桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

<その3>

 研究所のロビーは、いつも2人のクローンがにこやかに働いている。
ここで眉をひそめるようでは、後は帰って頂くしかない。
ここは、クローンのための施設なのだ。

「いらっしゃいませ、本日はどんなご用ですか?」

自動ドアが開くと、15才ほどの男の子がいそいそと歩いてくる。紅い瞳を人なつっこそうにキョロッとこちらに向けて、容姿も人形のように可愛い。
「よう、アリア頑張ってるか?」
グランドが入るなり男の子に手を挙げると、嬉しそうな顔でぴょいと飛びついた。
「キャッ!グランドやっと来たね!もう来ないと思ったよ!」
「ああ、この間は大変だったな。お前は無事だったか?」
「うん!グランドは居住区にご用があるんでしょ?お迎え来るまで座って!レモンがお茶を入れてるから!」
「あー、俺は急ぐんだけど・・・まあいいや、はいはい。」
急かされ、ロビーのソファに座る。
グランドは良く来るので顔見知りだ。
男の子がひときわ嬉しそうにキャッキャッとはしゃいでいると、奥からトレイにお茶を載せて同年代の女の子がそろそろ歩いてきた。
「いらっしゃい!グランド!レモンね、ハーブティー習ったの!今日はね、レモングラスよ!レモンが育てたの!ね、ね、飲んで!」
「へえ、そりゃあ凄いな。」
テーブルにそっと差し出されたカップからは、ほんのり草色の優しい香りが立ち上っている。
レモンがわくわくした顔で見守る中、コクンと一口飲むと、フワッと清々しい柑橘系の香りが鼻をくすぐった。
「どう?どう?おいしい?」
「んー、こりゃうめえや。」
「でしょ!なのにね、なかなか人間は飲んでくれないの。いやーな顔して、レモンがコップを差し出すとムスッとしてね。
なぜかしら、コップも綺麗に磨いてるのに。」
ちょっと落ち込みがちのレモンを、アリアが頭を撫でて慰めている。
心を込めてお茶を入れても、なかなか人間は飲んでくれない。お礼を言ってくれない。
偏見が無くなる日を信じて、彼らはこうして一杯一杯を大事にお茶を入れ続けているのに。
「そりゃあ、捨てるのはもったいねえな。こんなに美味いのに。」
気持ちを察してグランドが言うと、レモンがキャッと嬉しそうに笑った。
「きゃはは!あのね、飲んでくれないときはね、博士達が『あーっもったいない!とっても美味しいのに!』って、ゴクゴクみんな飲んじゃうの。
この間はファープ博士が3人分ゴクゴク。きっとお腹チャプチャプよ!」
「はーん・・」
成る程、そのパフォーマンスは十分皮肉に違いない。高名な博士が、クローンをないがしろにされて腹が立つのは目に見えているのに。
さぞかし飲まなかった奴は慌てたことだろう。
馬鹿な人間共だ。

「これはこれは、グランド君じゃあないかね?」

この皮肉っぽい声は。
振り向くと、白衣姿のマキシが立っている。
「まあ、いいご身分じゃないか。可愛い子供に囲まれて、ヘラヘラしている君を見てると殴りたくなるよ。」
にっこり笑うその顔は、やややつれている。
レディが行方不明になって、ガーンッと来た人間がここにもいた。
グランドは立ち上がりクローンの子供達に礼を言うと、マキシと一緒に居住区へと向かう。
落ち着いてまず、もう一度グレイのクローンに会うためだ。
運ばれてくるヴァインの女はまだ時間がかかるだろうし、この居住区ではなく研究棟へ連行されるだろう。
クローンに会ってからで十分だ。
長い廊下を歩いていると、窓から工事業者の車両が一台見える。
「あれ、やっぱ換気を別にしたの?」
「ああ、別にして解放したのさ。あんな見えがいいように機械部屋なんか作ってたから塞がれて高濃度の薬をばらまかれたんだ。
余程壊された方がマシだ。」
「そりゃ、毒より暑い方がマシだよな。」
ちらっと、マキシがグランドを見る。
「なに?何か言いたそうだね。」
「随分落ち着いてるじゃないか。
あの時はクローンに掴みかかって、騒ぎ起こして謹慎になったんだろ?謹慎は?」
「おかげさまで、解除になりました。俺がいねえとはじまらねえのよ。」
「よく言う、単細胞が。」
マキシが鼻で笑う。
グランドはキュッと指で天井をさし、偉そうにふんぞり返った。
「マキシ博士もご存じない!グランドは熱しやすく冷めにくい。カーッと熱くなって、それをじわじわ持続する。
こう見えて、頭はカッカきてんのよ。ただ、冷静にカッカしてるのさ。」
プッと吹き出しつつ、成る程と分析できる。
レディアスは熱くもならず、いつもただ冷静以上に冷え切っている。2人で丁度良い温度になって、いいコンビと言うことか。
また、あの最後に別れたときのレディの顔が、マキシの頭に浮かぶ。
グランドに、ずっと謝りたかった。

「あいつ・・綺麗だったよ。パッと鳥みたいに塀を越えたんだ。鳥みたいに・・
・・・・・グランド、すまなかった・・」

「いや、あいつはきっと、誰がいても止められなかったよ。博士・・」

グランドが、顔を逸らしながら力無く返事を返す。
自分なら殴っても止めた、と思っているだろう。マキシが唇を噛む。

あまりにも、判断が甘かった。

レディがヘリと共に空へ消え、その後居住区へ入った軍と共に行ってみたそこは、血にまみれて惨憺たる惨状で、いかに自分の考えが甘かったかをこれでもかと言うほど見せつけたのだ。
運悪くガスの被害を逃れ、その惨状を見せつけられて放心状態で死体の前に座っていたクローンは、DNAに刷り込まれている殺人プログラムがフラッシュバックを起こし、それを押さえつける自我との軋轢に耐えられず強制睡眠措置を受けている。
睡眠状態で安静措置を受け、目覚めるのは脳波が落ち着いてからだ。
いつになるかは今のところ見当も付かない。
廊下の突き当たりのゲートに来て、マキシがドアキーにカードを差し込みドアを開ける。
グランドもサッと滑り込むと、横のパネルに「2名、確認」と出た。

「なあ、博士よ。」

「ん?」
マキシが顔を上げると、信じられないほどにグランドが笑ってみせる。
「あいつ、帰ってきたら思いっ切りいじめてやろうぜ。それこそ『泣く』までさ。」
ヒヒヒヒ!
下品な笑いは、シャドウに似てる。
クスッと笑ってマキシは両手でくすぐる真似をした。
「おやおや、僕にいじめていいなんて言ったら、どう言うことになるかわかってるのかい?
貞操の危機だよ。」
「ヒヒ!博士の細腕じゃ、逆に殺されるよ!
見物ジャン!今まで騙された女の子の敵だからね!」
まったく、あー言えばこう言う。
この6人兄弟は、似たもの同士でこっちが墓穴を掘る。
「ま、いいけどね、あの2人をやたら刺激しないようにね。逃げられたらさようならなんだから。」
「了解、了解。そういやさ、あの2人、随分仲がいいんだって?」
「ああ、グレイのクローンは、君がレディに尽くすみたいにもう一人の世話を一生懸命やってるよ。まるで夫婦だね。」
「そか、ブルーのクローン、まだ起きられないんだ。」
局長からの又聞きではあるが、ブルーのクローンの状態はひどい物だったらしい。
背中の皮がむけるほど殴られ、杖をついても良く動けたものだと、診察した博士達も驚いていたと聞いた。
相変わらず黙秘はダブルで続けているようだが・・

 「あっ!グランドだー!」
「よう!久しぶり!えーと、マーサにロビン・・と・・・」
居住スペースに入ると、嬉しそうな声に続いて、ターッとクローンの子供達が数人駆け寄ってくる。
声を聞いて、並んだ個室や3人部屋からも、数人が恥ずかしそうに顔を出して、グランドに微笑みながらあいさつした。
何処も鍵は銃で壊されたままだ。
この荒らされた跡に目をつむってクローンだと聞かなければ、どこか学校の寮のようだ。
換気工事とガラスをはめ替えるのが精一杯で、鍵まで手が回らないらしい。
銃弾の跡が残る壁が生々しい。
ここに暴徒が侵入したことはニュースにもなって、クローンの受け入れ先の反応が心配されたが、何処も同情的でスタッフもホッとしている。
保護されたクローンは、特殊能力を持つ者はそれを封印され、その他全て時期を経て精神的にも自立して安定し、人間社会への対応を勉強した者から授産施設や政府の受け入れが整っている職場などへと移る。
従順で感情の起伏が乏しく穏やかな性格が多いので、最近は福祉施設からの引き合いも多い。華奢で美しい外見からは、考えられない程の力もある。
最も良い形で平和利用に役立っているのだ。

 子供達が、グランドの手を引いてプレイルームへ行こうと引っ張る。
プレイルームは、遊び場と勉強の部屋で、庭が見渡せ日差しが柔らかに入る、ここでも居間のようなところだ。みんなが集まって、好きなことをしたりボランティアの人間や研究所のスタッフとスキンシップを楽しんでいる。
「グランド!こっちおいでよ。昨日ね、クッキー焼いたんだよ。美味しいよ。」
「僕が描いてる絵も見せてあげる!」
みんな事情を知っているから、グランドを慰めようとしているのだろう。
クローンから戦争を離せば、みんな優しくていい奴ばかりだ。
「今日は、用があるんだ。ごめんな。」
気を使い、残念そうに返した。
「そう。じゃあ駄目だね。」
諦めが良すぎるのもクローンらしい。あっさりと手を離す。
ふと、みんなの目が突き当たりのプレイルーム手前から左に折れる廊下へ行った。
その廊下の入り口にはもう一つドアがあったのだが、先日の侵入者に壊され、今は外されている。
ここからまた長い廊下が走り、隔離された個室が並ぶ。
みんなが「離れ」と呼ぶそこに、先日の現場がある。
「行くんだね。」
「ああ、今度またレディアス連れてくるから、そん時一緒に遊ぼうな。」
「うん。」
「うん、一緒に来てね。」
「きっとね。」
グランドが、みんなの頭をポンポン軽く撫でて手を振る。
マキシと一緒に部屋を目指して廊下を歩いていると、マキシがフッと笑った。
「きっと、まだ見送ってるよ。」
「え?」グランドが振り向くと、クローン達が並んでこちらを見送っている。
手を振ると、みんながそっと手を振った。
「あの子達、こちらには絶対入ろうとしないんだ。血の匂いがするんだとさ。」
「そうか。」
角を曲がり、中庭に目をやる。
何故かそこに、本が一冊伏せて置いてあった。
「あの本、以前レディが来た時、読みかけで帰ったんだとさ。おまじないなんて、クローンらしくないよな。」
マキシがクスッと笑ってポケットに手を突っ込む。
グランドは、そこにレディアスが座って本を読んでいる気がして思わず辺りをうかがった。
こんな経験、もう何度繰り返したことだろう。
突然消えて、存在を探し回って、やっと帰ってきたときはボロボロで。
もう二度と、絶対繰り返さないと誓ったのに・・

1人で飯食ってもうまくねえ、一人で部屋にいても眠れねえ・・
馬鹿、大馬鹿野郎!
人一倍寂しがりのクセに、泣いてンじゃねえのか?あの馬鹿。馬鹿馬鹿、馬鹿馬鹿大馬鹿野郎!!

くそう!また、涙が出そうになる。
グランドは隣にいるマキシに気づかれないよう、汗を拭く仕草で両目をグイッと拭いた。
 マキシが、手前の管理室をノックする。
中からスタッフが出てきてマキシに頼まれると、一つの部屋の前へ案内してくれた。
「どうぞ、鍵は意味がないので掛けておりません。」
「ああ、そうだな。」
相手は、壁を十枚持ってしても無意味なテレポート能力者。

コンコン

返事は期待しない。
マキシがグランドの顔をちらりと見て、カチャリと開けた。
ドアは二つ。
もう一つ、飾りのないドアを開ける。
部屋の中には、ベッドサイドの椅子に座るグレイのクローンの背中と、こちら向きに横たわる、ベッド上のブルーのクローン。
まるで関心がないように、項垂れて目を閉じていた。
「どうだい?具合は。背中の処置は今日は済んだかな?」
マキシが話しかけても、まるでいないかのように無視している。
グランドは無言で進み、寝ているクローンの髪を鷲掴んだ。
「よう、久しぶりじゃねえか。あん時は世話になったな。」
「触るなっ!」グレイのクローンが立ち上がり、グランドを払おうと手を伸ばす。
その手をバシッと払い、グランドは思いきり彼の頬を殴った。
「きゃ!」ガターンッ!
グレイのクローンが思わずよろめき、マキシが慌てて手を差し出す。
「グランド、乱暴するなら出ていって貰うぞ!」
マキシの言葉に、グランドが掴んでいた髪から手を離す。
フンッと鼻息も荒く一息吐き捨てると、横にあった椅子をドンッとベッドサイドに並べて座った。
「おい、グレイのクローン、あんたも座れよ。
殴ったことは謝らねえよ。俺の相方が消えたのは、あんた達のせいでもあるんだ。」
グレイのクローンはグランドの隣りに黙って座り、マキシは壁にもたれて聞き耳を立てる。
グランドが落ち着かない様子で赤毛をかき上げると、ブルーのクローンが紅い目を開けてニヤリと笑った。

「今頃、死体が転がってるさ。」

「てめえ・・殺すぞ。」
毒づくこの男の口に、枕を押し込んでやろうか、と思いながらグッとこらえる。
こいつの毒舌のせいで、どれだけレディも苦しんだことだろう。
「今度あいつを人形なんて言いやがったら、俺はお前の骨が粉になるまで殴ってやる。
お前はあいつの何を見て人形だと思うんだ。
冷酷さか?お前達テレパスが感じる、感情の希薄さなのか?」
「ふふ・・くっくっく・・」
クローンが、青い顔をやや紅潮させて笑う。
グランドはムカムカしながらドスンッと彼の目の前のシーツに拳を打ち付けた。
「笑うな。」
「くっくっく・・俺がテレパスだとわかっているだろう?お前のドロドロした感情は吐き気がする。
くだらん後悔と、薄汚く曖昧な愛情と同情・・・それ程心配か?ならば、ずっと犬みたいに鎖を付けて引いていればいい。
そうすれば、たかがクローン1人にそれ程嫉妬することもなかろうさ。」
「言うことはそれだけか?」
姑息に笑うブルーのクローンを、切れそうな目で冷ややかにグランドが見据える。

言われるまでもない。

あの死んだクローンを思い出すときのレディの顔、見るのも辛いその気持ちが醜い嫉妬だと気が付いたのはいつだろう。
退院してからの家でホッと気が抜けた心に、その醜い気持ちが付け入るように膨らんでしまった。

レディがボウッとしていると、またあのクローンのことを考えているのかと思ってしまう。
何でもない、ちょっとしたことが気に入らない、イライラする。
言葉がきつくなる。
レディがビクビクして自分の様子をうかがっているのを見ると、余計にまたイライラが募る。
悪循環の中であれ程心を通わせるためのスキンシップだった、「手を握る」ただそれだけの行為も煩わしくなり、常に一歩間を置くようになってしまった。
夜、彼が眠れないのを見ても、見て見ぬ振りをした。
死んだあいつ等の思うつぼだと思いながら、それに絡み取られていたのはレディではなく、自分だったのだ。
今更、心の内を暴露されて何が怖いだろう。

もう・・・

俺は、心を読まれても何も怖くない!
あいつを失う以上に、それ以上何が怖いと言うんだ!!
俺は、絶対に見つけてみせる!!何があっても!!

ドッと重苦しいほどの、切なく揺るぎない心。
グランドの童顔からは考えられない、暗い決意がクローンに圧迫感を覆い被せてくる。
「くっ、」苦々しい顔で、クローンが唇を噛んだ。
「きれい事を・・薄汚い犬が・・」
「軍の犬の何処が悪い。それを受け入れるしかない俺達の気持ちが、お前達にどうして分からないんだ。」
グランド達の立場はクローンと変わらない。
ならば、分かり合えるはずだ。ここに住まうクローン達と同じように。
「わかるだと?わかりたくもない。
兄弟兄弟と言いながら、汚いセックスで身体を繋げてきれい事を言うな!
偉そうなお前達も、結局は俺達と同じ作り物だろうが!」
「それの何が悪い。」
グランドの即答に、マキシが飛び上がる。
それを見てクローンは、顔を引きつらせながら笑い、してやったりとグランドを冷やかした。
「はは・・見ろよ!あいつの顔!面白いな、人間は。
自分も裏を返せば汚れて生きているクセに、まるで汚れ一つ無い顔で人をけなし合う。
博士と言われながら、心根は低い愚か者だ。
さあ、どうなるかな!楽しみだ。あいついかにも口が軽そうな青二才じゃないか。
お前なんかうんと恥をかけばいい!クソ野郎!」
「恥なんて、今のお前ほどでもないさ。」
「貴様なんぞに・・!!」
「サンド!もうやめて!」
ブルーのクローンを、とうとう『サンド』と呼んでグレイのクローンが抱きつく。
首を振りながら彼の顔を抱き、ポロポロと涙を流した。
「ソルト、俺は・・」
「駄目、もうやめて・・僕の知ってるサンドはそんな事言わない。あなたは、誇り高い戦士じゃない。
それ以上言うと、シュガーが悲しむよ。」
「ソルト・・」
ソルトの涙がサンドの頬を伝い落ちる。
追いつめられた自分の姿は、どれほど惨めな物だろうか。
あらがうすべのないサンドには、口先の下品な言葉が、更にそれを惨めな物にするのだと分かっていながら、グランドの顔を見て止めることが出来なかった。
グランドの、心の中の大きな不安感が影響したのかも知れない。
何か大きな暗い塊が心を覆って、サンドを追いつめたのだ。
ソルトはそんな彼の姿に、ささえになろうとしながらも、見ていられなかった。
 ソルトが顔を上げ、キュッと涙を拭いてグランドを睨み付ける。
グランドはフッと溜息をついて、項垂れ首を振った。
「俺は、二つの事をしに来たんだ。それだけだ。
一つはあんた・・ソルト?あんたの片割れのことだ。シュガー・・・って言ったかな?」
「止めろ!言うな!」サンドが叫ぶ。

「・・・死んだ。」

「ああ・・」

ソルトが、口元を覆って絶句する。
涙がまた、見えないほどあふれ出てきた。
「俺の相棒が撃った先に、運悪くテレポートしてきたんだ。その・・サンドって奴庇ってね。」

「ど・・う・・して・・」
どうして教えてくれなかったの・・?

返事を返せず、サンドが目を閉じ、顔を逸らす。
なにがこれ程までにサンドを憔悴させたのか、それはケガのせいだけではなかった。
何故、どうしてそんな危険な任務を受けたのか、シュガーは主の身の回りの世話役で、生死を分かつ戦闘とは無縁のところにいたはずなのに・・
「どうして?どうしてシュガーが・・」
「・・・俺の・・・せいだ・・」
「サンド・・」
目を閉じ、俯いたままでサンドは顔を上げることが出来ない。
どんなに愛していても、想いだけでは守ることが出来なかった。こんな力を持ちながら・・

 主の元で、最初はまったくお互いに興味を示さなかった。
それがクローン同士では当たり前だ。しかし、彼らはクローンとしての目的から特殊だったため、生まれる前の「刷り込み」が甘いのかも知れない。
クローンよりも、心は人間に近かった。
ちょっとしたきっかけで、名を付け合うほどになってしまったのだ。
クローン同士、友人のように馴れ合うなどあってはならないことだ。
主は厳しく、容赦のない人間。
ほどなく関係を主に知られたとき、最も力が乏しかったシュガーは怒りを買って指を噛み切られ、ひたすら夜は主の相手、昼は下働きで牛馬のように働かされた。
自分の身分を分からせるためだと。
しかしサンドには分かっていた。それが名目だけで、本当はあのサディスティックな主の暇つぶしにされたのだ。
クローンは次第に数を増やしていた物の、貴重品だと言うことには変わらない。
しかし主は側近が注意を促しても、聞き入れるような人間ではない。
毎日ただなぶられるシュガーを見ていられず、サンドはあのダンドン村の地下基地を、シュガーに任せたいと進言したのだ。
たとえ辺境の村でも毎日を穏やかに暮らせるのなら、あの優しく美しいシュガーには一番良いと思っていた。
しかし、待っていたのは特別管理官が4人。
しかも、シュガーがその1人と心を通わせるなんて・・

優しすぎる・・それが、大きな誤算だった。

「俺が甘かったんだ・・・シュガーの幸せを願いながら・・」

事情はどうあれ、結果は死なせてしまった・・

「ああ、違う、違うよ。あなたがそう願っていたのなら、あの子はきっと幸せだった・・」
そっとソルトが、サンドの顔を優しく包み込んでキスをする。
ソルトの悲しみが心に流れ込み、サンドの胸を押し潰していく。
しかしそれは、鮮やかなほどに純粋な悲しみで、一点の曇りもなく誰を責める気持ちもない。
ああ・・とサンドは溜息をつき、目を開けて涙を流すソルトの顔を見つめた。
シュガーと同じくして違うソルト。
しかしこの心の純な美しさはまったく同じだ。
テレパスでいて、これ程心地よい心の持ち主に惹かれることに、何の惑いがあるだろう。

結局は同じなのだ。
レディアスを暖かく包み込んでやりたいと願うグランドと。

愛する者を守りたいと願う気持ちは・・

「ソルト・・俺は・・」

もう、駄目かもしれない・・
立つことさえ、出来ないかもしれない・・

念動力も、ペンの一本さえ上げられないし、テレパスの力も、実ははっきりと深層まで相手の心を読むことが出来ないのだ。
まるで、もう一つの耳が遠くなったような・・

静かなんだ・・・

サンドが静かに目を閉じる。

マキシはグランドの肩を叩き、部屋を出るように招いた。
「また、あとで来る。疲れたろ?少し休みなよ。」
そう言って立ち上がり、部屋を出ながらグランドは、心の中で舌打ちした。

やっぱりつい、優しい言葉をかけてしまった。
俺って甘いよなあ・・

キツイ態度は、なかなか長続きしない。
耳元で、レディアスの馬鹿にする声が聞こえてきそうだ。
「プレイルームで休む?」
マキシが廊下を歩きながらフッと一息吐いた。
聞いていただけで、疲れたように。
「いや、そうだな、あの女は着いたかな?」
「ああ・・・・メールが来てる。うん、研究棟の方に来てるけど・・・・面白いから会ってみろってさ。
神が見ているからって、一言も話さないそうだ。確かに、テレパスだとよ。」
クスッと笑って成る程、と思う。
やっぱりあの女か・・全然変わらねえな。
「なあ、あいつ・・サンドって呼ばれてた奴さ、なんか覇気がねえな。
前会ったときと、まったく感じが違ってた。」
コツコツコツ・・
廊下に足音だけが響く。
この離れは、静かで寂しくて嫌いだ。
「言わなかったがな、グランド。あのクローン、寿命が来てる。」
「えっ!!」
思わず立ち止まり、マキシの背中を見つめた。
どう見ても、以前のあいつはまだ活動期真っ盛りだったはずだ。
衰退期は徐々に訪れる。
それが本当だとしたら、あまりにも変化が急で、早すぎる。
「ケ、ケガしたから?」
「違う、あのくらいはクローンならダメージも命までは関わらない。
・・・でも、何かが違うんだ。細胞が、急速に衰えている。」
「衰える?年食ったみたいに?」
「いいや・・」

「まるで・・・命を吸い取られたみたいに。」

ゾッとグランドの背に寒気が走った。
何か、大きな事を忘れている気がする。
心の片隅に引っかかって、小さな事でいて何か大きな・・



『まさか・・・これがお前の、力・・なのか?』



そう、言わなかったか?
あの時、サンドがあの地下基地で呟いた言葉。
まさか、あれが・・・
まさか・・まさか!!

「グランド、何か思い当たることがあるのか?
あのダンドン村の地下基地は旧カインの実験場だったんだろう?何か・・まさか細菌兵器?」
マキシが考えつく物を口に出す。グランドは慌てて手を振り、ブンブンと目が回る勢いで首を振った。
「違う違う!何でもない、何でもないよ!ちょっと考えごとしてたんだ!何でもない!」
慌てて取り繕って歩き出す。

そんなことがあるわけがない。
あいつは、ほんの少し気を合わせて相手の動きを止めるくらいで、他に力と言えば並はずれた運動能力。それだけだ。
だからいつも、役立たずだと悩んでるんだし、「特別管理官」の肩書きが重いとまで呟く。
まさか・・・

不安をかき消すように頭を振って、先のことを考える。
マキシがフッと笑いながら漏らした。
「まあね、今まで色んなクローンと出会ったけど、さすがに命まで操るような力を持ったクローンがいなかったのは幸いだよ。」
「命を操る?」
「んー、生命力かな?そこまで行ったら化け物だね。」
当たり前だ。そんな事考えも付かない。
「そんな力、あるわけないさ。博士やってんのに、飛んでること考えるね。」
「博士だから色々考えるのさ。それが仕事。
そんな奴がいたら困るなと思うでしょ。」
「困るかな?」
「困るよ、あまりにも危険だ。」
「いたらどうする?」
マキシがフフフッと笑う。
「いたら、即処分を進言するね。こっちの命が幾つあっても足りないよ。
最悪の殺人鬼だ。」

ギクッと、思わず足がもつれてよろめいた。

処分・・

前を歩く、マキシの後ろ姿に不安が走る。

もし・・・

もし仮にそんな力を、レディアスが持っているとしたら・・?

今まで優しく接してくれた人、あいつを友人だと思ってくれる人・・・人間は気まぐれだ。
昨日まで笑っていた人が、手のひらを返すように「処分」だと言うのだろうか?

処分・・それは、殺処分だ。

銃殺、薬殺、殺されることに変わりはない。

研究所裏手から、少し離れたところに集団墓地がある。処分されたクローンは、木箱に入れられそこへ運ばれて・・そして・・

立ちのぼる煙と炎・・



「マキシ!!」

マキシが驚いて立ち止まり振り向く。
「どうした?何かあったのか?」

あんたは、あんただけは・・

「いや、何でもない。」
暗い顔で俯くグランドに、マキシが引き返して肩に手を回す。
「例の話は、その内酒でも飲みながら。
俺もまあ卑しい人間ではあるけど、人のプライバシーを触れ回るつもりはないから。ふふっ」
あんな事言われたあとの、この下卑た笑いは彼らしい。
しかし、何故か今はそれでホッとした。
「やな奴だねあんた。あんたが喋ろうがどうしようが俺はかまわねえよ。ただ、レディアスが傷つくだけさ。それでいいなら喋れば?」
「傷つく?恥ずかしい、じゃなくて?」
「冗談っ!!」
キョトンとするマキシの手を払い、先を行く。
ハアッと大きな溜息が虚しく出て、両手を頭の後ろで組んだ。
「言いたかないね、あんな事。もうまっぴらだ。・・・そう言うこと!!」
「はあーん・・」
怪訝な顔で、マキシが首をひねる。
また研究者らしく、色んなパターンを考えていることだろう。
まったくサンドの言う通り、博士とは言ってもとんでもない奴に聞かれた。
「誤解無いよう言っとくけど、あいつの心はセックスに耐えられない。
あとはマリアに聞いてよね。」
グランドは付き合ってらんねえと、プイッと前をひたすら歩いている。
ジーンズのお尻がプイプイして、マキシにはそれが少し怒っているようにも見えた。

何か、可愛い奴・・

クスッと笑って後を追いかける。
ゲートのドアで2人並び、マキシがカードを差し込みながら、ちらっとグランドの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、口止め料はレディのキスでいいや。
それで許してやるよ。」
「キス?野郎とキスして嬉しいわけ?」
「美しいからね。彼は。十分嬉しいよ。」
呆れるけど、人に言えた義理じゃあないか。
「好きにすれば?殴られて顎を砕かれないように注意するんだな。」
「ククッ、そりゃあ怖いな。
でも俺の場合、ムードを大切にするからね。」
のうのうと言ってのけるマキシに、キョトンとグランドが呆気にとられ首を振る。
「わかってねえ奴・・」
まあ、マキシやシャドウは相手は男女構わず色事大好きな性格破綻者ではある。
死ぬときは腹上死がいいなんて平気で言える変態だ。

気楽すぎて、羨ましいかも・・

グランドは居住区を出ながら、気楽なマキシの後ろ姿を一発殴ろうかと拳を握った。

 山肌に立つ、その美しく豪奢な建物は、やや小振りではあるが昔の中世の貴族を思わせる。
趣味がいいと言えばいい物だが、この実用的な物を重視するカインでは浮いた存在だろう。
しかし屋根の端々や、壁やバルコニーに見られる細かな彫刻も、玄関先の彫刻群に手入れの行き届いた庭も、成金趣味ではあるが金に任せてカインの外から職人を入れただけあって、素晴らしい物だ。
そしてここに招かれている、その男・・まだ少年と言った方がいいだろうか。
外見は15,6に見えるその少年も、ここがたいそう気に入っていた。
金の髪に美しい青い瞳、そして端整な顔立ち。
微笑みを浮かべれば誰もが見とれるその上辺の美しさも、身の回りを世話する人々にとっては虚しく、更に本性の残虐さを引き立てる。
しかしもっとも、その身の回りにいるのは自身も美しく、澄んだ紅い瞳を持つ人々ではあるので、関係ないとタカをくくっているくだんの人間には、さほど残虐性も感じられない。
紅い瞳・・クローンは、人の下にあって当然と言った教えは、先日の幹部に取り立てたクローン達の失敗から一層強く、幹部であったクローン達は全てその地位を剥奪された。
どんなに優遇されていても、失敗を重ねればこうなるという、都合の良い見せしめにされたのだ。
しかしクローン達は、元来主である彼には逆らうことが出来ない。
だからこその、こういう利用法であった。

 窓に広がる美しい風景は、山肌に立つこの館の一番の自慢だ。
眼下に広がる風景は、山肌の森とその奥にある湖と荒野とのコントラストに、カインらしさが溢れている。
辺境で館の近くにはあまり民家らしい物もなく、夜は真の暗闇が訪れるが、それだけにここは移動のほとんどが車やヘリを用いる。
しかしせっかくのこの環境だ。
その騒音を嫌い、館を外れたところにヘリポートを作り、そこが車両基地にもなっている。
不便きわまりないだけに、一つの要塞とも言えた。
人の目からは完全に遮断され、いざというときは守りにも入る機能を持っている。
それは、ここの持ち主の職業からそうさせたのだろう。
ここのオーナーは、カインでも屈指のマフィアの1人だった。



 コンコン
大きく重厚なドアの前で、1人の老人がドアを叩く。
返事はない。
フッと溜息をついて頭を下げると、静かにドアを開けた。
「失礼いたします。」
ドアを開けると案の定、普段ならこのドアを開けて中へ導いてくれる青年が、身体中を打ち据えられて裸同然で倒れている。
またか・・心の中で舌打ちながら、奥のソファーに寝そべっている主に溜息が出た。
ひどく殴られている青年の服は見るも無惨に引き裂かれ、部屋中に散らばっている。
老人は近くの電話を取り、インターホンで片づけるように言いつけた。
「今度は何がお気に召さなかったので?」
「今度?とは何だ。足の爪を切らせて、綺麗じゃなかったから仕置きしただけだ。」
プイッと金の髪をゆらし、少年と言うよりも少女のように整った顔を不機嫌そうに、返事が返ってくる。
プラプラ組んでいる足は綺麗に爪が切ってあり、何処が気に入らないのかわからない。
ただの気晴らしだろう。
「いえ、64が去りましてからご機嫌が麗しくないようで。」
64とは、シュガーだ。
彼は最も長くこのわがままな主、フリードに仕えていた。
「53も帰ってこないな。44の迎えにやって、それっきりだ。また失敗したか。」
「は、迎えのヘリもジャックされ、自爆いたしました。」
フリードが、ムッとした顔でむっくり起きあがる。
未だ気に入って持っている杖を片手に、ブンッと老人へ向けて振りかざした。
「聞いていないっ!!」
「きっとご立腹になると思いまして。」
ぬけぬけと語るこの老人は、フリードが一番苦手にしている人物だ。
それでもヴァインの運営では、最も頼りになっている重鎮となっている。
フリードはフンッと一息吐いて振り上げた杖を下ろし、プイッとまた横になった。
「良いヘリをくれてやったのに、もったいない。あれはもう、諦めたが良かったのかな?
テレポートの力を惜しんだのが間違いか。」
「ご心中お察し申し上げます。44ほどの力の持ち主は、Gタイプでもそうそう生き残っておりません。」
「フンッ!もうよい!53は、また馬鹿面下げて戻ってきたら殺せ!顔も見とうない。
・・・いっそ、オリジナルを捕らえてくるか。
あの跳ね返り者、あんなデカ物の女になっておった。」
目覚めたとき出会った、グレイとシャドウの姿が目に浮かぶ。
グレイをなぶった時のあのシャドウの顔はなかなか面白かったと、ニヤリと笑いがこぼれた。
「あのオリジナルが子でも産みますれば、力を受け継ぐ確率もありましょうが。」
「フフッ、誰も考えは同じだな。」
「は、申し訳ありません。」
「あれは男女の性を持っている。まあ、女としては不完全だ。セックスは面白かったが、そのあと流産して二度と子供の出来ん身体になりおった。
いい逃げ口上だろうが、一気に精気をなくしてな。幽霊のようで面白くないから殺そうと思ったが、あの力は捨てがたいから元の巣へ帰したのだ。
しかしあれ程荒んだのに、また美しくなっていたぞ。今のこの時代は、さぞ住み良いのだろう。」
「オリジナルに住み良くても、人間にはいかがでしょうな。」
「さあ、少なくとも私は面白くない。」

コンコン「失礼いたします」

しずしずとメイドのクローンが頭を下げたまま入り、散らばっている服を拾い倒れている青年を担いで部屋を出る。
「失礼いたしました。」
「おいっ!」
フリードが呼び止め、ドキッとメイドが飛び上がる。そうっと顔を上げた。
「そいつ、気が付いたらまたよこせ。」
「し、しかし、しばらくは・・」
どう見ても、しばらくは休ませたい。見ただけでひどいケガだとわかる。フリードは手加減を知らない。
「何なら、お前でもいいぞ。」
フリードの言葉に、メイドの顔色が変わった。
「しょ、承知いたしました。しばらくお待ちを。」
「すぐだ!」
メイドのクローンが、青ざめた顔で頭を下げて出ていく。
それを見送ってドアが閉まるのを確認すると、老人が声を密やかにしてフリードに囁いた。
「クローンは貴重品ですぞ。無駄遣いは・・」
「2,3人殺したからってグズグズ言うな。
まだ余裕は十分だろう。今は信者も喜んで死んでくれる。」
2,3人ではない。これまでフリードが殺したのはすでに6人。
3人は重症で未だ立つことも出来ない。
しかも、フリードの心一つで役立たずには死が訪れる。
「クローンも戦力の一つです。大事に致しませんと、従順な戦力を無駄に失うことになります。未だクローンの巣『クローンネスト』も見つかっておりません。」
「ああ、あれか、当てはある。」
当てなど無いから、こうしてずっと探し回っていると言うのに、気楽なフリードに溜息が出る。システムが、性格にも影響しているのだろうか?
何を言っても無駄な主に、老人が大きな溜息を吐く。
しかしこうしていて、ヴァインの信者の前では崇高な1人の教祖だ。
見かけばかりの美しさではなく、御子様、御神祖様と崇められるだけの、清楚な美しさが内面から溢れるような感じは、さすがカリスマ的と言える。
だからこそ、ここまで全ての計画も順調に進むのだ。
「ところで、GG−0の移送ですが、問題なく終了いたしました。これから細部の調整に入り、次回は多少大きく実験に入りたいと思います。」
「そうだな、たかが車一台乗っ取ったくらいで、オーバーヒートしていては話しにならん。
あいつに傷一つも付けられんとは、少々失望したぞ。
オリジナルのツメの先程もない力なぞ、維持費に金のかかるだけの金食い虫だ。そう言っておけ。」
「ホホ・・まあ、そう仰いますな。まだ目覚めたばかりで、身体もガタが来ております。
あまり言って、勝手なことをされてもお手上げですし、ああしていてもまだ子供、優しい言葉をかけて差し上げれば喜びますぞ。」
「くだらんな。退屈しのぎにもならん。」
「では、お暇つぶしはいかがですかな?」
「なんだ?」
「実は、先日オリジナルの1人を捕らえまして・・」
「どれだ?!」
生き生きとした顔が、ピョンと飛び起きた。
「あの、力自慢の女で・・」
「何だ、あの女かー・・」
バタッとまた倒れた。
キャピキャピ馬鹿は、苦手だ。
「他の奴だったら、なぶり殺してやったのに。」
「しかし、言いくるめるなら多少馬鹿の方が扱いやすいかと思いますが。」

馬鹿=セピア

「成る程。それも面白いかも。」
「最近は、軍もポリスもヴァインをかなり危険視しております。順調に計画は進んでおりますが、まだ『巣』が見つからないことには時が満ちたとは申せません。」
「13コロニーの同士は?」
13コロニーとは、昔旧カインでランドルフ(フリード)が大統領をしていたレダリアに、軍事支援をしていた軍事大国コロニーだ。
クローンの技術も、主にそこから技術支援を受けていた。
しかしそこも旧カイン戦争の終焉と共に、連邦軍の制圧を受けて今は軍事色が消えている。
今は民主主義を取り戻し、平和一色だ。
しかし、何処にもテロリストは隠れている。しかもフリードの活動が裏で表面化していくと、コールドスリープで眠っていた旧時代の戦争好きが次々と目覚めはじめていた。
「受け入れ準備は整いつつありますが、あちらの要求にはなかなか・・」
「クローンの技術者が多いからな。研究施設も昔ほど揃えることは出来ないが・・
大きなバックが必要だな。」
「それは、着々と・・治安が乱れて儲かるところは色々ございますから。」
老人が、頭を下げて下がって行く。
部屋を出ると、廊下の方でヒソヒソと話し声が聞こえた。

「・・・を、話せばきっと・・無理よ!」
「いいんだよ、もういいんだ。」

先程のクローンが、1人で歩けずメイドに支えられて、よろめきながらこちらへ向かっている。
2人は老人の姿に気が付くと、急いで頭を下げて道を譲った。
「旧カインならば、すでに命はないぞ。たかがクローンごときが・・」
すれ違いながら、老人が呟く。
「申し訳ありません。」
よろめく青年クローンが、白い顔で頭を下げた。



 「きゃああーーんっ!!きれーーーっ!!」
途中でトラックから館の運転手付き高級車に乗り換えたセピアは、山の中腹にある門を越え、それから遙か先の館の玄関先へと乗り入れた。
拉致されたわりに待遇も良く、あまり恐怖心を感じないのは彼女らしい。
美しい花と見事な彫刻に彩られているエントランスを通り、豪奢な館の装飾に目を奪われながら重厚なドアをくぐると、まるで映画の一場面のようなホールには正面にややくすんだ色の紅い絨毯が敷き詰めてある階段が、なだらかな円を描いて二階へと通じている。
セピアは目を輝かせながら、溜息混じりに辺りを見回すと、うっとりそれに見入っていた。
「綺麗ねえ、綺麗ねえ、綺麗だわあ・・」
クルクル回る彼女に、しずしずとメイドのクローンが来て頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ。お部屋のご用意は出来ております。」
「え?部屋?あたいに部屋があんの?」
「ハイ、お疲れでございましょう。どうぞゆっくり湯を浴びてお疲れを落とされましたあと、主がよろしければ夕食をご一緒にと申しております。」
「あ、主って?あの大統領じゃないよね!」
ドキッと、ようやくひるんだ。怪訝な顔で見ても、メイドは涼やかに微笑みをたたえている。
「主はフリードと申します。神の使い、我らが御子様でございます。
私の名は93、これからセピア様の身の回りのお世話をさせていただきます。どうぞお気軽にお申し付け下さいませ。
さ、どうぞこちらへ、ご案内いたします。」

 明るく気さくなクローンメイドは、はしゃぐセピアをお嬢様のように見立てて風呂から着替えまで手伝ってくれる。
自分は腰をかがめる必要もなく、立っているだけで夢にまで見た、フリルが沢山の美しく可愛いピンクのドレスを身につけ、沢山の中から靴もサイズを見て選ぶ。
一度履いてみたかった、ピカピカの真っ赤なエナメルのハイヒールだ。
スッと立ち上がると、ヒールの高い靴は世界も数センチ高みから見下ろせる。
「やだ、凄く気持ちいいわあ。」
「ハイ、良くお似合いでございますよ。
さあこちらへ、髪を結って差し上げます。宝石と髪飾りはどれになさいますか?」
93が跪き、宝石箱をセピアに向けて開けて差し出す。
「んまーーーー!!凄いじゃーん!」
その箱の中には、ずらりと一目でわかる高価そうな大粒の宝石が並び、セピアは軽くめまいを覚えた。

 ドレスアップしたセピアが93に連れられ、ダイニングに案内されてゆく。
何を考えているのか知らないが、今はお姫様ごっこを楽しんでいるセピアだ。色々深く考えない。
着たこともない豪華なドレスは、ピンクの光沢のある生地に、パールを取り混ぜ細かな刺繍が施してあり、ウエストから胸元までがかっちりとしてセピアの心許ないバストを寄せて上げている。
ウエストにはヒラヒラと花弁のようなシフォンが揺れ、その下のピンクのアンダードレスはピッタリと足にフィットして足が広がらない。
これでは敵の親玉を目の前にしても、まったく自由が利かないだろう。これが目的か、とも思える。
しかしまあ、気楽なセピアはまったく不安にも感じないらしい。
セピア色の髪は綺麗になびかせて、真珠を編んで作った花飾りが飾ってある。
指輪とネックレスはルビーを選び、セピアは夢のお姫様となっていた。
「こちらへ。」
93に案内された席に着こうとしたとき、スッと青年のクローンが椅子を引いてくれた。
「どうぞ。」
「あ、さんきゅ。」
椅子を気にしながら座ると、スッと椅子が丁度良いところまで差し込まれて、セピアがホワンと浮かれる。
「ああ、何かお姫様みたいジャン。」
しかしドキドキ、胸が不安に躍る。
テーブルマナーなんて知らない。
どうしようどうしよう。
美しく折り畳まれているナプキンが物珍しく、ジイッと眺めているとテーブル上の珍しい花が優しく香った。
「わあ、綺麗な花。オレンジ色?柔らかに色が付いて・・見たこと無いわ。」
ナプキンを膝に広げながら、ワインを注ぐクローンの青年に頬を赤らめてそっと尋ねる。
青年は優しく頷き、一輪取ってセピアの前に差し出した。
「どうぞ、一輪。『セピア』という花でございます。」
「ま、あたいと同じ名前?」
へえ・・
まじまじ見ていると、やがてオードブルが運ばれてくる。
つたない様子でナイフとフォークを使っていても、誰も気に止める様子もない。
何だかホッとして食べてみると、凄く美味しい。
今まで食べたことのない珍味に、歓声を上げながら食が進んだ。

こんなに美味しいなら、ブルーやレディに食べさせてあげたいなあ・・
ああ、ンな美味しい物、ほんとに悪い奴が食べさせてくれてんだろうか?
ご馳走してくれる人に、悪い人はいないわよねえ。

モクモク食べながら、そんなことを考えていても食欲は止まらない。
パンを幾つもお代わりし、ワインを何杯もお代わりして、肉をもっともっとと何枚も平らげる。色とりどりのデザートは見ていて気持ちが悪いほどペロリと食べて、ようやく満腹になったのは数時間も過ぎた頃だった。

「あー!んまかったああ!お腹ペコペコだったのよう、捕まってから、ご飯が全然足りないんだもん!これでぐっすり眠れるわあ。」

コーヒの3杯目を飲みながら、満足げに息を付く。
どうやら敵地で、セピアはぐっすり眠るつもりらしい。
ドレスのウエストがきつく、何だか息苦しい。
大きく深呼吸してフンッと息を付いたとき、ビッと背中で音がした。

ギクッ!

や、破けたかな?
食べる量が半端じゃないだけに、食の前後はウエストの大きさが大幅に変わる。
だからこそ、いつもダブダブのツナギを着ているのに、こんなかっちりしたドレスなんて初めて着るのだ。

「御子様のお出ましでございます。」

ドキッとセピアが顔を上げると、ドアから懐かしくも不吉な白装束にベールを頭から被った数人が入ってきた。
サッとドアを開けてその数人は道を造り、間を通ってくる1人のやや背の低い白装束にうやうやしく頭を下げる。
セピアの周りで給仕していたクローン達はサッと壁際により、一斉に跪いた。
「おお、凄いジャン。」
セピアはふんぞり返って、へえっと肘を突く。
その横柄な態度に腹立たしい様子も見せず、中央の『御子様』はフワリとベールをなびかせてセピアの元へ近づいた。
「このような辺鄙なところへ良くいらっしゃいました。お疲れでございましょう。」
スッとセピアの手を取ると甲にキスをする。
セピアがキャッと笑った。
「やあだあ!くすぐったい!」
「可愛い方だ、お食事はいかがでしたか?」
にっこり微笑むその顔に、セピアがふうんと見つめる。
フリードという教祖の顔は、ベールの向こうにうっすらとしか見えない。
セピアはあからさまに、チェッと舌打ちした。
「なによう、レディに顔も見せないわけ?」
フリードはフッと微かに笑い、テーブルの上座へと着く。やがてそこへワインが運ばれ、美しく紅い色のワインを彼のグラスへ注いだ。
「あなたの美しさに。」
グラスを掲げ、そしてついっとベールの中の口に付ける。
フウッと一息ついてグラスを置き、両肘を付いて指を組んだ。
「このベールは、ヴァインの古くからの決まり事なのです。煩わしいでしょうがご了承下さい。
このベールで何もこだわることなく皆一つになれます。性別も、年齢も、容姿も、全てを越えて対等になれるのです。」
「ふうん、じゃああんたがレディのクローンだっていうのは?マジほんと?」
セピアの言葉に一瞬目を丸くして、フリードは呆れた様子で笑いはじめる。
馬鹿馬鹿しいとでも言いたげだ。
「クックック・・まあ、何をおっしゃるかと思えば、私がクローン?面白い冗談だ。」
あら、とセピアが残っていたコーヒーを飲み干す。こういう駆け引きじみた会話は、セピアは最も苦手だ。
せっかく食後にいい気持ちなのに、もっと楽しい話題がいいと勝手に思う。
「へえ、そうか、認めたらあんた終わりだもんね。とすると、ヴァインが裏でやってることも知らないって訳だ。」
「裏ですか?我々宗教家に、裏も表もございません。ひたすら明日の心の平安を求めて、修行に励むばかりです。」
「ふうん、修行ねえ。じゃあ、何であたいはいきなり薬を嗅がされて拉致されたの?」
「さあ、存じません。」
「あたい相棒とクローンの調査に行ってさ、そこでいきなり襲われたんよ。
最近よくクローンが盗まれたり、調査途中に襲われたりって多いンよねえ。ンで、そこで連れ去られてここにいるって事は、犯人はあんた等じゃないの?」
「犯人とは物騒な。
あなたのことでしたら、修行場を経由するトラックが接触事故を起こし、運転者にいきなり発砲されて応戦したと聞いております。
カインも、辺境に出ますと大変物騒です。荷物を運ぶ者達が、必ず武装しているのは普通でしょう。
それでとうとう車を置いて逃走した相手のトラックを見ましたら、あなたが檻に入れられて積んであったとか。あまりに物々しかったので、怖くてそのまま移したそうです。
それでどちらに運んで良いか考え、近かったここへお連れしたわけです。」
「へえ、良くできた話だ。」
「信じていただけないのは悲しいことです。」
「だって、見ないことには信じらんないもん。
簡単なことは、以外と難しいもんさ。」
「これも修行でございます。」
フリードが手を合わせる。
そしてぽたりと、ベールの下に一滴の涙が落ちた。
「やだ!あたいが泣かしたみたいジャン!泣かないでよ!やだ!」
セピアがガタンと立ち上がる。
フリードは静かに涙して、やがて顔を上げるとベールの向こうで優しく微笑んでいる。
「もう、男でしょ?あんた。簡単に泣かないでよ!あたいは涙に弱いんだから。」
ブスッとむくれて、赤い顔で椅子にドスンと座った。
「お優しい、あなたのような方が我々教団の力になって下されば、我らへの誤解も次第に解けていきましょうに。
何故「裏」という物があるなどと、悪い噂が立つのでしょう。ヴァインを信じてくださる方が増えるごとに、それを良く思わない方も増えていきます。
ああ、何と悲しい・・私達のこの悲しみを知っていただけるなら、罪なき罪だと知っていただけるなら、私はいかなる苦しみも背負いましょうに。
ヴァインを信じる方のために、私は神に使わされたのでございます。」
フリードの後ろに立つ白装束の人々も、ベールの下でそっと涙を拭いている。

ウウ・・なんかやな感じ

ウッとセピアが引いて、カチャンとカップを持つと、そのカップを傍らに跪くクローンに差し出した。
「おかわりちょーだい、何かのど乾いちゃった。」
しかしクローンは凍り付いたように顔を上げない。
「ね、おかわり。」
「申し訳ございません、しばしお待ちを・・」
小さな声で返すクローンの給仕に、フリードが冷たく視線を送る。
「お嬢さんがお代わりと申されているでしょう。私に構わず、コーヒーを汲んで差し上げなさい。」
「は、はい。申し訳ございません。」
先程まで涼やかに微笑んでいたクローンは、額に汗を浮かべ小刻みに震えながらフリードに向かって深々と土下座する。
立ち上がっても腰を低くかがめたままでコーヒーのサーバーを持ってくると、カチカチと震わせながらセピアのカップに注いだ。
「どうぞ、大変失礼いたしました。」
「さんきゅ。」
にっこり返すと、クローンは泣きそうな顔で引きつった笑いを浮かべる。
「失礼しました、お嬢さん。クローンも少し具合が悪いようです。
無理はいけない、下がって休みなさい。」
フリードが優しく微笑むと、給仕のクローンがビクンと飛び上がる。そしてまた、頭を下げて部屋を出た。
セピアがゴクゴクと、少し温いコーヒーを飲み干す。
ジイッと彼のベールの向こうをうかがいながら、ちょいとカマかけた。
「あたいの兄弟ってさあ、昔すっごい嫌な目に遭ってンの、知ってる?」
フリードは驚くでもなく、そっと手を合わせる。そして何と説教をはじめた。
「人は皆、修行をしながら生きております。
しかし、それが苦行だと感じたら、神に祈りましょう。きっと心に平安がよみがえるはずです。
苦を感じることは、恥でもなくごく普通のこと、自分を追いつめてはいけません。
我らは皆、救いを求め、助け合って生きてこそ人間なのです。
愚かな生き物だからこそ、神は五体と五感、そして心をお与えになられました。
それは自分一人の物ではなく、人のため、明日のために使う物なのです。
悲しみを乗り越えるのは、決して1人では楽ではありません。祈りましょう、あなたのご兄弟のために。」
手を合わせ、祈る姿の清々しいまでの崇高さ。
セピアにはそれが一層胡散臭い。
「もういいよ、お腹一杯!あたいは寝る。
何だか疲れてさあ、あんたの話は半分も頭にはいんないよ。ごめんね!」
不作法に立ち上がり、大きく欠伸をして、よっとドレスの裾を持ち上げる。
一歩歩き出したとき、ヒールがグキッと倒れた。
「ぎゃんっ!」
「あ、あぶない!」
サッと93が手を出し支えてくれる。
小柄な彼女もさすがクローンだ。セピアを支えてもまったく揺るがない。
「どうぞ、お手を。お部屋へご案内いたします。」
「はあ、びっくりしたあ。履き慣れないと危ないねえ。
じゃあ、御子様おやすみ!また明日ね。今度は一緒にご飯食べよ!」
気楽に手を振るセピアに、皆が唖然と見る。
呆れていたフリードも、不意に笑い出して手を振り、そしてまたワインの入ったグラスを差し出した。
「はは・・なんとまあ面白いお嬢さんだ。
ええ、明日は是非ご一緒しましょう。どうぞこの屋敷での御滞在をお楽しみ下さい。」
「あ、そだ。家に連絡できるかな?」
「ええ、構いませんよ。メイドに電話を持って行かせましょう。」
え?!うそ!
驚いて、セピアの顔が引きつる。
「へー、電話していいんだ。」
「もちろんです、あなたはこちらでお預かりしているお客様ですから。どうぞご自由に。」
「じゃあねえー。」
バタンとセピアがよろめきながら出ていく。
フリードはバッとベールを脱ぎ捨てると、ワイングラスをユラユラと揺らし、中の紅いワインをテーブル上の花にダラダラとかけた。
『セピア』という花の美しい花弁に、紅いワインがこぼれ落ちる。
空のコップを放りかけて思いとどまり、静かにその場に置いて立ち上がった。

「面白いな。」

「御意。」
傍らの老人が、ベールの下でニヤリと笑う。
「お気に召しましたか?」
「ああ、面白い。
余程肝が座っているか、それともよっぽど馬鹿だ。くく・・私が思うに後の方かな?」
「ドレスと宝石に目がくらむかと思いましたが・・」
「そうだな・・
きっと馬鹿女には、現実離れした贅沢だったんだろうよ。腹が一杯になって、ドレスの背中が破れていたぞ。
面白いな、明日もきっちりしたドレスを着せるがいいさ。
くくく・・ふふ、あはははははは!!」
周りの側近が、愕然と顔を上げる。
この御子と呼ばれながら実は残酷な主が、これ程楽しそうに笑ったことはない。
初めて見たかも知れない。
老人も驚いたようにしながら、信じられない面もちで伺いを立てた。
「先程のクローンは、後ほど寝室に向かわせます。 」
フリードは「ああ」と上の空でダイニングを出てゆく。
廊下に出ると、思い出したように振り返った。
「あのクローンか、よい、次は気を付けろとでも言っておけ。私はもう休む。」
「えっ!!あ、は、承知いたしまし・・」
ろくに返事も聞かず、フリードは自室の方へ消える。
粗相をしたクローンには必ず罰を与えたフリードの、考えられない言葉だ。

嫌な、予感がする・・

後に残された老人は、あの楽天的なセピアの顔を思い浮かべて不安な表情で眉をひそめた。



 翌朝、ダイニングの広々としたテーブルに遠く離れて席に着いたフリードとセピアは、朝からモクモクと食事をとっていた。
セピアもさすがに今朝は、ゆったりした柔らかなシフォンのワンピースだ。
足下もヒールの低いサンダルと、クローゼットで選びに選び抜いて楽な格好をしていた。
ガツガツと、セピアが次々に平らげるパンの量にフリードが驚いてポカンと眺める。
胸が焼けそうな光景に、ぷりぷりしたオムレツがもたれそうでナイフを置き、紅いトマトジュースを一口飲んだ。
「良くまあ、朝からそれ程食べられますねえ。」
「あんたは知ってるでしょ!あたいは食べないと駄目なの!」
フリードがレダリアの大統領なら、自分の事を知っているはずだ。今更呆れてどうする。
「フフ・・じゃああなたをつなぎ止めておきたいなら、食事を減らせばいいんですね。」
人の弱点をはっきり言われて、セピアがむくれる。確かに食事を減らされるほど堪えることはない。
「そーね、あたいを殺したいならね。」
ぶっきらぼうに返して、ブチッとパンを噛み切る。面白くないことばかりだ。
昨夜、せっかくのドレスは背中が張り裂け、靴は転んだ拍子にヒールが折れた。
93の持ってきた電話はさっぱり繋がらず、「きっと山間ですので繋がりにくいのかと思います」だと。
これじゃあ自由に電話していいなど言いながら、まったく自由じゃないわけだ。
「もう、ドレスは散々だわさ。お腹一杯食べられないんだもん。」
「え?」
コーヒーを注いでいた昨夜と同じ給仕のクローンの青年が、思わず小さく漏らした。
昨夜は命拾いしたが、二度と粗相があってはならないと少し緊張しながらも、あれだけ食べて腹八分とはこの女性の腹は一体どうなっているんだろうと思う。
しかしそれを決して表には出さなかった。
「いつもそれでは、食費が大変でしょう。」
フリードが、溜息混じりで聞いてくる。
他の5人と一緒に暮らしていることは、元から知っている。同情する気は更々無いが、どんな生活かは興味があった。
「そうねえ、あたいが食う分、小食の奴がいるしい。ま、みんな足して割れば丁度いいんじゃない?」
実はみんな足して割っても、普通より上回る。
「ご家族は、どんな方ですか?」
何気ない質問に、セピアが動きを止めてジイッと怪訝な顔でフリードをうかがう。
「探ってンの?」
「まさか。あなたのようにチャーミングな女性が、どんな方と暮らしているのか興味があるだけですよ。
私も聖職者ですが、1人の人間です。」
「ふうん、生臭坊主だ。きゃはは!!
ま、いいや!でもね、あたい達にもルールが有るンよ。やたら喋ってると怒られてさ。
あたいの相棒、すっごいガミガミするんだもん。相棒って言っても兄弟なんだけどね、まああんたは知ってるだろうけど、みんなそれぞれアクが強いキャラでさあ・・」
話せないと言いつつ、ベラベラ勝手に口から言葉がほとばしる。
セピアに黙ってろと言って、じっと無言でいたことなど有りはしない。こういう女なのだ。
「・・・とまあ、6人もいれば色々あるんだけどさあ、やっぱあれよ。
あたいらの運命っての?どっかで狂ってンのか、どっか運が良かったのか、良くわかんないのよねえ。
多少の差はあっても、みんなそれぞれ心に傷持ってるわけだしい。」
「傷、ですか?」
「そーよ、傷。
傷ってさ、傷つける方は大した事思ってなかったりするじゃん?でも傷つけられた方は、とんでもなく後まで引いちゃうんよ。」
「でしょうね。」
「あたいは兄弟が好きよ。
一杯迷惑もかけるし、怒られることも多いけど。
だからあたいは許せないの。傷つけた奴が。」
「ほう、その相手が何処のどなたかわかっていらっしゃるので?」
「そっだね、相手はのうのうと昔のように偉そうに暮らしてんのよ。
まるで、『大統領』のようにね。」
じっと、ベールを間にして2人が見つめ合い、そしてそれは長く続かなかった。
フリードは動じる気配もなく、クスクスと笑いながらトマトジュースを飲み干す。
セピアはリンゴにグサッとフォークを突き刺して、ガブッと頬張った。
「あんたさあ、まるでさっきから血を飲んでるみたいだよ。あたいトマトジュース大っ嫌い。」
「そうですか?これはとても美容にもよろしいのですよ。一度飲んでご覧なさい。きっと美味しいと思われるはずです。」
「いいわ、また洋服が張り裂けると困るから。
あたい、もう絶対ドレスなんか着ない。」
服が張り裂けると言いつつ、またフルーツに手が出る。そしてまた横のオレンジジュースをお代わりした。
「それは・・残念ですね。」
「別にあんたには関係ないジャン。」
「今週の終わりにここで、いつもお世話になる方をお招きしてパーティーを開くのですよ。
私も、美しい方をエスコートできると喜んでいたのですが。残念です。」
フリードが、とても残念そうに声を落とす。そして上目遣いでセピアの様子をうかがった。
案の定そわそわと、セピアの派手好きの虫が騒いでいるようだ。
にっこり、ご機嫌を取るようにフリードを向いて、くるっとベールの下から覗き込む仕草で「えへへへ・・」と笑っている。
「どうなさいました?」
フリードが、わざと聞いた。
「あのねー、パーチィーの後からでいいかな?
絶対着ない宣言。」
プッと、フリードが思わず吹き出した。

 柔らかな日がさし込み、涼やかな風が吹いて大きな窓にかかるカーテンが舞い上がる。
起きあがり、座ってぐるりと見回すと、まためまいがして舌打ちした。

随分綺麗な部屋だ。
金持ちなのか、広い部屋には白い壁に大きな風景画が掛かり、その横には暖炉がある。
暖炉の上には何故か食器が並び、床に大きな壷が並んでいる。
高価な飾り皿なのだろうが、価値はまったくわからない。
ヒラヒラしたカーテンだ、セピアが喜びそうだなと思う。
寝ているベッドも、必要以上に大きい。
あと3人位は寝れそうだ。
キョロキョロしていると、後ろのドアから40代ほどの女が声を上げて笑った。
「あははは!あんた、女みたいだと思ったけど、凄腕なんだねえ。」
煙草を吸いながら部屋に入り、ベッドサイドまで来て洒落た椅子にスラリと座る。
「どうだい?調子は。」
長いブラウンの髪をバサリと後ろにかき上げ、大きくスリットの入ったロングドレスから片足を伸ばし、スッと足を組む。カインでは珍しい黒い瞳にやや切れ長の目尻の下がった目は、流し目をするとやけにツヤっぽい。シャドウなら飛びつく妖艶さだが、レディアスには鬱陶しい。
「調べさせたんだよ、あんたのこと。なかなかいい腕してるみたいじゃない?でっかい銃持っててさ、ナイフが得意なんだってねえ。」
フウッと煙を吐いて、レディアスの身分証明書を見ている。
美しいホログラムが光りを反射して、カインを大きな翼で抱く鳥の紋章が眩しく輝いた。

「臭い」

ボソッとレディが漏らし、プイッとそっぽを向く。女はフンッと鼻で笑い、フウッとレディの顔に向かって煙を吐いた。
「この野郎!」
バサッと布団を引き寄せ、口と鼻に当てる。女はまた、嬉しそうにキャラキャラ笑った。
「失礼な奴ねえ。命の恩人に対して、それが言う言葉かしら。」
「俺は頼んでねえ。」
もごもご布団の中で言って、自分のふがいなさに溜息が出た。

まただ。

またベッドに逆戻りなんて、ムカツク以上に腹が立つ。しかも、助けてくれた相手は見ず知らずのこんな高飛車な女だ。
以前はやたらと吸っていた煙草も、止めてみればひどく鼻について気分が悪い。

コンコン

「お入り。」
「失礼いたします。」
ドアを開けて、ぺこりと一礼してメイドが入ってきた。ショートカットの艶やかな黒い髪が、何故かブルーを思い出す。
顔を上げたメイドの瞳は、美しく燃える紅い瞳だった。
「あんたさ、この子に礼ぐらい言ったのかい?
この子が助けてやらなかったら、あんた森の中で死んでたんだよ。肺炎でさ。」
クローンのメイドは、頬をほんのり紅くしてまたぺこりとお辞儀する。
レディは抱えていた布団をバサッと下ろし、足下の掛け布団を剥いで指さした。
「あれを取ったらば、俺はいくらでも礼を言ってやらあ!これが助けたって?俺にはどう見ても捕まえたって方がピッタリだ!」
そう言って指さす先の両足首には鎖が巻き付き、しっかりベッドと繋がっている。
「あら、気に入らない?」
「当たり前だ!!」
「だって、あんた凄く具合悪いのに、逃げちゃいそうだったじゃない?
困るのよ、ねえ。森で勝手に死んで腐っちゃうと嫌だし、あの人に自慢しちゃった後だからいてくれないと。」
フウッと煙を吐く女に、スッとメイドが灰皿を差し出す。
「イサベラ様、御病人の前でございます。御煙草はご遠慮下さいませ。」
「ンまっ!マーサったらケチねえ。」
クローンメイドは、しかしにっこり笑って灰皿を下げる気配がない。渋々女は煙草をもみ消し、両手を豊満な胸で組んだ。
「ンもう!マーサは誰の味方?」
「もちろん、私はイサベラ様の僕でございます。でも病人の前では、ちょっと変わります。
駄目ですか?」
マーサは愛らしく微笑んで、イサベラも返す言葉はない。
「可愛い子ねえ、何にも言えないわよ、もう。」
ヒョイと肩をあげ、チュッとキスを送った。
「ねえあんた、あのヘリで何処に行ってたのよ、もう話してくれてもいいじゃない?」
「だからしらねえと言ってる。」
「行き先も知らないでヘリに乗ってたって変じゃない?確認にやった者が、かなり特殊なヘリだって言ってたわよお?」
レディの意識が戻ってから、女はずっと詮索ばかりして質問責めだ。しかし、レディは一切答えようとしない。
だいたい何処に向かっていたかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。この女が何者かも知らない以上、軽々と口を開くわけにも行くまい。
「失礼します、イサベラ様。先程見に行きました者から、あのヘリはフリード様の所の物らしいと連絡がございました。
密かに回収をする者達が確認されておりますし、フリード様からも怪しい者を見かけたら一報下さるようにとご連絡を受けております。」
マーサが横からそっと連絡を入れる。
「そう、へえ、そうなんだ。つまりあんたが怪しい奴って訳ね?」
クスッとイサベラがほくそ笑む。
敵と懇意にして、連絡を入れるかどうかは、彼女の心一つでレディの運命を握っているらしい。
しかし、そんなことはまったく聞いていない様子で、レディは勝手に違うことを頭の中で考えていた。
フリード・・その言葉には聞き覚えがある。

『自爆せよ、同士、リブラ・フリード』

『了解!リブラ!フリード!』

確かに聞いたあの言葉は、裏ヴァインと思われるテロリスト集団の合い言葉のようだ。
シュガーは主様としか言わなかったが、それこそが主の名前ではないだろうか?

「あんた、ヴァインの信者か?」

ストレートに聞いた。
「まっさか!ホホ!気になる?」
やっとレディの関心を引いて嬉しいのか、女が急にはしゃぎはじめる。覗き込むように低く乗り出すと、ふくよかな胸の谷間が露わになった。
「あんた、フリードの命狙ってんだ。ね?そうでしょ?」
「さあな。」
「じゃあ残念賞ね、彼の今住んでる屋敷はもっとずっと北だもの。」
「知って、いるのか?フリードとは誰だ?」
「んふ、フリードのこと知りたい?彼はね、み、こ、さ、ま。」
スウッと、レディの目が冴える。
まるでその雰囲気の違う様子に、イサベラはゾクッと身体の芯が喜びに震えた。
「ああ、あんたいいわ。その目よ。
あんたの目、殺し屋の目だわ。冷たく、ただ死だけを見つめる目。迷いがない。」
しかしその誉め言葉は、レディには最も疎ましくさえ思える。だから人形だと、ブルーのクローンがあざ笑っているように思えた。

だからこそ、心に決めたのだ。

何かを変えなければ。
何かを変えるために。

全ての元凶を殺す。

自分の運命を狂わせた、あの男を殺せば全てに吹っ切れる気がする。
たとえ殺されても、その行為が、過去との決別になるならば。
ヴァインとか、テロリストとかは一切関係ない。それは自分のために。
自分のための、初めての殺人。
それが自分の複製だとしても。それを殺すのは自分の役目なのだ。
「あんたの目が、言ってるわ。フリードを殺すって。本当に、出来るのかしら?
彼は大勢の取り巻きに守られ、しかも相当用心深いわ。さあ、できる?」
レディは無言で鋭い目つきのままにスッと手を伸ばす。そしてイサベラの首をスッと切る仕草で宣言した。

自分には、殺せる。と・・

「クックック・・ホッホッホッ!!」
イサベラが声を上げて笑いはじめる。
そして立ち上がり、部屋の片隅にあるテーブルの引き出しを開けると、中からレディのナイフを取りだした。
合金の黒い刃は曇り、これが人を殺してきたことを物語っている。それでも手入れを怠らないだけあって、まだ鋭い切れ味は残っていることだろう。レディには、大切な身を護るお守りでもあった。
「会わせてあげてもいいわ。ただし、一つ・・・いえ、二つかしら、守って貰うけど。」
「それ次第だな。俺はお前が何者かさえ知らない。」
「まあ、人の世話になって置いて強気だこと。
あんたのそこが魅力かしら?まあ、いいわ。
一つ目は、会わせるけど私の前で殺さない。
二つ目は、私の指示に従って貰う。
どう?」
レディの目が、ふと怪訝な目つきに変わる。
どうも胡散臭い。
「二つ目が具体的じゃないな。何処までと言う線引きがない。」
「ああ、そうねえ。」
イサベラはナイフを引き出しに戻し、今度は壊れた髪飾りを取った。
ドキッと目を凝らすレディをよそに、その機能は気付かれてはいないようだ。
「これ、綺麗ねえ、ちょうだい。」
「駄目だ。」
「いいじゃない、壊れてるし。」
「それは預かり物だ。持ち主が他にいる。」
「ふうん、マーサ。」
メイドに手渡し、耳元でぼそぼそと告げる。
「ハイ、承知いたしました。」
マーサはぺこりと一礼して、部屋を出ていってしまった。
レディは自由にならない身にイライラする。
何でも要求を飲むしかないのかと、今更腹が立った。
イサベラもタヌキな女で、ぬらりくらりと返答をする気はないらしい。レディの持ち物や服を入れた引き出しをあせっては、クスクス笑って見せつけた。
「あんたって、変なもん持ってるわりに持ち物少ないわよねえ。ほら、銃の弾。銃がなけりゃただの金属の塊じゃない。それとも何か仕掛けがあるの?
それに、ほら見てよ!あんたの細いジーパン!
良く合うのがあるわねえ、捜すの大変じゃない?もしかして、これって子供物?」
ゲラゲラ笑われて、本当に面白くない。
裸をジロジロ見られているようで、着る物を人に見られるのが一番嫌いだ。
このまま話が進展しないのも、悪くすれば話を潰してしまいそうで不安が膨らむ。
レディは、差し違えてもフリードを殺したい。
その大きなチャンスかもしれないのだ。
「わかった、じゃあ俺にも要求がある。それを飲むならお前の指示に従おう。」
「あら、折れた?あんた、頭いいじゃない?で?要求って?」
キャッと胸の前で手を組んで、ベッドサイドの椅子に座る。レディは彼女の鼻先に指を突きつけ、思いきり噛みついた。

「俺から鎖を取れ!逃げも隠れもしねえし、こんな物してあると足が痛くて眠れねえんだ。
何より、トイレぐらい勝手に行かせろ!」

ガーッと叫んだつもりだが、どうも腹の底から声が出ない。クラッとめまいがしてギュッと唇を噛む。しかし彼女は、素っ気ない様子でフッと笑った。
「ああ、何だそんなこと。了解、わかったわ。
じゃあ、契約オッケーね?
具合がいいなら自由にして構わない。庭に出るといいわ、気分が変わるでしょう。
服はそこ、数枚だけど用意させてるから。ただし着替えて自由にしてもいいけど、無理はしないでちょうだい。まあ、フリードに会うまで体調を整える事ね。
ああ!楽しみが増えたわあ!ホホホ!じゃあ、ドレスをさっそく大急ぎで作らせなきゃ!」
勢い良く立ち上がり、いそいそと部屋を出る。
廊下にメイドを呼ぶ声が響き、キャアキャアと女の甲高くはしゃぐ声が耳障りなほどに騒ぎはじめた。
ドレス?
何だか嫌ーな予感もするが、フリードに会うまでだ。
好き勝手も程々に守ってやろう。
入れ違いにマーサが入ってきて、足の鎖を外してくれた。
鎖にはタオルが巻いてあったが、足首は赤く腫れている。
「ああ、いけません。冷やして差し上げますからお待ち下さい。昨日取るつもりだったのですが、奥様が駆け引きするのだとおっしゃって・・いかがでした?」
「さあな、少なくとも自由は勝ち取ったさ。
手当はいい、このくらい治る。」
「駄目です!ちゃんと治さないと、後々ずっと痛みが残ったらいかがなさいます!マーサにお任せ下さい!」
ずいずいっと怒って迫るクローンメイドの迫力は、確かにあの女も負けるだけの物だ。
純粋で強い優しさは、環境の良いクローンによく見られる物だが、有無を言わさぬ強みはクローンらしくない。
クスッと困った顔で笑って、レディがよろめきながら立ち上がった。
「服、有るんだろう?着替えたいんだ。」
「まだ無理ですわ、やっと熱が引いたばかりでございますもの。」
止めるマーサの言うことも聞かず、クローゼットを開けてみる。数枚とはいっても、ずらりと並んだ服・・しかし、

しかしだ!

「なんだこれ!女物ばっかじゃねえか!」

びらびらの、レースがふんだんに付いているブラウスに、パンツとは言っても派手な装飾の入ったボトムズ・・つまり女性用のズボン。
「ああ、サイズが小さいので女性用しかなくて・・やはりお嫌いですか?」

ムカツク!腹立つ!きっと嫌味に違いない!

「もう寝る!」

ドカドカベッドに戻り、ボスンと布団に潜り込む。
「ハイ、その方がよろしいかと思います。」
人の気も知らず、涼しい声でマーサが言い足に湿布を貼った。
ひやりとして気持ちいいけど気が重い。
「後ほどドクターが見えますから、許可を貰ってシャワーを浴びましょう。マーサがお手伝いして差し上げますから。」
「風呂ぐらい自分ではいる。」
「いいえ、御気分が悪くなっては大変です。
マーサが髪を洗って差し上げますわ。きっととても気分が良くなりますよ。」
「勝手にしろ。」
「ハイ、勝手にさせていただきます。マーサはレディアス様のお世話係ですから。精霊さんともお約束しましたし。
汗、拭きましょうか?冷やすとまた熱が出ますよ。」
マーサが布団を直し、タオルで背中を拭いてくれる。

精霊?
ああ・・・何だかとても眠い。
誰もいない、グランド・・手を握ってくれなきゃ・・グランド・・夜眠れないんだ・・・

マーサの手が、何て優しくて温かいんだろう・・

「手、握って・・」

「は?手ですか?」
マーサが不思議に思いながら、レディの手を握る。
「これでよろしいのでしょうか?」
そっと覗き込むと、レディが穏やかな顔で眠っている。
「あら」マーサが微笑み、レディの額を優しく撫でた。
「レディアス様・・私はクローンですが、人を殺したことがございません。でもイサベラ様は、あなたはきっと、沢山のクローンを殺しているとおっしゃいます。
私達のような作り物の生き物でも、命を奪うのはお辛いですか?
レディアス様、きっとあなたは、死んでゆくクローンよりも傷ついているのでしょうね。」
じっと手をつないだまま、椅子にかけて彼の顔を見つめる。
暗く陰のある美しい顔は、その人生が決して平たんな物ではないことを、暗に物語っている。ただ彼の後ろに守護する者の存在、それもまたクローンの影だと言うことが、彼の真実の優しさを表しているようで、マーサには何だか愛おしいような不思議な気持ちになるのだった。

 夕焼けを横目に、マンションの駐車場に車を止めて自分達の部屋を見上げる。
先にブルーが帰っているはずなのに、最上階の角部屋は電気もついていない。
グランドは疲れたように大きな溜息をつき、買い物の袋を握って車を降りた。
ロビーに入ると、同僚で他部所のリオンがエレベーターを待っている。
ヨッと軽く手を上げ、ニヤリと笑った。
「元気ねえな、まあ、仕方ないか。」
「仕方ねえよ。迷惑かけるな。」
ピンッと、エレベーターのドアが開く。
それぞれの階のボタンを押し、疲れたように壁によりかかった。
「ポリスに友達がいるんだけどさ、なかなかヴァインの裏組織は手強いって言ってたぜ。
まったく尻尾が出ねえんだと。
かなりの資金力だから、せめて金回りでも掴めればいいってぼやいてたけど。こないだの手入れも、空振りだったんだろう?」
「まあな、あんま収穫無かったみたい。だいたいよ、2人を連れ去ったのがヴァインの一味だって、確信もまだねえんだ。」
「長くなりそうだな。」
「こっちが死にそうだよ。」
ピンッとエレベーターが止まり、ドアが開く。
「じゃ、早く帰ってくればいいな。」
「さんきゅ。」
リオンが降りて、数階また昇りようやくグランドが降りた。
 ブラブラと、飯炊きもやる気が出ない。
ドアの前に立ってカードキーで鍵を開け、寂しい我が家へと帰ってきた。

「だだいまー」

・・・返事がない。
電気もついてないし、エアコンもついてないので日中の暑さで空気が暖まっていてムッとする。
日が落ちた後は窓を開けて空気を入れ換えれば、一気に気温は下がって今度は寒い。
だから、サスキアでは体を壊しそうになる。
「はあ・・なんだ帰ってねえのか・・」
大きな溜息をついて電気もつけず、暗い中居間の窓を開けに行った。

むにゅ、

「ん?」何か踏んだぞ。
見ると、ばったりとブルーが床に転がっている。
無言なので死んでるのかと、ドカッと蹴った。
「いてえ・・」
「なんだ、生きてんの?」
「うん、生きてる。」
「そっか。」
ブルーがズルズル起きだし、呆然と座る。
グランドは電気をつけて、ドサッと買い物袋を居間のテーブルに置いた。

「食うべ。」
「そうか、食わなきゃいかんか。」

帰る途中で買った冷たい弁当二つに、ペットボトルのお茶。
幽霊のような2人が向かい合い、ガサガサ開けてぼちぼち食べた。

「まずい。」
「まずいな。」

シーンとした中、食べる音だけが部屋に響き、居間が倍の広さに思える。
「ブルー、髭剃れよ。おめえ、少しばかり生えてるのはだらしねえよ。」
「おめえもな。」
ムグムグ食べながら、顎を撫でてみる。
確かに自分もジョリジョリ。
しかし剃るのがひどく面倒臭い。
「そういやあ、レディは髭生えねえな。男なのに。」
「グレイも生えねえ。」
「ありゃあ半分女だ。」
「んー、レディは無駄毛がねえな、確かに。銀だから目だたねえのかな?」
「無駄な毛がないぶん、頭はハゲねえ。」
「ああ、ハゲてもいいっては言ってたけど、洗わなくて済むから楽だとよ。」
「ケッ、自分じゃ洗わねえくせに。流すだけだろ?」
「だな。」
むぐむぐむぐ、美味しくない。
ゴクゴク、お茶も不味い。
「セピアがいねえと、食費が浮くな。」
「ああ、んだな。」
「デカイ買い物しねえか、ドキドキしないでいいよな。」
「んだな。」

「でも、静かだな。」

「んだな。」

「静かすぎるな。」

「んだな・・・」

ぼうっと二人、顔を上げて見合わせる。
暗いキッチンを見て、また溜息をついた。
「明日からは飯作るか。」
「ああ、飯か、どうでもいいけど作るか。」
キッチンのゴミ箱は、買ってきた弁当の空ばかりが突っ込んである。
お茶一つ湧かさないので、まるで誰も住んでいないように綺麗だ。
「食ったら、風呂入って寝るか。」
「眠れるか?」
「眠れねえ。」

「・・だよなあ。」

それでも、何にもする気は起きない。
テレビは見たくないし、新聞なんて読む気もしないから買っても来ない。
「はあ、一緒に入るか。風呂。」
「そっだな、1人になると泣きたくなる。」
「泣けば?」
「んー・・2人と会ってから泣く。」
「俺も。」
フウッとまた、大きな溜息。
「あ、ゼリー寄せ、もう食わなきゃ。ブルー食うだろ?食ってくれよ。今夜また新しいの作るから。」
「あ?ああ、そうだな。」
いそいそと、グランドが立ち上がってキッチンへ向かう。
何となく、2人とも相棒がいつ帰っても良いように、食事をすぐ出せるよう下準備した物は常備している。
ブルーにしても、冷凍室を開ければ、焼いたパンケーキが山ほど入っているのだ。セピアが腹を空かせて帰っても、すぐに暖めて出せるように。
 切って皿に並べたゼリー寄せに、ドレッシングをかけて食べながらブルーが首を傾げる。
セピアはすぐに飽きそうな味だと思った。
「良くこんな味気ない物を飽きないよなあ。
昔からレディはこれが好きだろ?」
「んー、俺が作るから食べるだけかもなあ。
もしかしたら飽き飽きしてるかも。」
フフフ・・笑いながら、グランドがパクッと食べる。
ブルーも一口食べて、何気なく見たグランドの顔にドキッとした。
グランドの目から、涙がボタボタとこぼれる。
自分も涙腺が緩みそうで、思わず膝をつねった。
「ば、馬鹿野郎。泣くのは2人に会ってからだろ!泣くなよ!」
言われて余計、ドッと流れる涙と鼻水にグランドの顔がグシャグシャになる。
「だってよう、俺あいつにひどい事ばっかしてたんだ。謝ろうって、してたのによう。」
ジュルジュルジュルッと鼻水を吸って、ティッシュを取り、ビイッと鼻をかんだ。
「くそう、くそう、あいつちゃんと飯食ってンのかな?ちゃんと寝てんのかなあ、くそう。」
またジュルジュルジュルと、鼻が垂れる。
向かいのブルーも鼻をかんで、やっぱり同じ様にジュルジュル鼻を吸った。
「ああ、セピアも飯食ってンのかなあ。あいつ牛より食いやがるから、いい人に会ってもすぐ捨てられるかも。ああ、まさか途中で逃げて、銀行襲ったりしねえかなあ。」
支離滅裂なことを考えながら、くそうくそうと2人、パクパクとゼリーを平らげる。
甘酸っぱいはずのドレッシングが、やけにしょっぱくて身にしみた。


 風呂から上がって、何となくボウッとしているとグランドがジュースを持ってきた。
2人ともいい年して頭を洗い合い、背中を流してほんの少し気が楽になった気がする。
こんな時家族はいいな、と思ったりするのだ。
いつ呼ばれてもいいように、アルコールは2人が消えてから一滴も飲んでいない。
気を紛らそうと飲みたいのが山々でも、グッと我慢してジュースを飲んでいた。
「ブルーは今日、研究所に行ったんだろ?あの女に会いに。どうだった?」
一言も言わないので聞かなかったが、グランドも興味がある。
研究所の3人が喋らない以上、テレパスのブルーだけがあとの望みだ。
ブルーがオレンジジュースを酒のように一口飲んで、大きく溜息をつく。
そして首を振った。
「会わせて貰えなかった。」
「なんで?」
「俺のクローンは様態が急変して意識混濁してるって、グレイのクローンも会って話すような状態じゃないとよ。
ほんであの女は、会いたくねえと暴れたんだと。」
「やっぱ、あの村で会った”司祭様”なんだ。」
「だな。だからだろ?俺に隠し事なんて通用しねえ。
マキシ達がさ、時間さえくれれば情報は取り出せるとよ。あそこには、軍所属のテレパスのクローンが常駐している。
あの女も馬鹿だねえ、脳味噌の中洗いざらい読まれて、相当嫌な目に遭うぞ。クローンには、プライバシーもなにもないからな。」
恥ずかしいこと、知られたくないこと、全て覗かれるのだ。これをやられて折れる奴は非常に多い。口の堅い犯罪者に対する最後の手段でもある。
「サンドも、一昨日俺が会ったときまでは、いくらか回復してたみたいだったのになあ。」

”細胞が、急速に衰えている・・”

マキシの言葉が胸に痛い。
グランドは何とは無し首を振り、つまみのナッツをかじった。
「グレイ達もさあ、今の仕事早く上がって帰るってよ。まあ、いてもいなくても変わんねえが。」
「あいつ等も落ちつかねえだろうさ。
大体今まで、誰一人欠けなかったのが奇跡だって、前にシャドウが言ってたっけなあ。」
「縁起わりい、欠けるなんて言うなよ。」
「ごめ。」

ピルルルル、ピルルルルル・・

「電話だ!!」
ドタドタドタドタドタドタ!!!

電話が鳴り、2人がダアッと駆け寄った。
我先にと手を伸ばし、グランドが取ってブルーがテレパスの力でその会話を盗み聞く。
「はい!はい!リメインスです!」
『リメインス?そうだったかしら?名前ばっかりだからピンと来ないわね・・ああ、研究所のマリアよ。』
マリアはクローン研究所にいる博士の1人だ。
精神科のエキスパートで、レディアスの主治医でもある。
『ブルーのクローン、サンドって名前なんだけど・・』
「知ってます、グレイのクローンはソルト。」
『夕方頃意識がはっきりしてきてね、今ちょっと落ち着いてるのよ。
それで、話したいって、夜遅いけどいい?』
「いい!!いいです!!もちろんオッケー!!すぐ!すぐ行きます!すぐに行きますから!!」
ブルーと2人、合唱して電話を切ると、バタバタ駆け出す。
「着替え!服!ああ!ジュースは冷蔵庫に入れないと!」
「グランド!パンツ裏返し!ああ、もう!シャツのボタンがめんどい!」
バタバタドタドタ外へ駆けだし、握った車のキーを見る。
「ああ!シャドウの車のキーだった!」
「いい!どうせこいつが一番早い!」
2人で禁断の真っ黒いスポーツカーに飛び乗り、グランドがハンドルを握る。

ウオオオオオン!!ウオンウオン!
ギキキキキキ!!ギャン!!ウオオオオオ!!

「ひいいい!!パワーが有りすぎて怖いい!!」

叫びながら大出力のエンジン全開で、2人は研究所を暗闇の中目指した。



 暗闇の森の中、そこだけが明かりの灯る研究所の中も、夜中は必要なところ以外は非常灯しかついていない。
普通夜間は通してくれないのだが、門のゲートで警備員に告げると、連絡が来ていたのかすんなり通してくれた。
玄関先に車を止めると、ロビーからタアッと背格好はグランド達と変わらないくらいの誰かが駆け出てくる。
「グランド!あ、ブルーもいるの?」
息を切らせてクローンのベリーが、グランドに飛びついた。
「ベリーか、まだ起きてたんだ。いい子は寝なきゃ。」
グランドがポンポンッと背中を叩くと、ベリーがパッと離れて手を握りグイグイ引っ張る。
「早く!僕は迎えに来たんだから!もう!子供扱いしないでよね!」
「あー、ごめんごめんベリー。ブルー!」
「へいへい。」
プイプイ腹を立てながらベリーが先を行く。
グランド達は走るように彼を追いかけ、そして居住区にある離れが近づく毎に、胸がドキドキと高鳴っていった。

 ベリーが、足音を忍ばせて薄暗い廊下を進む。
途中のゲートも、ベリーはすでにここの職員なのでパスを持っている。
この居住区の住み込みの寮母さんのような仕事だ。彼の男性だが優しく中性的な美しさと仕草は、何処かグレイと似ている。
シンと静かな中をそっと進み、離れのその部屋につくと控えめにノックした。
「ベリーです。入ります。」
『どうぞ。』
二重扉の中から、小さく返事が返ってくる。
マリアの声だ。
カチャン、カチャン。
次々にドアを開くと、照度を落とした明かりが、サッと暗い廊下に漏れた。
「御入りなさい。どうぞ。」
局長と同年代の、落ち着いた中年女性の声が中から聞こえて、グランドが覗くと前のようにベッドサイドに座るソルトの背中がチラと見える。
ただ前と違うのは、ベッドに横たわるサンドに、いくつもの点滴が繋いであるようだった。
無言でブルーと2人、中に入る。
「私は失礼します。またご用の時はお呼び下さい。」
「そうね、ベリー、ありがとう。」
一礼してベリーは部屋の外へ出ていった。
「どうぞ、話があるんでしょう?でもね、彼さっきまで意識があったんだけど・・」
マリアに促され、グランド達がベッドの脇に立つ。
しっかりとソルトが握るサンドの手は、まるで枯れ木のように張りがなく、シワだらけで細い。
ドキッとグランドが恐る恐るサンドの顔に目を移し、ウッと息を飲んだ。
自分が会ったのは、一昨日だった。
やつれてはいたが、まだ見られたと思う。
それが・・

これは、誰だ?

振り向くと、自分とうり二つのクローンの、変わり果てた姿を目にしてブルーも立ちすくんでいる。
ハアハアと苦しそうに息をつく、それはまるでレディアスが戦争から帰ったときの、極端な栄養失調でようやく生きているような、そのかつての姿に近かった。
パサパサとツヤを失った髪に落ちくぼんだ目、頬はこけ落ち、まるで1分を数年の勢いで年を経ているようだ。

「お願い・・」

「え?」

キッとソルトが、潤んだ瞳を上げてグランドを見る。
「お願い!サンドを助けて!」
「な、んで俺が・・」
「彼を、こんな風にしたのは・・・」
ドキッと、グランドの体がすくむ。
「マリア!外に出てくれないか?!」
いきなりグランドが叫んだ。
マリアが腕を組み、ツイッと片手でずれた眼鏡を上げる。その仕草は、気に障るほど落ち着いていた。
「グランド、隠し事は無理よ。わかっているでしょう?」
「わかってるけど・・わかってるけど・・確信がねえんだ・・だから・・・」
グランドの手が、小さく震えている。

「原因は、レディね?」

ビクッと、グランドの顔色が変わった。
サッと血の気が引いてゆく。
「わ、わからない・・わからないんだ、わからない・・」
「そうね、でも・・」
マリアはグランドに寄り添い、ギュッと肩を抱いた。
「力をはっきりさせなければ彼の身も危ない。彼自身、自覚しているかどうかもわからないわ。
なにより、テロリストの首謀者が、彼のクローンらしいなら尚更よ。」
「でも・・・力次第じゃ・・しょ、処分なんて・・まさか・・」
「グランド、私達はコントロールが利く物を安易に処分したりしない。考えようによっては、あなたの力だって相当な驚異なのよ。
研究所が守ってあげるわ。守ってあげられる。それはわかっているでしょう?」
わかっている。
でも、怖い・・
マキシの言葉も頭に残っている。
「グランド、この部屋は管理室から見られてる、記録も残る。無駄だよ。」
ブルーは、心を読んですでにグランドの憂慮を知っているのだろう。
「でも・・・・怖いんだ。またあいつと無理矢理離されそうで・・」
今までの経験が、恐怖を呼び起こす。
6人兄弟、旧カインからコールドスリープで目覚めた後のこの世界でも、異能力者の彼らはその力のために人間に振り回され続けた。
ようやく、落ち着いて暮らしている今の生活が、また乱される気配を感じる。
幸せだと、ようやく感じられる生活は、ひどくもろい砂上の物でしかない。
マリアが、悩み唇を噛むグランドを抱く。
彼女には、レディのことで何度も「しっかりしなさい」とこうして抱いて貰った。
それが苦であり、喜びでもあったのだ。
グランドが、顔を上げてマリアの顔を見る。
マリアが苦笑して、ポンと頭を叩いた。
「今まで隠せたと言うことは、ちゃんとコントロールが付く力じゃない?みんな力になってくれるわ。
昔のように、未知なる者じゃないでしょう?私達にとっても今のあなた達は。
友達は、助け合えるのよ。」
ブルーもギュッとグランドの手を握り、大丈夫だと目を合わせる。
「わかった。」
グランドが顔を上げた。
「あの地下施設でこの、クローンが俺を狙ったんだ。その時、急に力を失ったようで・・
ガクリと膝を付いて立つことも出来ないようだった。こいつ俺にナイフも投げたけど、全然力が入ってないようだったんだ。
苦しそうだった。
俺はあの衛星の処理に集中していたから良く覚えていない。でも、驚いたようにこいつは言った。
『まさか・・・これがお前の、力・・なのか?』って。」
「レディは?」
「肯定も、否定もしない。ただ無言で俺を庇って立っていた。そして、銃を撃ったところであのクローンが現れて撃たれたんだ。」
「ひどい・・」
ソルトが顔を覆って泣いている。
確かに彼にしてはひどい仕打ちだろう。でも、レディはグランドを守っていたのだ。
「あいつを怨むなよ。本当にひどいのは誰か、あんたにはわかっているはずだ。
あいつは俺を守った。それだけなんだ。」
「じゃあ!あの人には自分の力に自覚があるんでしょう?!ならばこの状態を止めることだって・・!」
グランドが肩を落とし、すがるようなソルトに首を振る。ソルトが何を言いたいのかは、良く分かっていた。
「俺は、あいつのそんな力、初めて知ったんだ。だから、救えるとか、どうかできるかはわからねえ。」
「そんな・・わからないなら、やってみないと、聞いてみないとわからないじゃない!」
「それに、もう手遅れに見える。残酷だけどな。」
ブルーも首を振った。
しかし、ソルトは諦めてない。涙を拭き、燃えるような目で今度はマリアを見つめた。
「サンドを、コールドスリープに入れてください。今の状態で時を止めれば・・」
「コールドスリープ?確かに・・医療目的なら認められてはいるけど・・クローンに使うのは軍の許可がいるのよ。それに、状態から見てももう遅いと思うわ、余計に負担になってしまう。」
「お願いします、時間に猶予が欲しいんです。」
マリアが腕を組んだままじっと考える。これ程一生懸命な彼は初めて見る。
「わかったわ、じゃあ低体温療法を試しましょう。クローン用に作った再生槽の温度を調整してできるから、軍も干渉してこないでしょうし、いくらか猶予が出来るはずよ。」
「お願いします。」
ホッとした顔で、ソルトはサンドの手にキスをして立ち上がった。
「私も行きます。主様、フリード様の元へ。
あのレディアスと言う方のことは・・昔のことも以前主様より聞きました。」
「やはり、ヴァインの教祖があなた方の主?そしてレディアスのクローンなのね。」
その言葉に、ソルトが驚いて目を剥く。
「え?いいえ、私は主様がレディアスさんのクローンだと言うことは知りません。主様が、クローン?まさか。」
「シュガーと言うあなた方の仲間には話したとレディは言ったらしいから、この彼は知っているはずよ。恐らく話しただろうから。」
ソルトがゆっくり首を振る。
サンドは自分を大事にするあまりなのか、ほとんど真実を語ってくれない。沢山の知っていることを胸に秘め、一人で苦しんでいたのだろう。
「でも、私達には今更そんな事はどうでもいいのです。
はっきり言えるのは、主様がヴァインの御子様であると言うことだけ。それだけお伝えしましょう。
私はでも、あなた方に協力はしません。あなた方がどんな目にあったかなど、関係ない。
ただ、会わなければ、連れてこなければ・・
サンドを救いたい!
彼は、きっとそこにいる。たとえいなくても、きっと現れる。
私は・・僕は・・サンドのために生きたい!
彼と共に!生きて行きたい!!」

立ち上がった彼は、まるで息を吹き返した鳥のように美しい。
今まで抜け殻のようなソルトの姿を見ていたマリアはそう思った。
消えそうな命を見つめて、燃え上がる命がある。

命・・

本当に、彼がそれを操ることが出来るのかはわからない。
でも、だからこそ修羅場の戦場を生き延びることが出来たのなら・・
吸血鬼のように、他の生き物の生気を吸い取って生き延びたのだとしたら。
ナイフの一振りで儚く消えてしまう、この世で最も美しい物を見つめながら、それに気付いているのか、彼の中で、その美しい物はすべて色や輝きを失っている。
しかしもう、戦争で精神的に傷ついていた自分は治ったと、医者として待つマリアの所にレディは最近疎遠だ。
涙だけにとらわれるのは間違っているのに、何故まだ不十分だと言われるのか、それがまだわかっていない。
彼の心にある割れてしまったパーツは、まだ埋まっていないというのに。

あなたの中で、美しい物はなに?

マリアは心の中で、敵と見れば無慈悲に全て殺してしまうレディアスに、そう問いただした。

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