雪は解けて水のように

中編。喫茶店「ルート」を営む水樹と雪矢は密かな恋人同士。
しかしある日、それを知らず友人の真紀が水樹に告白します。
水樹は自分たちの関係を告げて断りますが、それから店に嫌がらせが……

暖かな日の差す午後、忙しそうなサラリーマン風の人や、明るい顔で買い物を楽しむ人々の歩く表通りから、細い路地を通って薄暗い通りにある小さな店に行く。
昔潰れた古い飲み屋を改造したその喫茶店「ルート」は、以前フリーターだった若者2人が経営していて、メニューは少ないが安い。
場所が悪いだけに初めは客も少なかったが、最近は口コミで客足も伸びていた。

カランコロンとベルを鳴らしてドアを開け、ショートカットの女性が入ってきた。
「やっほー!水樹もうかってる?」
若いマスターの顔を見るとパッと明るく微笑み、元気に手を挙げる。
明るいピンクのニットがスレンダーな身体にフィットして、ショートパンツからはスラリとした美しい足が伸び、華奢な身体にブーツが重そうにさえ見える。
たった5つのカウンター席の空いた席に座り、足を組んでポケットからタバコを取りだした。
マスターの水樹が、水を出して彼女の手からパッとタバコを取り上げる。
「真紀、やっとモデルの仕事が入ったんだろ?タバコは肌が荒れるよ。プロなら気を使えよ」
やや体つきの大きい彼が、大きな手でタバコをぐしゃりと握りつぶす。
「んま!意地悪ね!ブルマンにしようかと思ったけど、やめて一番安ーいコーヒー」
「ブルマンなんて、頼んだこと無いくせに。んじゃ、安ーいブレンドね」
真紀がうなづき、ツンと澄まして水を飲む。
「モデルったって、フリーターに毛が生えたくらいよ。どうせ広告ばかりだもん。ところでユキは?」
「ユ、キ、ヤ、だろ?ユキって言うと怒るよ。雪矢は買い出し、近所のパン屋でパンの焼ける時間だから……ああ、帰ってきた」
大きな袋を抱えて、青年がタッとドアへ駆けてくる。
小柄で確かに肌の白い彼は、細面の女のような顔にコンプレックスを持っている。
だからユキと呼ばれると女のようだと嫌うのだ。
ベルを鳴らしてドアから入ってくると、雪矢は真紀の顔を見て軽く手を上げた。
「あ、来てたの?今日は早いね」
「ええ、今日で雑誌のモデルも終わり。次が入るまで、またコンビニでバイトよ」
「でも、雑誌で評判良かったらまた仕事入るんじゃない?」
雪矢がカウンターに入り、焼きたてで暖かいパンを急いで袋から出してトレーに置く、フワリと美味しそうな香りに、くんと真紀が鼻を鳴らした。
「ああ、もう!美味しそうな香り。腹が立つわね、太るのに食べたくなっちゃう」
「食べればいいじゃない」
クスッと雪矢が笑う。
ブスッとして水樹の出したコーヒーをすすりながら、真紀がツンと顔を逸らした。
「あんたみたいにどれだけ食っても太らない奴に、太りやすい女の子の気持ちなんてわかんないわよ!」
雪矢はクスッと笑って、立ち上がった客の会計をしてカップを引きに行く。
やがて水が引くように次々と客が立ち、客は真紀だけとなった。
空いたついでに、雪矢が床にモップをかける。
真紀はクルクル回る椅子で遊びながら、溜息混じりに眺めていた。
「良く動くわねえ、ユキちゃん。感心するわ」
「ユキちゃんじゃないよっ、雪矢!僕は店員だもん、これで当たり前なんだよ」
「あー、はいはい。……ねえ水樹、今度の土曜ここ閉めたあとでさ、オールナイトの映画見に行かない?」
「残念だけど」
カチャカチャと洗い物をしている水樹が、キュッと蛇口をしめて顔を上げ、手を拭きながら首を振る。チェッと真紀が舌打ちした。
「水樹さあ、この店やり始めてから付き合い悪いよ」
「悪いね、色々忙しくてね」
真紀が、怪訝な顔でふと考え声を潜めた。
「まさか、誰かと付き合ってる?」
昔は、いつも一緒に良く出かけていたのに、最近はさっぱりだ。店には見えのいい彼ら目当てに、若い女性客も多い。真紀には気を揉むことも多かった。
「いいや、別に」
水樹は同じような答えしか返さない。
やがて掃除の終わった雪矢が水樹の隣りに立ち、興味があるのか身を乗り出してきた。
「何?どこか行くの?僕も誘ってくれない?」
「だーれが、あたしが好きなのは水樹なの!」
「何だ、残念」
クスッと雪矢が笑う。その顔は、いつ見ても男のくせに優しさに溢れて美しくさえある。
何となく嫌な予感にかられ、真紀が怪訝な顔で雪矢に言った。
「まさかさあ、あんたらできてないんでしょうね」
「できてるって?」
「付き合ってるかって事よ」
プッと雪矢が吹き出す。水樹が笑って手を振った。
「まさか!俺達は金がないから一緒にいるだけだよ」
プウッと真紀が頬を膨らませる。
確かに、彼らはプライベートもここの2階に一緒に暮らしているのだ。
それが更に気にくわない。
「ならいいけど。そんな変態の気色悪いことはやめてよね!ンな事になったら、ユキ、殺すわよ」
ギッと睨み付ける。雪矢はワッと悲鳴を上げて、ピョンと水樹の後ろに隠れた。
「真紀ちゃん怖い!何か包丁でも持ってきそうな感じ!」
「ええー、何でも持ってくるわよ、水樹をそんな変態に引きずり込んだら」
「ざーんねん、僕はそんなんじゃありませんから」
クスッと腹が立つほど雪矢は清々しく笑う。
「もー、かーえろっと」
真紀は溜息混じりに立ち上がり、カツンと硬貨を置いてドアへ向かう。
そして振り返り、雪矢に向かってベーッと舌を出した。
「わ、ひどい!」
「ユキちゃんなんか、大嫌い!水樹取ったら許さないからね!」
「はいはい」
「もう、何で水樹もここ開くとき、あたし誘ってくれなかったの!」
フッと、水樹が無言で笑う。それが一番悔しいのに。
「バイバイ!また来るんだからね!」
「待ってるよ!」
カランとベルを鳴らして真紀が出てゆく。
ウィンドウ越しに彼女の背中を見送りながら、カウンターの下で2人はギュッと手を握っていた。




「ありがとうございましたー」
コンビニのレジに立つ真紀が頭を下げる。
大きく溜息をつきながら乱れたおにぎりの棚を整理していると、モップで床を拭いていたリナにドンッとお尻を叩かれた。
「きゃん、なによう危ないじゃないリナあ」
「なあにあんたさっきから溜息バッカついてるの?魂が抜けちゃうよ!」
リナは茶髪の長い髪を後ろで束ね、そばかすの顔にえくぼを浮かべニッと笑う。
彼女と真紀はバイトで知り合ってから、一緒に旅行に行ったりして親しくなった友達だ。
真紀は元気のない様子でうなずくと、その場にしゃがみ込んだ。
「ど、どしたの?すっごく元気ないよ、真紀」
リナが覗き込み、背中を撫でる。
真紀は手に一個おにぎりを持ったまま、ぼんやりつぶやいた。
「水樹がさあ、付き合い悪いんだ。何か、他に彼女いるんじゃないかなあと思って」
クスッとリナが笑う。真紀がムッと睨んだ。
「なによう、他人事ジャン」
「バーカ、んなこと水樹に聞けばいいじゃん。自分の事どう思ってるのか、はっきりとさ。付き合い長いんでしょ?」
「うーん、長いけどおー、友達以上恋人未満って感じ?」
ハンッとリナが呆れる。
「今日聞いてみなよ、あそこ10時まで?付き合うからさ」
「でも、何か8割かた振られそーな気分」
「じゃあ、2割に賭けるんだね」
「あんた、何か意地悪ねえ。それってマジ元気付けてるの?」
「マジマジ!あ、ほら仕事!いらっしゃいませー!」
真紀が渋々立ち上がり、にっこり営業スマイルで挨拶する。
長い付き合いなのに、どうしてこんなうやむやになったのか、真紀は何故かやっぱり彼の隣りに雪矢が浮かんだ。
彼と会ってから、水樹は変わった気がする。
それまでフラフラして仕事も長続きしなかったのに、急に喫茶店をはじめると聞いたときは驚いたのだ。しかも、彼が選んだパートナーはあの雪矢だった。
雪矢は上京したばかりで初々しくて、それは一年過ぎた今も変わっていない。
彼の前に立つと、どうしても自分はスレている気がして、真っ白の彼と対照的にグレーに思えた。



10時が過ぎて、ようやく最後の客が帰りルートの看板から明かりが消える。
雪矢は玄関の鍵を閉め、床掃除のために椅子をテーブルに伏せはじめた。
「最近、ようやく軌道に乗ってきたし、そろそろ表に引っ越そうかと思うんだ」
水樹が片づけながら雪矢に相談する。
しかし、今の借金の額を考えると簡単に頷けない。雪矢は困った顔で首を振り、溜息をついた。
「でも、表に出るとまた借金だろう?やっと月々の返済がまともに出来るようになったばかりだし、もう少し、お金を貯めてからにしようよ。また冒険するのって、僕、胃に穴が開いちゃうよ」
「そりゃ困る。雪矢は大事にしないとな。俺の胃にも穴が開く」
「あはは!それって変なの……あれ?真紀ちゃんだ。何だろう」
椅子をガタガタやる音で気が付かなかったが、カーテンレースの隙間からドアの外に真紀の姿が見える。
カチャンと鍵を開けると、こわばった表情の真紀が入ってきた。
「どうしたの?水樹に用?」
「うん…ごめん、閉店なのに。でも、大事な用なの」
「一人?真っ暗で怖かっただろう?」
水樹が、カウンターの席を勧めて水を出す。
しかし、真紀は水樹の正面に立って、座らずじっと彼の顔を見つめた。

言わなきゃ、はっきり聞かなきゃ……

いつだってズカズカ物が言えるのに、こんな時はどうして心が震えるんだろう。
唇が何度も開いては閉じ、腰のベルトを握りしめる。
体がカッと暑くて、ニットの袖をガッと上に上げた。
「私、私、聞きたくて」
雪矢も、後ろで静かに立って聞いている。
水樹は次第に真面目な顔で、ちらりと雪矢に視線を送った。
「私……水樹が好き、好きなの。水樹は?水樹は私のことどう思っているの?」
水樹は、困ったようにうつむいて、そして大きな溜息をつく。
重苦しい静粛のあと、水樹はキュッと唇を噛み、そしてようやく真紀に顔を向けた。
「真紀、俺は……いい友達だと思ってる」
「友達って、それって…ただの友達?」
「そう、だな」
ザッと、真紀の顔色が一瞬で青くなり、そして次第に真っ赤になって行く。
目にはいっぱいの涙をためて、握りしめた手がブルブル震えた。
「だ、誰?好きな人、いるんでしょ?」
水樹が顔を上げ、雪矢に視線を走らせる。
ハッと真紀は後ろを振り向き、横を向いた雪矢にカッと熱くなった。
「やっぱり!嘘付いてたんだ。ひどい!人を騙して。雪矢、あんたね?……あんたでしょ?水樹は、水樹はストレートだもん、あんたが水樹を引き込んだんだわ」
雪矢は、無言で項垂れている。
モデルだけに、顔が綺麗な奴には負けたくない。だから、余計に雪矢にはライバル心があった気がする。
なのに何度見ても……
彼の横顔は色を失い、真っ白で雪のようで、それでいて横から見ると男のくせにまつげが長い。
綺麗だ。
それに何より、性格がいい。
ああ、やっぱり……
真紀は、思わず心の奥底で負けを確信してしまった。
でも、燃え立つ嫉妬が、まるで水にまかれた油のように表面だけで燃え立ち、抑えても抑えきれない。
悪いと思いながら、ひどい言葉が次から次にと口を出てしまった。
「あんた、カマッぽいって思ってたのよ!ひどいわ!人の恋人に手え出してさっ、水樹まで引き込んで、ホモなんて冗談じゃないわ、変態!」
「やめろ、真紀、俺の話を聞けよ」
水樹がカウンターから出てきて、雪矢の横に立つ。
そして彼を庇うように前に出た。
「俺が言ったんだ、一緒に暮らそうって、付き合ってくれって。こいつはストレートで、一度は断られたんだけど……」
「こいつなんて言わないでよっ!信じらんない!男同士で、信じらんない!」
真紀はボロボロ涙を流しながら、次第にヨロヨロとドアへ足が向く。
雪矢がようやく顔を上げ、消え入りそうな声で真紀に苦しそうに微笑んだ。
「真紀、ごめんね」
その声が、何故か真紀には勝ち誇ったように聞こえる。
真紀の背に、今度はサッと冷水が走って、雪矢が信じられないほど憎かった。
「言ってやるから、みんなに言いふらすんだから!こんな店、すぐに潰れちゃえ!あんたら、ゴミあさってくたばればいいのよ!」
バッと泣きながら飛びだして行く真紀を、雪矢が追うつもりか前に出る。
しかしその身体をサッと水樹が止めて、首を振った。
「でも、でも!真紀が言いふらすって!」
「大丈夫、あの子はそんな事しないよ」
「わかんないよ!駄目だ、やっと軌道に乗ったって、さっき話したばかりじゃないか。真紀に頼んで……」
オロオロと蒼白な顔でうろたえる雪矢を、水樹が大きな身体で抱き留める。
ずっと恋人同士だと言うことを人に隠してきて、知られるのを一番恐れていたのは雪矢だった。
それは自分に向けられる、人の視線を恐れているのではない。ただただ、水樹のことを思っての気持ちだ。
知られたときが、2人の関係の終わりだとずっと不安に思っているのを、水樹は一緒に暮らし始めてから気付いていた。
「大丈夫、何も変わらないよ。きっと真紀も落ち着いたら、以前のようにまた店に来るさ。大丈夫」
雪矢はしかし、胸の中でカチカチと歯を鳴らしながら震えている。
真紀の捨てぜりふは、雪矢にとって大きな衝撃だったに違いない。
水樹は胸に湧く不安を飲み込みながら、その夜はそのまま2階に上がり、とにかく彼を落ち着かせようとしていた。



それから3日目、何事もなく真紀はあれから店に来ない。
いつもの静かで忙しい日々が、恐れと不安を次第に薄れさせていた。

プルルルルルルル・・・

「あ、電話」
コーヒーに手が離せない水樹に代わって、雪矢がサッと受話器を取る。
「はい、ルートです。もしもし?」
受話器の向こうは、シンとして微かに息づかいが聞こえる。
無言電話かと切ろうとしたとき、突然怒鳴り声が耳を襲った。

『この、ホモ野郎!』

ガタンと、雪矢が受話器を落とす。
「どうした?」
水樹が怪訝な顔で聞くと、青ざめた顔の雪矢が電話を切りながら、慌てて首を振った。
「何でもないよ、ただのいたずら電話。あっ」

カチャーン!

雪矢がコップに水を入れようとして、床に落とす。破片が足下に散らばり、水樹がカウンターから飛び出した。
「雪!」
「大丈夫、ごめん」
雪矢は慌てて片づけながら、懸命に普段を繕っているのが見える。水樹が心配そうに見守る中、また電話のベルが鳴った。

プルルルルルルル・・・

ハッと雪矢が振り返り、水樹が手を伸ばすのを遮るように受話器を取る。
そして、また呆然と立ちつくした。
「雪矢」
「……ただの…いたずら……」
ギクッと水樹が、雪矢の手から受話器を取り上げる。
聞くとすでに、切れていた。
2人、愕然とした不安な面もちで見つめ合う。
そしてその不安をあおるように、電話はそれから昼夜、夜中に関わらず頻繁にかかりはじめた。



プルルルルルルル・・・
すでに朝方、2階の住まいで水樹は布団から起き出すと、じっと鳴り続ける電話を見つめ、とうとうブツンと電話線を引き千切った。
雪矢は無表情で、脱力したように廊下に立っている。
フラフラと階下の店に降りて行きカウンターに座ると、いきなり表を数台のバイクのライトが明るく照らした。

何だろう……

立ち上がってそれを見ていると、数人の話し声が入り交じって聞こえる。
そして次の瞬間、シューシューとスプレーの音がウィンドーの外に走った。
「あっ!あっ!」
雪矢が血相を変えて、恐怖を押しやりドアへ向かう。

ガシャーンッ!!「あっ!」

突然雪矢が向かったドアに、ガラスを破り表の植木が投げ込まれた。

ブオンブオン!「きゃははは!」

男女の声が、けたたましいバイクの音と共に遠ざかる。
雪矢が慌ててガラスの割れたドアから飛び出すと、暗い街灯の下に見えるウィンドーには、派手な色で「ホモ」や「ヘンタイの店」など、目にしただけで卒倒しそうな言葉がスプレーで書き殴ってあった。
雪矢がパジャマを脱ぎ、急いで消そうとゴシゴシ擦る。
「雪矢!大丈夫か?」
騒ぎに慌てて駆けつけてきた水樹が、狂ったように拭き続ける雪矢の肩に手を掛けた。
「もういい、明日シンナーでちゃんと消そう。雪矢、もういいんだ」
「駄目だ、駄目だよ!ちゃんと消さなきゃ!店が!水樹の店が!」
「雪!」
騒ぎに驚いたのか、近所の家々に光が灯る。
やがて近所のおじさん達が出てきて、心配そうに遠巻きに見ていた。
「お兄ちゃん達、警察呼ぼうか?」
「いや、大丈夫です。すいません迷惑かけて。雪矢、もういいって!雪矢!」
懸命に窓を拭く雪矢は、どんなに引っ張っても離れようとしない。
泣きながらゴシゴシと擦る間に乾燥してゆくスプレーは、ただ擦っても落ちてくれなかった。
「消さなきゃ…消さなきゃ…」
ポロポロと流れる涙も拭かず、雪矢の手が見てわかるほどにガタガタ震えている。
水樹はたまらず雪矢を強引に抱え、逃げ込むように家に入って行った。
雪矢は、とても正気を保てず放心して泣いている。
水樹は自分の上着を脱いで彼に羽織らせ抱きしめていると、今度は携帯にメールが入った。
ビクッと大げさなほど飛び上がる雪矢に、水樹が携帯の電源を切る。
雪矢はギュッと水樹の腕を握り、泣きじゃくりながら顔を見上げた。
「ああ、ああ、ああ、ごめん、ごめんね、水樹。僕が悪いんだ、僕が。ごめんね」
「お前は何にも悪くないよ」
「違う、違うよ、僕が、僕が、ああ、ごめんね、ごめん」
「雪矢は悪くない。大丈夫、俺が守るから」
「僕が悪いんだ、僕が、僕が悪い」
雪矢は、水樹の告白を受け入れたから自分が悪いと責めている。
謝るばかりの雪矢に、どうすることも出来ず水樹はただ抱きしめることしかできない。
やがて疲れ果てて雪矢が眠ると、水樹は彼を布団に寝かせ、また携帯を持って店にいた。
真紀の携帯に電話をかける。
しばらくコールして、かかったと思えば電話が切れた。再度コールすると、やっぱり繋がらない。
彼女は、電源を切ってしまった。
しばらく考え、勤めているコンビニに電話する。
『真紀ですか?』
「ええ、いらっしゃいますか?」
『あなた、水樹さん?それともユキって人?』
若い女の声は、真紀から話を聞いているのだろう。やや低い声で、突き放したような話し方だ。
「水樹だよ。で?いるの?真紀は」
『いないわ、彼女今日は昼からなの』
「そう、じゃあかけ直すよ」
『来てくれないの?人をあれだけ傷つけてさ!』
水樹がムッとする。
失恋がどれほど傷つくかは経験者でもあるので知っているが、こんな報復はあまりにも理不尽だ。
「じゃあ、伝えてくれる?嫌がらせはやめてくれって。もう、十分傷ついたよってさ」
ピッと電話を切って、割れたガラスを見つめる。
白んできた外の穏やかな光を映しながらそのガラスは白く輝き、空いたところから吹き込む風は、あまりにも冷たい朝露を含んだ、湿って心まで凍えるような無慈悲な風だった。



夜が明けてショックで高熱を出した雪矢を寝かしつけ、水樹がウィンドーの掃除をする。
ドアのガラスはガラス店に頼んだが、結構な額で頭が痛い。いや、その頭痛も、半分はずっとスプレーを拭き取るのに使った、シンナーのせいだろうか。
足下には雪矢が可愛がっていた植木が、すべて倒され踏みつぶされている。
時折やってくる客には今日は休みだと断りを入れ、客が多い土曜の休みに溜息が出た。
休みはイコール収入ゼロだ。
しかし、これで済めばいいがと不安が大きい。
これ以上の嫌がらせには、こんな小さな店はひとたまりもない。
雪矢が心配するのも良く分かる。
店がつぶれると、水樹は大きな借金だけしか残らない。
ようやく軌道に乗ったと喜んでいた日々が、遠い昔のような気がして水樹が手を休め空を仰ぐ。
やがて様子を見ようと家に入り、2階へ上がって驚いた。
いない、雪矢が。
布団がたたまれ、その上に一枚メモが置いてある。
舌打ちながら、そのメモを掴んだ。

いままで、ありがとう。
僕の物、捨ててください。

メモにはそうあり、タンスを見ると幾枚か着替えが無くなって彼のリュックが消えている。
いつ出ていったのか、掃除に追われて気が付かなかった。
「あの馬鹿、一体何処へ……まさか、実家?」
布団はまだ暖かい、出ていって時間はそれ程過ぎていないだろう。
それに実家に帰るとしても、あの律義な奴だ。きっと真紀のところに寄っていくはず。
雪矢は真紀の家を知らないが、コンビニには偶然行ったことがあり知っている。
水樹はとにかく行ってみようと慌てて戸締まりをして、真紀のコンビニへと走った。




ユラユラとした足取りで、雪矢が真紀の働くコンビニを覗いている。
それに気が付いた真紀が、迷惑そうな顔をして仕方なく出てきた。
「今、仕事中なんだけど」
「うん、ごめんね。すぐ済むから」
真紀が、彼の様子に少し驚いて身をひく。
彼は白い顔を更に青白くさせて、いつも綺麗に整えていた髪もボサボサにしたまま、ゲッソリとやつれて頬が削げている。
真紀も一晩は泣きはらしたが、ここまでやつれはしなかった。
これでは、どちらが失恋したかわからない。
雪矢に連れられるまま店の裏手へ回ると、突然彼は舗装された地にはいつくばり、真紀に土下座して頭を下げた。
「な、なにすんのよ!あんたバッカじゃない?」
真紀が驚いて周りをキョロキョロ見回す。
誰もいないのを確認して、慌てて雪矢を起こした。
「もう、やめてよ!あたしも忘れたいんだから!」
「ごめんね、ごめんね、真紀。僕、もう水樹と別れるから。ほら、僕これから田舎に帰るんだ。もう、水樹には二度と会わないよ。だから、ごめんね、もう店には手を出さないようにしてね。ごめんね、さよなら」
「ハア?何のこと?あんた何言って……ちょっと!」
雪矢は逃げるように、頭をもう一度下げて立ち去ってゆく。
入れ替わりに、水樹が息を切らせて駆けてきた。
「水樹!今ユキが来たけど、何かあったの?何かすごい顔してて……」
真紀のとぼけた言い方に、水樹がムッとして唇を噛む。
相手が男なら、一発殴ってやりたい心境だ。
「お前のせいだろ?人を使って店を壊してさ。お前はスカッとしただろうけど、雪矢は死ぬほど怖かったんだ!」
「店を壊した?うっそ!あたし知らない、知らないわよ!そんな事するわけないじゃない」
「じゃあ誰だってんだよ。いたずら電話に落書きも、ホモのヘンタイだのって」
ガーンと、真紀がブンブン首を振る。
あの時誰かに話したか考えるが、何だか混乱して浮かばない。
まさかそんな事になっているとは、本当にまったく知らなかった。
「ほんと、マジ知らないのよ!誰にも話してないし、お願い信じてよ!」
水樹が真紀の様子に、次第に頭が冷えてゆく。
確かに、真紀はさっぱりした性格で、そんな事をする女じゃない。
だから最初から、それには違和感を感じていたのだ。
「じゃあ、本当にお前じゃないんだな」
「違う、絶対。……友達に……大事な友達に、そんな事、するわけないわよ」
キッと、真剣な顔で真っ直ぐに真紀が見つめる。
その美しい茶色の瞳に、水樹がフッと一息吐いてうなづいた。
「わかった、信じる。友達だからな」
「うん、友達だよ。普通に付き合うには、もう少し時間が欲しいけどね」
にっこり、真紀が微笑む。
水樹もニヤリと笑って背を向けた。
「水樹!ユキは駅の方!」
「了解!」
水樹は駅の方角へと走って行く。
それを見送る真紀の背後から、リナがドンッとまた尻を叩いた。
「あたっ!…なんだ、リナじゃん。帰らないの?」
リナは交代のあと私服に着替えている。
真紀にニコニコ奇妙なほど笑って、水樹の去った方向を覗き込んだ。

「アハハ!だいぶイカレてるじゃん、彼。相当こたえたみたいね」
「どういうこと?」
「あたしが彼に言ってさ、店に攻撃したんよ。昨夜相当やったみたいじゃん。ユキって子?あれ、もの凄く怖がってたってさ!」
面白そうな顔で、ケラケラ笑って言う。
真紀はハッとして大きく目を見開き、雪矢を嘲笑しているリナの顔を見た。

そうだ!こいつだ!私こいつにだけ喋った!

真紀が思わず、バシッと彼女の頬を叩く。リナは驚き、泣きそうな表情で真紀を見入った。
「きゃっ!何すんのよ!あたしはあんたの為に!」
「あたしがいつ頼んだよっ!よくもあたしの顔に泥塗ってくれたわねっ!」
「だって、あたし真紀が可哀想だったから……」
「可哀想ー?冗談じゃないわっ、ふざけるな馬鹿!」
真紀の頭に火がつき、ますますリナはおどおどして、媚びるように引きつった笑いを浮かべる。
「真紀、ね?ごめん、謝るから。すぐにやめさせるわ。だからお願い、機嫌直してよ」
「あたしはね、そんなネチッこいの大っ嫌いなんよ、冗談じゃないわ!あんたなんか絶交!さよなら」
「真紀!」
涙声のリナを残し、ツンと顔を背けて店に戻る。そしてカウンターにまわり、レジに立った。
信じられないことが自分のせいで起こっていたと思えば、はらわたが煮えくりかえりそうなくらい腹立たしい。
報復なんて、みじめなだけじゃん。
客の恋人らしいアベックに、フッと溜息が出る。

私こそ、もう会わないと思っていたのに……
ごめんね、ユキ、怖い目に遭わせて……

何で、あんな女に相談したんだろう。
あんな奴だと、交友関係も含めて知らなかった。今更考えても遅い。
あのやつれ方は、相当追いつめられたに違いない。
水樹と一緒にいる雪矢は、後で考えても本当に幸せそうな顔をしていた。それは水樹も同じだ。
水樹を幸せに出来なかったから、自分は負けたのだと思う。

性別の壁なんか、恋の前では豆腐よりもろいじゃん。こだわる方が、アホ臭い。

真紀が大きな溜息をつき、鍋のおでんをかき回す。そして、明日にでも謝りにいこうと心に決めていた。




水樹が走って駅の方角を目指す。
土曜だけに人が多く、小柄な雪矢の姿は見つからない。
とうとう駅までたどり着いて切符売り場を見ると、値段がわからないのかじっと表を見ている後ろ姿を見つけた。
「ゆ……」声を上げようとして止める。
きっと彼のこと、逃げ出すに違いない。
やがて券売機に千円札を何枚も差し込んでいる彼の後ろに立ち、ボタンを押そうとする手を遮るように、返却ボタンを押した。
「え?あ、水樹」
振り返り、その顔がホッとしたような複雑な顔に変わる。
しかし券売機から出てきたお金を取って逃げようとする彼を押さえ、水樹は彼の手からお金と財布をサッと取り上げて、自分のポケットにしまい込んでしまった。
「帰ろう。出て行くなんて、俺にはその方がひどいショックだぜ」
「水樹、もう会わないって僕、真紀に……」
「真紀は関係なかったよ。これは、俺の金だから返して貰います」
「え?関係ないって?え?ええ?それ、一応僕のお給料だよ」
「ハイ、君のお金は俺の物。俺のお金も俺の物」
「ひどいや、じゃあ僕のが無いじゃない」
「無いよ、君自身も俺の物だもん。それじゃあ、拾得物は持ち主に戻ります。まったく、熱があるくせに出歩いて、医者にでっかい注射して貰うぞ!」
ポンと水樹が彼を抱きかかえて駅を出てゆく。
「離せよっ、みんな見てるだろ?!水樹!」
「いいよ、みんなに見せてやろうぜ。俺達恋人同士、好き合ってまーっす」
ワッと驚き、雪矢が彼の口を塞ぐ。
水樹がその手を払うように顔を振って目の前に彼を下ろし、抱いてゴツンと額をぶつけた。
「もう、こそこそするの止めた!いいジャン、世間の荒波は普通人にも冷たいんだから」
水樹は開き直って話す。でも、雪矢の不安な表情は消えない。
「商売に関わるから秘密にしようって言ったじゃない。無理だよ」
「もういいんだよ、ルートは俺達の道なんだから。簡単につぶしはしない。雪矢、雪は溶けて水になる。水は流れて道をゆく。とどまることはない」
「……詩人だね、知らなかったよ」
ようやくクスッと雪矢が笑う。
「ああ、雪、しがらみを解いて、水になろう」
人通りの激しい駅の表通り、水樹は雪矢にそっと口づけをした。
振り返る、人々を恐れもせず。
恋人達は、常に無敵なのだ。