桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

1、

 ヒュウウウ・・・
木枯らしにカサカサと、枯れ葉が舞い上がる。
公園の木に景気は関係ないだろうに、世の中を敏感に感じ取ったのか、それとも十二月だから当たり前なのか、昼間子供達を見守る木は葉を落としてやせ細り、寒さに震えているようだ。
キィー、キィー
誰もいない真っ暗な公園に、世間の荒波にもみくちゃにされた女が一人。
酔いつぶれてブランコのお世話になっていた。
「・・ウー、何よ・・あんのクソ爺・・
ぶわっかにしてさ!
何が、明日から、来なくていいですうーよ!
馬鹿野郎!ケッ、こっちから願い下げよう!
あんなクソ会社あ。」
キィー、キィー
ゆらゆら身を任せ、気持ちいいのか悪酔いか、それは彼女しか知らない事。
女一人、夜の公園は危険なのにそこは酔っぱらい。無防備に、かろうじてただ一つの街灯に照らされ、寒いのも分からず足は大きく広げて親父臭い。
しかしその時、誰もいないと思っていた公園のトイレの影から、人影が一人。
そっとそうっと前方から彼女に近づいてくる。
じゅるじゅる!
鼻をすする音に彼女が目を凝らすと、やがて柔らかな街灯の光りでその人影が浮き上がった。
「んー?あんた、誰?
強盗?・・そうか、わかった。痴漢だ!
アハハハ、春美さんびっじんだから、襲いに来たんだあ!アハハハハ!」
まったく、警戒心も見失うほど酔っている。
しかし、街灯の下に現れた人影は、クマの縫いぐるみを抱きかかえた、小柄の小中学生ほどの少年だった。
「お、お姉ちゃん?」
ニコニコ微笑みながら、怖々声を掛けてくる。
「エー、何だガキ?何?あんた誰?」
「あのね、あのね、ハルお腹空いたの。
寒いからね、お姉ちゃんと一緒に寝たいの。」
「エー、寝たいー?やだあ、うちに泊まるのお?」
「うん。ハルね、今日ね、困ってるの。」
少年が、しゃがみ込んで彼女の顔を覗き込む。
そのしぐさが可愛くて、ハイな彼女はよしっと手を打ってしまった。
「ぅわかった、任せなさい!うちにぃ泊まれ!
よっしゃあ、うー・・」
しかし彼女はそう言うと、何だかウトウトしてきた。
慌てて少年が、クマを片手にもう片方の手で彼女を引っ張る。
「お姉ちゃん眠っちゃ駄目だよ、帰るの!
お腹空いたの!ねえ、ねえ。」
「うーもう、わかったわようー。んー・・
うー、あたしゃ酔ってませんよ!
ようっし、帰る!お家帰るぞー、矢坂春美、帰りまーす!」
よろよろと彼女が立ち上がる。
「お姉ちゃん、は、春美?なの?」
「おうっ!何だ文句あっか?」
「お姉ちゃんナッチンとちょっと違うね。ねえクー、ちょっと違っててそっくりだね。」
「あんた何訳わかんないこと言ってんのよ。
ちょっと違うのはそっくりじゃないじゃん。
あー、飲み直しだ!リスとトラで飲み直し!」
「うん、ハルもね、ハンバーグがいいな。」
二人はそうして、ややかみ合わない会話を交わしながら、支え合ってフラフラと夜の町をようやく歩き出した。
そうしてそれが、彼女の元に、一足早くハルが舞い込んだ夜だった。
 爽やかな光りがカーテンの隙間からさして、人生は真っ暗だと言うのに新しい朝が来た。
彼女の城は都心の一等地。から、ちょっと外れた所。
お洒落な賃貸マンションの五階だ。
1LDKでも、寂しい一人暮らしには丁度いい広さ。
そしてボーナス叩いてかき集めた、ちょっとアンティーク風の家具が並んでいる。
管理職の彼女は、ちょっと高めのお給料を貰っていたので、ちょっとリッチな暮らしを送っていた。
いた・・そう、すでに過去形。
小さな会社だっただけに、経営不振はまともに従業員へしわ寄せが来て、運悪くミスを重ねていた彼女は昨日いきなり解雇されたのだ。
奈落に落とされた彼女は、酒に任せてトラに変貌。
ビューティフルなオフィスレディも、一夜でプー太郎の仲間入りだ。
そしてそのベッドに転がる彼女、矢坂春美は、スーツはグシャグシャ、髪は爆発、化粧も落とさず惰眠を貪っていた。
 ふうーっと、溜息混じりで寝返り打って、日差しが目に飛び込んでくる。
「うー・・頭・・痛ーい・・もう朝?」
どろんとした頭で目覚まし時計を覗き込み、ガバッと飛び起きた。
「九時?!うっそー、遅刻!遅刻だわ!
あー、もう間に合わない。
ギャア!何で靴履いてんの?お化粧落としてない!顔ドロドロ。やだ、ストッキング破けてる!」
バタバタ服を脱ぎ散らかし、バスルームへ飛び込む。
そこでようやく気が付いた。
「あ・・そっか・・もう行かなくていいんだ。」
下着姿でズルズルと、壁に持たれたまま座り込む。
何だか全身に虚脱感が蔓延して、人ごとみたいで信じられない。
まさか、自分がリストラなんて・・
「ハローワーク、行かなきゃ・・」
世間の冷たい風に打ちのめされて、よよよっと泣きたいのにさっさと頭は回転する。
これで男でもいたら、泣きながら胸に飛び込んでいくところだけど、今まで仕事一筋。
彼いない歴二十八年、もうすぐ三十路。
こうなると周りの男も嫌なところばかり目が行って、うんざりする奴ばっかだ。
「まあ、どうにもならなかったら・・
田舎に帰るのも格好悪!でも、まあ仕方ないよね。
いい男でもいないかなあ・・嫁に貰ってよ。」
ぶつぶつ一人で呟いて、動く気にもなれない。
ゴソゴソ・・ゴソゴソ・・
んん?台所から、何か音がする。
まさか、ネズミ?!
うそっ、ここマンションよ。5階よ!
キョロキョロ風呂場を見回して、何か武器になる物、叩く物・・
これだ!
手桶をギュッと握りしめ、見つけたらこれで叩くのよ!と心に誓う。
チューチュー走るネズミを、バカッと叩くイメージトレーニングが何度となく頭を巡る。
・・でも、まてよ?これで叩くと、ネズミなんてブチュッと潰れちゃうんじゃ・・
キャアアアアア!!いやいやいやあ!
そっちがもっと嫌!
こんな時が一番、一人暮らしが辛い。
春美はそれでも一大決心で、そっとそっと台所へ向かった。
春美の部屋は、1LDK。玄関横にトイレと風呂場が並び、向かいにキッチンとリビング、奥にもう一部屋ベッドルームがある。
台所はちょっとしたシステムキッチンだ。
ガサガサ・・
やっぱり音がする。
そうっと忍び足で、台所を覗き込んだ。
「キ・・!」
「きゃあ!」
春美が叫ぶ前に相手が叫ぶ。
振り上げた手桶を振り下ろす前に、相手の姿を見るとどちらが悪者か分からなくなってきた。
「きゃあってあんた、それこっちのセリフよ。」
何とキッチンの隅っこに、少年がギュッとクマを抱いて、身体を小さく丸めてる。
小学生?中学生くらいかな?
可哀想なくらいガタガタ震えて、顔はクシャクシャ、涙と鼻水をドッと溢れさせ、まるで殺人犯に追われる被害者。
何だかドッと春美は脱力した。
「あんた、一体どこから入ったの?
誰?どうしてここにいるわけ?」
立て続けに質問しても、相手はズルズル泣くばかり。
でも、あら?綺麗な子じゃない。
最近では日本なのになぜか珍しい気がする柔らかくウエーブした黒髪に、薄い色の瞳と彫りの深いはっきりした顔立ちはちょっと日本人離れしている。
ハーフ?ジャニ系?
綺麗な子ねえ・・家出少年かしら?
まさか酔いに任せて誘拐何てしてないでしょうね?
春美の頭にぱっと警察が浮かぶ。
少年が急に頷くと、ごしごし涙を拭いて顔を上げた。
「うっうっうー、ハルね、ドアから入ったの。」
しゃくり上げながら、ようやく返事が返ってきた。
「ドアから?んー、あたし昨夜はベロンベロンだったからなあ・・覚えてないけど、つまりあたしと一緒に入ったわけ?あー、頭いた。」
少年がコクンと頷く、そしてにっこり笑った。
「あんた、いくつ?小学校?名前は?住所、どこ?」
少年が手を広げて、首を傾げる。
「あのね、二十の前。」
「何?あんた自分の年も言えないわけ?
あんたそんな言い方じゃあ、赤ちゃんだって二十の前じゃない。」
フウ、溜息しかでないわよ、これじゃ。
「あのね、大変なんだよ。」
「何が?今度は何?」
「シーコとね、ウンコ。」
ひいいいいいいいい!!!
「こっちよ!こっち来なさい!出しちゃ駄目!我慢するのよお!」
グイッと、少年の腕を引いて、急いでトイレに向かう。
しかし、そのグイッと引いた瞬間、少年が身体を堅くした。
「あ、ちょびっと出ちゃった。」
ぷうーん・・・香ばしい香りが・・
「ヒイイイイ!!!やめてええ!!」
春美がムンクの叫びで悲鳴を上げる。
「あんた何?靴も脱いでない!早く、ズボン。
くっさー、最悪!」
 そうしてしばらく、少年と春美の格闘が続き、ようやく一息ついた頃・・
春美はウンコまみれで少年と、彼の洋服をお風呂で洗っていた。
「あたしが・・あたしが何したって言うのよう・・しかも下痢気味・・最悪・・」
「お姉ちゃん、お風呂いいよ。とてもいいよ、気持ちがね、いいよ。」
湯船に浸かって、パチャパチャ遊んで少年はご機嫌。
「ああそう、良かったわね。あたしゃ気持ち悪いの。換気扇、本当に動いてるのかしら?」
「ね、ね、クーはちゃんといる?クー!クー!」
「あーもう、声を少し落としてよ。頭痛いんだから。クーって何よ?」
「友達!パパがね、まーえにね。」
「ああ、あの汚いクマのぬいぐるみか・・あれ、確かテディベアって言うのよね。」
話しながら、風呂場で服を洗っていて、ふと気が付いた。
「ん?これ・・」
シャツも、ズボンも・・全部に一流ブランドのタグ。
バッシャアア!
慌ててバケツから取りだし、洗い方を見る。
『ドライのみ。水洗い不可。』
ギャアアアア!!!
真っ青で少年をチラリ。
これ、一体いくらするんだろう・・・?
どうしよう・・
だって、だって、洗わないとどうしようもなかったんだもん。
臭くて仕方がなかったんだもん。
ウウ・・踏んだり蹴ったり、涙が出ちゃう。
バシャバシャ簡単にすすいで、風呂場を出て洗濯機に放り込む。
もう、知らない!
ピ、ゴウンゴウン、ガチャッジャアアアア・・
「いい?私じゃないわ!洗濯機が洗濯したの。
私じゃないのよ。」
自分に言い聞かせる。
「お姉ちゃん!頭もね、4つ洗ってないの。」
少年が風呂場から大きな声で話しかけてくる。
もう、知るかっての!
「自分で洗いなさいよ、シャンプーそこにあるでしょ。もう!独身女性なのに、あんたの身体まで洗わされて・・身体・・」
少年の細い足の付け根におちんちん・・やけにはっきり思い出される。
ぶんぶん頭を振って、忘れようと務めながらドッと廊下に座り込んだ。
「おちんちんまで洗ってしまった・・
お嫁に行けない・・ううう・・・
・・・でも・・何か可愛かった・・・そう言えば、お毛毛が生えてなかったわねえ・・とするとまだ小学生かしら?」
ガターン!ガラゴロゴロ!
ドキッ!風呂場から凄い音。
飛び込んで呆然とした。
「お姉ちゃんほら、風船。ほら!」
もの凄いレモンの匂いが鼻につき、少年は体中を黄色くドロドロにしている。
「あんた!何で洗ってるの?」
足下には沢山のボトルが転がり、風呂掃除用洗剤が空になっている。
「あんた、こんな物使って・・確かに皮脂汚れは取れるけど、身体に使わないの。」
足を一歩踏み込んだとき、
ツルッ!
「あっ!」
倒れた方向が最悪。湯船へダイビングしてしまった。
「ギャアア!!」
バッシャーンッ
「お姉ちゃん、プール?ここ、プール?
ちいちゃいね。」
ザバアッ
湯船に浸かって、フッと脱力した。
「そうよ、ここはうちのプール。いいでしょ。」
少年が首を傾げる。
「プール、ハルも好き!大好き!」
無垢な瞳をキラキラさせて見る少年に、春美は全敗だった。
 「ほら、これ着て。下着がないからノーパンでも仕方ないわ。」
と、そう言って彼女が取りだしたのは、古くなったネグリジェ。
実は密かに少女趣味の春美は、フリルとリボンが大好き。
ボソッと彼に着せた物も、派手な赤地にピンクの花柄。フリルがいっぱいでお気に入りの一枚だ。
「クー、ごめんね。一人、ごめんね。」
その格好でクマを抱きしめると、少女漫画の世界。
「何か、可愛いじゃない?」
ノーパンの男だけど・・
でも、そんな彼を見ていて、ちょっと途方に暮れた。
服が乾くまで、ここに預かるしかないわねえ。
春美は六畳程のリビングに、カーペットを敷いて洒落たテーブルを置いている。
そのカーペットに腰を下ろし、温かいコーヒーを入れてテーブルに出した。
しかし少年はくんくん匂いをかいで、手を出さない。
やっぱ子供には牛乳かココアだったか。
でも、彼女の家にそんな物はない。
「ね、あんた家はどこ?わかる?」
「家?家知ってる!うんと広いんだよ、ここより。」
「悪かったわね、ウサギ小屋で。」
「ウサギ?ここはウサギのお家。」
「いいから家は?住所言える?」
「僕ね、シュウチ探しに来たの!シュウチに会うの!」
「シュウチって誰?」
「シュウチはシュウチだよ。お姉ちゃん変なの。お姉ちゃん、ね?違うんだよ。」
「何よ、変で悪かったわね。」
少年がにっこり笑って彼女の顔に手を伸ばす。
「きゃっ」
思わず身体を引いて身体を堅くした。
「なでなで・・なでなで」
少年が、春美の頬を撫でた。
「怒りんぼさん、笑いんぼさんになあれ。
クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
唖然。一体何をするかと思ったら、トッテンパッて何?おまじない?
「あれ?クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
ぷっ、どっちが変よ。
「くすくすくす・・なあに?やだ、馬鹿みたい。」
「やった、お姉ちゃん笑ったよ。
クーにお願いするとね、何でも叶うんだ。」
クーとは、少年が大事に抱いている汚れた茶色のクマのことらしい。
クマは赤いジャケットと紺のズボンに、靴下に手袋までして、頭には片耳をすっぽり覆うほど大きな紺の帽子を被って仰々しい。
「クーってこのクマ?随分大切そうね。」
「うんっ、クーはパパに貰ったの。」
少年が大切そうに抱きしめ、春美に差し出す。
「ほら!クーリン、ご挨拶。」
「服は綺麗だけど、随分中身は古そうねえ。
で、あんたの名前は?」
「僕、ハル、ハルだよ!」
はあー、春美が溜息。
やっぱり無理かあ・・顔は綺麗なのになあ。
この年でこれじゃあ、やっぱあれだよねえ。
「あのね、ハルはシュウチに会いに来たんだ。
シュウチがいなくなってね、ナッチンもいないから探しに出たの。シュウチに・・」
ピンポーン!ピンポーン!
「あれ?何だろ、ちょっと待ってて。」
玄関へ行き、無言でそーっと、覗き穴から覗いてみる。
インターホンがあるけど、直に見ないとどんな奴か分からない。
・・・・男・・無精ひげの男だ。
背が高く、同い年くらいに見える。
返事をしないと、相手は少しイライラして見えた。
ピンポーンピンポーンピンポーン!
ドンドンドン!
「すいません!隣の芝浦ですけど、すいません!」
隣り?隣りにあんな奴が住んでいたんだ。
何だ、仕事ばっかりで気が付かなかった。
どうしよう、でも、ここまでデカイ声出しても後ろめたくないんだから、開けても大丈夫よね・・
ガチャン!
「え?」
振り向くと、にっこりしながらハルが手を伸ばして鍵を開けている。
「あああ、駄目よ。勝手に開けちゃ!」
「だって、お客さん。
ピンポーンは開け、ゴマ!の合図だよ。」
誰よ、そんなこと教えたの。
「違うわよ、都会じゃ無闇に開けちゃ駄目なの!相手が殺人犯だったらどうするの?」
ウウ・・仕方ない。
ガチャリ、キイイ・・・
チェーンをかけたまま、ほんの少し隙間を開ける。覗き見ると、相手は憤怒の表情で鬼のように立ちはだかっていた。
「誰が殺人犯だって?俺は隣だって言ってるだろ?
何て失礼な奴!隣りにこんな女が住んでいたなんて、ぜんっぜん気が付かなかった。」
こんな女って何よ、ムッカー!
ガチャガチャ
とうとうチェーンを外し、ガバッとドアを開いた。
「女性に対して失礼だと思いません?」
「失礼の前に、マナーを守ってくれる?
今日は今朝からうるさいんだよっ。
我慢してたけど、大きい声でワアワア、ギャアギャア騒いで、俺は仕事中なんだ。迷惑なんだよ!
あーもー信じられねえ馬鹿女。」
あっそうか、ハルは声がやたら大きい。
全身で声を出す、これを真似れば痩せるかも知れない。
「馬鹿女はよけいよ!謝る気も失せるじゃない。こっちにも事情があって・・あっこらっ!」
ひょいっとハルが、春美の横に躍り出てしまった。
こいつに羞恥心はないのか?
どう見ても男にノーパン、ネグリジェだぞ。
「こんにちわ、お兄ちゃんも遊ぼ!」
じいっと、思い切り眉をひそめて、芝浦がハルを見る。
そして軽蔑を込めて春美に視線を移した。
「ふうん・・いい趣味だね。」
「趣味?」
春美がハルを見る。
これって・・
独身女が少年を家に引っ張り込み、服を脱がせて自分のネグリジェを着せる。
どう見ても変態女!
これじゃあ変質者よおお!
そうか、このシュチエーションって、ハルが恥掻くんじゃなくて、あたしが恥掻くの?
春美の顔が、焦げ目が出来そうなくらいに燃え出す。
「あんたはいいから家に入ってなさい!」
慌てふためきながら、ハルを家に押し込んだ。
「別に君がどういう趣味でもいいけど、静かにしてくれよ。じゃ、」
「何よ、その趣味って!服が汚れたからただ洗ってるのよ、変なこと考えないでよ、変態!」
芝浦は聞いているのか、隣の角部屋に入ってゆく。
この角部屋は2LDK、春美の部屋より一部屋多くて広い。
「何よ、一部屋多いからって威張るんじゃないわよ!」
ちょっと卑屈が入ってきた。
 ガチャン・・
芝浦がドアを後ろ手に閉め、ふとその場で考えた。
「あれは・・まさか・・いや、しかし・・
まさか、それにしては状態が良すぎる・・
いや・・・そう言う事もあり得るからな。」
ポンポン、ドタドタドタ!
靴を脱ぎ散らし、部屋に飛び込み本棚を漁る。
バサバサバサ
そして一冊の本を開き、呆然と顔を上げた。
「これだ、やっぱりこれと特徴が似すぎている。この年代か?しかし、それにしては痛みが少ない。
それに、そんな物をいくら何でも持って歩くか?普通飾っておくか、大切に保管する物だ。」
パタンッ
彼は本を閉じ、フッと一息吐いて、ニヤリと笑った。
「レプリカだ。
そうに違いない。そうそうある訳が無いじゃないか。フフフ・・俺も疲れているんだ。」
ピルルルル・・
ビクッ、ガタタッ
部屋中の電話が鳴り、芝浦が慌てて机の陰に隠れる。
ピルルルル・・
鳴り続ける電話のベルに、そうっと顔を出し、仕方なく散らかった物を避け、机上の電話に手を伸ばした。
・・・ルルル、ピッ!
「・・・・・」
無言。
フウッと、相手の溜息が聞こえた。
『わかってますよ、芝浦さんでしょ。
まだですか?まだ出来ないんですか?
困りますよ、もう日が無いんですよ。
この機会を逃す気ですか?またアマチュアに戻る気ですか?
知りませんよ、もう僕は知りませ・・ピッ!』
はあー・・
電話を切ってホッとした。
じっと見て、子機の電池を抜く。
電話なんか、鳴るのは一台で十分だ。
各部屋に子機なんか置くから、一斉に部屋中の電話が鳴って気が狂いそうになる。
でも、やっぱり一応取らないと、年取った親からかもしれないし・・・
ガバッ!
頭を抱えてその場に座り込んだ。
「ううううう・・」
バッ!ダダダダダッ、ボンッ
いきなり立ち上がって走り出すと、奥の部屋のベッドに飛び込み布団を頭から被る。
そして・・
「うおおおおおおおお!!」
布団の中からは、曇った声で情けない男の悲鳴じみた声。
ついでに足を、ばた足みたいにバタバタバタ!
何とも情けない男がこの部屋には一人、悶々と暮らしていたのだった。

そうして春美は朝食を兼ねたコーヒーの後、リビングのカーペットに寝ころんだまま動く気がしなかった。
ようやく頭痛は軽くなったけど、ハルをどうした物か考えるのも面倒臭い。
ハルは一人でクマを相手に遊んでいる。
結局、わかった事は・・名前はハル、クマはクーリン、シュウチを探している、家を出たのは3日前、それだけだ。
一体何を食べていたのか、聞くけど良く分からない。
「あんたさあ、自分の名前くらい覚えてなさいよ。あたしゃ本当はさ、あんたどころじゃないっての。
わかる?無職よ?プー太郎よ?」
「わかる、ハルわかる。プー、プーさんだ!」
「違うわよお、プーさんじゃなくて、私の名前は春美。わかる?」
「うんっ、ナッチンとちょっと違ってて、そっくりなんだ。ね、クー。」
バンッ!
春美が耐えかね、とうとう床を叩いて起きあがった。
ビクッとハルが身体を堅くする。
「もう!やっぱり私に子供相手なんて無理よ。
無理無理、あーもう嫌!」
叫んで立ち上がり、生乾きのハルの服を取ってきた。
「着て!自分で着られるでしょ!
着たら警察に行くわよ、お巡りさん。わかるでしょ?」
ハルが大きく瞳を凝らし、春美を覗き込む。
「お巡りさん・・ウーウーの?」
「そっ!男の子なら好きでしょ、お巡りさん。」
ダッとハルがまた台所に逃げ込んだ。
「ちょっと、またそんなところに。
どうして?嫌なの?」
覗き込むと、小さくなって膝を抱えている。
「くすん・・くすん・・」
ゲ!何で泣くわけ?
クーを抱いて、ぽろぽろ涙を流している。
ちょっとお、私が泣かしたみたいじゃない?
まあ、そうなんだけど。
でもさあ、待ってよ、
もう、弱いのよ。あたし昔っから人に泣かれると弱いのよ、もう!
春美は横に座り、可哀想になってクシャクシャとハルの頭を撫でた。
「お巡りさん嫌?怖いの?
大丈夫、お巡りさんはハルの味方だよ。
家を探してくれるよ。」
ハルはぷるぷる泣きながら首を振る。
そして潤んだ目で春美を見上げた。
「違う!ウーウー怖い!怒られる、怖い!」
「ウーウーは怒らないわよ、ハルの味方だもん。一緒に家に帰りましょうって・・」
「違うもん、オニババが怒るの!
は・・はず・・しいって怒るもん!」
「恥ずかしい・・?
警察の世話になると恥ずかしい・・?
なんで?なんでよ・・」
春美が優しくハルの顔を抱きしめた。
抱きしめながら、沸々と何だか怒りが沸いてくる。
何で?仕方ないじゃない。
わからないんだから、わかる人を頼って何が悪いの?
その為にわざわざ税金使って警察があるんじゃない。
この子の保護者って、馬鹿?
どうして恥ずかしいなんてこの子に言うの?
どんな気持ちで家族を待っているか、どうしてわかってあげないの?
あー何か、むかっ腹立ってきたわ。
一言言ってやりたい。
その世間体ばっかり気にしている誰かに!
「ハル、わかった。
いいわ、私が一緒に探してあげる。
シュウチを一緒に探そう。」
「ほんと?プーさんも一緒に探してくれる?」
う・・プーはやめて・・
ハルは大きく目を見開き、その目をキラキラ輝かせて春美に乗り出してくる。
「ええ、どうせ仕事もないし、暇だからね。
たまには人の役に立っても、ばちは当たらないでしょ。」
「やった!やった!クー、一緒に探してくれるって。クーのおかげ、クーありがとう!」
「あら、どうしてクーにお礼言うの?
お礼言うならあたしでしょ?」
「だってね、僕ずっとクーにお願いしたの。
ハルの味方、お願いって。」
ハルがポンと立ち上がり、ネグリジェをひらひらさせて居間へと躍り出る。
そしてぽんっとそれを脱ぎ捨てて裸になると、まだ湿っている下着をつけた。
「ハル!まだ濡れてるでしょ?
いいのよ、まだ着なくてもいい・・あら?」
ハルがしわくちゃのシャツを着て、そしてズボンに足を通す。
・・と、やはり裾が凄く短い。
彼が不思議そうに、フクロウのように首を傾げる。
「変ね、これハルのじゃないよ。
ハルのだったのに、ハルのじゃないよ。
ちっちゃい子供になってる。」
やっぱり・・
がっくり、肩を落として春美が眺める。
ズボン・・・買わなきゃ・・
シャツは何とか無事みたいだけど・・丈が短くなっている。
ハルが掛け違えたボタンをはずしながら、とんだ出費に頭が痛い。
「ハル、みんなまだ乾いてないわ。
脱いでまたこれを着て。風邪引くから。」
「うん、でもどうしようねえ。
ハルのが無いねえ。困ったねえ。
このヒラヒラも綺麗けど・・
クー、どうしようかねえ。」
春美がまた、部屋にハルの服を干す。
後ろからハルが、春美のシャツを握って引っ張った。
「何?どうしたの?」
「クーがね、さっきのお兄ちゃんに聞いてみろって。」
「えええーー!
あの初対面で印象が最悪の男にい?
やだ、あたしそんな事、あんな奴に借り作りたくないわよ。」
じょーだん、そんな提案は却下!
あんな奴に頼るくらいなら、自分で買った方が倍いいわよ。
「クー・・どうしよう・・そうだ!」
くるりとハルがきびすを返し、ドアへ向かった。
「ハル?そこに座ってて、いたずらしちゃ駄目よ。」
「うん、待っててね。ちょっと、少しね。」
テクテクとハルは玄関へ。
あら?っと見ている間に、ドアの鍵を開ける音が・・
ガチャン!
「ちょっと、ハル!勝手に出ちゃ駄目。」
しまった、チェーン掛けるの忘れてた。
春美が追いかける間もなく、
キイー、バタンッ
出てしまった。
ゲッ!
「一体どこ行くの?まさか家?ハル!」
ダアッと玄関に向かい、慌ててドアから廊下に飛び出す。・・・と
ドンドンドンドン!
「お兄ちゃーん!お兄ちゃーん!
お兄ちゃーん!お兄ちゃああーーーん!!」
ドンドンドンドンドン!!
廊下にまるで、借金取りのような轟音が響き渡る。隣のマンションと隣接しているから、反響してビリビリと空気までもが振動した。
「ぎゃああっ、ハル、止めてー!
ハル、駄目よっ、静かに。静かになさい!」
「お兄ちゃん、おに・・」
ガチャッ
ああ、とうとう開いてしまった。
またどんな顔で怒鳴られるか、考えるのもおぞましい。
仕事辞めてストレスフリーになれたと思ったのに、どうして私だけがこんな不幸な目に。
「お兄ちゃん。あのね、ハルね!」
「なんだい?君、ハル君?」
え?
驚いたことに、隣人はハルにニコニコ微笑んでいる。ちょっと頬を引きつらせながら。
おかしいわ、変よ。
さっきまであんなに不機嫌だったのに・・
今度は春美が訝しい顔で隣人を見る。
「ハルね、子供になって、自分の分がないの。
だから、クーがお兄ちゃんに聞いてみてって。
だからハルに合うの無い?」
芝浦の微笑みが、ヒクヒクと引きつる。
これは・・俺には理解不能。
嫌な女に助けを求めるのもしゃくだが、致し方ない。
芝浦が、つうっと視線を春美に移した。
「何よ。ハル、おいで!あんたの服は私が買ってあげる。こんな奴から借りること無いわ。」
ハルが眉をハの字にさせて困っている。
「でもね、クーがね。」
「ハル!」
「何だ、君、服がないの?うーん、でも俺のも大きいと思うけどなあ。ウエストがゴムのだったらいいかなあ?
ま、いいや、おいで。」
「ちょっと、勝手にハルを連れて行かないでよ!その子は・・その子は・・えっと・・」
私のなに?預かり物も変だし。
「あれ?この子君の子供じゃないの?兄弟?」
「じょ、冗談じゃないわよ!
私にこんっな大きな子供がいるわけないでしょ。私とは関係ない子よ!」
芝浦がふむ、と考え込んだ。
関係ない?つまりこの子はこの女の親戚でも、友人の子でもない訳か?
・・・まさか!誘拐?!
「じゃあ、君、この子の何なの?」
芝浦、不信の目。
「何って・・だから、えっと、もう!ここで話す事じゃないでしょ!」
ここは声が反響して、マンションの住人に館内放送しているような物だ。
春美は奮起して、ドスドスドスッとハルを抱きこみながら、彼の家へ押し入ってしまった。
「君っ!俺は君まで入っていいとは言ってないぞ。ちょっ、君!」
「だって、あなたさっきから、やたら詳しく聞いて来るじゃない?
それに変に誤解しているみたいだし。
ここできちんと説明しときますからね、いい?」
いい?と言われても、別にどうでもいいのだが・・
「あっ、ちょっと待って。家に鍵掛けてくる。
物騒だからきちんとしなきゃ。ハル、待ってるのよ。」
バタバタ春美が飛び出し、そしてしばらくして戻ってきた。
ガチャンッ
ドアをきっちり後ろ手に閉めて、これで準備オッケイ。
「ふう、いい?」
「あ・・ああ、どうぞ。思う存分。」
玄関先で突っ立ったまま、三人が向き合う。
おもむろに一息入れて、春美が昨夜のことから今朝の騒ぎまでを、淡々と語って聞かせた。
「・・で、ウンコ漏らすような子に、俺の服を貸せって?」
「だから、私は言ってないでしょ。」
「うん、貸して!お兄ちゃん。」
ハルの満面の笑顔に・・
ヒクヒク、大人二人は顔が引きつった。
 バサッ、バサッ、ガタガタ
「えーっと、これは・・駄目だ、これは惜しい。あっ、これは破けている・・けど、ウンコが付くのは嫌だ。
汚れてもいいのって、なかなか無いもんだなあ・・」
角部屋だけのウオークインクローゼットで、ゴソゴソ荒探す芝浦をよそに、ハルと春美が物珍しそうに部屋を見回す。
「へえ・・なに?あなたって、クマ好きなの?へえ・・」
部屋の至る所にクマ、クマ、クマ!
いろんな色のクマ!
しかも、男の部屋と思えないくらいピンクとフリルとクマ柄が部屋中にちりばめて、少女趣味なのだ。
「人の部屋じろじろ見るなよ!
玄関先じゃあんまりだから、仕方なく上げてやったんだ。まったく・・」
ハルと春美は気にしていない。
これ程人の部屋が楽しいなんて、こいつならではじゃなあい?
変態の部屋っていいわあ・・
「玄関先からずらっと、良くここまでクマ物集めたわねえ。ここまで来たら感心しちゃう。」
それに男の一人暮らしにしては程々に片づいている。が、やたら雑誌が散乱している。
その雑誌もクマの本なのだ。
ハルは口をぽかんと開けて、部屋中を見回している。
その内二人はほんの少し開いている部屋に気が付いて、そっと忍び足で中を覗いた。
「工房しーば」とドアに札がある。
何か、沢山のモヘアの生地やフェルトが見えた。
「わあっ・・」
そこは、ミシンと出来かけの縫いぐるみ、そして棚いっぱいの材料。
大きなテーブルに広げた沢山の型紙・・
「何勝手に入ってるんだ!」
見つかった怒声を合図に、夢の世界から身体ごと引きずり出されてしまった。
「あなたって、縫いぐるみ作ってたんだ・・」
「君、テディベアも知らないの?
まったく、こんな歴史のある高尚なベアの世界を、知らないなんて信じられないな!」
「あら、テディベアぐらい知ってるわよ。」
「ふん、それより勝手に人の仕事場覗いてさ。
君も出て!」
ガッとハルの肩を掴んで驚いた。
ハルはポロポロと涙を流していたのだ。
「ど、どうしたの?俺はそんな・・泣かなくてもいいじゃないか。」
「あー、泣かした!知らないんだ。あーあ。」
春美が後ろではやし立てる。
芝浦はますます焦っておろおろとハルの頭を撫でた。
「泣かなくてもいいんだよ、えーと、ハル君だっけ。ね?」
「うっうっうっ・・ぐずっ!ううー・・」
「あ、ああ!鼻水が・・」
たらたら流れる鼻水に、芝浦が作業台にあるティッシュをシュッシュッと抜いて、ハルの鼻を拭く。しかし、鼻水は後から後からどんどん流れて出た。
「ううっ、うっ、うっ、うううええええん!」
「あら、やだ、ほんとに泣いちゃったわ。
どうしたの?ね、ほらおじさんももう怒ってないって言ってるでしょ?」
「おじさんじゃない、お兄さんだろ?」
「ひううう・・わああああんん!」
「大きな声出さないでよ。ねえ、怖いおじさんねえー。ハル、いい子ねえ、泣かなくていいのよ。」
「なあ、大きいなりして泣くなよ。ガキじゃあるまいにさ。」
芝浦が諦めて工房の椅子にドカッと座り込む。
溜息をつきながら、ベアの型紙をヒラヒラさせた。
「仕方ないじゃない、この子、身体と中身が同じ年じゃないんだもの。あ、そうだ。」
春美がハルが抱いているクーに手を合わせた。
「泣きんぼさん、泣きんぼさん、泣きやんで笑いんぼさんになあれ。
クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
「なに?それ、」
芝浦がフンと鼻で笑う。
「うううう・・ひっくひっくひいっく・・」
「クーリンお願い、ハルを笑いんぼさんにして。クーリン、クーリン、トッテンパッ!
ほーら、クーのお友達がいっぱい見てるわよ。」
「へへ、」くるっと目を輝かせ、ハルがキュッとクーを抱いてにこっと笑う。
「うふっ、ひっく、うふふふ、ひいっく、えへへへ!」
「ほーら、ハルが笑った。やっぱりクーにお願いすると効くわねえ。ねえ、ハル?」
「うん!クーリン、クーリン、トッテンパッ!」
「あら、なにをお願いしたの?」
「ひみつ!ね、クー。ひいっく、」
フウッと芝浦が立ち上がり、二人を工房から連れ出す。そして数枚の古びたシャツとズボンを春美に渡した。
「ほら、これ。何とかして着せろよ。
じゃあもういいだろう、出て行け!」
そう言って渡された服も、クマの絵がワンポイント。ハルもそのワンポイントが気に入って、パッと嬉しそうに飛び上がった。
「お兄ちゃん!クーの絵、ついてる!
うれしい、ついてる!」
またバッとハルがネグリジェを脱いだ。
下は素っ裸。
「キャッ、ハル。」
「わっ、こらお前、体は程々大きいんだから、フルチンになるのはまずい!」
芝浦が慌ててネグリジェを前後ろ反対にかぶせる。
「だって、着るの!これ着るの!」
「わかった、わかったから。
ちゃんと下着着てから着ろ。それが借り物に対する礼儀だろうが?」
ハルが放り出したクーを拾い、うんと頷いた。
「きれい、着るの。わかった。」
芝浦がちらちらと、クーが気になって仕方がないようだ。
やはり!見間違いじゃない。
あの背中のこぶ、長く愛らしい手、鼻のステッチ、美しいモヘアのコート、あの黒い目、あの微妙に傾げた首、モナリザのような微笑み、きっちり木毛が詰められた堅い手触り。
すっぽり服で覆っているが、手と足のフェルトは?身体の色は?毛並みは?帽子で隠れているボタンは?
ああ・・見たい!
レプリカでもいい、見たい!
見たーーーーい!!
春美が彼の顔を覗き込み、クーを指さした。
「あれ、気になってんの?」
「べ、別に!全然気になってるわけじゃないけど、気になっているわけかもしれないかもしれない気がするだけさ!」
プイッと意地這って顔を逸らす。
素直じゃないなあ。
「ハル、お兄ちゃんがクーを見たいって言ったらどうする?」
「クーを?あげない!だめ。」
彼には難しい言い回しは無理のようだ。
ギュッとクーを抱きしめて、警戒の様子。
「み、る、だ、け、は?」
「見る?見るはいい。」
ふう・・
「じゃ、触るだけは?」
「さわる、いい。取る!駄目!」
「了解。」
トンと芝浦を春美が小突く。
「ほら、いいって。」
「あ、ああ、別に・・いいって・・」
ドキドキドキドキドキドキドキドキドキ!
芝浦の胸が高鳴る。
もしかしたら、いや、そんなはずは・・
でもでも、もしかしたら・・
そんなはずないじゃないか・・
アドレナリンがドッと放出され、血圧上昇、瞳孔がガッと開く。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、」
かつて、こんなにベアとの出会いに、興奮したことがあっただろうか。
いや、ない。
本物だ。きっと本物だ。
「お兄ちゃん、怖い。」
怯え気味のハルが春美に急かされ、ゆっくりとクーを芝浦に差し出した。
それが、芝浦にはストップモーションのように動いて見える。
夢・・夢かもしれない・・
こんな・・こんな・・夢・・
ハルの差し出すクーに手を伸ばす。
その手が届くか届かないうち、
ふらあ・・
彼の身体が一瞬宙に浮いた。
ドターンッ!
そのまま彼は、鼻血を流して後ろにひっくり返ってしまった。
 ううーー・・ん・・息が・・・
息が苦しい・・
誰か・・助けてくれ・・助け・・
”もう間に合いませんよ、締め切り!”
「ひっ!」
ガバッと芝浦が飛び起きる。
息が苦しいはずだ。鼻の穴にこれでもかという位にティッシュが詰め込んである。
「な・・んだよ!これはあ!」
「あら、やっと目が覚めた?
喉乾いたから、勝手にやってるわよ。」
声に振り向くと、隣の女が勝手に紅茶を入れて飲んでいる。
しかも!大切な大切なベアの本を見ながらだ!
「お前、何勝手に飲んで・・ああっ、俺のとっておきの。これ、グラム三千円もする奴だぞ!ああ、もったいない。君、ポットのお湯で入れたのか?」
「うるさいわねえ、お茶をポットのお湯で入れてどこが悪いのよ!
あら、ハルって紅茶も駄目なの?」
「だって、苦いもん。」
「苦い?苦いだって?このロイヤルダージリンが?」
ああ・・何て事だ・・これを苦いなんて・・
何て女だ、この年で紅茶の入れ方も知らないなんて、きっとダラダラ生きてきたに違いない。しかも、見るからに不味そうな色のお茶を、平気で飲んでいる。香り一つ無いお茶を。
「もう・・・いいよ、わかった!
君に本当に美味しい紅茶を入れてやろう。
だから、せめてその本は返してくれ。」
「あら、いいじゃない、私だって昔はこういうの好きで良く作ってたものよ。
ああ、私の場合は人形なんだけど。
着せ替えの服を良く作ってたわあ・・
何だか懐かしいわねえ。」
「別に君が何を懐かしがるのも自由だけど、それは僕の大事な資料なんだ。汚されちゃ困るんだよ!それに僕は君と違って趣味の範囲を超えてこれを仕事にしてるんだ。」
「んま!私だって、一時は仕事にしたいくらい腕を上げたのよ。でも、現実的じゃないから諦めただけで、失礼なこと言わないでよ。
あなただって、大した事無いんでしょ?」
大した事無くて、春美よりいい部屋に住める分けない。
「大した事無い?ふん!僕のベアは、国内でも結構人気があって・・」
サッと本棚から雑誌を取り、パラパラとページをめくる。そして鼻高々とその開いたページを春美に差し出した。
「この、シーバベアが僕のベアなんだ。
どこのショップでも人気があるんだぜ。
まあ、君のように興味ない人にはわからないだろうけどね。」
「へえ・・」
ハルと二人で覗き込む。
そこには大きく特集して取り上げられた綺麗なチョコレート色のベアが、ほんの少し首を傾げて微妙に微笑みを浮かべちょこんと座って映っていた。
「わかるかなあ、この柔らかな顔とちょっと首を傾げるのが・・」
「でも、裸じゃない。何か物足りないわ。
私だったら、これに可愛いスモック着せたいわね。」
むっ!
「君、ベアに洋服は必ずしも必要とは思わないな。大体あれはベアのいいところも隠してしまう。
ほら、ハル君のベアだって・・ベアだって・・・ベアだって・・・」
また芝浦の目がクーに釘付けになってしまった。ハルがきょとんとそれに気が付き、にっこりハイと差し出してくる。
「お兄ちゃん、クー見るの?取ったら駄目ね。」
「もう、たかだか縫いぐるみ見るくらいで気絶しないでよね。」
「あ、ああ・・」
ブルブルブル・・震える手で受け取り、そうっと抱え上げる。
「ぬぬぬ脱がせても、いいいいかい?」
「えっ!うー・・うーん・・」
どうしようかハルが考える。
「すぐ、すぐ元通りにするから。
ね?いいだろ?ちょっと見るだけなんだ。」
「うーん、ちょっと?」
「ちょっと。」
クーはきっちり帽子から靴下まではいて、顔ぐらいしか表に出ていない。
その顔も、やや鼻の毛足が薄くなって見える。
「何だかマニアの考える事ってわからないわねえ。」
「うーちょっとなら・・すぐね!すぐだよ!」
「よしっちょっとだ。」
芝浦が、震える手でまずは帽子をはずす。
と、はずれない。
「あれ?あれ?何だ、縫いつけてある。」
ハサミを取ろうとして止めた。
くそっ!この中の耳が一番重要なのに。
ハサミなんか持ち出したら、もう絶対見せて貰えないぞ。
仕方なく、服を脱がせ始めた。
「目は、間違いなくブーツボタンだな・・やっぱり、かなり年代物だ・・それにしても顔があんまり痛んでないな・・服が着せてあると言うことは、ボロボロなのか?手のフエルトが破れて中が出てるのか?あまり臭いもしない。子供が持っていたならかなり臭いんだがな・・」
ブツブツ漏らしながらそうっと赤いジャケットを片袖ずつ脱がせる。
「ええっ!まさか・・」
驚きの表情の芝浦は、もどかしそうに優しく紺のズボンを脱がせ、靴下、手袋を外し帽子以外全て取り払った。
そして中から現れた身体は、見事に痛みの少ない美しく輝くゴールドブラウンのモヘアの毛並み。そして手足のフエルトもまったくすり切れておらず、完璧な保存状態だったのだ。
「まさか・・・こんな・・こんな・・」
尋常でない芝浦の様子に、春美が驚いて覗き込む。
「どうしたの?何か変?」
芝浦が、大きく目を見開いて春美を見る。
春美はちょっと不気味な様子に身体が引けた。
「な、何よ。どうかしたの?」
「い、いや、ちょっと・・・そ、そうだ!お茶を入れるんだ。お茶だった。」
そうっとクーをテーブルに置いていきなり立ち上がり、手と足を合わせて変な歩き方で台所へ消える。
ガチャンッ!ガターン!ガタガタ!
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
慌てて春美が後を追って台所へ急いだ。
ハルは春美が見ていた雑誌をパラパラめくって見ている。
やかんをコンロに掛け、芝浦は春美を引き寄せ、耳元でそうっと囁いた。
「君、君ハル君を連れ出してくれる?
俺はもう少し詳しくあのベアを見たいんだ。」
「ええー、それ無理よ。あの子、絶対離さないわよ。何する気?」
「ほら、あの帽子、帽子が縫いつけてあるんだ。あれの中にある、耳に付いているボタンが見たいんだよ。それが重要なんだ。
恐らくは・・大体はわかるけど、それで年代がはっきりするんだよ。」
「耳のボタン?何それ。」
春美が怪訝な顔でハルの様子を窺う。
ハルは、久しぶりで見るクーの身体をそうっと撫でてニコニコ喜んでいる。
果たして、クーを置いてハルが隣の家に行ってくれるか疑問だ。
「とにかく、もしかしたら、あのベアは大変な価値のある物かも知れない。そして、綺麗に服を着せて保護してあったと言うことは、その価値を知っている人間だと思うんだ。」
「価値?価値なんて知れてるでしょ?たかが縫いぐるみじゃない。」
芝浦がニヤリと笑う。
無知ほど損なことはない。しかし、それをここで彼女に教えることは少し気が引ける。
あの、知恵遅れの子からオモチャを取り上げるなんて、女でも容易いことだ。
俺はこの隣の女の事を良く知らない。
「あれ、パパに貰ったって言ってたわよ。良く知らないけど、随分大事にしてるから・・ちょっと話を聞いてみない?」
フウッと芝浦が身体を起こして首を振る。
どう考えても、あのハルに話を聞くなんて無理・・
「ねえ、ハル?クーは誰に貰ったんだっけ?」
「あ、君!」
さっさと春美がハルの元へ歩いてゆく。
話なんて無理さ・・どうせ訳の分からないことを言って・・
芝浦は諦めてカチャカチャとお茶の用意を始めた。

「あのね、クーはね、パパがママにあげたの。」
「へえ、それをハルが貰ったんだ。」
春美がハルの向かいに座る。ハルは少し嬉しそうに、そして少し寂しそうに話を始めた。
「ママね、クマさん大好き。
いっぱいいっぱい作ってたんだよ!
でもね、触ったら駄目だったの。
クーはね、パパのお土産。ママ、嬉しそうだったよ。」
「へえ、つまりパパのお土産なんだ。
そう言えば、お母さんは?シュウチの前に、お母さんに連絡を入れなきゃ。」
ハルがぷるぷる首を振る。
「お母ちゃん?駄目、お母ちゃんはね、遠くに長い、長い旅行なの。
ずうっとね、ずうっと待ってるんだよ。
でもね、きっと絶対帰って来るんだ。きっとお土産いっぱいだよ。」
ハルが目を輝かせて生き生きと嬉しそうに笑う。そして足をバタバタとさせた。
「旅行かあ、それじゃあ連絡しようがないよね。じゃあ、パパはどこにいるの?」
「・・・・」
今度は一転、クーを抱いて押し黙ってしまう。
「無理だよ、無理無理!この子に話なんて無理だって。」
芝浦が紅茶缶を取りにきた。
フンッとハルを鼻で笑って見える。
「でも・・パパいないの。パパは急に来なくなってね。どこにもいないの。
お家にね、写真があるよ、手を合わせるの。でも、お祖父ちゃんなの。」
何だ、がっくり。
「何よ、お父さん死んじゃったんだ。はっきりしてよ、もう。」
「違うよ!お父ちゃんはパパじゃないの。」
「あのねえ、パパとお父さんは一緒なの。」
「違うもん!パパはおじいちゃんなんだよ。
パパって言ったらシュウチが駄目なの。
だから今はおじいちゃんなの。」
ハルの言葉は聞いているとますます要領を得ない。懸命に説明するたびに、謎が深くなるばかりだ。
「何?今度はおじいちゃん?あーあ、何か更に良くわかんないわねえ。」
春美がハアッと溜息をつく。
グウウウウウウウ・・
「何?今の音。まさかハルのお腹?」
カチャカチャ、芝浦が紅茶を入れてくる。
「はい、お待たせ。んー!いい香り、これこそ・・」
グウウウウウウウ!!
「な、何だ?この凄まじい腹の音は。君?」
「違うわよ!ハルのお腹!」
「朝食は?食べてないの?」
「私、朝はコーヒーだけ。そっか、この子に食べさせるの忘れてたわ。」
グウウウウウウウ
ハルが、芝浦の顔を上目遣いでじっと見る。
「まさか飯まで食ってく気か?冗談じゃ・・」
グウウウウウウウ
「やだ、どうしよう。あたしの部屋にもパンの買い置き無いわよ。困ったわ。」
春美も、じっと芝浦に訴えかける目。
「あー、もう!」
芝浦が諦めてドスドス歩いてキッチンに行くと、戸棚からスコーンを取りだし電子レンジでチーンッ!
温めた牛乳と並べてほかほかのスコーンを出すと、ハルの目が輝いた。
「どうぞ!食べたら部屋に帰りなよ。
これがベアを見せて貰ったお返し。
これで貸し借りなしだ。」
「うん、うん!いたーだきーます!」
ガッとハルが掴んでガツガツ食べ出す。
とにかく腹が減っていたんだろう。美味しそうに、ぺろりと平らげる。
「まったく!はい、君もこれ飲んだら部屋に帰れよな。」
ポットから注がれた紅茶は、黄金色に輝き豊かな香りが部屋中に立ちこめる。
春美はやっぱりクマ柄のティーセットに目を奪われながら、紅茶を一口飲んでみた。
「あら!違うわ。これ、さっきのお茶?本当に同じ物?」
「そうだよ、だから言っただろ?入れ方次第で良くも悪くもなる。ようやくわかったか。」
「んー、美味しい!ほんとに美味しいわ。
こんなに紅茶が美味しいなんて、やだ、わざわざ喫茶店行く必要ないじゃない。」
「フッ、喫茶店には喫茶店の良さが・・」
「今度からここに飲みに来ようっと。
あー、いいところ見つけたわ。」
春美はもう、やけなのか怖い物がないらしい。
あまりの図々しさに芝浦が目を丸くする。
何て図々しい女だ。さっき知り合ったばかりで、また来る気か?冗談じゃないぞ!
「この・・」
ガタンッ、思わず立ち上がり、大きく手を振り上げようとしたとき。
ハルがスコーンで汚れた手に、クーを持ち上げた。
「ああ!あ、あ、駄目だよ、汚れた手で!」
アワアワ泡食って芝浦が飛びつく。
「クーにね、お洋服。寒い寒い。」
「ああ、わかった、悪かったよ。俺がやるから、汚れた手で触らないで。」
「うん!お兄ちゃん、優しいね、好き!」
「えっ!」
なぜか心臓がドキッ!
こんなに素直に好きなんて言われたのは何年ぶりだろう。キラキラした目で真っ直ぐ見て、全然この子には邪気がない。
「それは・・ありがとう。」
「やだ、おじさん赤くなってる!」
「お兄さんだ。」
クーにズボンを着せて、ジャケットを着せ、靴下をはかせる。
「ほら、ありがとう。」
芝浦が差し出すと、ハルはパッと嬉しそうに受け取りギュッと抱きしめる。
「お兄ちゃん、ありがとう。」
赤いほっぺのハルの笑顔に、芝浦は心が和らぐ気がして何故か首を傾げた。
この子は、どうしてこんな笑顔で笑うことが出来るんだろう。
ピュアな笑顔だ。
今時、こんなに明るい笑顔、久しぶりに見た気がする。
テレビの俳優達や、店の店員、病院の看護婦、どこに行っても笑いかけてくれる顔は全て作られた物だ。
ちっとも心が和まない。
それとも、俺の心が疲れているんだろうか?
「じゃあ、ハル、帰るわよ。」
「うん!お兄ちゃん、また来るね。」
「え?あ、ああ・・君、この子しばらく預かるの?警察に届けが出てるんじゃないか?
後は警察に任せた方がいいよ。」
「やっぱり・・そうよねえ。」
思い直す春美に、ハルが心配そうな顔を上げる。しかし、いなくなってきっと家人は心配していることだろう。
「でも、警察に行きたくないって言ってるのよ。届けが出ているか聞き出そうにもこの子の名前もわからないし。警察でも困るんじゃない?」
「それは・・わかるまでどこかで預かって貰うかするんじゃないか?」
「施設とか?そんなの可哀想だわ。」
「でも、無断で預かるのも犯罪にならないか?」
「やだ、それは困るけど・・」
勝手に家に入り込まれて、その上犯罪なんて冗談じゃないが、この不安そうな顔を見るのも忍びない。
せめて名前なりともわかれば・・
「お姉ちゃん、ハル・・ピーポー行きたくない・・」
急に元気をしぼませて、ハルがぐったり椅子にもたれる。
ハッと芝浦が、ハルの額に手を当てた。
「あっ!やっぱり。やけに顔が赤いと思ったんだ、熱あるよ、この子。」
「えっ?うそ、湯冷めしたの?」
「馬鹿だなあ。自分はセーターなんか着て、この子にはこんな薄い寝間着一枚で、熱出て当たり前だろ?」
「馬鹿とは何よ!うっかりしてただけじゃない!ああ、どうしよう、病院・・」
「保険証無いと、十割負担だぜ。」
ゲッ!と言うと、万円取られる・・
「冗談!私プー太郎になったばっかりなのに。どうしてこうお金かかる事ばっかなのよう!」
 慌ててハルを連れて部屋に戻り、服を着せる。放っておけないのか、芝浦も玄関先までついてきた。
「どうするんだ?病院に連れてゆくのか?」
春美はハルをカーペットに寝かせて、外出の準備をしている。
しかし、金がない!現金がー!無い!
ダダッと凄い形相で、春美が玄関まで走ってきた。
「お隣さん、お金貸して!二万ほど。」
ゲッ、今度は金か?
うう・・仕方ない、これも乗りかかった船か。
山姥に身ぐるみ剥がされるよりいいだろうけど、何だかこの女にケツの毛まで抜かれそう。
「で、あてはあるの?車は?」
「ン、友達が看護婦なんだ。車、持ってる?」
パンッ!と春美が彼に手を合わせる。
芝浦は大きな溜息をつきながら、結局車まで出してくれた。
 ビルがひしめくように立ち並ぶ通りを回り込み、細い一方通行の路地を抜ける。
彼女の友人が勤める所は、裏の小道にある、時代に取り残されたような小さな医院だった。
年老いた医師が、のんびり細々とやっている。
良く潰れない物だと思うけど、儲かりはしないけど、潰れない程度に患者も来るらしい。
裏道で飲屋街が近いせいもあって、外国人や派手な風貌の女性が疲れた顔で座っている。
芝浦は玄関を入るなり眉をひそめて、春美にこっそり耳打ちした。
「ここ、本当に大丈夫なのか?何か怪しくないか?」
「失礼ねえ、きっと大丈夫よ。」
きっと?
何だか凄く不安。
春美が受付を覗き込み、にっこり笑う。
受付も胡散臭そうな顔で、口だけにっこり笑い返した。
「あの、看護婦の佐伯淳子います?」
「あ、ああ、はいおりますけど。
お呼びしますか?」
「お願いします。」
受付の女性が奥へと席を外す。
振り向くと、ハルは自分でトトッと歩いて派手な女性の隣りにぴったり座った。
「ハル、知らない人にそんなピッタリくっつくんじゃないわよ。失礼でしょ?」
女性に会釈して、グイッと腕を引っ張ると、イヤイヤと首を振ってなおさらくっつく。
「もう!こっちおいでってば!」
「抱っこ。」
「なにい!」
誰がこんなデカイ子を抱っこするか!
「もう!勝手にしな。」
プイッと顔を背けたところに、淳子がやってきた。
「あらあ、久しぶりじゃない。どしたの?
この子、誰?まさかあんたの隠し子?」
「冗談!淳子、ちょっと困ってんのよ。」
春美がこそこそ淳子と待合室の隅に行く。
ボウッと立っている芝浦を仰いで、ハルが訴えるような顔でジャケットを引っ張った。
「抱っこ!抱っこして!」
「ええ!俺が?何で・・」
ぐいぐい引っ張られて芝浦が仕方なく座る。
するとハルが、急いで彼の膝に座った。
小学校高学年か、中学生でも一番小さい方だろうか、そのハルを膝に乗せるのは、やっぱり少し恥ずかしい。
「抱っこ、クー抱っこだよ!うれしいね。」
ぐったりしていたのがどこ吹く風、キャッキャと喜ぶハルの姿に、恥も掻き捨てまあいいかとハルの胴に腕を回して抱きしめた。
「いいけどさ、ウンコ漏らすなよ。」
「ウンコ、ウンコ、出すの駄目!」
「おいおい、頼むから変な歌、歌うなよ。」
やっぱり熱があるんだろう、ハルの体が熱い。さらさらと長めの髪が鼻につき、何だか安っぽいレモンの香りが強くする。
そっと、ハルが抱いているクーを触った。
独特の木毛の感触がして、芝浦の背がぞくっとする。
「・・・もねえ、名前はいいけどアレルギーとか分からないと、薬が出せないかもしれないよ。預かってるんだし、何かあったら怖いでしょ?」
春美達がこちらに歩いてきた。
芝浦がさっとクーから手をはずし、引きつった顔で二人に笑いかける。
「や、やあ、どうなった?」
「へえ、春美の彼氏?こんちわ。」
「違うわよ、お隣さん。車で送ってくれただけ・・ちょっと、あなたどこ触ってんのよ。」
「え?わっとと・・」
芝浦がハッと手の置き場を見ると、ハルの股間だ。慌てて手を離して、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「あはは!面白い彼氏ね。奥手のあんたがこんないい男引っかけるなんて珍しいじゃない。
まあ一応、婦長に相談してくるわ。待ってて。」
淳子がまた奥に消える。
「いい男・・ふ、君の友人は見る目があるな。」
「ひどい近眼よ。」
忙しいだろうに、何だかのんびりした病院だ。
しばらくすると、年輩の太った看護婦・・あれが婦長だろう、を連れて淳子が戻ってくる。
しかし婦長は、あらっと目を見開いて明るい顔でハルに近づいた。
「こんにちわ。まあ、まあ、久しぶりねえ。
元気だった?お母さんは?」
婦長がひざまずき、ハルの頭を撫でて覗き込む。
「この子、知ってるんですか?!」
「ええ、小さい頃、良く外国人のお母さんに連れられてうちにみえたのよ。
まあ懐かしい、相変わらずクマさん抱いて、小さい頃は可愛かったけど、まあ綺麗な子になったこと。」
「名前!名前分かります?母親の住所とか・・分かりませんか?」
「ええ、ええ・・と、ちょっと待って頂戴。
この子は保健診療じゃなかったから、記録がノートに残っているわ。」
婦長がよっこいしょと立ち上がり、受付に入ってゆく。
春美達も思わぬところでラッキーだと明るい顔になった。
「でも、保健じゃないってどう言うことだろう。お母さんもなかったのかな?」
「母親が外国人って事は不法就労じゃなかったのか?」
何だか余計謎が深まる。
婦長がノートを手に、奥へまた消えた。
「ああ、カルテ探しに行くんだわ。
あたしも行ってくるよ。」
淳子も婦長の後を追う。
やがて二人が古びたカルテを手に帰ってきた。
「お待たせ。これ、お母さんとこの子の。」
差し出された二つのカルテの表紙には、
オーランド・晴美
オーランド・レティナ
「はるよし?だからハルって呼ばれてるのね?
えーっと、平成元年生まれ?
じゃあえっと、誕生日来てるから十五才か。
今時の子にしては年の割に小さいわねえ・・」
「母親はレティナか、本当に外国人なんだな。
どう見てもハーフの顔立ちだもんなあ、お前。
見ろよ、この近くじゃないか?住所。」
確かに、この近くのマンションだ。
「ああ、今は違うわ、きっと。」
婦長が頭をひねりながら漏らす。
必死に記憶の糸をたぐり寄せながら、何か一つでも情報をひねり出そうとしてくれた。
「えーと、お母さん、どこかに行くって言ってたけど・・どこだったかしら。」
カルテをパラパラめくって、医師の書いたミミズがのたうち回っているような字を解読にかかる。
ハルは芝浦の膝の上で、お母さんと聞いて嬉しそうに笑った。
「あのね!お母ちゃんは旅行なの。
シュウチと一緒にずっと待ってるんだよ。」
「旅行?じゃなかったと思うけど・・
ああ、そう!イギリスに帰るって言ってたわ。
ほら、ここに記録がある。」
「最後は十年も前だわ。帰る?って、どういうこと?」
パタンとカルテの表紙を見る。
ハルのカルテは名前と住所だけなのに、母親のカルテにはきちんと保険証の記号番号がある。親子なら、扶養に入っているはずだ。
「変ね、どうしてハルには保健を使わなかったのかしら?」
不思議に思う春美と芝浦に、淳子がひっそりとウトウトし始めたハルを気にしながら耳打ちする。
「きっと・・籍に入れてないんだと思うわ。
家族にも秘密にして産んだんじゃない?」
「まさか!」
「まあそれはいいとして、カルテが出てきたから、受け付けるわね。十割負担になるけど、後で保険証持ってきてくれたら七割分は返すから。早く親見つけなさいよ。」
その負担は痛いけど仕方がない。
「分かった、頼むわ。」
 そうして結局、ハルの熱は八度を超えていて、風邪の診断で薬を貰って帰る事が出来た。
ドクターもハルを覚えていたが、やっぱりカルテ以上の情報を得られない。
家に帰ってハルを寝かせると、春美はカルテにあった住所を尋ねることにした。
「どうするの?」
玄関を出ると、芝浦が廊下に立っている。
気になって、訪ねようか迷っていたんだろう。
「うん、一応訪ねてみる。行ってみて、それから考えるわ。」
「ハル君は?」
「一組布団を持ってたから、それに寝かせてる。大人しく寝ててくれればいいけど。」
春美が部屋に鍵をかけながら声が暗い。
ハルが一人でじっとしていられるか、心配でたまらないのだ。
今までどういう生活をしてきたのか分からないし、どこまでルールを守れるのか見当も付かない。
「俺が行ってくるよ。住所、貸して。」
「え?」思いがけない芝浦の言葉に、春美が驚きながら廊下を歩き出す。
初対面から思っていた人と、随分違った。
「駄目よ、もう随分迷惑かけちゃったし、これ以上悪いわ。
今日知り合ったばかりで、こんなに良くして貰ったもの、十分よ。」
「知り合ったって?俺、君の名前も聞いてないんだけど。」
「え?」
ああー!そうだ、忘れてた。
「ごめんなさい。私、矢坂春美よ。
あなた、芝浦さんだったわね。」
赤い顔の春美が、エレベーターの手前でくるりと後ろを振り返る。
「ふふ・・俺は芝浦健吾、よろしく。」
芝浦はぷっと吹き出して、彼女を追い越すとエレベーターのスイッチを押して手を出した。
「貸して、矢坂さん。俺が行ってくるよ。
ハル君は一人にしない方がいい。危ないよ。」
一階にいたエレベーターが、いつもより速いスピードで上がってくる。
ポッとボタンのライトが消えて、音もなくドアが開いた。
「ほら、早く。他の人に迷惑だよ。」
延長ボタンを押しながら、芝浦が手を出す。
春美は思いきってバッグからメモを取り出すと、芝浦に渡した。
「ごめんなさい。じゃあ、お願いするわ。」
芝浦がメモを受け取りポケットに入れる。
そしてニヤリと笑った。
「随分しおらしいんだな。図々しい奴と思ったけど、少しは常識を知ってるんだ。」
「なんですってえ!」
スッとドアが閉まり、エレベーターが動き出す。春美はプッと吹き出して、クスクス笑いながら部屋に戻っていった。

カルテにあった住所付近は、マンションが密集してどれがそのマンションなのかはっきりしない。
昼食のパンを食べ終えると、一軒一軒マンションの名前を確認するのも面倒臭いので、近くの交番で聞いて地図を書いて貰った。
やましい事をしている訳じゃないのに胸がドキドキしたが、そこで挙動不審なんかやらかすとややこしくなる。
さらっと聞いて、さっさと交番を後にした。
表通りから曲がって、街路樹の並ぶあか抜けた道に入りゆっくりと進む。
交通量も少なく、昼間のせいかビルが多い割に人通りも少ない。
「あそこかな?」
煉瓦敷きの玄関先が目印とは聞いたが、バルコニーの凝った飾りや壁に貼られたタイルも色合いが上品で、他と少し雰囲気が違う、高級マンションだ。
ゆったりした公園を隣接し、ここだけが緑に溢れて空気が違う。
歩道に車を止めて玄関を入ろうとしたが、やっぱりこれだけのマンションはセキュリティが厳しい。
ロビーに入ろうとしても、玄関のドアさえ開いてくれない。
「困ったな・・管理人ってどこにいるんだろう・・」
うろうろ玄関先を回り、地下の駐車場にも下りてみる。
せめて住人がいてくれたらと思うが、運の悪いことに誰もいない。
しかし、やはり金持ちのお住まいらしく、やたら外車のオンパレード。何だか蹴飛ばしたくなる。
「・・こっち・・」
ン?小さく声がした気がして、くるりと振り向いた。
「あの人よ!さっきからうろうろしてるの。警察!警察呼ぶわよ!」
「こ、こ、この野郎!やるか!」
派手なおばさんと作業服のがっしりしたおじさんが、それぞれ鬼のような形相でバットやホウキを手に芝浦に向かってくる。
「わっ!ちょっと待って。お聞きしたいことがあるだけで、俺は無実です。」
思わず両手をあげて、降参した。
「聞きたいこと?何だ、びっくりした・・」
「まあ・・まったく、人騒がせだ事!」
騒いでるのはそっちの勝手だ。
こっちがびっくりした。
まあ、それは置いて、芝浦が管理人らしい男に住所のメモを見せる。
すると管理人は、ああ、と頷いた。
「ええ、ここの最上階ですよ。
オーランド?さあ・・知らないなあ。
私は去年からここに来ましたから。」
「あら!」
爪も髪も唇も真っ赤のおばさんが、指輪をずらりとはめた手でメモにある名前を指さす。
そして芝浦に愛想良く笑いながら、おじさんを押しのけ今度はすり寄ってきた。
「この方、覚えてますわ。
何でもイギリスの方とか?綺麗な方でね、小さな男の子連れて時々外出されてましたもの。
声の大きな子でねえ、良く泣き声が聞こえてたわ。」
きつい香水で鼻が曲がりそうだ。
芝浦は逃げるようにおばさんから身体を引きながら、引きつった笑いを浮かべた。
「た、助かります。で?い、今もここにお住まいですか?」
「いいええ、何でもイギリスに帰るとかでここはその後売りに出されましたのよ。
今は若い夫婦が無理して買って、何でも支払いに随分苦労しているそうよ。
ほら!今は景気が悪いでしょう?
ご主人の会社が・・」
「あああ!で?で?オーランドさんにはご主人は?他に何かご存じないですか?」
「あら、ご存じないの?
あの方、愛人してらしたって噂よ。でも、相手の方まではちょっと・・」
愛人?やっぱりそうだろうなあ。
「すいません、管理人さんですよね?
ここを管理している不動産会社はどこですか?」
「ああ、白川不動産だよ。でも、誰が買ったかを教えてくれるかねえ。
警察とかじゃないんだろ?」
確かに、俺はしがない縫いぐるみ屋。
「でも、まあ行ってみます。」
「よう、何か知らないが、分かるといいねえ。」
管理人さんがにっこり笑い、そうねえとおばさんも頷く。
何だか初対面の人の笑顔にどぎまぎして、一応お辞儀すると逃げるように立ち去った。
まったく、おばちゃんの甘ったるい香水は苦手だ。ずっと嗅いでると吐き気がしてくる。
白川不動産なら、大手の会社だ。
芝浦のマンションも、白川不動産が管理している賃貸マンションだ。
白川銀行、白川建設、白川証券と、まともにこのご時世で不況風を受けているだろうに、どれも会長の堅実な方針の元で業績もあまり落ちていない。他にホワイトリバーホテルとか言う高級ホテルもあったように記憶している。
女性客に人気で、週末は何ヶ月待ちだとかテレビで特集を組んでいた。
マンションの玄関を出て、ずっと上まで仰いで見る。
自分とはまったく関係のない金持ちの世界だ。
フッとやや自嘲のこもった溜息をついて、芝浦は自分の国産車に向かった。
「これでも、無理して買ったんだぜ?」
ボンネットをバンと叩いてドアを開ける。
予算は小型車だったが、ちょっと無理して普通車にした。
これで十分!外車がなんだ。
車なんて四つタイヤが付いて、エンジンが付いていれば十分さっ。
「よしっ!行くぞ、フェラーリ!」
キュキュキュッ、ブルルルン・・・
「ドルルンッ!ドッドッドッド!ブオオオン!」
声で効果音を出しながら、何だか虚しい芝浦だった。
 忙しそうに書類が飛び交い、電話の鳴り響く白川不動産では、世話になった担当が運のいいことに在室していた。
芝浦の顔を見るなり、営業スマイルで仕事を中断して出てきてくれる。
一目でサッカー好きだと分かる、ベッカムヘアーだ。すでにこの髪型は遅れていると思うが、本人も気に入っているのだろう。
それも別に気にならない好青年だ。
「これはお久しぶりです!
住み心地はいかがですか?今日は何か?
何か不都合でもございましたか?」
「いや、今日は頼みがあって・・」
矢継ぎ早に質問しながら椅子を勧めてくれる。
二人向かい合って座ると、芝浦は例のメモを見せた。
「すまないけど、この人のことで手がかりを探しているんだ。
十年ほど前にここに暮らしていたのは分かっているんだけど、この部屋の持ち主の事が少しでも分からないかなと思ってね。」
愛人だというのなら、恐らくはあのマンションの部屋は相手の男性名義のはずだ。
「ああ・・ここは確かにうちの物件ですねえ。
手がかりって?芝浦さん、探偵にでもなったんですか?」
「いや、知り合いがこのオーランドさんに世話になったとかで、会いたいからって探してるんだ。」
「へえ・・でも、ねえ、すいませんけど・・」
やっぱりきたか!
間髪入れず、芝浦がヒソヒソ声で耳打ちする。
「実はその知り合いがガンでね、もう時間がないんだよ。早くしないとタイムアップしてしまう。俺も世話になった恩人だから必死なんだ。無理を承知で頼むよ。」
「しかし、うちも守秘義務があってですね。」
トドメにうっ!とハンカチで目頭を押さえる。
「せめて、俺に出来ることと言ったら、このくらいしか・・うう・・」
ああ、俺って本当はこんな事してる時間無いんだけど・・
締め切りの声を思い出すと、恐怖で本当に涙が出てきた。
「ご、ご迷惑は・・かけませんから・・うう」
背中に事務の女の子の視線が突き刺さる。
しばらく無言のやり取りののち、青年が大きく溜息をつきながら立ち上がった。
ちらりと、ハンカチの横から覗き見る。
青年はパソコンでカチャカチャと、何かを検索しているようだ。
隣の女の子が、芝浦を怪訝な顔で見ながら小さく囁いている。青年は困った顔で首を振り、小さなメモに一筆書くと芝浦の元へ重い足取りで来て、そのメモを差し出した。
「これっきりにしてくださいよ。
私の信用問題なんです。」
「わかっています、本当に助かります。」
「これ、買ったのはオーランドさん本人です。
十五年前ですね。そして保証人がお二人、その内のお一人、田中さんのお名前と住所を書いていますから。」
パッと芝浦が明るい顔で、青年に無理矢理握手した。
「ああ!良かった!本当に助かりました。
ご迷惑は掛けませんから、どうぞご心配なく。」
芝浦はそそくさとメモを内ポケットにしまい込み、青年に深々とお辞儀して礼を言うと白川不動産を後にした。
「ねえ、大丈夫?課長に知れたらことよ。」
先程囁いていた事務の女性が、青年を心配してまた囁く。
フウッと青年も溜息混じりに腰掛けると、パソコンに向かって肘をついた。
「仕方ないよ、死にかけた人がって聞いたら邪険に出来ないし、これも仁義だね。
まあ、一人しか教えなかったし、もう十五年も前のことだから結局は使い物にならないかもね。」
もう一人の名は・・
「十五年も前かあ。
そうね、今の持ち主じゃないし、会社に知れることもないわね。」
女性が青年に笑いかける。
が、青年はぽかんと口を開けて呆然とパソコンの画面を見つめていた。
「どうしたの?」
「・・・会社、ばれるかも・・」
「え?」
女性が画面を横から除く。
「あっ!」
思わず声に出して口をふさいだ。
もう一人の保証人・・それは
『白川秀一』
それは会社の誰もが知っている、白川グループの会長の名前だった。
 トントントン・・
キッチンに立って、野菜を沢山小さく刻む。
ちょっと気になり顔を出して部屋を除くと、ハルは静かに寝息を立てて眠っている。
春美は微笑んで、レジ袋から白菜を取りだした。
帰ってすぐにパンをあげたけど、半分ようやく食べてくれた。
食欲が落ちたのか、好みが合わなかったのかはっきりしない。
パンは春美が好きなフランスパンだ。
病院の帰りに芝浦に寄って貰った、流行のパン屋でも人気商品で、これを焼き上がりの時間に買ってパリパリのところにガーリックバターをたっぷり塗って食べる。
これがお洒落で気に入っている。
美味しいのにハルは、嫌そうな顔で一切れをたった半分。もったいない。
「子供って、一体何が好きなのかしら?
まったく我が侭よねえ。」
料理にしても子供が食べるようになんて、作ったこと無いから春美には工夫の仕方が分からない。
「やっぱり、お粥かなあ・・いや、雑炊にしよう。私も食べていいし、野菜をいっぱい刻んで入れて、そうだ!おもちを小さく切って入れようっと。」
春美はおもちが大好き。
年中買い置きしている。
ご飯がない時、小腹が空いた時、昼ご飯を買いに行くのが面倒な時にと、個別パックのおもちは重宝する。
冷凍していたご飯を出しながら、考えるのが少し楽しい。
・・・そうか、一人じゃないって面倒だけど、楽しいこともあるんだな。
男の子産んだ友達はみんな、もの凄く食べるから困るって言ってたけど、ハルはあまり食べないわよね。
まあ、食費がかからなくていいけど。
雑炊に、白菜、大根、人参と、考えなしに放り込む。
果たしてこれをハルが喜んで食うのか?
ずっと一人暮らしで自分の好きなように暮らしてきた春美には、他人の事に気が回らない。
結局自分の好きな物に目が行く。
その頃ハルは、ぐーぐー鳴るお腹を抱えて眉間にしわを寄せ、寂しい夢ばかりを見て目を覚ました。
ぱちっと目を開けて、布団から手を出して枕元を探す。
「クー、クーがいない。クー!クー!」
「あら、目が覚めた?クーはほら、頭の上よ。」
春美が慌ててキッチンから来て、ハルにクーを渡す。
ハルはホッと安堵してクーを受け取り、ギュッと抱きしめると今度は泣き顔になった。
「クー、クー、ハルは悪い子なんだ。
だからね、お母ちゃんきっと帰って来ないんだよ。ハルが悪い子だから。」
悪い夢でも見たのか、涙が浮かんでポロリと流れ、枕がそれを吸い込んだ。
「ハル・・ハルは悪い子じゃないわ。」
くすん、くすん、泣いているハルの頭をそっと撫でる。
ハルは、恐らく十年前に一人でイギリスに帰ってしまった母親を、ずっと待っているのだ。
迎えに何か来るはず無い。
籍にも入れなかった母親なのだ。
きっと疎ましく思ってハルを捨てたんだろう。
「ハル、もうお母さんのこと諦めなよ。
ハルには新しい両親がいるんでしょう?」
「あ、き、ら、め、る?止めるの?」
「そう、お母さん待つの止めるの。」
ブンブン顔を振って、ハルが春美を睨み付ける。
「駄目!お母ちゃんはね、絶対約束を守るんだよ!ミーカと、約束したんだよ!」
強いハルの意志に押されて、春美が眉をひそめる。
どうして迎えに来る気もないのに、こんな一途な子とこんな無責任な約束をするんだろう。
イギリスって、実直な紳士淑女の国って思っていたけど、何だか見方が変わりそう。
「でも、ずっと来なかったらどうするの?
ずっと待ってるの?ハルがお爺さんになっても?」
「うん、待ってる。クーもシュウチも一緒だからね、ずっと待ってる。
シュウチと一緒、お母ちゃん、きっと喜ぶね。」
涙をごしごし布団で拭いて、にっこり笑う。
春美は呆れて立ち上がり、腰に手を置いた。
本当に呆れた待ちぼうけ馬鹿。
「じゃあ、ずっと待ってるのね!勝手にするといいわ。」
「でもね、でも、ハルがお利口にしてないとお母ちゃんは来ないんだよ。
でも、ハルは悪い子なんだ。」
ハルが暗い顔でこそこそと布団に隠れた。
「だから、どうして悪い子だって言うの?」
「・・・だってね、悪い子なんだよ。」
「ハル?」
何だか嫌な予感。
「・・・クー、シーッだよ。秘密ね。」
まさか、まさか!
バッと春美が布団を剥いだ。
「ハルッ!!あんたまたやったわねっ!」
小さく身体を丸めたハルのお尻の下には、布団に見事な世界地図。
「だから、ほら、悪い子ね?
でもね、ねえ、お腹・・空いた・・」
ばつが悪そうにハルが春美の顔を窺う。
春美はめまいがして倒れそうになった。
 都心でも一等地の、誰でも一度は住んでみたいと羨む高級住宅地。
そんな場所の一角に、どこまで行っても白壁が続くその家はあった。
ちょいと覗いても家の屋根さえ見えず、塀からは高く伸びた竹がちらりと見えて、日本庭園の気配を感じさせる。
正門には車が二台は通れそうな棟門の格子が堂々と構え、やがて黒塗りの高級外車が止まるとそれが、自動的にするすると静かに開いて車を迎え入れた。
門をくぐり、ジャリジャリと敷き詰められた玉砂利を踏み、門から玄関先まで続く竹林が風にそよぐ中、ゆっくりと車は進んでいく。黒い車体に竹が鏡のように映り込み、美しい模様を醸し出していた。
「まったく、この竹も鬱陶しいこと。」
後部座席に座る、豪華な毛皮をまとった派手な中年の婦人が、真っ赤な唇にくわえていたタバコを、ずらりと指輪が並ぶ指に挟み苦々しい顔で消した。
やがてひらけた玄関先のロータリーに車が止まり、数人の男性が出迎えに出てサッとドアを開ける。
婦人はやや太りぎみの身体を重そうに、男性の手を借りてどっこいしょとかけ声をあげながら、ようやく車から降りた。
「ふうっ!」
「お帰りなさいませ、洋子様。」
「晴美は?見つかったの?」
「いえ、まだでございます。」
「そう、夏美は?今日家にいるって聞いたんだけど。」
洋子が広々とした玄関先から家を仰ぐ。
贅を尽くした純日本建築のこの家は、十五年も前に洋子の父親が一代で財をなして作り上げた家だ。
二千坪を越す日本庭園には、水を使わず色々な石を使って水を表した枯池と枯滝が目を引き、池も大きな鯉が泳ぐような池ではなく、ごく浅く水を張った池がうっすらと広がり、間に竹林や数々の植木が美しく整っている。
父親の生前には来客も多く、この庭でガーデンパーティも何度か開かれて賑わったものだが、今のこの家の主である秀一は家庭に仕事を持ち込むのを何より嫌うので、今は贅沢にもハルの遊び場になっていた。
 両親の反対を押し切って結婚した父親は、終戦の混乱の次期に不動産会社を立ち上げた。
パワーに溢れ、いつもハングリーで、その後証券会社まで起こし、小さな銀行をグループに吸収すると日本全国にホテルチェーンまで展開した。
何度か危機はあった物の、金の神様とまで呼ばれた男だ。それも幸運の女神がいつも微笑んでいたのか難なく乗り越え、この不況時でもその体力のある白川グループという企業の姿に、改めて父親の偉大さが伺える。
しかし長年それを支えてきた母親があっさり逝ってしまったのがもう、十八年も前。
そして父親も八年前に他界し、今は長男である洋子の兄、秀一がグループの会長をしている。
今の白川グループの要だ。
 一方洋子は、大学の時に年の離れた男とさっさと勝手に結婚を決めて中退し、旦那の経営する会社の社長夫人に収まっていたのだが、時代の波に乗れずあえなく倒産。
父に泣きついて、今はホテルチェーンを任されていた。
彼女によく似て気の強い娘が二人居るが、二人とも修行のためにホテルで働いている。
金に厳しい洋子は娘達に一切贅沢を許さず、それが元でしばしば親子喧嘩も珍しくはなかった。
 大理石を張った土間に入り、沓脱石に上がって靴をそろえる。
ふと横に目をやると、下足箱にも入れずハルの真新しい運動靴が揃えてある。
洋子はムッとした顔で、それを自分の靴の片方でポンと蹴った。
「あの子に新しい靴なんて買うだけ無駄よ。
慣れた靴ばかりで、どうせ履かないんだから。
夏美!夏美!どこ?」
洋子が家に入り、毛皮のコートを脱ぎながら居間に向かった。
「洋子様、夏美様はお台所でございますよ。」
出迎えに来た年輩の家政婦の山根が、コートを受け取り洋子に告げる。
「そう。」
洋子はフンッと、キッチンに向かった。
夏美は洋子の妹だ。
一旦は結婚した後マンション暮らしだったが、この家が完成すると父の希望もあって、夏美親子三人も加わり一緒に暮らし始めた。
家が広すぎて部屋は余っているし、何より寂しかったのだ。
夏美の夫は白川銀行本店の頭取に付き、次期会長と噂されている。その頭の切れの良さと決断の早さ、そして人柄の良さに悪い噂もなく、秀一にも一番信頼されていた。
しかし一時は三代で七人いたこの家も、今は四人だ。
母が死に、父が死に、とうとう子供に恵まれなかった秀一の妻も心臓が悪く、五年前に他界した為、今は夏美が秀一の世話もしている。
その上夏美の息子芳樹は、大学を四年の約束で英国へ留学しているのでこの広い家に、秀一、ハル、夏美夫婦と今は寂しい家族構成だった。
 「夏美!夏美?!」
廊下から顔を出すと、ダイニングの奥に、夏美の姿がちらちらと見える。
キッチンは、対面式のシステムキッチンの奥にもう一つ広い厨房がある。
これはパーティーの時のためにあるのだが、普段はほとんど使わない。
今では全く無駄な空間だ。
対面式の方が機能的だし、普段の生活には向いている。
 夏美は洋子の呼びかけに返事もせずに、無心で料理を作っている。
洋子は腹立たしそうに、ドスドスと象のように足を鳴らし夏美の向かいに立った。
「ちょっとあんた!返事くらいしたらどう?!
この無駄に広い家で少ない家族なんだから、誰がどこにいるか全然わかんないじゃない!」
トントントントントントン!
夏美は無言で野菜を刻んでいる。
「夏・・!」
「姉さん、少し静かにしてくれない?」
「あんたが返事すれば静かにするわよ!
あんた病院にずっと泊まってるんですって?
あそこは付き添いいらないでしょ、そんな無駄な事してるからハルがフラフラ出てゆくんじゃないの。」
ドンッ!夏美が包丁を置いて、洋子を睨み付ける。
長い髪を後ろで束ね、キリリとした眉に意志の強い目をした父親似の夏美は、時々来ては勝手なことばかり言うこの姉が今、一番腹立たしい。
兄、秀一が無理を重ねて病院を受診するのが遅れ、すっかり胃ガンが進行してようやく入院したというのに、心配のカケラすら見受けられない。
「姉さん、私怒っているのよ。わかる?
丁度、芳樹もイギリスへ行ってるし、正義さんは銀行がこの不景気で忙しいって、夜遅くしか帰ってこないし。
家政婦さんもみんな通いだし・・
姉さんがハルを預かってくれていたら、こんな事にはならなかったのに、ハルに何かあったら兄さんに会わせる顔ないわよ。」
「冗談じゃあないわよ、誰があんな子。
あの子、私のことオニババって言って逃げるのよ、冗談じゃないわ。
大体あんな手の掛かる子を、私が見る暇ある分けないでしょ。
あーもう!兄さんもどうしてあんな子を、自分の息子として籍に入れたりして引き取ったのかしら!」
ジャアア・・・
夏美がコップに水をくみ、一気に飲み干す。
そして洋子の目の前に、ドンッと置いた。
「あんな子あんな子って、ハルは兄さんの子なんだから籍に入れて当たり前じゃない。
あのね、姉さんはずっと死ぬ前から兄さんの遺産の心配ばかりするけど、そんなお金の心配より兄さんの心配してよ!
明後日は手術なのよ!
もし・・もし・・駄目だったら・・・どうなるのよ・・」
夏美の目から、堰を切ったように涙が溢れる。
一番頼りになる人を、失いそうな不安が大きく心に覆い被さってくる。
それは告知を受けて、一番苦しんでいる秀一の事を思えば余計に辛いのだ。
軽々しく、大丈夫よ、とも言えない。
がんばっている秀一に、がんばって、と言うのも辛い。
秀一は会社のことばかりを心配しているが、夏美の夫も、まだとてもグループのトップに立てる器ではないだろう。
まだ、秀一が引くには早すぎる。
ガンなんて・・
どう接していいのか分からないけど、何もしてあげられない分付き添ってあげたい。
検査検査で落ち着かない病院生活には、周りに左右されやすいハルを連れてゆくなどとうてい出来なかった。
それに、秀一も初めから病気のことをハルには内緒にしている。心配するからとハルに秘密で入院したのだ。
それが、こんな裏目に出るなんて・・
いつも一人で留守番できる子だったのに、きっと不安だったに違いない。
あの子は、秀一兄さんを捜しに出たんだわ。
「なるようになるしか、ないじゃない。
心配なんて、して助かるって言うのなら、どれだけでもするわよ。」
洋子が吐き捨てるように言って、またタバコを取りだし火をつける。
そしてダイニングの椅子にどっかと腰掛けた。
「姉さん、タバコ消して。ここは食事するところなの。タバコの臭い、ハルが嫌うのよ。」
「ハルハルって、良くもまああの子を可愛がること。
兄さんの財産は、黙ってたらみんなあの子に行くのよ。兄弟の相続権なんて、その次なんだから。
あら、でもあの子の後見人って手もあるかしら?あんたそれ狙ってンの?」
洋子がほくそ笑み、下品に笑う。
情けない。
夏美は首を振り、大きく溜息をついた。
「私は姉さんじゃないわ、下世話な想像しないで。大体、ハルが会社貰ってもどうすることも出来ないでしょ。」
「馬鹿ねえ、あんた会社以外の資産がいくらあると思っているの?
父さんから貰った分、私達は貰った時より下がっても、兄さんがついだ分は相当に膨れあがってるのよ。それをあの子が独り占めなんて冗談じゃないわ。」
洋子夫婦は倒産を経験しただけに、金の事にはシビアだ。贅沢もするが、無駄を一切嫌う。
「もうっ!姉さん、ちゃんと警察には届け出してくれたの?
私はお弁当作ったらまた病院に戻るから、姉さんにハルの事頼みたいのよ。」
「分かってるわよ、ちゃんとやってるわ。
まったくこれが何度目?恥ずかしいったら。
その内また、町をフラフラしているところを保護されるわよ。」
フウッと洋子の口から出た煙が、キッチンの換気扇に吸い込まれてゆく。
それを目で追っていると、作りつけの白木で出来た食器棚に、ハルがクレヨンで描いた秀一の絵があった。
「十五にもなって、こんな幼稚園児並みの絵しか描けないなんて、恥ずかしいわね。
自分の部屋に貼らせなさいよ。」
「恥ずかしくなんか無いわ。とても良く描けているじゃない。その絵は兄さんが喜んで貼ったのよ、だからそのままにして。
それから・・・
姉さんハルが居なくなる前の晩、家に泊まったとき庭に猫いらず置いたでしょう?
猫が・・竹林で一匹、死んでたわ。」
洋子がハッと息を飲み、シンと、二人の間に沈黙が下りる。
洋子はちらりと夏美を見て、そしてくわえタバコで台所に入ってきた。
タバコを指で挟み、夏美の手元のシンクでもみ消す。
「だから何?」
「姉さん、ハルは小さい子と同じなのよ。
そんな物を口に入れたらどうなると思うの?」
「それは好都合じゃない。」
洋子のたばこ臭い息が夏美の頬にかかる。
夏美は手を止め、洋子と厳しい顔でじっと見つめ合った。
「お金が人を変えるって、信じたくないわ。
だけど姉さん、こんな少ない家族でいがみ合っても寂しいだけじゃない。
姉さんはまだ、十分財産を持っているはずよ。」
「ええ、持ってるわよ。十分。
ただね、私はあんなガキに、一円でも父さんから譲り受けたお金を渡したくないだけ。
悪い?」
「どうして兄さんの子供をそこまで憎めるの?」
プイッと洋子がきびすを返し、キッチンを出ていく。
「さあね。愛人の子なんて、生まれたときからそんな運命よ。あの子はパーツが抜けてるから、余計しゃくに触るの。」
「姉さん!子供に罪はないのよ?ハルは可哀想な子じゃない。」
「あんただって、旦那に愛人でも出来たら同じ事考えるわよ。
大体ね、こっちが聞きたいわ。
夏美はどうして、そんなにあの子を愛せるの?
手が掛かるばかりで一つも役に立ちゃしない。」
洋子が戸棚からインスタントコーヒーを取り出し、食器棚から適当にコップを取り出す。
ピルルルル・・
「電話よ、夏美。」
洋子はどっしりと椅子に座って、動こうとしない。
「山根さん!出て!」
返事がない、いつもすぐに出てくれるから電話から遠いのだろう。
夏美は溜息混じりで箸を置くと、ダイニングの入り口にある電話を取った。
「はい、白川でございます。」
『ああ、夏美か?俺だ。』
いつもより張りの無い夏美の夫、正義の声が電話から飛び出した。
銀行が忙しく、病院にも姿を見せないので秀一も心配している。
家にも夜遅くしか帰らないようなので、体を壊さないか、世話を焼けない夏美も心配で堪らない。
「正義さん!あなたちゃんと食べているの?
全然会わないから心配で・・
ごめんなさい、忙しいのにお世話もしてあげられなくて。」
家族の病気は、他の家族にも影響が大きい。
病気をした本人の存在が大きいほど、他の家族に負担も大きくなる。
だからこそ協力が大切だとは言っても、秀一の存在はこの家には大きすぎる。
心配かけるからと、息子の芳樹には秀一の入院を知らせていない。
あの子がいれば、ハルも安心して預けられたのだが、今更後の祭りだ。
その上、別に住んでいるとはいえ、残る洋子はまったく協力してくれない。
この家は今、空中分解寸前だった。
『いや、兄さんが病気なんだ、お互い様だよ。
俺も見舞いにも行けなくて悪いと思っている。
それで、兄さんはどうだ?』
「それが・・開いてみないと、はっきり言えないって。出来るだけ取ってしまうけど、転移がひどいようなら・・残す事もあるそうよ。」
『悪いのか?』
「覚悟していて下さいって。
もっと早く、行けば良かったのよ。
具合が悪いの我慢して、兄さんは馬鹿だわ。」
『ハルは?見つかったのか?』
夏美の脳裏に、ハルが正義のことをセーギ、セーギと呼んで慕っていたのが思い浮かぶ。
「まだ、見つからなくて。警察に届けは出したんだけど、連絡もないのよ。
でも、あの子の事だから、大丈夫と思って信じているわ。」
信じるしか、今はどうしようもない。
まさか誘拐されたのなら、白川の家の子供なのだ。すぐに金を要求するはずだ。
『芳樹にも知らせた方がいいんじゃないか?
兄さんの気持ちもわからんではないが、きっと怒るぞ。』
「そうね、明日早朝に電話するわ。
向こうは夜でしょうから、・・・頭を冷やす時間があった方がいいと思うの。
あの子、あわてん坊だものね。」
焦って慌てて、事故にでも遭ったら怖い。
そんな事があるわけがないと分かっていても、親とは過ぎるほど考えてしまう物なのだ。
『そうか・・・・ならいいんだ。
じゃあ、また電話するよ。
手術の日には、必ず顔を出すから。
兄さんに、すまないと。』
「大丈夫、心配いらないから。
兄さんも忙しいんだろうって言って、気にしていないわ。お仕事、大変でしょうけどがんばって。身体に気をつけてね。
こちらに来る時はマスコミに気をつけて。」
『ああ、分かってるよ。
ありがとう、じゃあ・・』
プッツーツー・・
「何?正義さんなの?こう景気が悪いと大変ね。でも、今のところ業績もいいし、心配いらないわよ。」
「ふう、姉さんは気楽ね。」
「ま!気楽何て失礼ね!ホテルだって、ボヤボヤしてると閉鎖、倒産よ!
もう、あんな目に遭うのは二度とごめんだわ。」
コーヒーを入れて、洋子がそれをすする。
その手にあるカップに、夏美はふと顔が緩んだ。
一番大きい、ウエッジウッドのマグカップだ。
あら、あれは・・ハルのココア用のコップ。
「ふう、まったく!父さんが神様って神棚に上げてたクマ。あれを兄さんがポンとあの子に譲ってから、ろくな事無いわこの家も。
ばっかよねえ。」
「ああ、クーのこと?
昔、あれを母さんに買ってから、凄く仕事がうまく行くって、とうとう神棚に上げたんでしょう?縁起物だって、触らせてもらえなかったもの。ふふ・・」
クーは、夏美が生まれる前に父が母の誕生日に買ってきた物だ。
まだその頃は仕事も軌道に乗る前で、生活も苦しく、ようやく古いぬいぐるみしか買えなかったらしいと母が良く笑って教えてくれた。
母は大切にそれを棚に飾って、何故か手を合わせていたらしい。
そして、それからどんどんと全てが上手く回りだした。
だからあれは、白川家の神様だと神棚に飾ってあったのだ。しかしその母も死んで、時々夏美がほこりを払っていた。
それが・・突然ある日無くなったのだ。
大騒ぎする夏美や洋子達をよそに、平気で秀一が人に譲ったと言い放った。
不思議と父も何も言わなかったのが不思議だったのだが、父の死後、秀一が連れてきたハルが、しっかりあのクマを抱いて現れた。
洋子が激怒し、取り上げようとしたのが災いして、それからハルは洋子をオニババとしか呼ばない。
まさか、兄に愛人がいたとは驚いたが、その子供を認知するのは良しとしても、まさか養子にする、それを本妻の美香子が、にっこり了承したのに死にそうなほど驚いた。
「うふふ・・でも、やっぱりぬいぐるみは神棚にあるよりも、ハルみたいにいつも可愛がる方がいい気がしない?」
「馬鹿ね!あんたは何も知らないから!
母さんが大事にしていたあれを、あのガキが持っているってだけで腹が立つのよ。
冗談じゃないわよ!あれは私達家族の思い出でもあるのよ。
何があの子に幸せよ。私は大嫌い。」
また怒りが再燃したのか、洋子が鼻息も荒くぐぐっと熱いコーヒーを飲んで、ドンッとカップを置いた。
兄は姉と二つ違いだが、姉と夏美は八つも年が離れている。
洋子は五十七才、夏美は四十九才だ。
夏美よりも八年分、洋子は母親との思い出がより深くあるはずだ。
「でもね・・・
姉さんも、一緒に暮らせば分かるわ。
私だって最初はね、最初はそうだったの。
父さんが死んで穴が開いたこの家に、あの子が来るのは・・美香子さんの気持ちを考えれば、随分嫌な気持ちだったわ。」
「それごらん。大きな声で騒がしくて、バタバタ落ち着かない子なんて、煩わしいだけよ。」
夏美が、重箱を取りだして料理を詰める。
病院食が口に合わない秀一のための料理だ。
「そうね。
でも、手が掛かって、目が離せなくて、何にでも喜んで、いつも笑って、煩わしいなんて言う暇がなくて。
みんなの心にね、あの子は灯りを灯してくれたのよ。
姉さんもマンション引き払って帰ってくればいいのに。離れが良ければ私達が空けるわよ。
正義さんも私も、どこに住んでも構わないんだから。」
「冗談じゃないわ、煩わしいの嫌なのよ。
馬鹿馬鹿しい、あんたにはあの子が光りでも、私にはただの悪ガキよ。
誰が何と言おうとね、私はあの子嫌いよ。」
「姉さんにも、いつか分かるわ。いつかね。」
夏美が呟きながら心の中でそう願う。
洋子にも、いつかわかりあえる。
知らずにハル愛用のマグカップでコーヒーを飲む洋子を見ていると、それが近い気がしてたまらない。
ハル、早く帰っておいで。
本当は自分で探して回りたい。
夏美は換気扇を止め、ダイニングに出て広い庭を見回すと、庭からいつも遊んでいるハルの声が聞こえそうな気がして耳を澄ませた。

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