2、

 「えーっと、この辺かな?」
貰ったメモの住所を本屋で探し、近辺まで来ると車を駐車場へ預けて足で探す。
田中正造か・・
田中なんて、どこにでもある名前だ。
フルネームで聞いて分かる人なんて、そういないだろう。
芝浦はもう一度警察へ行く勇気もなく、近くの酒屋に聞きに入った。
「ごめん下さい。」
小さな酒屋だが、今でもきっと配達に出るだろうから知っているに違いない。
「はいよ。いらっしゃい!」
奥から気の良さそうなおじさんが出てきた。
何だか道を聞くだけも気が引ける。
芝浦は喉も渇いていたので、冷蔵庫からオレンジジュースを一本取りだした。
「これ、下さい。」
「はい、百円でいいよ。」
「あの、それとここ、ご存じないですか?」
メモを渡して財布から百円取り出す。
「・・・ああ、ちょいと待ちな。」
おじさんは棚から大きな地図を取りだし、レジの横にバサリと広げた。
「ほら、うちがここだよ、良く見ときな。
こう行って、この角を曲がって・・・」
成る程、口では説明しにくい裏の路地に入るらしい。車を置いてきて正解だ。
紙を貰って簡単に書き写し、礼を言った。
「正ちゃんに何の用だい?何年か前に脳梗塞起こしてね、今あんまり喋れねえよ。
まあ通訳いるから心配いらないけどよ。
血圧上がるような事はよしておくれよ。」
おじさんはどうやら友人らしい。
少し心配そうな顔で芝浦を覗き込んできた。
「ああ、人の事を訪ねるだけですよ。昔お知り合いの方の手がかりを探しているんです。
正造さん、昔どこにお勤めだったんですか?」
「人捜し?まさか、正ちゃんのこれの事じゃねえだろうな?」
おじさんが、ニヤリと笑って小指を立てる。
芝浦は思わずプッと吹き出した。
「さあ、違うと思いますけど。」
「わっはっは!あいつは仕事一筋、真面目腐った奴だ。だからあんな大層なところに定年まで勤められたんだろうがな。
あいつはよ、あんた知ってるだろ?白川グループ先代の会長さんの運転手してたんよ。
随分立派な人らしくてよ、あの人に仕えられて誇りに出来るって、鼻をぐんぐん伸ばしてたぜ。」
「白川?」
とんだところで凄い名前が出てきた。
まさか、あいつの親父って・・
あれだけのマンションを、愛人に買ってやれるほどの男だ。もの凄い大物に違いない。
白川・・しかも子会社の社長じゃない、グループの会長だと?
早々に礼を言って、田中正造の家を目指す。
親切に教えて貰ったから、裏道でも迷わず真っ直ぐに向かうことが出来た。
 表札に、田中の文字がある。
ごく普通の一戸建てだが、小さな庭も手入れが良く行き届いている。
門にある、インターホンを押してみた。
”ハーイ、何でしょうか?”
「あの、私、芝浦と申します。
お尋ねしたいことがあるんですが、田中正造さんはご在宅でしょうか?」
”えーっと、お待ち下さい”
しばらくその場に待っていると、目の前の玄関がガラリと開いて、若い女性が顔を出してぺこりとお辞儀する。
芝浦の姿をじろじろ見て、何かのセールスと間違ったか表情が硬く、警戒している様子だ。
「失礼します、あの・・昔、田中さんにお仕事でお世話になった人の子供から、行方不明の親のことを捜してくれと託されたものですから・・何か一つでも情報がないかと思いまして・・お話しだけでいいのですが。」
「はあ・・」
言い方が不味かったか、女性の警戒心が解けてくれない。芝浦は困って頭を掻いた。
しかし、ここでは不動産屋と違って、ウソを言って聞き出すのはルール違反の気がする。
自分はサギでも犯罪者でもない。
純粋に人捜しをしているだけなのだ。
「突然で驚かれたんでしょうけど、私も困っているんです。もう、十五年も前のことで、あんまり手がかりがなくて・・」
芝浦の様子に、女性が微かに笑う。
そして門まで出てきてくれた。
「父は、夕方の散歩に出ているんです。
ほら、この道を真っ直ぐ行って、あの青い屋根の家の角を曲がると川に出ます。
先程母と出たばかりですから、そちらに行った方が早いですよ。
父は車椅子に乗っていますから、すぐ分かります。」
「あ、ありがとうございます!」
やった!思わず小走りになる。
何だか、人に信じて貰うのがこんなに気分いいなんて、久しぶりだ。
彼女の微かな微笑みが鮮明に頭に残って、思わず笑みが出る。
「まあ、これもあのガキのおかげって奴かな?」
一人つぶやき、ニッとする。
 芝浦は軽快な足取りで小さな川に出ると、その遊歩道をキョロキョロ見回し、ようやく一組の老夫婦を見つけた。
ゆっくりと、奥さんが車椅子を押して川辺を遠ざかってゆく。
芝浦は思わず駆け出そうとして、ふと考えた。
ダッと走って、いきなりポンと背中を叩くのはいかがな物か。
田中さん!と声を掛けて、びっくりしてバッタリ、なんて不味いよなあ・・ 
あれこれ詮索して、心ならずも後をつける形になってしまった。
そろそろと追いつくと、ゆっくり歩く奥さんの足に合わせ芝浦もゆっくり。
それが十メートルも行ったところか、奥さんがくるりと振り返り、軽く会釈してにっこり笑いかけた。
し、しまった!不審に思われただろうか?
慌てて芝浦も軽く会釈する。
「あ、あの、別に不審な者じゃ・・」
「いいお天気よねえ!ほら、夕日がどんどんいい色になって行くわ。あなたもお散歩?」
「え?は?いえ。」
「ごめんなさいね、お婆さんはゆっくりしか歩けないの。どうぞ、お先に追い越して構わないのよ。」
遊歩道は、人一人車椅子一台でいっぱいになる広さしかない。
芝浦が追い越そうかどうしようか、迷っていると勘違いされたらしい。
焦って思わず大きく深呼吸し、芝浦はようやく落ち着きを取り戻すと、車椅子の正面に回り込みぺこりとお辞儀した。
見ると、まだ七十前だろうか?
白髪交じりの頭は綺麗に整えられ肌にも艶があり、気難しそうな顔からは何も教えてくれそうにない気配が感じられた。
「あの、田中正造さんですよね?
私、芝浦と申します。オーランドさんと言う女性のことでお話をお聞きしたいと・・
田中さん、十五年前にオーランドさんがマンションを買われたときに、保証人になられましたよね?」
オーランドと聞いたとたん、むっつりした田中が、しょぼくれた目をカッと開く。
「をうえわあうぃわうう」
「は?」
田中の言葉がはっきりしない。
すると奥さんが、キャラキャラ笑って旦那の肩を叩いた。
「あら、あなたオーランドさんって一体だあれ?そんなに慌てて!」
「はは・・」芝浦が、苦笑いで奥さんに笑う。
「この人、それは、しらん!ですって!
その人外国の人?興味あるわあ、私にも聞かせてくれる?」
興味津々で奥さんが乗り出し、田中は、まったく気の利かない小僧だと、苦々しい顔で芝浦を睨み付ける。
直球で聞いたのが悪かったらしい、それから貝のように口を閉ざし、田中は何を聞いてもまったく返事をしてくれなかった。
結局、彼は白川氏の秘密を持っていて、それを口止めされているのだろう。
愛人か・・とんだスキャンダルだもんな。
「田中さん、また来ます。
じゃあ、今日はこれで。失礼しました。」
「ごめんなさいね、本当に。」
「いえ、俺の名刺、差し上げておきます。
考えが変わったら、こちらに電話下さい。」
奥さんが、芝浦の名刺をまじまじと眺める。
「この、工房シーバって何か作ってるの?」
「テディベア、クマの縫いぐるみです。
アーティストベアって言いまして、いろんな工房があります。そのアーティストでいろんな特徴があって、人気があるんです。」
「へえ、面白いわねえ。
じゃあ、きっと私の知っている子なんか大喜びだわ。
一ついくら位するの?」
あれ?いきなり商談かよ。
「ふふ・・高いですよ。」
「ま!怖い!それって、寿司屋さんで時価って書いてあるのみたいね。」
奥さんが、またキャラキャラ笑う。
「大丈夫、俺のベアにはきちんと値段が貼ってあります。
ベアを買うときには、どうぞごひいきに。」
芝浦はぺこりとお辞儀して、その場を後にした。
 日も落ちて暗くなると、風が冷たく寒い。
車の暖房に、はずしていたコートのボタンを閉じながら、駐車場からマンションのロビーに入りエレベーターのボタンを押す。
しばらく待っていると、エレベーターが、チンッと小さな音を立ててスッと開いた。
滅多に会わない住人の女性が、無言で下りてくる。
別に挨拶をすることもなく無言で乗り込むと、慌てて一人の男性が乗り込んできた。
若いのに、白髪交じりでコンビニ袋をぶら下げている。
芝浦は五階、男性は六階だ。
お互い、壁を向いたまま、この閉鎖された空間に重い空気が流れる。
「今年は・・」
遅いエレベーターに耐えかねたのか、男性がいきなり口を開いた。彼とは初対面だ。
「今年は、暖冬ですか?それほど寒くないですね。」
「え、ええ、そうですね。」
やっぱり、天気の話しか・・
「もうすぐクリスマスなのに、全然雰囲気が出ないですねえ。はは・・」
男性が、芝浦に向いて笑った。
ドキッとしながら、芝浦も思わず笑う。
チンッ!
まるで電子レンジのような音を立てて、ドアがスッと開く。
芝浦はドアを出ると、ふと考えて閉まりかけたドアに返事を期待せず声を掛けた。
「お休みなさい。」
スッと、ドアが閉まる。
「お休み・・」小さな声が、閉まったドアの向こうに遠ざかって行く。
芝浦は、しばしドアを向いてニヤッと笑った。
自分の部屋に向かっていると、またハルの声がキャアキャア響いてくる。
朝はあんなにうんざりしていたのが、今は気にならない。
不思議な物だ、その本人を知っただけで、気持ちがこんなに変わるものなんだな。
「あいつ・・元気になったのかな?」
自分の部屋の鍵を取りだして、春美の部屋を通り過ぎる。
鍵穴に鍵をさしかけて、ふと春美の部屋に足が向いた。
ピンポーン!
「はーい!」「はあい!」
ドタドタ複数の足音が競争で玄関に向かってくる。
「こら!ハルは奥で待ってなさい!」
「ハルが鍵あけるの!」
「もう、どなたですか?」
クスクスと、芝浦が笑いながらドアに向かって手を挙げる。
春美が覗き穴からそれを覗いていると・・
ガチャン
「あっ!ハルッ、まだ駄目って言ったでしょ?」
「シーバ、シーバ、クーがシーバって!」
ガチャガチャ、チェーンを外さずハルがドアを開けようとする。
元気になって、また騒々しさ百倍だ。
ようやくチェーンを外して、春美が顔を出した。
「ごめんなさい、こんな遅くまで。で、どうだった?」
「んー、あのオーランドさんのね・・」
玄関先でドアを開けたまま話していると、ヒュウッと冷たい風が吹き込んでくる。
ハルがぴょんと跳びだして、芝浦の手を握った。
「プーさん、お兄ちゃん、ハル寒いよ!」
「プーさん?」
「え、あ、えーっと、どうしよう。」
今日知り合ったばかりの男を部屋に入れるなんて、ちょっと考える。
だからって、夜、男の部屋に行くのも何だか恥ずかしいような、怖いような・・
「お兄ちゃん!こっちこっち!
こっち、あったかいよ!」
春美が考える間もなく、ハルが芝浦の手を引いて、ぐいぐい部屋に引き入れる。
「あ!ちょっとちょっと、そりゃ不味いって!」
「やだ、ハル駄目よ、恥ずかしいったら!
ギャアア!掃除もしてないのに!
やだ、キャアッ下着干して・・ちょっと待ってよ。」
バタバタ春美が先に回り、洗濯物を押入に放り込む。
ハルもやはり男か、凄い力で引っ張られて、芝浦はようやく靴を脱ぐので精一杯だった。
「お兄ちゃん、手冷たいね。ハルが暖めてあげる。ね?ご飯、余ってるよ。」
「ハルってば、あんた勝手に・・もう!」
仕方ない、確かに芝浦には恩もある。
ハルもいることだし、と春美は部屋の鍵を掛けた。
しかし芝浦はボウッと廊下に突っ立っている。
「ごめん、俺、やっぱ出るよ。」
彼も女性の部屋なんて初めて入る。
何だか匂いからして違うし、ここは1DK。
開けてある隣の部屋には、ベッドが見えてドキッとした。そう言う年ではないはずが、思わず頭に血が上って赤くなる。
しかし、春美はドンッと彼の背中を押して中に促した。
「いいからほら、そこ座って。
雑炊だけど食べる?今日のお礼にご馳走するわよ、あたしのお手製。」
「あのね!ハルはハンバーグがいいのに、嫌いな野菜いっぱいなんだよ!お兄ちゃんもやだよねえ。」
コートを脱いで電気カーペットに座ると、目の前のテーブルにカセットコンロがあり、土鍋が乗ってほかほか湯気が上がっている。
覗くと、白いご飯の中に沢山、赤や緑の野菜が入り、成る程、美味そうだが子供は嫌いだろう。
横からはハルが芝浦の手を両手で包み、ごしごし擦ってくれた。
「お兄ちゃんの手、暖かくなあれ、クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
「それ、なんだい?おまじない?」
「え?」
ハルが聞き返す。
芝浦がやや声を上げてゆっくり繰り返した。
「それ、なんだい?おまじない?」
「うん!あのね、クーにお願いすると、何でもかなうんだよ。だからお兄ちゃんも、クーにお願いすればいいよ。」
へえ、だったら今、俺の願いはただ一つ、このスランプをどうにかしてくれ!クーリン!
クーに心で手を合わせていると、春美が大きなお椀と湯飲みを持ってきた。
「願いがかなうんなら、あたしの就職先何とかしてよね、クーリン。
いや、それよりハルのおねしょ治してよ!
ハル、どうするの?もう布団ないんだから。」
「ううーん、どうしよう。」
本当に首を傾げて悩み始めた。
何だか可愛いやらおかしいやら。
「今度はおねしょ?だから違う寝間着なんだ。」
「おかげでコインランドリーに何度も通ったわよ。近いからいいけどね。おねしょの布団抱えて恥ずかしかったあ!
でも、まだしっかり乾いてないの。掛布団に寝かせるしかないわ。」
春美が鍋をかき混ぜる。
お椀によそいながら、お玉で餅を探した。
「それにほんっとにハルは好き嫌い多いのよ!
どういう育ちしてるわけ?
はい、おもちも食べる?あたしさ、何でもおもち入れるのが好きなの。」
「へえ、雑炊に餅かあ。醤油ある?俺、雑炊には醤油かけるのが好きなんだ。」
「ああ、それも美味しいかも。今度してみよ。」
お椀を受け取るなり、パクパクとさすが男だ食べっぷりがいい。
「あちち・・うん、餅って美味いね、合うよ。」
「でしょ?あとね、お好み焼きの生地に混ぜ込むのも好き。」
「ああ・・生地にか。へえ・・」
春美が芝浦をまじまじと見てにっこり微笑む。
何だか、こんなに美味そうに食べてくれるのも気持ちがいい。
「それで?オーランドさんどうなった?
あの住所に、まだいるわけないよね。」
一杯目をたいらげて、鍋を覗き込む。
春美がお椀を受け取り、もう一杯よそいでくれた。
「ん、だからさ、不動産屋に行って、保証人とか聞いてきた。それが問題なんだ。」
パッと春美の顔がひらめいて、感心したように湯飲みを出してお茶を注ぐ。
「へえ!さすが男は考えること違うわねえ。
でも、教えてくれるの?そんなこと。
プライバシーあるでしょ?」
「まあね、一芝居打って聞き出した。
あの住所のマンション、十五年前にオーランドさん名義で買ってる。
その保証人って言うのがさ、あの白川グループの会長の運転手していた人なんだ。」
「十五年前って言うと、ハルが生まれたとき?
白川って・・ここも白川のマンションじゃない。あの銀行やら、証券会社やら手広くやってるんでしょ?」
「ん、それが、どうもオーランドさんって、恐らくはその会長の愛人らしくてさ、口止めされてるのか田中さん、何も教えてくれない。」
愛人と聞いて、春美が身を乗り出してくる。
「愛人?やだ、やっぱり。それってハルを産んだご褒美?お祝い?」
「まあ、それはいいとして、あの人はハルの事も全部知っているような・・気がするんだ。」
「でも、教えてくれないんでしょ?
白川の会長さんがどこにいるのか、どこに住んでるかなんて、あたし知らないわよ。
大体さ、愛人の子なら一緒に住んでないんじゃない?家に連れて行ったら、凄い事になるんじゃないの?」
コトン、芝浦がようやくお椀を置いた。
腹がいっぱいになったのだろう。
「ん、だから今度、田中さんの所にハルを連れて行こうと思うんだ。」
「ハルを?そうか、この子知っているなら、それで教えてくれるかな?良ければ預けてもいいだろうし。」
「預けるのはどうかな?田中さん、とっくに定年だし脳梗塞で車椅子なんだ。
でも、きっと力になってくれるよ。」
「そう・・じゃあ、明日にも行ける?」
「行ければね。俺も仕事があるし・・
努力するよ。で、頼みがあるんだ。」
「何?」
「雑炊、もう一杯いいかな?」
「ええ!!まだ食べるの?」
男の腹は底なし。
まあ、それを思ってハルが食べるだろうと沢山作ったのだが・・結局ハルの分も芝浦は平らげてしまった。
 「良く食うわねえ、まあハルが全然食べてくれなくて困ってたから、丁度助かったけど。
ハルの好みが分からなくって困るわ。」
リンゴを剥いているとハルが飛びついてくる。
剥く先から食べるから、春美がペシッと手を叩いた。
「はい、リンゴ。早く食べないとハルに食べられちゃう。
あ、そうだ。昼間何度も電話がかかってたわよ。仕事の電話じゃない?」
ドキッ!
芝浦がリンゴを落としそうになる。
「いいんだ、いいんだよ、あれは。」
ドキドキ、やっぱりどんなに目をそらしても、現実が彼の身に襲いかかってくる。
ベアアーティストの彼は、最近ずっと部屋に閉じこもって、忙しさに外へ出る間もなくベアを作っていたのだが、それがいきなりだ。
いきなり作れなくなってしまった。
こんな事、初めてで、焦るばかりでまったくどうしようもない。
たった一つ、どうにも締め切りが厳しいのはそのたった一つ。
それも、とっくに締め切りは過ぎているのだ。
徹夜で作れば、何とか出来るのに作れない。
どうしよう、どうすればいいんだろう。
『奇をてらった物じゃなくていいんですよ。
いつもの調子の、それでいいんです。』
分かっている、それは分かっているんだ。
でも・・
フウッと、芝浦が溜息をつく。
「俺、もう帰るよ。ごちそうさま。」
「ああそうね、今日はありがとう。」
二人が玄関に向かう。
するとハルが後ろから追いかけてきた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、クーにお願いは?困ってたら、クーにお願いするの!」
そう言いながらクーを差し出してくる。
春美は不思議そうな顔をして芝浦の顔を見た。
「何か・・困っているの?」
「クーにお願いするんだよ。クーはお願い聞いてくれるよ。」
芝浦が卑屈な笑いを浮かべてクーを鼻で笑う。
こんなクマにお願いして、それで道が開けるなら、お前だって母親ととっくに会えただろう?
馬鹿馬鹿しい、何を言って・・
ところが、目を潤ませ怖いほどハルは真剣な顔をしている。彼は、本当に真剣なのだ。
「クーにだって、どうすることも出来ないさ。」
「違うよ!一生懸命お願いすると、きっといいんだよ!」
春美が、ハルの頭を撫でて芝浦の顔を心配そうな顔で覗き込む。
「ねえ、何で困っているかは知らないけど、いいじゃない、お願いしてみたら?」
ハッ!と、大きく芝浦が溜息をつく。
首を振って、ドンと壁に手を付いた。
「今、スランプなんだ。ベアが作れないで困ってる。」
「スランプ?作れないって、縫いぐるみなんて縫えば出来るじゃない。」
「違う、いつものように作っても、顔も体つきも違う。表情が生き生きしない。
あれじゃあ、俺のタグつけて売るなんて、今まで苦労して作り上げてきた物が全部水の泡になっちまう。」
「・・・・」
たかだか縫いぐるみのことだけど、やっぱりそれで身を立てるって言うのはとても大変なことなのだ。
それが作れないなんて、アーティスト生命に関わる重大事件だろう。
返す言葉が見つからず、二人の間に言葉が途切れる。
涙をごしごし拭いて目の周りを赤くしたハルが、クーにキスをしてにっこり笑うとクーを芝浦に差し出した。
「お兄ちゃん、クーを今日の夜だけ貸してあげる!」
「え?クーを?」
「うん!クーはね、おじいちゃんだけど、お兄ちゃんの困ったを治してくれるよ!ね?」
芝浦が、クーを受け取ってそっと眺める。
ハルはこのベアといつも会話しているようだ。
ハルにとって大切な家族なのに、貸すなんて彼には大変なことに違いない。
「いいのかい?」
「うん、大事にね。明日返してね。」
「ああ、うん、ありがとう。」
ハルが、バイバイと手を振る。
芝浦は軽く頭を下げると、自分の部屋に帰っていった。
バタンッ!
ドアを閉め、春美が鍵を閉めてチェーンを掛け、よしっと振り向く。
ところが目の前には、涙と鼻水を滝のように流すハルが、声を殺して泣いて立っていた。
「あんた、そんなに嫌なら何で貸すの!」
「ううああああああんん!!」
泣いて泣いて、もう散々泣いて、クーの代わりに枕を抱かせて、それでも泣いて。
春美は隣りにクーを返して貰おうかとも思ったけれど、ハルは決して返して欲しいとは言わなかった。
「偉いのか、頼りないのか、良く分からない子ねえ。」
溜息をつく春美には、しかしひとつ気になる事がある。
「どうして、芝浦さんが困ってるって分かったの?」
「ひいーっく、ひいーっく、ううううう・・」
まだまだ言葉になってくれない。
果たして今夜は眠れるのか?
溜息しかでない春美は後かたづけを始めた。

 シンとした工房の部屋で、一人じっと、クーを見つめながら紅茶を飲む。
時々エアコンの風が吹き、クーのモヘアが微かに揺れる。
ふと思い立ち、茶器を遠ざけるとクーの服を脱がせ始めた。
帽子だけがクーに残る。
これを取るのは今夜はやめよう。
あの子の気持ちを利用するなんて、それはルール違反だ。
じっと、またクーを眺める。
このベアには、どんな歴史があるんだろう。
どんな子が可愛がっていたんだろう。
目を閉じて、またクーを見る。
クーの歴史を思うと、芝浦にも歴史があるんだと紅茶をすすりながら思い返した。
ドキドキ・・
忘れていた・・ベアを前にして、今も残るこの胸のときめき。
芝浦が初めてベアと出会ったのは、小学四年の頃だった。
その頃はまだテディベアなんてまったく知らなくて、派手好きの叔母が外国土産だとくれたベアを、男にクマかよと鼻で笑った物だった。
母親がせっかくだからと、居間に飾って何年か過ぎて、中学のとき好きになった子がテディベアの話をやたら教えてくれた。
それから毎日居間にあるベアを見つめ・・
そして、一大決心で気を引くためにそのベアを彼女にプレゼントしたのだ。
それが、あっという間にふられてしまった。
何だかとても悔しくて、別れたことよりベアを返せと、どうしても言えないのが情けなくて。
何とも思っていなかったのに、いつもある場所にベアがいない。それが凄く寂しい。
母親も残念そうだったし、叔母にもばつが悪いし高くて買えないしで、とうとう思い立って自分で作ったんだ。
図書館から本を借りるだけでも恥ずかしかったっけ。
あの頃は、気に入ったモヘアの材料を探すのも凄く大変で。
ジョイントもなかなかないし、目もガラスが使いたくて、いい色がなくて探し回った。
フフフ・・それが、面白かったよなあ。 
ようやく出来ても、やけに鼻が曲がって、口が変で、目が左右上下にずれてて、みんなに大笑いされたっけ。
福笑いみたいだってさ。
コチコチコチコチ・・
時計の音がやけに部屋中に響く。
先程までハルの泣き声が聞こえていたけど、ようやく眠ったようだ。
「あいつ、またおねしょしたら、今度は叩き出されるぞ。」
フフフ・・
ハルの百面相が、ポッと頭に浮かぶ。
あれが年相応の中学生なら、俺の事おっさんっとか呼んで、生意気なんだろうなあ。
永遠の子供か・・
ファイルをあけて、パラパラと今まで作ったベアの、沢山の型紙を見る。
電話には、数件の伝言が残っていた。
きっと仕事のことだ。
長崎のハウステンボスにあるベアミュージアムには、アーティストベアの展示がある。
もちろん芝浦も展示しているが、今回その中で一番有名なアーティストがイギリスから招かれてハウステンボスで一ヶ月間の個展を行い、その後日本各主要都市のデパートを巡回するらしい。
そのイベントの一つに、ハウステンボスに展示しているアーティストそれぞれの監修で、新作ベアのコピーを限定各百体ずつ作り、個展に伴うショップでそれを売り出すのだ。
そしてそれを皮切りに、芝浦は大手のメーカーをバックに付けて、新レーベルで量産して売り出す事が決まっている。
どれだけ売れるかわからないが、これは大きなビジネスチャンスだ。
ちまちま一人で作るのとは訳が違う。
マイナーになるチャンスだ。
チャンスなのだ。
ところが、その個展用2点のうちのあと1点が出来ない。
どうしたことか、まったく作れなくなってしまった。
新レーベル用にも、どんどんデザイン画と見本を作らなければならない。
なのに・・・作れない・・・・
フウッと、溜息しかでない。
パンッとクーに手を合わせた。
「クーリン・・えっと、
俺を助けてください!
クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
手を合わせ、目を閉じてじっと願う。
カチカチカチ・・
しかし、何が起きるわけではない。
時計の音が虚しく響き渡るだけだ。
「やっぱりね。世の中そんな甘くないか。」
立ち上がり、茶器を持ってキッチンに向かった。
電話の横を通りながら、伝言スイッチに手を伸ばす。どうしようか迷いながら、ようやく押した。
”ピッ!四件伝言です”
『芝浦さん、えっと、僕です、電話下さい』
”ピッ!午後一時二十二分です”
やっぱりか、と芝浦がキッチンに行き水を勢い良く流して茶器を洗う。
出来るだけ水音で伝言が聞こえないように。
ピッピッと、高い電子音ばかりが耳に入り、用件は耳に入らない。
聞きたくない、聞きたくない
しかし、ふと思ってもみない言葉が耳に飛び込んだ。
『・・・いので、伝言します
工房でトラブルがありまして、急遽休みが入ります。明後日からしか稼働しません』
えっ?
キュッと水道を止めた。
『いいですね、明日の夕方までに工房へお願いします。それを越えると契約解除ですよ!
もう、僕は知りませんよ!』
”ピッ!午後四時五十九分です”
呆然・・
何と、知らない間に猶予が出来ていた。
締め切りを過ぎているのと、まだ猶予があるのでは、随分気持ちが変わる。
手を拭いて、工房の部屋に向かった。
作業台には、クーが向こうを向いて座っている。
『クーはね、おじいちゃんだけど、お兄ちゃんの困ったを治してくれるよ!』
まさか・・偶然だよな・・
クーを手に、顔をまじまじと眺める。
別に、クーがそこでニヤリと笑ったわけではないけれど、冷え切っていた芝浦の心が、ほんの少し暖かくなった気がした。
笑顔か・・・
今日一日が、次々と浮かぶ。
ハルの笑顔、春美の笑顔、あのマンションでの管理人とおばさんの笑顔、酒屋のおじさんの笑顔、田中さんの娘さんの笑顔、奥さんの笑顔、エレベーターで会った男性の笑顔。
何だか、今日は偶然なのか、笑顔の大漁だ。
都会の人間も捨てたもんじゃない。
じっと、販売用の作品を作るため、部屋に缶詰してカチカチになっていた心がほぐれた気がする。
見たくもなかった、モヘアとスエードの生地を棚から下ろした。
コピー製造を頼む工房から選んで分けて貰った、今回特別にドイツから取り寄せた生地だ。
あまり毛が密集していない、アンティーク風のモヘア。
ピンクがかった薄いブラウンが、とても気に入って目を引かれた。
しかし・・
そこで、突然終わったのだ。
何も浮かばなくなってしまった。
でも、今、今なら・・
作業台に付き、スケッチブックを手にした。
パラパラめくると、沢山のデザインがある。
たかがクマ、されどベアだ。
「クー、俺に力を貸してくれよ。
えーっと・・
クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
神懸かりでも何でもいい、俺は今、何にでもすがりたい。
芝浦は、あの初めて叔母に貰ったベアに思いを馳せながら、今から作るベアに託す思いを、大きく白い紙の上部に書いて丸で囲んだ。
”思いやり”
芝浦の頭には、しかしまだぼんやりとしかアイデアは浮かんでいない。
すでに時計は3時を過ぎている。
ところが不思議と、芝浦の心に焦りはなく、確信だけがあったのだ。
”締め切りである今日の夕方まで、それまでに完成する”
芝浦は白い紙に、浮かんでは消えるイメージをつなぎ止めようと、必死で鉛筆を走らせた。
 清々しい朝が来た。
しかし、頭を爆発させたままの春美には、一つの深刻な心配があった。
そうっとベッドから乗り出し、ベッドの横に掛け布団にくるまって枕を抱いて眠るハルの顔を覗き込む。
涙と鼻水のあとが、白く乾いて残っている。
遅くまでぐずっていたので、春美もつい熟睡して、夜中トイレに起こそうと思っていたのに忘れてしまった。
しまった、これをクーに頼むの忘れてたわ。
「ハル、ハル、」
声を掛けてもびくともしない。
春美は起き出して、そうっと布団を剥いでみた。
まさか、こいつの事だから、朝立ちとかしてないでしょうね。
そんな物見たくない、けどおねしょが心配!
めくっていくと、最初スラリと伸びたハルの細い足が見えた。
う、男のクセになんか綺麗な足。
こいつ、言うことは幼稚園だけど、真っ白い肌に中性的な顔と身体は綺麗なんだよなあ。
やっぱ、ハーフって得よねえ。
ああ!私ってオジン臭い!
バサッと布団を戻し、ブンブン首を振ってまためくる。
徐々に足が付け根まで見えてくる。
「げぇっ」
何と身体を隠すのも忘れ、ネグリジェはすっかり上へずり上がってくるりと腹部で丸まっていた。
で、肝心の物は・・うっ!おちんちん・・
違う!肝心なのはこれじゃない、その下。
「良かった、おねしょしてない。」
しかし、また見てしまった、おちんちん。
くーっ、朝から変な物見せないでよ!って、布団めくったのは私だけど。
「ハル、起きて。もう熱はないでしょ?
起きて熱もう一度測るの!
ああ、その前にトイレに行きなさい。」
「う、うーん・・トイレ?おしっこ。
うー・・クー、トイレだって、どこ?」
のろのろ起き出し、目を閉じたまま枕を抱いて、台所へ歩き出す。
「ああああ、違う!トイレはこっちよ。」
素直に起きるのは、やはり夜中に一度起こして貰っているのだろう。
大きくても確かに手の掛かる子だ。
ふう・・ボリボリ頭を掻いて、春美もキッチンに向かう。
すると微かに、ミシンの音が聞こえた。
タンタンタン・・・
「あら?作れるようになったのかしら?
まさか・・徹夜?」
キッチンの向こうが芝浦の工房だ。
確かに時々、これまでもミシンの音が聞こえていた。
そうだ、朝ご飯食べたら行ってみようか・・
水を流す音がして、ボウッとした顔でハルが出て来る。
「ハル、おちんちん紙で拭いた?
あんたノーパンなんだから、汚いじゃない。」
「え?」
もう!真横で言ったのに聞いてない!
「だから!おちんちん紙で拭いた?」
「えー?おちんちん拭くの?」
ボヤーッと頭を傾げて、全然分かっていない。
まあ、確かに男は紙で拭く習慣がないだろう。
「もう!パンツ乾いてればいいけど・・」
やっと乾いても、すぐお漏らしするからやっぱり一枚じゃ足らない。
朝食済んだら、下着だけでも買いに行こう。
まったく、金がかかるんだから。
布団をたたんで着替えると、洗面所で軽く身を整える。髪も勤めていた時みたいに、綺麗に整える気がしない。
「少し、伸びたかな?」
いっそ、ショートに切るか、ようやく肩まで伸ばしたけど・・・
髪をくるりと捻ってバレッタで止める。
まだ化粧してない顔は、浮腫んで見えてひどく年を取って見えた。
いかんいかん!
鏡ににっこり笑い、百面相で顔の筋肉を解す。
「お姉ちゃん、怒ってるの?うれしいの?」
ハッと隣を見ると、ハルが怪訝な顔で立っている。全然気が付かなかった。
「あんた、女の身支度見るなんて失礼ね!」
「み?みーじーく?ハルわかんない。」
プイッと居間に行き、カーペットに座ってテレビをつける。
もちろん子供番組。
あいつに失礼なんて言っても、馬に言ってるのと同じか・・
「ハル、あんた朝は何食べてたの?」
リモコンを拾い、テレビのチャンネルをニュースに変える。
あれ?っと首をひねって、ハルがキョロキョロリモコンを探し始めた。
リモコンは、春美のジーンズのポケットだ。
「ほら、あんたも着替えなさい。
ね、何食べてたの?」
「ハンバーグ。」
「うそっ!もう、本当は?」
「オ、オ、オム・・ライス!バナナ・・パヘ!」
パヘ?パフェか、フ、こいつ身支度は分からないくせ、好きな物の名前は熟知してやがる。
「分かった、人参と白菜と、ピーマンいっぱい入れてみそ汁作る。」
そんなみそ汁ある分けないが、そう言ってキッチンに向かう春美に、慌ててハルが飛びついた。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!ハル、朝はボチャがいっぱいのみそチューだった。
人参は駄目だよ、ピーも駄目。ね?
甘いの、甘いのね?卵焼き、ね?」
おお、慌てて本当のことを吐いたか。
フン!初めっから言えっちゅうの!
春美は今まで面倒臭くて抜いていた朝食を、今朝から取ることにした。
何しろ、ゆっくり作っていいのだ。
時間に追われることはない。
ただ、お金はどんどん減ってゆくけど。
そうだった、ハローワークに行かなきゃ。
食事を作って、ようやく二人向かい合って座った。
しかしハルが、窓を背にしているのが気になる。昨夜と同じ位置なのだが、夜はいいが日が高い内は手元が暗い。
「ハル、手元が暗いでしょ?こっちにおいでよ、ほら、並んで食べようよ。」
「でもお・・」
テレビの横に茶碗をずらし、春美が正面に座る。ハルは何故か渋々言われたところに座り、テレビを見て、またリモコンを探し始めた。
「ああ、はいはい、何を見るの?教育テレビ?」
ポケットからリモコンを取りだしチャンネルを変えると、何か人形劇が丁度始まる。
「貸して!貸して!それ、貸して!」
「あー!もう!何を見るの?」
春美が仕方なく差し出す。
「音、どれ?」
「え?音量はこれよ。」
聞くが早いか急いで、それを押す。
テレビの画面に緑の棒が現れ、それがどんどん増えると凄い音を吐き出し始めた。
「ちょ!何するの!貸しなさい!」
「やだ!こっち座るのやだ!テレビ見るの!」
リモコンを返そうとしないハルと揉み合いになりながら、春美がようやくリモコンを奪い取り、音を普通に戻す。
はあっ、今の・・芝浦さんまた怒るかなあ。
「何でこんなことするの!お隣に迷惑でしょ!
ハルは大体声が大きいんだから、それ以上騒音出すの止めてよね!」
「だって!こっちは駄目なのに、お姉ちゃんがいじめるもん!前、前ならいいのに!」
「はあ?」
何のことか良く分からないけど、テレビに向かって左は駄目で、正面と右はいい。
何のこっちゃ。
「じゃあ、私と変わりましょ。
こっちならいいのね。」
「うん、こっちはいい。」
と、ようやく落ち着いてハルがテレビの正面に座り、春美がハルの左隣に座った。
「いたーだきます!」
ハルに言われたとおり、みそ汁はカボチャをいっぱい。卵焼きも甘くした。
おかげでようやく美味しそうに食べてくれてホッとする。
「ハル、ご飯食べたらお兄ちゃんの所に行こうね。クーも返して貰うの?」
ハルはテレビとご飯に夢中で返事をしない。
「もう、何か調子狂うわね。返事くらいしなさいよ。ね!ハル!」
大きい声にビクッとハルが春美に顔を向ける。
「なに?なに?も一度言って。」
「え?いや、大した事じゃないけど。ご飯食べたら隣に行こうねって・・」
「うんっ!クーをお迎え!」
ハルがにっこり笑って、またテレビに顔を戻した。
人形劇は、軽快な音楽で可愛い人形が動物たちの学校の物語を演じている。
何か・・変・・
ご飯を食べながら、ハルを見つめる。
そう言えば、ハルは必ず春美の正面か左に来る。今まで、気が付かなかったのが不思議なくらい自然に。
「ハル、聞こえる?」
普通に、ハルの左耳に声を掛ける。
ハルは、嬉しそうに卵焼きを食べていた。
「ハル、聞こえないの?」
「卵ね、甘くて美味しいね。お姉ちゃん、ありがとうね。えへへ・・」
春美が、呆然とハルを見つめる。
この子、左耳が、聞こえないんだ・・
右耳も、遠いのかもしれない・・
首を傾げるのはクセかと思っていたら、一生懸命、聞き耳を立てているんだわ。
ああ・・
だから、声が大きいんだ・・
それを、気付かれまいと、この子なりに・・
「お姉ちゃん、ね?ほら、こっちが卵の黄色多いんだよ。お姉ちゃんの、白ばっかり!」
「あ、ああ、ええそうね。
いいのよ、黄身はコレステロール多いんだから、私はこれで。」
一体、この子に何があったのか。
分からないことばかり。
それでもこの笑顔、そんなひどい事じゃあないはずよ。
そう、信じようよ、ねえ、春美。
春美が自分に言い聞かせて、にこにこ顔のハルに笑顔を返す。
「さあ、クーを迎えに行かなきゃね!きっとおじさん相手じゃ寂しいって言ってるよ。」
大きな声で、はっきりと告げた。
「うん!行く!」
一体、幾つ障害を持っているのか・・
春美は、やっぱり警察に連れて行った方がいいような気がして、また迷いが出てきた。

 ピンポーン!ピンポーン!
「お兄ちゃーん!クー迎えに来たよー!」
ハルがドンドンとドアを叩く。
ガチャガチャ、チェーンと鍵が外れる音がして、ドアがゆっくり開いた。
やや疲れた顔の芝浦が、苦笑いで顔を出す。
「やあ、昨日はどうも。」
「おはよう、徹夜してるの?」
「ああ、入る?どうぞ。」
「朝ご飯は?」
「ああ、まだだけど。作る暇がなくて・・」
「だろうと思った。残り物だけど食べる?」
春美がラップをかけたトレーを差し出す。
もう冷めてしまったが、みそ汁とご飯に、卵焼きの端っこ。本当の余り物だ。
「えっ!いいの?助かるよ、どうぞ。」
ヒョイとトレーを受け取って、嬉しそうにキッチンへ向かう。
ハルはさっさと中でクーを探し、春美もそっと後を追うように入った。
芝浦は、みそ汁とご飯をいそいそ電子レンジにかけている。 持ってきて良かった、凄く嬉しそうだ。
「クーのおまじない効いた?クマちゃん、作れるようになったんだ。」
「ああ、ぼんやりとね、浮かぶのを霞を払いながら何とか掴んでる途中。」
「へえ、でも、ミシンの音してたじゃない?」
「ああ、あと腕がねえ、いくつか作って型紙決めてるんだ。いつもはこんな事しないんだけど、やっぱりどうも調子が出なくて。」
「ふうん、手が掛かるのねえ。」
工房のドアは閉まっている。
ハルも、キョロキョロ見回してクーがいないのを確かめると、工房のドアに手を伸ばした。
「駄目よ!ハル、お兄ちゃんが持ってくるまで待ちなさい!」
「う、うん。」
ハルは落ち着かない様子で、居間のソファーにちょこんと座る。
居間のテーブルには、地方のアミューズメント施設でのイベントのチラシがある。
春美がそれを取ると、彼の名前が目に飛び込んできた。
「あら!あなたって、やっぱり少しは知られてるのねえ。ハウステンボスって、地方だけど有名な施設じゃない。
へえ、あそこにもテディベアの施設があるんだ。あなたも行くの?」
「いや、俺の作品が出るだけさ。
そこで売り出される、特別品の締め切りが今日なんだ。それで焦ってるわけ。」
「ふうん、限定品って奴?
メインゲストは・・イギリスの人?
へえ、ドイツだけだと思っていたら、テディベアってグローバルなのねえ。」
芝浦は、温めた食事をダイニングで食べ始めている。熱いみそ汁に、ハアッと気持ちよさそうな溜息をついた。
「イギリスにも沢山会社があるよ。
大きいところはメリーソート、ファーネル、ディーンズ。あれもイギリスだ、パディトン。」
「え?パディトンってテディベアなの?」
「そうだよ。面白いだろ?
プーさんだってテディベアさ。
知らずにテディベアと付き合っている。どの家にも、一つくらいベアグッズはあるものさ。」
「へえ・・ほんと、面白いわねえ。
イギリスの人、このグランディスって言う人もあなたと同じアーティストなの?」
「ああ、この人のベアは・・ほらその大きな写真。鼻に蜂が乗っているのが目印さ。
ハニーベアって言ってね、表情がいい。
幸せを運ぶベアだってさ。
その人、昔は日本にいたからね、日本にファンが多い。だから良く来日するんだ。俺も二回ほど会ったことがある。
えーと、まだ四十前の美人だぜ。」
ま!女の前で、他の女を誉める物じゃなくってよ!
プイッと春美が顔を背ける。
そして、ポイとチラシをテーブルに放った。
ふわり、
ハルの前にチラシがとんできた。
膝頭で止まって、何気なくそれに目が行く。
字は、ひらがなとカタカナが少し読める。
暇だから、その字を一文字ずつ頭の中で読んでいった。
て、で、い、べ、あ・・き、ん、ぐ、だ、む!
読めた!嬉しい!ナッチンがいれば、誉めてくれるのになあ。
可愛いクーのお友達がいっぱ・・い・・
えっ!
ハルの目が、大きく見開かれる。
思わずチラシを掴んで、じっと食い入るように見入った。
「どうしたの?ハル?」
春美が怪訝な顔で身を乗り出す。
ハルがハッと我に返ってチラシを放り、首を振った。
「んーん、何でもないよ、何でもないの。」
ハルの顔が、真っ青で唇が震えている。
「どうしたの?」
ハルが放ったチラシを取って、春美が見返した。
別に、沢山のクマの写真が載っているだけだ。
後は日本のアーティストの名前や施設の宣伝。
ハルは一体何に驚いたのだろう。
握り拳を膝の上で、ガタガタ震わせている。
芝浦もそれに気が付いて、春美にそっと尋ねた。
「どうしたんだ?」
「わからないわ、このチラシ見て急に・・」
「ハル、何か気になることは言ってごらん。何か手がかりがあれば、それが知りたいんだよ。」
「な、な、なんで、でもな・・」
ガタガタ体中が痙攣のように震える。
「ハル!」
驚いて春美が駆け寄ると、ハルはそのままがっくり気を失ってしまった。
「ハル!どうしよう!お医者さんに!」
芝浦が、そっとソファーにハルを横にする。
「大丈夫、こんな子同じクラスにいたんだ。
ショックなことがあったら、ヒステリー起こして一時的に気を失う。大丈夫、このまま暖かくして寝かせて置こう。」
「え?ええ。」
芝浦がベッドからクマ柄の布団を持ってきてハルにかける。春美は傍らで見ていて、胸がキュンと打たれた。
何て頼りがいがある男なの?
部屋の趣味は最悪だけど、こんな男、今まで周りにいなかったわ。
「そうだ、これも・・」
何故か芝浦はバスタオルをハルの腰の下に挟み込む。春美が不思議そうに覗き込んだ
「何?」
「おねしょだよ!ここでやられたら最悪!」
「ああ!あはははは!ほんと!最悪!」
一息ついて、芝浦がチラシを片手にダイニングの椅子に座る。
隅から隅まで眺めても、何もおかしい物はない。クマしか載っていないのだ。
横から春美が覗き込み、一緒になって考えた。
「これは?この人、イギリス人。
ハルのお母さんじゃない?フルネームは?」
「まさか!名前が違う。彼女は日本の大学出て、すぐにイギリスに帰ったって聞いたぜ。
穏やかで優しい人だ、そんな・・」
「女は分からないわよ。写真ないの?」
「あるよ、でも、まさか彼女のベアを見て倒れたのか?ちょっと待って。」
本棚から雑誌を取り、ペラペラめくる。
彼の頭には、どの本のどこに何が載っているかなんて大体頭に入っているのだ。
「ああ、あった、これだよ。なんてこった!
レティナ・グランディス!大当たりだ。」
春美が覗き込む。
そこにはベアを抱いた、ブラウンの髪の上品な女性が優しく微笑んで写っている。
その微笑みは、間違いなくハルと親子だ。
目元に頬のラインがそっくりだった。
「でも、グランディスって・・」
「彼女には、会社社長の旦那も子供もいるよ。
イギリスにね、ちゃんとでかい家があって家族もいる。離れに工房もあるんだ。」
「じゃあ、ハルは?」
「知らない、日本に置いていったんだろ?
旦那が引き取ったのかな?」
「じゃあ、ハルの名前は白川晴美?
迎えに来るって、ウソだったんだ。」
ウソ・・子供に平気で嘘を付く人に、この人は見えなかった。ベアアーティストに、そんな人がいるなんて信じたくない。
「なまじウソとは思えないな、そんな人じゃないよ。何か訳があるんだよ。」
「訳なんて!この子ずっと待ってるんだよ!」
「それは・・どうかな?だったらどうして気を失うんだ?変だよ。」
それはそうだ。
それに呼び方も様々で、ハルの家族は酷く複雑に感じる。
「とにかく、俺は今日だけは付き合えない。
明日はいいから、それからにしよう。」
「ね、この子、耳が不自由みたいなのよ。
左が聞こえないみたい。それで、やっぱり警察はどうしようかと思って。」
ふうん、と芝浦が考える。
そして、ニッと笑ってポンと背を叩いた。
「分かった、捜索願が出てないか調べておくよ。警察には友人がいるんだ。
君は出かけるんだろ?行って来いよ、俺が見てるから。」
「ええ、そうね、この子に下着もいるし・・
あなたは?何かいる物ある?」
「えっと、頼んでいいかな?
じゃあ、アズミベーカリーのデニッシュパン。
それと白鳳高原牛乳とヨード卵。
重い・・かな?」
遠慮がちに、遠慮なく重い物ばかり頼んでくれる。それもきっちり商標まで指定して。
「オッケー、いいわよう、ドンと来いですわ。」
春美はにっこり笑って、ドアへ向かった。
ドンと来い・・ドンと恋、なんちゃって。
春美は何だか足取りも軽く、買い物へと出かけて行く。
 ガチャガチャと鍵を掛け、芝浦はふと考えると電話を手に取った。
ピ、ピ、
ルルルルル・・
友人の携帯は、短縮ダイヤルに入れている。
しかし、今の時間は仕事中だ。
取ってくれるか・・
『はい』やった!
「よう、俺だよ、芝浦。頼まれてくれるか?」
『何だよ、今警ら中!なに?!』
「それが知り合いのママさんから頼まれてね。
店に若い子が面接に来たんだけど、何だか言う年より若い気がしたって。
心配症だからね・・家出人じゃないかって。
本人は断ったらもう帰っちゃったそうだけど、一応聞いておきたいって。」
『どこのママさん?』
「いや、それは秘密。だからお前に聞いてんの!白い川と、晴れに美しいって書いて白川晴美って名前。本名かは分からないけどね。」
『ふうん、わかった、調べてまた電話する。
家出人は多いからね。じゃあな、後で。』
「うん、悪いな。」
ピッ!
親友だから誤魔化すこともないんだが、俺もやっぱり後ろめたいのだろうか。
預かっていると言えば聞こえはいいが、相手が未成年略取だと言えばそうなるのかも知れない。
彼女は自分で家に送り届ける気らしいが、そう簡単に見つかるだろうか・・
ハルの寝顔を、そっと覗いて布団を直す。
『左耳が・・』
片耳が、聞こえないか・・
お前には沢山願い事がありすぎて、クーも大変だろうな。
テーブル上の開いていた雑誌を閉じ本棚に返すと、芝浦はヨシッと気合いを入れて工房のドアを開けた。
「あ、クーを返さなきゃ。」
作業台の上のクーを取り、居間に行ってハルの枕元に置く。
「サンキュウな、助かったよ。」
芝浦はハルの頭をフワリと撫で、再び工房に戻った。
 平日の真っ昼間というのに、さすが都会は人が多い。車を持たない春美は、乗り慣れた電車を乗り継ぎ、町へ出る。
デフレで国は潰れかかってはいるが、やっぱりプー太郎の今は、出来るだけ安い物がいい。
行きつけの複合ビルの、いつもの洋服売り場を通り越して、更に上へエスカレーターで上がってゆく。
男性の下着売り場なんて、親父の物以来だ。
「あの子、ちっちゃいブリーフだったわねえ。
ちょっと痩せすぎだと思うけど。
しまった!サイズ見てこなかったわ!」
ぴたっと歩みを止める。
しかし、焦ったって仕方がない。
「子供用かな・・?もう、Sでいいや、大きくても小を兼ねてくれるでしょう。」
パンツを二枚と、シャツを二枚。
ああ、何て痛い出費。
早く身元が割れてくれないかしら。
「あらあ!春美じゃん!あの子はどうなった?」
看護婦の淳子だ。休みなのか、ラフな格好で沢山なにやら下着を握っている。
恐らくは旦那と子供の分だろう。
「ここにいるって事は、まだあの子の身元分からないんだ。」
「ん、隣のほら、あの人が探してくれてるんだ。でも昔のことでね、なかなか。
マジわかんないときは、嫌がっても警察に連れて行くよ。仕方ないもんね。」
「そう。でさ、あの子のカルテをあの後見てたんだけど、何か凄いこと婦長が思いだしてさあ・・」
淳子が、不意に春美に声を落としてきた。
「凄いこと?」
「うん・・守秘義務あるから他人に言っちゃ駄目なんだけど、これから親が見つかったときのために・・ね?あんたは知って置いた方がいいと思うんだ。」
「分かった、真剣な話なんだ、分かったよ。」
「じゃあ、これ買って向こうのベンチに行こう。売り場で立ち話も何だから。」
「うん、ちょっと待ってて。
あ!店員さん!超強力なおねしょシーツ下さい。絶対布団が濡れない奴ね。」
店員がにっこり頷いて、売り場の奥に消える。
春美はパンツを握りしめたまま、暗い顔でベビー用品を見つめた。
何だろう・・あの子の秘密が一つ一つ分かってゆく。
明るいあの子に、どんな過去があるのか。
およそあの明るさから考えられない暗いことのような気がして、春美は淳子の横顔に不安を覚えた。
 ようやく型紙がおきて、生地のカットと各パーツの縫い合わせが済んだ。
やはりいつもより手間取ってしまったが、時間が経つ事にいつもの調子を取り戻してきた。
ピルルルル・・
電話・・あいつかな?
『よう!さっきのご依頼、分かったぜ。』
「ああ、悪いな。」
『白川晴美だろ?それがよ、子供なら出てたんだけど・・飲み屋にバイトするような子じゃないから・・違うな。』
「出てた?」
『ああ、でも昨日取り消されてるよ。見つかったんじゃないの?
だからさ、そいつ偽名じゃねえの?飲み屋なら誤魔化し効くと思ってる奴多いから。』
「ああ、そうか、ママさんにも言っておくよ。
心配症だから、そこが可愛いんだけどね。」
えっ?自分で言って驚いた。
『おお!なんだ?お前がクマ以外を可愛いなんてよう!ママさんって、クマみたいな女か?
お前が女を可愛いなんてさあ!』
「バカッ!たとえだよ!たとえ!
もう切るぞ!真面目に働け!税金泥棒!」
『ちぇっ!お前に言われたくねえや!
じゃあな!鍵増やして戸締まりしろよ!』
ピッ!
電話を切って、縫い上げた生地を見る。
「ふうん、見つかったねえ・・
でも、隣りに誰か来たって話はないし・・
訳わからんなあ・・」
ポワンと、春美の顔が浮かぶ。
ドキドキ、胸がドキドキ、これは心臓が悪いのかもしれない。
か、わ、い、い、
ブルブル頭をふって、パンッと頬を叩いた。
「気のせいだ、気のせい!よし、もう一息。」
段ボールを棚から取りだし、中の木毛をパーツの中に詰めてゆく。
木毛とは、昔からテディベアの詰め物に使われている、木を薄く糸のように削った物だ。
綿を使うのが現在の主流だが、アンティーク風にこだわる芝浦は木毛しか使わない。
これを、スタッフィングスティックと言う、金槌の形をした木の棒で、形を見ながらしっかりと力強く詰めてゆくのだ。
頭はここで顔の印象が変わるので、何度も何度も確かめながら丁寧に詰めてゆく。
首まで詰めたら、ジョイントにピンとディスクを入れて、縫い絞る。
「後は顔か・・」
目は黒のシューボタン、鼻と口は刺繍だ。
バランスを見ながら目の位置に穴をあけ、専用の長い針で目を縫いつけて、やや薄い色合いのブラウンで鼻と口を刺繍する。
シーバベア、独特の鼻の形に優しい微笑み。
ここが腕の見せ所。
頭には、しっかりイメージが浮かんでいる。
 「ヘッドがやっとでけた!はあー!」
クルクル回して何度見ても、何か凄く出来がいい。ボディにつけた時を思い浮かべると、楽しみだ。
目がかすんでごしごし擦る。大きな欠伸が一つ出た。
何しろ寝ていないのだ。
前は徹夜なんて何ともなかったけど、最近は年なのかやっぱり応える。
「やっぱ、三十過ぎたらオジンだよなあ。」
ふと、顔を上げるとハルがそっとドアから覗き込んでいる。目が合ってにっこり微笑んだ。
「ああ、起きたのか。どうもないか?」
コクンと頷いて、そうっと入ってくる。
「・・・と、同じだね。ね?クー。」
片手には必ずクーを抱いて、こうも愛して貰えたのなら、ベアを作った甲斐もあるよなあ。
「お前は、本当にクーが大切なんだな。」
「だって、クーはたった一人の・・
お友達だもん。」
?たった一人の、言いかけた本当は何なんだろう。
にっこり笑うハルの顔は、いつもの顔だ。
「お前って、いつも笑ってるんだな。
気楽でいいもんだぜ。俺は今、生き延びるのに精一杯だ。」
「ふうん、せ、いっぱいなんだ。」
ニコニコ笑うばっかりで、本当お気楽ハルだ。
すると、またまたハルのお腹がぐーっと鳴った。
「またかよ!お前いつだって腹ばっかり鳴らして・・あれ?もう二時か。
ちょっと休憩だ!お前も昼飯か。
えーっと、食い物あったかな?彼女遅いなあ。」
キッチンに行って、棚を荒さがし。
棚の奥から、ホットケーキの粉が出てきた。
「むー、これは時間がかかる。すぐ食べたい。」
ピンポーン、
「あ!グッドタイミング!」
ドアに飛びつき、一応覗き穴を見ると、何故か黒服にサングラス、オールバックに髪をなでつけたゴツイ男だ。ちょっと怖い。
「どなたですか?」
「私、白川の家から来た者です。」
なにっ!白川だって?!
チェーンを外さず、鍵だけを開けた。
そうっとドアを細く開けて覗く。
男は礼儀正しく一礼すると、ひっそりと声を落として話しかけた。
「失礼します。芝浦様ですね?
こちらに、晴美様がお世話になっていると聞きましたので。」
マジかよ、これって何かやばい雰囲気。
まさか、警察?いや、どう見てもマフィア。
まさか俺、殺されたりして。
芝浦が、返答に困って思わずうろたえる。
ところが男は、片手で芝浦を制すると更に小さな声で内ポケットから分厚い封筒を取り、差し出してきた。
「どうかそのままで、ご心配なく。
奥に晴美様がいらっしゃいますね。
今まで大変お世話になりました、これはこれまでのお礼です。
どうかお受け取り下さい。」
何だろう?緊張していた芝浦は、思わずそれを怖々受け取った。
「それで、大変心苦しいお願いなのですが、しばらくそのまま晴美様をお預かり願えませんでしょうか?
白川の方が取り込んでおりまして、お迎えする余裕がございませんので、どうかお願い申し上げます。
もちろんお礼はさせていただきますし、ご入り用な物がございましたら用意させていただきます。」
「べ、別に構わないけど・・実は隣の女性が預かっているんだ。」
「はい、存じ上げております。」
全て知っているだって?まるでマフィアかスパイ映画だ。
「分かったよ、彼女も別に負担になっているように見えなかったし、俺から話しておくよ。
これも彼女に渡しておく。」
男が頷いて、白い携帯を差し出した。
「何かございましたら、こちらの携帯でAにお電話下さい。どうぞ、この携帯は自由にお使いいただいて構いません。
では・・」
男が一礼して、くるりと去ってゆく。
「あっ!待って!あの子は、あの子の母親は?」
ガチャガチャとチェーンを外し、思わず飛び出す。
男はしかし、急ぎ足でそのまま去っていった。
「お兄ちゃん!お姉ちゃんは?」
ハルが空腹を抱えて飛び出してきた。
「ああ、いや、お姉ちゃんはまだだよ。
中で待ってようね。」
「あれえ?ムーキの匂いする。」
ハルがくんくんと鼻を立てる。
「あっ!お姉ちゃんだ!」
偶然その時、エレベーターホールから大きな荷物を抱えて春美が歩いてきた。
「ハルは中で待ってなさい。」
芝浦が途中まで迎えに出ると、春美がフウッと荷物を降ろした。
「ああ、ごめんね!ちょっと友達と会って・・どうしたの?」
芝浦の硬い表情に、春美がパンの袋を渡しながら覗き込む。
「そこで、男と会っただろう?」
「いいえ?誰もいなかったわよ。誰か来たの?」
「白川の家から来たんだ。」
「えっ!ウソ!どうして?」
「これ、今までのお礼だって。それと、しばらくそのまま預かって欲しいってさ。
一応、はいって言ったけど、良かったかな?
また別にお礼をするそうだよ。」
「それは別に構わないけど・・これは?」
芝浦が、封筒と携帯を渡した。
「何か不都合があったり、いる物があったら、この携帯で、Aに連絡くれってさ。他にも自由に使っていいって。」
ハルが、ドアの向こうから待ち遠しそうにニコニコして待っている。
二人は顔を見合わせながら、芝浦の部屋に戻っていった。

 パンを軽く焼いて、温めたミルクとヨーグルト。
ハルに先に食べさせながら、二人はキッチンでそうっと封筒の中を覗いてみた。
「うそっ!」
「いくら?」
まだたった三日だ。それでこの万札の数。
数えてみると百枚。つまり百万だ。
「信じられない金持ちね。
で、この携帯は自由に?つまり、これでブラジルまでかけて一日喋ってもいいって事?」
「だろうね。」
はあっ、嬉しいより怖い。
全部お見通しって、まるでストーカー。
春美が身震いする。
「まあ、いいじゃない、もらっときなよ。
おねしょやらウンコやら、手が掛かってるのは間違いないしさ。
それも分かっているから破格なんだと思うよ。」
「ならいいけど。こんなに貰っても、私特別待遇なんて出来ないわ。」
「普通でいいのさ。まずは飯食おう。
俺も忙しいんだ。」
「ああ、そうね、私も話があるけど、後で。」
色々考えてもまとまらないだけだ。
春美も頷いて、テーブルに付いた。
 食事を済ませ、芝浦が工房に戻る。
ハルは勝手にテレビをつけ、真ん前に座ってじっと見ている。
春美は食器を洗って、ハルに声を掛けた。
「うるさいでしょう?ハル、帰りましょうよ。」
「やだ!ここがいいの!」
「もう!」
時々ハルは我が侭で頑固だ。
春美が無理矢理引っ張ろうと近寄ったとき、工房のドアから芝浦が手招きした。
「いいさ、放っておこう。
俺は別に気にならないよ。それより・・」
春美が、ハルを気にしながらドアを閉めようか迷う。しかし見ていないと心配なので、ハルが見えるくらいに開けて置いた。
「どうぞ、ここに座ればいい。
俺は作業してるから。」
「じゃあ、失礼して・・
実はね、買い物の時にほら、病院で会った看護婦の友達に会ったの。」
「ああ、あの人?俺をいい男って言った。」
春美が、くすっと笑う。
男はそう言うことは良く覚えている物だ。
「そうよ、それであの後、婦長さんがカルテ見ながら色々思いだしてね、知って置いた方がいいって教えてくれたのよ。」
「ふうん・・なに?」
芝浦の手は、ベアの手足を作ることに休み無く動いている。耳だけを春美に傾けた。
「あの子と母親は、あの病院が行きつけで良く来ていたそうよ。
もちろんあの子の場合保健はないから全額負担なんだけど、お金に困った様子はなかったんですって。
でも、別に病気で来る訳じゃないの。
いつも、転んだとか、物が落ちてきたとか。
カルテには傷を処置した記録ばかり。
あんまり生傷耐えないから、その頃の婦長さんが心配して・・・」
「虐待?」
「ええ、でもその頃はまだ、今みたいに敏感じゃなかったからね。
年齢から見ると小さくて発育不全だったらしいけど、好き嫌いが激しいと言う理由でその時は納得したらしいわ。
それに、お母さんはとても優しくて、とてもそんな風に見えなかったんですって。
あの子だっていつもニコニコして、とても虐待されているように見えなくて、仲がいい親子だったそうよ。」
「仲がいい、ねえ・・」
ちらっと居間にいるハルを見ると、テレビを見てはしゃいでいる。
暗い生活を送ったように見えない。
「あの耳ね、どうも殴られて・・それで聞こえなくなったらしいわ。鼓膜が破れていて、ひどいあざを作ってきたんですって。」
「鼓膜が?でも、鼓膜って時間かかるけど塞がるんだろ?」
春美が首を振り、ハルに聞こえるはず無いのにいっそう小さな声で話す。
「あのね、耳の中の方まで障害が出来たんじゃないかって。すぐに治療すれば良かったのに、放ってたみたい。すごく痛かっただろうに、気がついてすぐに耳鼻科に転院したらしいけど・・そこら辺、詳しく婦長さんも覚えてないのよ。
良く、育児の相談にものっていたらしいわ。
その頃、あの病院でも相当話題になっていたから、来なくなって随分心配したんですって。」
「殺されたって?」
真剣に話していた春美が、プウッとむくれて身体を起こす。芝浦は冗談のつもりじゃないのだが、そう取られたらしい。
「ん、もう!」
「随分あの子、複雑なんだな。
まさか、ずっと迎えに来なかったりしてね。
捜索願も取り下げてあるらしいし。」
「ウソ!やだ、本当に迎えに来ないなんて無しよ!冗談じゃないわ。」
フフ、二人暮らしを楽しんでるみたいだけど、やっぱりそう出るかな?
芝浦がニヤリと笑う。
本当に寂しいのは、こんなに手の掛かる子がいなくなった後だ。家は火が消えたように静まり、電気をつけても暗くさえ感じる。
ご飯だって、あれ?っと思うほど冷たく味気ない。夜、布団に入っても、物音ばかりが耳について眠れなくなる。
「まあね、それはこんな大金くれるくらいだ。
安心していいさ。さて、と。後は爪の刺繍か。」
春美が改めて珍しそうに見回している。
芝浦も少し自慢げに職人らしく振る舞い、動きに無駄が無く格好いい。
「へえ、縫いぐるみってフワフワしてると思ったら、こんなに堅く詰めるの?
へえ、ふうん、すごいわあ。」
足を持ってクルクル回し、興味深く、そして少女のように目を輝かせる。
芝浦は少しずつ、顔が上気するのを誤魔化すように、作業に没頭する。
美しく、手際よく、
春美がその姿に、うっとり見とれた。
何だか、惚れちゃいそう・・
見慣れない道具を見回し、デザイン画を見た春美が、目を輝かせて指でその絵をなぞった。
「ねえ、この子には、小さなケープをした方が晴れるわ。そう思わない?」
「またかい?これにはちゃんとリボンが用意されているんだ。
そこにあるだろう?細いリボン。
それを三本取りしてリボン結びするんだ。」
春美が、巻いてあるリボンを手に取る。
そして、棚を見回した。
「ね、ミシンを使わせてよ。
きっと気に入るケープを作るから。ね?」
「駄目!何作っても採用しないよ。
これのデザインは決まってるの。
できあがりの予算もあるんだぜ。」
「いいじゃない、作って気に入らなければ、クーにつけるから。」
ちらっと春美を見ると、すでに彼女はやる気満々。芝浦も、溜息混じりに自分の作業を進めた。
「別に、好きにすれば?」
「ほんと!この、棚にある生地使っていい?」
「いいよ。」
「この紙も?」
「好きにしなよ。型紙はもうまとめてあるから、後は自由にいい。」
すでに、目を付けていたらしい。
サッと棚からサテンのベビーピンクの生地を引き出し、リボンと色合いを合わせる。
頷いて、出来上がった頭を見て何やら測ると、サッと型紙を書いた。
「私、クーの服見てて、ベアの服の特徴が何となく掴めたの。ふっくらした背と肩があるから、ケープは丈を短く、ほんの少し飾り程度に。でも、あなたのデザイン画は優しい肩のラインね、少しギャザーを寄せて、ふわっとした方が綺麗だわ。」
何だ?凄く彼女が輝いて見える。
それに、彼女はデザインを口に出すから、そのケープが頭に出来上がって行く。
そして、すっかり彼の頭の中のベアは、出来上がりがリボンからケープをしたベアへと変わってしまった。
しかし、こっちはプロの意地がある。
「作っても、使わないよ。」
「いいわよお、出来たらきっとつけたくなるんだから。」
くそう、何か負けてる。
しかし、こうしていると何だか凄く仕事が楽しい。
時々ハルも覗きに来て、じっと作業を見て、またテレビに戻る。
こうして、何だか気持ちよく、眠気も吹き飛んで作業は順調に進み、ベアは最終段階へ。
手足、首をつけたボディに木毛を詰め、背中を縫い閉じる。
そしてブラシで毛並みを揃え・・
「出来た!出来上がり!」
「おめでとう!綺麗なベアじゃない!」
ハルもとんできた。
「お兄ちゃん!出来た!良かった!」
はあ、ようやく出来た、それも最高の出来だ。
すると、横から春美がケープを差し出した。
「ほら!このベビーピンクのケープ!お似合いですわあ!リボンでフリルもつけておりますのよ。」
「駄目!これにはリボンでいいの!」
「あら、つけてみるだけでもいいじゃない。」
「却下!これはプロの仕事なんだよ!
それに、材料に変更があるとあっちの工房に迷惑がかかるの!」
リボンを取り、長さを見て切って結ぶ。
しかし、頭ではすでにケープをしたベアが浮かんで、リボンでは物足りない。
ハルもじいっと見つめて、ちらっと芝浦に目配せする。
「ハルも、あの可愛いのがいい。」
「ほら!ハルもこっちがいいわよね!」
ウウ・・仕方ない。
「分かった、じゃあちょっとつけてみよう。
つけるだけだからね!採用はしないよ!」
リボンを取り、彼女がケープをつける。
しかし、一度も合わせていないと言うのに、彼女が作ったケープはピッタリとベアの肩の線に沿って、いっそう可愛く引き立てた。
「うっ、」
「あら!やっぱりぴったりよ、ね。」
「可愛い!ハルもこっちがいい!」
「くそう、これは俺の名前で売り出すんだから、俺が作らないと・・」
「いいじゃない、あたしはアシスタント!
漫画家だって、一人じゃ書かないわ。」
「まったく・・じゃあ、型紙くれよ。」
「おお!やった!これよ、はい!」
芝浦が、ベアにビニールをかぶせて紙袋に入れる。
型紙と、後は使った物のリストと残り生地。
時計を見ると、四時を回っている。
工房は、確か六時まで誰かがいるはずだ。
間に合った!
慌てて出かける用意にはいった。
「これ、向こうの工房に持っていかないといけないんだ。君は?」
「ああ、じゃあ私は帰るわ。ハル、おいで。」
春美がハルの手を引いて、引っ張る。
しかし、ハルは突っ張って芝浦に飛びついた。
「ハルも行く!車に乗るの!」
「ああ、また我が侭?ほんと困った奴!」
「じゃあ、一緒に行こうか。
工房で少し待たせるけど、それでいいなら。
その後、田中さんの家に行こうか?
それで食事でもどう?」
あら、と春美の頬が赤くなる。
ま!食事なんて久しぶりだわ。
しかも男と二人っきり!・・じゃないか。
コブ付きだった。
「ええ、そうね。じゃあ、私その間に銀行行ってくるわ。こんな大金、家に置いておくの危ないから。ハルも一緒に連れて行くわ。」
「どこ?銀行。」
「ああ、白・・白川銀行よ。」
「成る程ね、わかった。」
何でもかんでも白川と、さすが百万なんて大した金じゃないらしい。
「外!外に行くの?ハルはケーキ食べたい!」
ハルもウキウキした顔で先を行く。
「そうだ、買い物の代金。はい、これ。」
「いいわ、お金なら貰ってあるから。それに私とハルも食べたもの。」
それでも首を振って、春美のポケットにお金を入れる。
「あれはハルの養育費だろ?俺の買い物はまったく別。はい、確かに返したよ。」
「うん・・」
あんな大金見た後で、きっちりしてる。
普通ならうやむやで誤魔化すだろう。
人が良すぎるのかも知れない。
「ふふ・・今時、そこもいいのよねえ。」
「え?」
「何でもない!行こう!」
春美も、先に行ったハルを追いかける。
芝浦は、首を傾げながら戸締まりを済ませて玄関に向かった。
 そうして芝浦は、締め切りギリギリ、と言うかとっくに過ぎてはいたが、契約解除ギリギリで工房に滑り込んだ。
その縫いぐるみ工房は、技術的にも高いとお墨付きのところだ。スタッフは女性ばかりで、その中に男性は二人しかいない。
その男性の一人、工房の代表者も、芝浦を見て微笑みながら苦い顔だ。
もう六十も近いが女性に囲まれているせいか、締まった体に趣味は水泳というスポーツマンだった。
禿げ上がった頭をピカピカと光らせ、大きな溜息をついて芝浦に椅子を勧める。
引きつった笑顔を返しながら、芝浦は頭を下げるしかどうしようもなかった。
「遅れてすいません。」
「どうも、これ以上無いくらい遅れてくれましたねえ、芝浦さん。
さっきまでマネージメントの崎森さんいらしたけど帰られましたよ。」
「そうですか。」
崎森は、芝浦が苦しんでいる間もずっと催促の電話をくれてはいたが、会いには来なかった。彼の顔を見ると、やはりそれ以上に追いつめられてしまう。
付き合いが長いだけに、芝浦のことを良く分かってくれる一人だった。
「ずっと頭を下げて、いい方ですねえ。
まあ、こちらもとんだトラブルで参りましたけど。」
「何があったんですか?」
「実は笑って下さい、インフルエンザですよ。
学級閉鎖じゃなくて、工房閉鎖です。
こんな事初めてですわ、前の日までどうも無かったのに、いきなり全員高熱と関節痛に頭痛、悪寒。作業どころじゃありません。
おかげで今度は、こちらが日程に追われてますよ。で?ベアは?」
まさか、クーの呪いじゃないよなあ・・
「ベアは?」
「これです、これが型紙。これが生地見本。」
代表が手に取り、ホウッと目を光らせる。
そして生地見本を手に取り、ケープを改めて裏や表を見ている。
「これは・・前の打ち合わせじゃ予定にありませんでしたな。」
「すいません、急遽変更です。
しかし遅れたのはこちらですから、無理には申しません。それに予算もあるでしょう。」
「んむー・・」
ケープをはずして、工房に入ってゆく。
そしてミシンを操る奥さんと相談しているようだ。
やっぱさ、無理だよ無理!リボンでいいさ。
そうっと覗くと、やがて代表が帰ってくる。
そして生地見本を広げた。
「えー・・と、サテンの・・これですかね?
色は?こちら?これが同じか?」
どうやらオッケーが出たらしい。
崎森にも電話して、予定と変更を告げて予定価格の再検討を頼んだ。
施設からも価格設定は厳しく言われている。
デフレは、ここまでにも押し寄せているのだ。
「しかし、テープでフリルか・・手は掛かるが、がんばりますよ。
コピーとは言っても、いい物をお客さんに届けたいですから。
成る程、このケープはこのベアに映える。
さすが芝浦さんですな。はっはっは・・」
「あ、はははは・・」
芝浦が、力無く苦笑い。
自分ではないなんて、とても言えない。
「じゃあこれで二作目、確かに受けました。来月からは玩具メーカーさんとタッグを組む予定でしたね。これからもごひいきに。」
「ええ、売れ行きよければこれからも種類を増やして、ルートを開拓してどんどん売り出すって崎森は張り切ってますから。
全国で手軽に買って貰えるようになるのが最終目的です。夢と言わず、俺もがんばりますよ。」
「何でもチャレンジしないと、先には進みません。わし等も応援しますよ。
出来れば締め切りは守ってくださいね。
うちも大きい工房ではないですから。」
「どうもすいません。」
代表者が頭と笑顔を光らせて、ポンポンと芝浦の肩を叩く。
事業を大きくするには、決して一人では出来ない。それだけ多くの人の手を借りなければ、何も出来ないのだと芝浦も痛感する。
 崎森も電話で連絡すると、明日見に来ると言って嬉しそうだ。心配かけて済まなかったと言うと、笑い飛ばされた。
笑って済んで、本当に良かった。
 車に戻り、途中春美達を拾って田中の家を目指す。
家周辺には車を止められる所がなかったので、先日と同様に近くの駐車場に止め、田中の家まで三人で歩いて行った。
日も暮れかけて、この時間は交通量が多い。
表通りは沢山の車が並んでのろのろ走っては、車間が開くとスピードを上げる。
「ハル!危ないわよ!ほら!」
「ねえねえ!どこ行くの?ねえ!」
ハルはガイドレールもない狭い歩道を、あまり丈夫に見えない足でフラフラよろよろ、歩き回って危なっかしい。
春美が慌ててハルを追うが、ハルは遊びと勘違いしてますます掴まらない。
「もう!けがしても知らないわよ!」
芝浦は前に書いた地図を見て、記憶をたどりながら指を差した。
「そこを路地に入って。そして・・」
ハルが小走りでたっと路地に入る。
キュキュキュ!ブオオオ・・
その時、いきなりスピードを上げて車が路地に入ってきた。
「危ないっ!」
春美と芝浦の息が止まる。
「危ない!」
間一髪、通りがかりの青年がハルの腕を引いて、車は何事もなく走り去った。
「あ、あ、あ、ううう・・!」
「大丈夫?危なかったね。」
青年に抱かれて、ハルの目が潤む。
慌てて後ろから二人が駆け寄った。
「ハルッ!バカッ!だから言ったじゃない!
どうもすいません!ああ、助かりました!」
「いいえ。」
青年は、言葉も短くハルを二人に渡して去ってゆく。二人はぺこぺこ頭を下げ、気が付くと、ドッと冷や汗が流れていた。
「ううう・・うう、うっうっ・・」
「ね?危ないから、手を離さないのよ。」
「うう、うん、うん。」
ポロポロ流れる涙を、春美がハンカチで押さえる。そして頭を撫で、手を引いてまた歩き出した。
「まったく、丁度いい所に彼がいて助かったな。こんな路地をあんなに飛ばして・・」
芝浦もブツブツ呟きながら、クーも無事かチラチラ横目で確かめた。

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