えず、ましていつも大切にしているクーを部屋に置き忘れるなどいつものハルには考えられない行動だ。
しかもハルの頭には酷いコブが出来て、額に皮下の内出血がうっすらと見えている。
強く打ったのだろうが、意識もはっきりしているし麻痺も見られないから、今のところは心配はいらないだろう。
医務室は、二階の裏手にあるので客室からは少し離れている。
すでにフロントへは連絡が行っているので、医務室にはドクターが待機しているはずだ。
エレベーターには数人の宿泊客が、大きな子供を抱いた村樹をちらりと見て、無関心を装いながら降りていった。
「晴美様、すぐにお医者様に見ていただきましょう。すぐでございますよ。」
「ハルは大丈夫、ねえねえムーキ?」
ハルがにっこり笑って村樹に抱きついてくる。
ハルの髪がフワリと頬をくすぐり、微かにシャンプーの香りが漂ってきた。
「セーギ、お風呂に寝てたね。大丈夫かな?」
正義が、ハルにしようとしたことを悟られてはいけない。
理解力が乏しい事が、こう言う時は助かる。
「はい、洋子様がみえてらしたから大丈夫ですよ。すぐにお元気になります。」
「オニババ、セーギいじめない?」
「はは、大丈夫、洋子様は言葉はキツイですがお優しい方です。」
フッと微笑み、村樹がエレベーターを降りて、医務室へ急ぐ。
「・・ねえ、ムーキ。」
「はい。」
「ハルはね、ミーカとパパに会ってきたよ。」
この場合、パパとは先の会長だろうか?
ハルは本当の父親洋秀しか、パパと呼ばない。
するとすでに死んだ二人?つまりあの世にでも行ったのだろうか?
「・・・そうで・・ございますか。」
「ハルは早くシュウチに会わなきゃ、ハルには沢山お仕事があるの。ハルは夢で見たとおりにすれば、間違いないんだよ。
みんなね、おうちでニコニコ笑ってたから。
今までも、そうしてきたの。」
「夢ですか?」
この子は何を言っているんだろう。ハルは時々訳の分からないことを言う。
「夢の通りに?それは迷わなくていいですね。」
「ん、ハルはね、今からあるのを夢で見るの。
間違ったこと、無いよ。」
思わず村樹の足が止まる。
これは、まさか・・
今まで何度と無く、ハルは不可思議な行動で皆を驚かせてきた。
それが・・予知夢?
「晴美様、その夢には・・・
正義様の姿は・・ございましたか?」
「うん、セーギいたよ。
でね、シュウチもいるのに、クーがいなかった。クー、きっといなくなっちゃうんだ。
寂しいね、ハルもそこにいればいいのに。」
ポロリと、ハルの目から涙が一筋落ちた。
それが何を意味するのか、村樹にはとうてい考えも及ばない。
白川家の警護を仕事とする彼は、ハルの事も熟知しているつもりだ。
しかしプロの彼をしても、この小さな少年一人を掴むことが出来ない。驚くべき事に時々、知恵が回らないようで、裏をかかれるのだ。
「ムーキ、ムーキは絶対ハルをシュウチに会わせてくれるよ。」
「またそんな事を・・絶対会わせませんよ。」
とそこへ、スタッフが慌てて二人を追いかけてくる。村樹は何故か、胸騒ぎを覚えてそこで立ち止まった。
「白川様!申し訳ございません!
今、ドクターが急患に呼ばれまして!
連絡が済んでおりますからこちらの病院へと。
頭を打ったのなら、きちんと検査した方がいいでしょうとの伝言でございます。
大丈夫でしょうか?救急車をお呼びしますか?」
「いや、いい。」
村樹がスタッフの手からメモを受け取る。
そしてその病院名を見るなり、ザワッと全身を鳥肌が立った。
そこは、確かに秀一が入院している病院だったのだ。
「シュウチ、もうすぐ会えるよ・・」
何も知らないはずのハルが、何かしら確信を持って目を閉じる。
村樹はハルに、何か神懸かりな物を感じて背中が薄ら寒い気がしながら、駐車場へ歩き出した。
 病院では、確かに連絡が来ていたらしく、白川の名を出すとすぐに診察室へと通された。
大学の付属病院とは言っても、一族経営でここの理事長は洋子とは古い友人だ。多少の我が侭も聞いてくれる。
冷静になってそれを考えると、ホテルのドクターがここを紹介したのも頷ける。
村樹は自分のオカルトじみた考えに苦笑して、診察を受けた後で指示を貰い、ハルの手を引いて検査室へと向かった。
「気分は悪くないですか?」
村樹の質問が聞こえなかったのか、ハルはキョロキョロ辺りを見回している。
しかしハルはここに秀一が入院していることを知らないはずだから、ひとまずは安心だ。
「晴美様?どう・・」
「あっちだ!」
パッと繋いでいた手を離し、普段から考えられないスピードで偶然扉の開いたエレベータに走り始める。
「晴美様!いけません!」
慌てて後を追う村樹の前を、患者が横たわるストレッチャーが遮り、ハルを乗せたエレベーターのドアが閉まって矢印が上を示した。
「チッ!上か!」
階段に走りダッと駆け上がるが、ここは病院。
階段にはそろそろと上がる患者や杖をつく付き添いらしい老人の姿もあり、なかなか足が進まない。
まさか、秀一の居るICUの場所が分かるとも思えないが、ハルにはそれが難なく分かる気がしてならない。
そしてその村樹の勘が外れなかったことを、ICUの前に立つハルの姿が証明していた。
「晴美様!こんな所に秀一様はいらっしゃいませんよ。さあ、検査に行きましょう。」
グイッと手を引く村樹に、ハルが悲しい視線を投げかける。
そしてハルは、その場にとうとう座り込んでしまった。
「ここ!ここにシュウチいるの。
ハルには分かる。だってここからシュウチの声がするもん。」
「そんなわけないでしょう、秀一様はここにはいらっしゃいません!」
「いるもん!ムーキの嘘つき!
シュウチはここで、助けて!助けてってずっと言ってるのに!」
止めてくれ、そんな恐ろしいことを言うのは。
村樹が眉をひそめ、グイッとハルを立たせる。
「さあ、こんな所に座っては他の方に迷惑です。早く検査に行きましょう。
先生が待っていますよ。さあ!」
「やだ!シュウチに会うの!」
ハルがこんなに言うことを聞かないのはこれが初めてだ。
今まで従順だったハルが、子供らしい我が侭を言う姿を初めて見て、村樹が驚く。
それでも何とか連れて行こうとしていると、偶然ICUから夏美が出てきた。
「ナッチン!ナッチンいた!いたあ!」
「ハル!まあ!ハルじゃない!ハル!どうして一人で外に出たの!心配するじゃない!」
ハルが泣きながら夏美の懐に飛び込む。
夏美は跪き、ハルの身体を抱きしめた。
「だって!だって、シュウチも、ナッチンも、じゃあねっていなくなるんだもん!
シュウチはハルと一緒にお母ちゃん待つって言ったのに!
駄目だよ!ハル置いてっちゃ、駄目!」
「ごめんごめん、ごめんね、ハル。ごめん。」
「じゃあねって!駄目だよ、駄目なんだよ!みんな、じゃあねっていなくなるんだ。
駄目だよおお!ううああ・・」
「ごめんね、ハルごめんね。」
夏美は謝るほかに言葉が見つからない。
ハルは夏美に会えて安心したのか、今まで押し殺していた心の中のわだかまりが吹き出すのを押さえきれなかった。
「ナッチン!ハルはね!嫌だよ!ハルはやだ!
バーカでも、一人はヤなんだ!
バーカでも、ハルはバナナの皮と違うんだよ!
ポイしないで!ハル、嫌いでもポイしないで!
うううう・・わあああああんん!!」
「ハル!誰がハルをポイしたりするもんですか!みんなハルが大好きなの!大切なのよ!
黙っててごめんね。一人にしてごめんなさい。」
泣きながら抱き合う二人を、村樹が後ろからホッとして見つめる。しかし時間がない。
彼は、二人の間に水を差すしかなかった。
「さあ晴美様、先に検査に参りましょう。
先生が待っていらっしゃいますよ。」
あっと夏美が顔を上げ、涙を拭きながら立ち上がりハルの手を引く。
そしてここに来た本当の理由を村樹に聞くと、ハルの頭を確かめた。
「いやだ、本当に酷いわ。大丈夫なの?ハル。」
「ハルは大丈夫!早くシュウチの所へ行こう。
ここからシュウチの声がするの!
シュウチに会わなきゃ!ハルは会わなきゃ!」
驚く夏美が、村樹と顔を見合わせる。
「こう仰って、ご自分でここに。」
必死に訴えるハルを、夏美がじっと見つめる。
この子は、本当に不思議な・・
本当に兄さんが呼んでいるのか、それとも死んだ義姉さんが導いたのか。
「ハルには分かるの?」
「うん、わかるよ。」
涙も拭かず、必死の眼差しでハルが訴える。
しかし、村樹が困って夏美に耳打ちした。
「脳外科のドクターが、MRIと脳波の指示を出されていますので、先に検査を済ませたいのですが。」
「ハルはシュウチに会わないとどこも行かない!シュウチが早いの!」
ハルが村樹の言葉を察して夏美の服を掴む。
今を逃しては会う機会を逸してしまう。
そんな気持ちが強いのだ。
「そう、わかったわ。じゃあ、ほんの少しよ。
シュウチは具合が悪いって寝てるからね、他の人もいるから静かに、シーってしてなきゃ駄目よ。ハルに出来る?」
「うん!出来るよ!シーッだね!出来るよ!
シュウチに会うなら何でも出来る!」
「じゃあ、中は綺麗だからね。ハルも白い服着て、クーは村樹に預けようね。」
ICUは、余計な菌を持ち込まないように上にガウンを着て、アルコールスプレーで身体を消毒して入室する。しかし、アンティークのクーに、アルコールスプレーはかけない方がいいだろう。芝浦なら卒倒するはずだ。
「クー、ムーキと一緒にいてね。
ムーキ、クーを大事にしてね。バイバイ。」
ハルがクーを村樹に託して、夏美に手を引かれICU前室へ入ってゆく。
村樹は頭を軽く下げて二人を見送った。
 ICUの中は、何台もベッドが並びそれぞれが沢山の点滴と器械に囲まれて、付き添いの家族がぽつんぽつんとベッドサイドに付いている。
そして中のスタッフは、記録と処置に追われて忙しそうに歩き回っていた。
「あら、白川さんの息子さん?小・・中学生?
あら、どうしたの?額が青くなってるわ。」
看護婦の一人が、にっこり微笑んでハルに話しかける。しかしハルは、指を立ててシーッと返事を返した。
「ま、面白い子供さんね。」
「すいません。おいで、ハル。」
夏美が頭を下げて、秀一のベッドに手を引いていく。
やがて一つのベッドで止まり、夏美がさあと、ハルを促す。見回すと数本の点滴が天井からぶら下がり、ベッドの横にも袋がいくつか下がっている。そして器械が、規則的な波をモニターに映し出していた。
シュウチは・・ロボットになったのかな・・
あまりの物々しさに怯えながら、ハルがベッドを怖々覗き込む。
そこには顔が土色をした秀一が、ぐったりと眠っていた。
その生気のない姿に、ハルが軽いショックを受けて立ちつくす。
怖い・・何故か知らないけど、とても怖い。
「ハル、外に出ましょう。」
夏美がハルの気持ちを察して肩に手を置いた。
ハルが夏美の顔を見て、潤んだ瞳で首を振る。
そして意を決したように秀一の傍に寄ると、そうっと秀一の顔を撫でた。
シュウチ、可哀想ね・・
するとその時、フッと秀一が目を開けた。
「ハ・・ル・・」
力無い声が、ぽつりと秀一からかすれ出た。
ああ!シュウチだ!ロボットじゃない!
ハルがホッとして思わず呟く。
「お父ちゃん・・」
布団から出した秀一の手を、ハルが涙をポロポロと流しながら握りしめた。
春美が熱い目頭をハンカチで押さえる。
ああ、やっぱり、もっと早く会わせるべきだった。
声を殺して、夏美は泣きながら後悔した。
「シュウチ、お父ちゃんって呼んで、いい?」
ハルは、じっと手をにぎり泣いている。
「私は、前から、ハルの、お父さんだ・・よ。」
秀一はゆっくり頷いて、涙を流した。
そうだ、俺は、この子のためにももっと生きなくてはならない。
この子には、俺だけなんだ。
俺だけが父親なんだ。
「ハル、いい子で、待って、おいで。」
秀一が息継ぎしながら微かに呟く。
ハルは何度もうんうんと頷き、秀一の手をギュッと握った。
 ICUのドアが開き、夏美に連れられてハルが出てきた。
村樹がクーを片手に、軽く会釈して迎え出る。
「ムーキ、クー・・お父ちゃ・・会えた・・」
ハルは項垂れて、クーを受け取りながらもあまり嬉しそうに見えない。
村樹は少し思っていたのと違う反応に、不思議に思って夏美に視線を送った。
「中ではいい子にしてたんだけど・・白衣を脱いでいる時、気持ち悪いって言い出して。
大丈夫かしら?」
夏美の言葉に、村樹の顔が緊張する。
「ムーキ・・頭痛い・・ゲーしそう・・」
ハルの視線がボウッと宙を泳ぐ。
明らかに様子がおかしい。村樹はサッと顔色を変えて、ハルを抱きかかえようとした。
「すぐに検査へ、急いで参ります。」
その時、クーがポトンと落ちて床をころころと転がってゆく。
あっと見ると、ハルの左手がだらんと下がっている。
「ハルッ!」
「晴美様っ!」
「ムーキ・・ハル、変だよ・・頭がぐるぐる」
ガクッと左足が折れて、慌てて村樹が支えて抱え上げる。
「誰かっ!看護婦さん!誰か来て!」
「晴美様!」
村樹の手の中で、ハルがキョロキョロと目を動かす。やがてハルはそのまま意識を失っていった。
 その頃、春美の部屋では洋子と偶然訪れたレティナの睨み合いが続いていた。
それぞれが積年の恨みを持つ同士で、しかも二人とも気が強い。
レティナにしてみれば、洋秀と結婚できなかったのも、一度も純粋に二人の仲を見てくれなかったこの洋子達に原因があるのだ。
思い起こせば、ハルを妊娠したときも洋秀の喜びようは大変な物だった。
それはいずれ一緒に暮らすつもりで新築していた家の庭を、子供に何かあってはとさっそく変更させ、掘らせていた立派な池を埋めてしまったほどだ。
しかしあの頃はどんなに話をしても、金目当ての結婚としか取って貰えなかった。
しかも生まれたハルは、早産の上に未熟児。
小さいときから身体が弱くレティナは子育てに一層苦労したのだ。
今、思い出してもレティナには、辛い事ばかりが思い出される。
五年の月日は、ただ結婚を夢見て耐えるばかりの、辛い、心をすり減らす日々だった。
「あれは・・地獄だったわ。」
レティナが、ぼそりと低い声で呟いた。
洋子がタバコの煙を、フウッとレティナに向けて吐きかける。
遠く、リビングの入り口に立つレティナは、床に座る正義の異様な姿に不信感を抱きながら、相変わらずの洋子の態度にニヤリと口端を上げた。
「相変わらず下品です事。
これが洋秀さんの娘とは思えないわ。
結婚しなくて正解だったかもね。
あなたが娘になるなんて、虫ずが走るわ。」
「ああら、私もあなたほど上品ではありませんから、失礼遊ばしますわ。
私も反対して本当に良かったわ、あんたなんかの娘ですって?
それは素敵!でも反吐が出るわ。
晴美に何の用かしら?今頃。」
灰皿に、タバコを捻り消す。
洋子は腕を組み高飛車な態度で、立っているレティナを座ったまま見下した。
洋子とレティナが火花を散らして睨み合う。
正義は最初レティナを見たっきり、怯えるように顔を伏せたまま微動だにしない。
横にちょこんと座る春美と芝浦は出る幕もなく、ハブとマングースの戦いを息を飲んで見つめていた。
「とことん家族に冷たくされて、どんなに洋秀さんが苦しんでいたか知らないくせに!」
「あんたこそハルを捨てたくせに、母親を放棄した女が子供にどんな顔して会うつもりよ!」
二人が真っ赤な顔で睨み合う。
しかし洋秀が死んだ今、過去のことを言い争っても無意味でしかない。
不幸に終わった出来事には、誰しもが心に後悔の痕跡を残し無常感が漂うのみなのだ。
フッと洋子が大きく溜息をついてレティナから目をそらす。そして窓から、雲の合間に見える青空を見つめた。
「よくもまあ、このホテルに泊まった物ね。
大嫌いな私が経営しているこのホテルに。」
急に声を落とし、落ち着きを取り戻した洋子にくすっとレティナが笑う。そして懐かしむように窓辺に寄り、遠い目で外を眺めた。
「このホテルは、洋秀さんの夢ですもの。
いつかこんなホテルが出来たらいいって、いつも言ってらしたから・・噂を聞いて、一度泊まってみたかったのよ。」
「ふん、・・それはどうも。」
「ここは、あの人の夢の中。
それが叶えられたのなら、私はもう一つの心残りにケリを付けなければならない。
私は・・私はあの子に、晴美に謝りに来たのよ。」
「謝り?今頃?」
「そうね。でも私は、何も言わず別れたあの子に、きちんと説明してあげたいの。」
「ふん、あんたの心の整理の為に振り回されるあの子は、たまったものじゃないわね。」
洋子が、静かに悪態を付く。
この十年、ずっと母親を待っていたハルの姿を見てきたからこそ、レティナの気持ちも今更の感が払拭できないのだ。
「あの!」
その時、レティナの横で黙って聞いていた春美が、意を決したように立ち上がった。
芝浦が、大きな溜息をついて首を振っている。
「あの、私は部外者ですけど・・
確かにそれはレティナさんの気持ちの整理でもあるけど、ハルの心の整理にもなると思います。
あの子は何もわからないようで、本当は何でも知りたいんです。教えて欲しいんです。
きっとレティナさんの都合とか、自分は今、どの家の子なのかって、わかると思います。」
洋子が春美をちらりと見て、タバコに火をつける。白い煙を吐きながら、俯くレティナに溜息をついた。
レティナはギュッと手を胸の前で組み、俯いて祈るように目を閉じている。
「私・・あの子の最後の顔が、何も知らない最後の顔が頭から離れないのよ。
私、あの子に謝りたいの・・」
その目からはポタポタと涙がこぼれ落ち、美しいグリーンの絨毯にシミを作っていく。
正義はようやく顔を上げ、そのシミをぼんやりと見つめていた。
「フン、私だってね。
父に悪かったと・・思っていたのよ。」
洋子がタバコを灰皿にもみ消し、春美達を見ると小さく首を振る。
他人に、ここまで深入りされるなんて・・
床に座ったままの正義を見るのも気が重い。
どうした物か・・考えるたびに秀一の顔が浮かぶ。洋子の頭には、珍しく最善の判断がなかなか浮かんでこなかった。
ピルルルル・・ピルルルル・・
洋子の携帯が鳴り、レティナの目を気にしながら電話を取る。すると電話の向こうで村樹が、いつもの冷静さを懸命に保ちながら早口で話した。
「何?村樹?どうかしたの?
・・・え?なんですって?」
洋子が目を大きく見開き、サッと顔色を失う。
ぼんやりと座っていた正義が、不安な表情で顔を上げた。
 無機質な金属のドアの前で、村樹が立ちつくす。
その自動ドアの向こうは、幾部屋も手術室が並び、そのいくつかで手術が行われているのだ。
つい先日、そこでは秀一が胃ガンの手術を受けたばかりだった。
向かいにある二つの小さな待合室には、他に一組の家族が無事に終わることを祈りながら、重い時間を過ごしている。
そしてもう一つの部屋には、ずっと泣いている夏美とそれを慰めている芳樹、そして慌てて駆けつけてきた洋子や正義、それに春美達も座っていた。
村樹は責任を感じて、とても同じ部屋に座っていられないのだ。
あの時無理矢理にでも先に検査に連れてゆけば。それを考えると、自分の考えの甘さが悔やまれて仕方ない。
しかしそれを口にすると、あの時先に秀一に会わせた夏美も責める事になってしまう。
正義は頭を抱えたまま無言で苦悩し、夏美はずっと自分を責めて取り乱している。
ドクターの説明を聞くまでもなく、ハルは頭を強打したことで頭部を骨折していたのだ。
いっそ、意識がなかったら、救急車で最適な治療を最速で受けられたに違いない。
不幸なことがこうも続いて、夏美は精神的に打ちのめされてしまったのだろう。
控え室で泣き叫ぶ夏美に、芳樹が来ると村樹はいたたまれず部屋を出た。
 コツコツと足音が近寄ってくる。
村樹の後ろには、レティナが立っていた。
ドッと疲れた顔をして、彼女も廊下や病棟を歩き回っている。
何か言いたそうに、俯いてチラチラと村樹の顔や夏美達のいる控え室に視線を走らせる。
村樹は彼女に何と声を掛けるべきか迷って、ただ軽く会釈した。
「私・・・このままいても、いいのかしら?」
レティナが戸惑いがちに小さく囁く。
確かに、彼女は実質もうハルの母親ではない。
彼女にその意志がないのなら、ここにいなくても何ら問題はないのだ。
「それはあなた次第でしょう。私には判断しかねます。」
つっけんどんな返答に、レティナが苦しい顔で首を振る。
もう、すでに十九時を過ぎている。
ハルが手術室に入って、二時間を回っていた。
「子供は友人に預かって貰っているし・・
晴美は私が産んだ子ですもの。手術が終わるまで待ちたいわ。」
「あなたが待ちたいと仰るなら待てばいい。」
「いいえ!帰って頂戴!」
突然、夏美がレティナに気付いて部屋を飛び出してきた。
夏美はレティナとは初対面のはずだ。
恐らく他の家族から聞いたのだろう。
「今更ハルにどんな顔して会うつもり?
あなたは知らないでしょうね。
あの子は家に来た後、何年も庭から玄関を見続けて、あなたを待っていたのよ。
酷い人!あなたなんか親じゃないわ!もう二度と会わないで!」
感情的に叫ぶ夏美に、レティナも黙ってはいない。レティナは先程までの弱気も消えて、キッと夏美を睨み付けた。
「あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ。誰のせいで彼と結婚できなかったと思うの?あの時結婚できていれば、ハルを手放すことも国へ帰ることもなかったのよ。
冗談じゃないわ。」
「親子ほど年が離れた女を、兄さんや姉さんが許せなかったのは当たり前じゃない!
私だって知ってたら、やっぱり反対したわよ!」
ギリギリと、女二人が睨み合う。
 みんながぞろぞろと夏美を止めに部屋を出た後、部屋の中ではじっと動かない正義に、洋子が腰に手を当て蔑むように見下ろしていた。
「やっぱりあなた、あわよくばこのままって思ってるわけ?」
洋子がちらりとドアの向こうに目を配りながら囁く。正義は目を剥いて洋子の顔を睨み付けた。
「そんなこと!思っているわけないでしょう!
俺は、何て事を・・あの子が死んだら・・
俺のせいだ、俺は大変な過ちを・・」
「事故よ。」
「え?」
「あれは事故よ。いいわね、他言無用よ。
あんたがそう思っている、それだけで今は十分だわ。
あの子にもしものことがあったら、私は胸の中であんたを許さないだけ。
祈りなさい、あの子の命が助かることを。」
ガチャ、
洋子が部屋を出て夏美の肩を抱いた。
「姉さん!この女はやっぱりとんだ阿婆擦れだわ!冗談じゃない!こんな女がハルの・・」
「わかっているわ。だからもうお止めなさい。
私はね、夏美がそんな汚い言葉を吐くのを見たくないわ。」
髪を乱し、興奮した面もちでレティナを責める妹に、洋子が優しく囁く。
夏美はハッと顔に手を当て、わっと洋子の胸で泣いた。
いたたまれず、レティナがとうとう階段の方に歩き出す。
「待って!あなたはハルに会うべきよ!」
彼女の後を追って、春美が止める芝浦の手を振りきって飛び出してきた。
「駄目よ!あなたはちゃんと自分の気持ちをハルに話して誤解を解かなきゃ、このままずっとハルは苦しむ事になるわ!
ハルは、あなたがハルを嫌いになったから、ハルに怒ったから迎えに来ないと思っているのよ。
どうして別れるとき、もっと子供が納得するまで説明しなかったの?わからないだろうから説明しないなんて、大人の勝手な解釈じゃない!あなたの説明不足のために、子供はずっと待ち続けなきゃいけないのよ!」
春美の言葉に、レティナが項垂れる。
夏美も村樹もやや後ろめたくて、何も言葉が出なかった。
みんなが項垂れるのを見て、春美があら?っと辺りを見回す。芝浦が彼女の腕を引っ張り、グイッと後ろへ引かせた。
「な、何よ、何で誰も何も言わないの?」
「君ねえ、みんながグサッと来ること言ったんだよ!ハルが何も知らなかったの見ればわかるだろ?」
「うっ、そ、そか。」
ばつの悪い顔で春美がそろっと芝浦の後ろに隠れる。フウッと大きな溜息をついて、芝浦が皆の前に出た。
「こんな所で立ち話は目立ちます。中で待ちましょう。」
確かに、冷たくひっそりと静まった病院内には、話し声が響き渡っている。
何事かと様子を見に来た看護婦が、東西病棟から様子を見に来ていた。
「きっとまだまだかかりますよ。
手術の前と後もかなり時間を取るらしいから。」
皆がまるで幽霊のように、俯いて暗い表情で部屋に戻ってゆく。
村樹も疲れたのか、一緒に部屋に入って壁際に立っていた。
芝浦もドスンとソファーに座り、横に座る春美の肩を抱く。みんな、疲れているのが目で見えてわかっていた。
クー、お前の主人の危機じゃないか、ボウッと見てないで、いつものように助けてくれよ。
中央のテーブルに置かれたクーを見ると、クーはいつもと変わらず真っ黒な目で優しくみんなを見守っている。
じっと見ていた芝浦は、やがてパンッと手を合わせると大きな声で唱えだした。
「クーリン、クーリン、トッテンパッ!
どうかハルが助かりますように!
クーリン、助けてください!」
口をぽかんと開けて見ていた春美も、一緒になって手を合わせる。
「クー!ハルを助けて!
クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
「クー、晴美を助けて頂戴!
そしたら、他にもう何にもいらないわ!」
夏美が声を潤ませる。
「そうだ、ハル、温泉でもどこでも連れて行ってやるから。お願いだ助かってくれ!」
正義も、ようやく重い口を開いた。
芝浦がギュッと念じて目を開けると、部屋のみんながクーに向かって手を合わせている。
その祈りが、初めてみんなの気持ちを一つにしたのだ。
その時芝浦には、クーが何故か満足そうに笑っているような気がして、何度も目を凝らしてはクーの顔を覗き込んだ。

 冷たい風が吹き、病院の並木も枯れ葉を落として寂しい枝が目立つ。
寒い中で常緑樹より季節感があっていいなと車窓から見える景色に思いながら、無機質に車が並ぶ駐車場へと入っていった。
他の車から、老夫婦が小さなクリスマスツリーと花を抱きかかえて降りてきた。
恐らくは見舞客だろう。
子供でも入院しているのだろうか?
「ツリーか、明日がイブよね。
あーあ、去年までは派手に遊んでたのになあ。」
春美がぽつりと漏らす。
車から降りて、芝浦がバンッと力一杯ドアを閉め、フンッと鍵を掛けた。
「君は気楽でいいね。俺はこの時期が一番忙しいんだよ!稼ぎ時なの!わかる?」
「そんな事言ったって、ハルの見舞いに行こうって言ったのあなたじゃない。
私は付いてきただけだもーん。」
先を歩き出した芝浦に、春美が慌てて後を追うと腕を組んだ。
昨日夏美からの連絡で、ようやくハルが一般病室に変わったと電話があったのだ。
ICUにいる間は、面会制限があって春美達は会うことが出来なかった。
「レティナさんは?まだ日本にいるの?」
「ああ、今長崎で、そのまま帰るってさ。
一日ハルの付き添いしてね、もう思い残すことはないって。」
「付き添い?良く白川の人が許したわね。
あんなに嫌ってたのに。」
「さあね、腐っても親子だから。」
ムッと春美が眉をひそめる。
「あなたって、ほんと口が悪いのね!」
「え?俺なんか言った?」
「いいえ、別に。」
この鈍感さも、まったくこの人らしい。
「やっぱりと言うか、不思議って言うか・・ハルは彼女ともう暮らせないこと、自分でも本当はわかってたみたいだってさ。
ただね、お互いのすれ違った思いが全然違っていたこと、それが理解できて良かったって。」
「そっか、お互い相手に嫌われているって思ってたもんね。
ハルも、自分に関しては予知が働かないから不便よね。人のことは良く分かるのにさ。」
言われてみればそうか、と芝浦も頷く。
「やっぱり、自分の事は怖いのさ。
ハルも自分の道は自分で選ぶようになってるんだろうね。」
「電話じゃ何も聞けなかったけど、何か障害が残らなかったか心配だわ。」
「ん・・神様も、それ程意地悪じゃあないさ。
そう願いたいね。」
 行き交う人々の顔は、病院独特の雰囲気がある。極端に楽しそうな人などあまり見かけず、病棟に来ると疲れたような顔をした人が目について気が滅入る。
忙しそうに歩き回るスタッフが、明るい顔で唯一活気を呼んでいた。
「どこ?どっちが西病棟?東?」
二人が電話で聞いた病室を目指すが、さすがに大きな大学の付属病院だけあってまるで迷路だ。
脳外科の病棟を探してうろうろしていると、背広姿のパリッとした壮年の男性と廊下で立ち話している洋子に出会った。
「あーら、お二人さん来てくれたの?
ハルの病室はこっちよ。」
洋子は無類の毛皮好きらしい。
先日とはまた違う、フォックスのロングコートを着ている。
芝浦が春美にこっそり呟いた。
「狸が狐着てるぞ。」
プッと吹き出しそうになりながら、にっこり微笑み挨拶する。
すると相手の男性が軽く会釈した。
「ああ、こちら晴美の友達なの。
紹介するわ、こちらこの病院の理事長よ。
私がグレてた頃、族の特攻隊長だったの。」
「は?はあ・・」
族?特攻?
「何言ってるんだよ、ヨーコこそ頭取ってたくせに。はっはっは、若い頃は元気で良かったなあ、はっはっは。」
「昭彦も自分家が病院だからって、何も一番ケガするポジションに立たなくてもいいのに、馬鹿よねえ。オホホホ・・」
「まあ鼻が砕けたおかげで整形して高くなったんだ。いい男になれて良かったよ。
はっはっは!
それより君の甥っ子?美少年だねえ、いいよ。うちの広告に出てはもらえんかねえ。
とても表情がいい。」
「あら、やあねえ、あの子取り柄はルックスだけなんだから、うちで使おうかと思ってんのよ。ただ飯食ってるんだからそのくらいと思ってたのに、今度のことでしょう?
まったく、困っちゃったわ。」
また、洋子がタバコをくわえる。
笑いながら、理事長がポンと口からそのタバコを取り上げた。
「ダメダメ、ここは禁煙だよ。
あの人材教育の件だけど、病院とホテルの共通点は・・ああ、部屋で話をしよう。
今度見つけた、いい広告代理店も紹介するよ。」
「あら、そう?じゃあ、一時間以内に・・」
何だか今度はビジネスの話になってきた。
若い頃は暴走した力も、ビジネスに向ければ突出したやり手に変わるのか、二人の顔は芝浦達が居ることも忘れて仕事の話しに燃えている。
「行こう、向こうだってさ。」
ぼうっと二人のやり取りを見ていた春美も、芝浦に手を引かれ、軽く会釈してその場を立ち去り病室へ向かった。
彼らの頭は、仕事にフルで回転している。
甥っ子のこれからを心配するよりも、どう仕事に利用するかなんて普通なら考えないだろう。
いい事なのか悪いのか、春美は溜息が漏れた。
 ハルの名は、ナースステーションに一番近い個室にある。
少し戸惑いながらノックすると、中から夏美がドアを開けてくれた。
「あら、さっそく来てくださったのね。
どうぞ!ハル、お姉ちゃん達が見えたわよ。」
二人がそうっと病室に顔を出す。
「あっ!プーさ!お兄ちゃ!」
思ったより元気な声が、中から飛び出して春美達はホッとした。
「何だ、ハル元気じゃないの!
あんまりびっくりさせないでよね!」
しかし元気とは言っても、頭には包帯を巻いて、ベッドを半分起こしようやく座っている状態だ。数個のクッションを置いて、左側の上体を支えているように見えた。
いつも傍らに置いていた、クーの姿が見えない。芝浦がキョロキョロ見回し、春美に囁いた。
「クーはどうしたんだろう。」
「え?自分で聞きなさいよ、もう!
ハル、クーはどうしたの?」
ハルが悲しい顔でゆっくり首を横に振る。
芝浦の心臓が、どきんと一瞬止まった。
「クー、バイ、バイ、した。」
ハルは言葉がまだ、すらすらと口からでない。
夏美が椅子を出して勧めながら、残念そうに話してくれた。
「クー、壊れちゃったんですよ。」
「ええっ!!」
芝浦の身体が、フワリと浮いて後ろによろめく。慌ててそれを春美が支えて、ドンッと思いっ切り背中を叩いた。
「しっかりしなさいよ!もう!
で、どうして壊れたんです?そんな風に見えなかったのに。」
「それが・・三日前に、どうしてもクーに会いたいってこの子が言うものだから。
兄の病室に置いていたクーを取りに行ったとき・・握ったとたん崩れたんです。
まるで百年、一気に時が過ぎたように。」
「く、く、崩れた・・」
多少の破けはどうにかなる。しかし、崩れたら修復は不可能だ。絶望だ。
芝浦は気が遠くなった。
「きっと、お願いしすぎたのねえ。」
「そうでしょうね、家族もそう言っているんですよ。
兄の命とこの子の命、二人をクーは命がけで救ってくれたと思いますわ。
兄も一時は随分悪かったんですけど、今ではだいぶ良くなって車椅子で移動できるんです。この子も倒れたのが病院じゃなかったら、恐らく助からなかっただろうと。
先生も良く助かったと驚かれていたんですよ。
信じられないんですけど、実は頭の骨が折れてたんです。どうしてここに来るまで症状がなかったのか不思議だって、お医者様もびっくりなさって。」
夏美がハルの顔を撫で、その手をハルが握る。
「クー、取って、ナッチ。」
「ああ、はいはい。」
夏美がハルに言われて戸棚から、小さくハンカチに包んだ物を取りだした。
そしてそれを芝浦に差し出すと、芝浦は怪訝な顔で受け取りハンカチを開いてみた。
黄色の美しい花柄のハンカチには、黒いボタンが二つ、ころんと転がっている。
それは、いつも優しくハルを見つめていた、クーリンの目だったのだ。
「これ!クーの・・」
「お兄ちゃ、作って、これ、作って、クー、ピカピカ、クー。」
ハルは、これを使って芝浦に新しいベアを作ってくれと頼んでいるのだ。
夏美も、微笑みながら芝浦に頷く。
しかし芝浦には、クーの新しい体を作るのは自分ではないように思われる。そしてポケットに入れるのを躊躇するとまたハンカチに包み直し、テーブルの上に置いた。
「しかし、これを作るのはレティナさんの方がいいんじゃないんですか?
僕は友達ではあるけど、向こうは母親でしょう?その方がいいと思いますけど。」
「いいえ、実は・・彼女には一日だけ、付き添いをお願いしたんです。
その時、きちんとお別れを・・・
ハルには辛いことかも知れない。
でも、彼女にはきちんとこの子に言って欲しかった。きちんと、お別れして欲しかったんです。もう、待たなくてもいいように。」
夏美が俯いて目を閉じ、そしてハルの顔を優しく見つめる。
夏美はお茶を入れ、それを二人に差し出してハルの傍らに座った。
「ハルも彼女が来てくれたことに凄く喜んで、戸惑って、見ていて辛かったですわ。
でも、彼女はハルを迎えに来たのではありません。それを知ったときのハルの落胆を思えば、彼女と会わせたことを後悔するかも知れないと随分思い悩みました。」
「そう・・でしょうね。ずいぶん泣いたでしょう。」
「それが、何だか彼女を怖がっているようで。」
「怖い?彼女がですか?また捨てられると?」
夏美が俯いて首を振る。
「良く、わからないんです。
私はやっぱり感情的になって、二人の話を壊してはならないと思って部屋を出ましたから。
二人っきりで、どんな話をしたのか・・
でもハルは、ずっと母親に嫌われている、怒っていると思っていたようですから、それだけでも分かり合えて良かったと思います。
何故、迎えに来なかったのか、きちんと話して貰えたと思うんです。
でも、それとは別に・・何故か怖いと。」
「ハルは彼女に怯えていたんですね。」
「また暴力を振るわれると思ったのかしら?」
「いや、それはないだろうけど・・」
怯えている?何かを知られることを恐れて?
知られて困ること・・?ハルはお母さんをずっと待っていただけで・・お母さん?
春美があっと顔を上げる。
「それって、亡くなった奥さんをお母さんと認めているからじゃないんですか?
迎えに来ないあの人を見限って、奥さんをお母さんと呼んだんでしょう?
悪く言えば、ハルにとってはあの人を裏切ったと思っているんじゃないんですか?」
「あっ!ああ、そうなのかしら?
ああ、そうかもしれない。そうじゃないのに。
美香子さんも、だからすぐにはハルに母親と無理に呼ばせなかったんです。
この子が傷つくといけないからって。」
ハルはキョトンとみんなの顔を見て、話が分かっているのか笑っている。
「そうか・・だからハニーベアが怖かったんだな・・」
芝浦は、ハルがパンフレットを見て倒れたときのことを思い出した。
この子は、だからハニーベアーにショックを受けたのか。
白川の子になったことが、母親を裏切った。
つまり自分こそが母親を捨てたのだと思っていたのだ。
「ハルは・・俺達が考えるより、ずっと深く考えているんですね。
亡くなった奥さんの事をお母さんと呼んだとき、彼は心の中で本当のお母さんを捨てたと感じていたわけです。
だから彼女に会うのを怖がったんですね。」
「ええ、そう、そうだと思います。」
「彼女は、ハルに許して貰えて良かったと言っていました。もう、何も思い残すことはないと。お互いを思い合って、それがすれ違ったままならばこれ程不幸なことはありません。
たとえもう、会うことが無くても、気持ちが通じることが出来たのなら会わせたのは正解だと思いますよ。」
夏美が、ハンカチを取りだし目頭を押さえる。
「ありがとう、そう言って貰えると心が軽くなりますわ。」
「じゃあようやくハルは、レティナさんとの間にケジメがつけたのね。」
ハルがにこっと春美の顔を見て笑う。
「あのね、ママ、しやわせって。
良かった、ハル嬉しい。
ママ、ハル、怒ってないって。
良かった、ハルも、嬉しい。」
みんなが自分の事を話しているのがわかっているのだろう。ハルなりに気を使って見える。
「ハルもね、しやわせに、なりなしゃいって。
ハルがしやわせだと、ママもしやわせだって。
ママは、もう、ハルと一緒、暮らせないって。またね、会えると、いいねって。
ハルもね、うんって、言ったの。
だから、ハルは、ママを、もう、待つこと無いんだって。」
「じゃあ、ハルはママ待つのを止めて、後はミーカお母さんを待つの?」
夏美がハルに優しく問いかける。
ママはレティナなら、お母ちゃんは美香子なのだ。
「んーん。シューチが・・お父ちゃがね、ミーカを待つの、もういいんだって。
お母ちゃはね、夢の世界に行ったんだって。
いつか、会えるよって・・ハルにはね、お父ちゃが、いるから。だから・・
もうね、ハルは、待たなくって、いいんだよ。
ハルは・・・待たなくっても、いいんだ。」
ハルがしんみりと俯く。その顔は、母親と会えない寂しさよりもホッとしている様にも見えた。
「そうか・・いつか会えるといいな。」
芝浦が呟く。ハルはシンとしてしまった場の雰囲気にパッと明るい顔をすると、左手をぎこちなく挙げた。
「ほらほら、あのね、身体のこっち、重いの。
目、覚めてびっくり。ハル、半分が急に、大きくなったと、思ったの。
ズシーンッて、怪獣みたいに、重いんだよ。
これじゃ、クー、抱けないね。」
重そうに左手を少し挙げると、一息つくかのようにその手がドスンと落ちる。
春美がハッと息を飲んだ。
「まさか、麻痺が残ったんですか?左側?」
夏美が何故か苦笑して、ゆっくり頷いた。
「ええ、左半身に。こうして座っていても、クッションで支えていないと倒れるんです。
でも、まだ子供だから回復力が強いからと。
悲観的にならずに、リハビリと時間が少しずつ治してくれると信じています。
この子も、大丈夫と張り切ってて。
変でしょう?全然落ち込んでいないんです。」
「それはこれから大変ですね。」
「ハルは、大丈夫だよ。」
「へえ、大丈夫なの、わかるんだ。」
まさか、それも予知できるのか?
春美が興味深そうにハルの顔を覗き込む。
しかし、思ってもいない返事が返ってきた。
「あのね、ハルね、夢、見ないの。
これからあること、夢見ないの。」
「ふうん、あれって夢で見てたの?
あれ?その夢を見ないって事は、じゃあ、もう予知が出来なくなったんだ。」
「やっぱりあれだよ、クーの影響だったんだよ。うん、やっぱりね。」
芝浦が顎に手を当て、納得するように頷く。
春美は、あーあと気が抜けた。
「なあんだ、ハルもただの人かあ。」
「何か?ハルがしたんですの?」
残念そうな二人に、夏美が不思議そうに問いかける。夏美はハルの予知能力に気が付いていないのだろう。
「いいええ!別に、何でもありません、ホホホホホー!」
確かに残念ではあるが、やっぱり普通がいいのかも知れない。
「ハルね、早く治って、みんなでお風呂、行くの。セーギ、約束、したの。」
お風呂?
「兄とこの子が治ったら、みんなで温泉に行こうって約束したんです。
この子が行きたいって夢見ているらしくて。
ホホ・・子供なのに変な夢でしょう?」
「はあ、いいんじゃないんですか?羨ましい。
叔父さんも、お元気になられたんですね。」
正義は責任を感じて随分落ち込んでいたが、さすがに強い、と言うか図々しい。
「彼が夜はここに泊まるんですよ。
この子も凄く喜んで。私もおかげで楽になりました。
兄は人を雇って済みますけど、この子は家族が付かないとどうしようもありませんから。」
「へえ、それは凄いな。昼は仕事でしょう?」
それじゃあ寝る暇もないんじゃないか?昼は仕事で夜は付き添いなんて大変だろうに。
「凄く何かありませんわ。自業自得です。
ホホホ、遊ぶ余裕があったのなら、余裕がないくらいこの子の世話をすればいいんです。」
夏美が涼やかに笑い飛ばす。
二人は目を剥いて思わずつばを飲み込んだ。
まさか、正義の浮気を・・ハルの殺人未遂まで?・・まさか・・
「ナッチ、オニババね、クルスマス、いっぱい何かくれるって。」
「そう、良かったわねえ。
いっそ破産するくらい頼めばいいわ。
ホホホ・・」
ウッと横で二人が引く。
どんなに優しそうに見えても、やっぱり夏美も洋子並みの図太い神経だ。金持ちの世界なんて、こうでなくては生きていけないのかも知れない。
 二人は暫くハルの病室で過ごし、長居してはご迷惑ねと、散々長居した後ようやく立ち上がった。
「じゃ、また来るね。ハル、リハビリがんばってよ。」
「うん、早く、歩けるように、なるね。」
「今、俺忙しいからな、貧乏暇無しだけど時間作ってまた来るよ。」
ハルが、明るい顔で右手を振る。
だらんとした左手が痛々しいのに、ハルの頭からは苦悩の文字はないらしい。
これからのリハビリは大変だろうが、何とか乗り切ることが出来ればいいと願った。
「あ、お姉ちゃ、転ばないようにね。」
「バッカねえ、私はハルとは違うわよ!」
「でもね、車に気いつけて。ブウンッて来るから。あ・・それとね。」
ハルが春美に手招きする。
春美が近づくと、耳元に小さく囁いた。
「あのね、お兄ちゃね、恥ずかしいと、耳赤くなるの。だからね、素直と違うからね。」
何を急に変なことを言うのか、春美が苦笑してハルの顔をツンと小突く。
「はいはい、じゃあ、さよなら。」
「うん、バイバイ。」
二人がようやく病室を出て後、暫くして夏美がテーブル上のハンカチに気が付いた。
「あら、芝浦さんったら忘れてるわ。」
「なあに?」
「ほら、クーの目。またお会いしたときに渡しましょうね。」
「うん、ハルが渡すね、ちょうだい。」
ハルが右手を差し出す。夏美ははいはいと、その手にハンカチを渡した。
 駐車場へと向かう二人が一階を歩いていると、そこへ救急車が入ってきていた。
バタバタと、忙しく人が行き来している。
病院は、アンラッキーとラッキーが同居している、不思議な空間だ。
ここにいると、生々しい現実が溢れていて、生死を身近に感じる。
春美は芝浦の横顔を見て、その腕をしっかり引き寄せた。
「ね、辛いことがあるからって、不幸とは限らないわよね。」
神様は、一体何を考えているんだろう・・
ハルに、一体幾つ障害を重ねるのか。
それも、あの子自身の不注意ではないのだ。
それでも、ずっと家族を捜していたときよりもハルはうんと表情が明るい。
それだけが救いに思える。
「そうだな、ハルは強いよ。
あの強さと明るさは、意地悪な神様の罪滅ぼしだろうさ。
今は手術後すぐだからね、大丈夫、落ち着いたらだんだん動くようになるさ。」
「そうね、そう信じるわ。」
玄関を出ると、冷たい風が吹き付ける。
思わず身体を丸めた春美に、芝浦がギュッと抱きしめてくれる・・かと思ったら、
バーンッ!
「きゃっ!」思いっ切り背を叩かれた。
「背中丸めてっと、不幸の虫が付くぞ!」
「もう!痛いじゃない!ああ!もう!ぜんっぜんロマンチックじゃないんだから!」
がっくり、ベアアーティストのクセに、全然女の子の気持ちが分からない唐変木!
春美が先を行く芝浦を追って、ロータリーを横切り駐車場に入る。芝浦の車は少し奥の方だから、沢山止まっている車の隙間を縫って、出来るだけ近道を通った。
キュキュキュッ!
タイヤのきしむ音にふと目をやると、いきなり猛スピードですぐ横の車が飛び出した。
「ぎゃあ!」
驚いて後ろに避けたとき、春美の靴がグキッと横に倒れる。
あっと芝浦が手を出すのも遅く、春美はその場にバッタリと無様な姿で倒れた。
「いったああい!何よ!あの車!駐車場は徐行よ!わかってんの?馬鹿!」
しかし、倒れた春美に手を貸すのも忘れて、芝浦が考え込む。
「これって、ハルの予告通りじゃないか?」
「まっさかあ!あの子、クーがいなくなって予知は消えたんでしょ!偶然よ!偶然!
ちょっと、それより手を貸してよ!」
芝浦に手を借り、立ち上がったものの足が痛い。しかし、病院に行くまでもないようなのでそのまま車に乗り込んだ。
ストッキングはバリバリに破けて、上まで伝線している。
「ああ!こんな所まで破けてる!」
春美がスカートを上げるのを見て、芝浦が慌てて目をそらす。
ハンカチを取ろうとポケットに手を入れたとき、ハッと思い出した。
「あっ!しまった!クーの目玉忘れてきた!」
「ええ!やだ、病室に?取りに行く?」
「うーん、どうしよう。テーブルに置いて来ちゃった。今更何だか恥ずかしいな。」
あの時、遠慮せずにさっさとポケットに放り込めば良かった。
ハルのために一番に作ろうと思っていたのに・・俺ってマヌケ!・・・あれ?
ボンネットの上に、見覚えのあるハンカチが乗っている。
「あれ?あれじゃない?やあねえ、そこに置いてるじゃない。」
「あれ?俺・・置いた?さっきあったっけ?」
車を出て、ハンカチを取ると周りを見回して運転席に戻る。
「おかしいなあ・・俺、あんなとこに置いたっけ?」
いや、どんなに考えても置いた覚えがない。
そして二人顔を見合わせ、そうっと広げてみた。
ハンカチには、黒いボタンが二つ。
ころんと転がっている。
「き、きっと夏美さんが持ってきたのよ。」
「でも、黙って置いていくか?」
「だって、じゃなきゃハンカチが歩いてくるわけないじゃない!」
サアッと背中を冷たい物が走る。
まさか・・
ハハハハハ・・・!
誤魔化すように二人、顔を見合わせて不気味に笑った。
ブッブー!
気が付くと、場所を空けてと車が待っている。
「病院って、忙しいところだぜ。」
芝浦が、舌打ちして車を出していると、春美が窓を開けて病棟に手を振った。
「何してんの?これだけ離れてて、見えるわけないだろ?」
プッと芝浦が吹き出す。
春美が「いいの!」と微笑んで窓を閉めた。
「一人じゃないんだから、きっと大丈夫よ。」
「誰が?ハルが?君が?」
「あら、もちろんハルじゃない。」
「君も一人じゃないだろ?」
ポッと春美の頬が赤くなる。
飄々と運転する芝浦の横顔に、耳だけが赤くなって照れくささを隠している。
今度はプッと春美が吹き出した。
「私も、工房シーバに就職していいかしら?」
「もちろんさ。シーズン中は忙しいからね、手伝ってくれよ。」
「はいはい、赤耳のトナカイさん。」
パッと芝浦が手で左耳を隠す。
車が信号で止まり、芝浦がはにかみながらこっちを向いた。
「どう?飯でも。」
「いいわよ。また肉じゃが?」
「そ!俺は肉じゃががパワーフードなの!」
ふふふ・・
春美の頭に、また困った顔でメニューにない肉じゃがを受ける、『かがりび』のマスターの顔が浮かぶ。
ホテルから家に帰った夜、ハルが居ない部屋はびっくりするほど広く、冷たく、シンとしていた。
あれから夜になると一層寂しくて、熱いご飯さえ冷たく感じて味気ない。
明日、ジャガイモと豚肉を買ってこよう。
後はこんにゃくと人参と・・みりんも買って来なきゃ!
イブの夜に、肉じゃがパーティーなんて冴えないわねえ・・うふふふ・・
春美の頭には、自分の作った肉じゃがを嬉しそうに食べる芝浦の顔が浮かぶ。
それはきっと、暖かな食卓に違いない。
「さあ、肉じゃが食ったら張り切って作るぞ!」
バックミラーにぶら下がっている、ベアのマスコットが揺れて笑っている。
ベアに埋もれたあの部屋も、春美は大好きになりそうな予感がした。

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