赤い髪のリリス

>>その1(1話、2話)
>>その2(3話、4話)
>>その3(5話、6話)
>>その4(7話、8話)
>>その5(9話、10話)
>>番外編 風の禁呪(お題、禁じられた言葉より)
※新連載開始しました
>>赤い髪のリリス 戦いの風1
>>赤い髪のリリス 戦いの風2
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リリス幼少の頃の話しです。
村人から忌み嫌われるリリスは、学校にも行けず魔導師になる道を選びました。しかし身分は召使い、毎日仕事に追われています。
セフィーリアも数人の弟子を取って魔術を教えていました。
ある日王子の誕生日、町ではお祝いの行事が開かれ他の弟子達も遊びに出かけます。しかしその1人が風の魔術を失敗した為に、大きな騒ぎへと発展してしまいます。
リリスはそれを魔術で封じ、騒ぎを収めますが村人が騒ぎ初め……

赤い髪のリリス 番外編

風の禁呪

カラカラ・・カラカラ・・
ヒュオオオオオオ・・・
「あ・・」
風が巻き、赤い髪が舞い上がって井戸の蔓を持つ小さな手が放れそうになる。
ホコリが目に入りそうで、思わず目をギュッと閉じると、遠くで学校の鐘が聞こえて振り向いた。
「危ない!ちゃんと見ろ!」
「あっ!」
ガラガラガラガラ!!
「手を離せっ!」
言われて、パッと手を離しコロンと後ろにひっくり返る。
バッシャーンッ!
途中まで上げていた桶が井戸の中を落ちた音がして、急いで立ち上がると中を覗き込んだ。
井戸の中は真っ暗でよく見えない。
蔓を引っ張ると、手応えもあって壊れてはいないようだ。
ほっと一息ついて振り返ると、後ろに乗馬服の青年カイエが怒った顔で立っていた。
彼の金の髪に青い瞳は、高貴でスラリとしたスタイルと容姿に映える。
「バカッ!ちゃんと見て、自分のやってることに集中しろっ!」
怒ったカイエに、リリスが赤とグレーの色違いの目から涙を潤ませる。
「申し訳、ありません。」
項垂れて頭を下げ、また井戸に向かうと懸命に手を伸ばして蔓を握った。
「まったく、師のお気に入りだからって、まだ小さいクセにのぼせ上がるんじゃない。
馬小屋の掃除は済んだのか?」
「はい、綺麗にして、新しい草を敷いておきました。」
「ふんっ。」
カイエが近くの木に繋いでいる馬の元に歩いてゆく。
「ニャオオ・・ンン」
彼のグレーの馬が、リリスに向かって甘える声で鳴いた。
思わずリリスが、にっこり笑って空いた手を上げる。
触ることさえ禁じられた馬も、いつも小屋を綺麗にしてくれるリリスが好きなのだ。
貴重で高価な馬は、この世界では貴族以上の身分の者しか持っていない。
カイエはこうしてセフィーリアの元で修行を積む魔導師見習いではあるが、身分は貴族だ。
3男の彼は家を継ぐ必要もなく、こうして人々から恐れられ、敬われる魔導師を目指している。
 機嫌が悪そうな彼を見送り、リリスはまた水汲みをはじめた。
カラカラカラ・・ジャアアア・・
水を運ぶ桶の半分まで汲んで、フウッと額を袖で拭く。
キャハハハ・・キャア!キャ・・
遠くで村の子供達の笑い声が響いて、丘の下の村に並ぶ家々をぐるりと見回した。
「学校の、帰りかなあ・・」
リリスも、本当ならば今頃は学校へ、村の子供達と一緒に通っているはずだ。
リリスは、今年5才。
幼年学級へ入れると、御師様も新しい鞄を作ってくださった。
春の花咲く頃を楽しみにしていたのだ。
それが、学校に断られてしまった。
怒り狂う師のおかげで、この村には3日もひどい嵐が吹き荒れた。
赤い髪に色違いの瞳、不吉な悪魔の姿のリリスを、大切な子供と一緒にするなどとんでもない。
親たちの反対は、受け入れる予定だった学校を慌てさせた。皆を平等にと言っていた校長の、手のひらを返すような態度も、師にはとても理解できない。
怒りの収まらない彼女の姿に、4日目にリリスが泣きつき、ようやく収まった。
その時、師はリリスに魔導師を勧めたのだ。
リリスの声には力がある、だからきっと良い魔導師になれるはずだと。
その気遣いがうれしくて、リリスも喜んで頷いた。
大好きな師と一緒の時間が増えるなら、その方がうんといいと思ったのだ。
そして師の思ったとおり、リリスの力はぐんぐん伸びて、先輩見習達を追い越す勢いでもある。
まだ小さくて知識に飢え、柔軟性のあるリリスは吸収が早い。
師も喜んで、教えることに力が入る。
だからこそ、二人の関係に嫉妬する先輩魔導師もいるのは、実際否めなかった。
 「よいしょ、よいしょ。」
自分の身体より一回り小さいくらいの桶を、重そうに裏口からキッチンへと持ってゆく。
キッチンのカメには、まだ後5、6回はこうして繰り返さねばいっぱいにはならないだろう。
小さなリリスには、一度に持てる量がしれている。それでも水汲みは、物心付いたときからリリスの仕事なのだ。
「まあ、まだいっぱいになりませんか?
グズグズしていると、夕食に間に合いませんよ。」
リリスの養育係兼、メイドのサーベラが大きな溜息をつきながらイモを抱えてキッチンに立った。
「これを剥いて貰おうと思ったのに、その様子では無理ですね。
今日はシェフのアルカイドが休みだから、私も忙しいのですよ。」
「あ・・もうし・・け、ありません。」
「リリス!もう一度!」
ビクッと背をピンと伸ばす。
「もうし、わけ、あり、ません!」
ドキドキして、サーベラがムチを持っていないか思わず目で見回した。
その目つきもやはり悪かったのだろう。
ムチが見えないことにホッとしていると、リリスの手を取りパシッとその手を挟むようにして叩いてくる。
「あっ!」
ムチほどではないが、やっぱり痛かった。
「下品な目つきをしてはいけません。下働きのあなたがそんな目つきをしては、御館様に恥をかかせますよ。」
「はい、すみません。」
「よろしい、では早く済ませなさい。」
「はい、失礼します。」
ぺこりとお辞儀して桶を持ち、すっと後ろに引く。
パタンとドアを閉め、ペロッと舌を出した。
「ヘヘヘ、怒られちゃったね。
もうしわけ、ありません!口が回らないんだもん。
呪文も早口言葉みたいだからね、もっと早く話せるようにならなくっちゃ。」
ペロペロ小さく可愛い舌を出しては引っ込め、傍らに咲く花をちょんと小突く。
そしてまた井戸に向かって歩きだした。
「あれ?ムスリムとレナンだ!」
遠く、山から薪を背負って青年が二人、丘を登ってくる。
山男の大柄なムスリムに対して、痩せて体力のないレナンはヒーヒー言いながら這うようにしてきつそうだ。
リリスが大きく手を振るとムスリムが気が付き、手を振り返してきた。
ムスリムは、村に住んでいながらここへ下男として時々手伝いに来てくれる。
気さくで差別することなく、リリスも大好きだ。
レナンは、ここへ行き着いても次には薪割りが待っている。商人の息子は頭を使うのが得意なんだ!と言い訳のような口癖を、またわめきながら嫌々やるのだろう。
そう言うときは、不機嫌この上ないから近づかないのが一番だ。
リリスは思い浮かべながらクスクス笑い、また井戸へと急ぎ足で向かった。
 「ふう!」
ようやく水汲みが終わり、夕食の支度をするサーベラにそうっと近づく。
テーブルの上は高くて見えないが、お皿がちらりと見える。
もう手伝うことがあるのか分からないので、何か言いつけられるのをじっと立って待っていた。
美味しそうなパンの香りが、スープに負けずに香ばしく漂う。
くんくんと鼻を利かせながら、セッティングの確認にキッチンを抜け出し、隣の食堂を覗くとすでにカイエが座っている。
パラパラと本をめくり、退屈そうに大きな欠伸をしてバタンと閉じた。
「何の本だろう。凄く立派な本だなあ。」
そっとカイエに近づいて、横から本の背表紙を覗き込む。
難しい言葉つづりで良く分からないが、神殿、巫女・・きっと、神殿に伝わる巫女達の神に捧げる言葉。
それは魔導師と最も近いところにいる巫女達の、魔導の呪文と同じ意味を持つ。
わくわくして、読んでみたい。
難しくて読めないときは、親しいレナード様に読んで貰えばいい。
しかしカイエは、この家でも最もリリスを忌み嫌う一人だ。
半年前に来てからも、まったくなじもうとしない。
ほんの少し、ほんの数ページでいいのにな。
リリスは駄目も覚悟の上で勇気を出して頼むことにした。
「あの、あのカイエ・・様」
カイエは貴族だ。あまり話しかけたことはない。
カイエはちらっと横目で見て、返事もしてくれない。いつものことなので、リリスは構わず続けた。
「よろしければ、その・・ご本をお貸し・・お貸し・・・えっと、にゃがえましぇんか?」あれ?舌が回らない。
思わずカイエがプッと吹き出して、また無視するようにプイッとそっぽ向く。
もう一度。よしっ!
「カイエ様、ご本をお貸し・・」
「リリスッ!!手伝いもせず、何をしているのです!」
サーベラが凄い剣幕でキッチンから飛び出してきた。
「は、はいっ!」
びっくりして慌ててキッチンへと向かう。
あっ!ムチだ。
キッチンに飛び込むとサーベラはすでに短いムチを持ち、仁王立ちでリリスを待っていた。
「お前はカイエ様と同格と思っているのではありませんか?!」
「いえ!私は召使いです!勉強を離れたら、召使いでございましゅ!・・ます!」
胸がドキドキ、膝が震える。
「お尻を出しなさい!」
「は、はい。」
やっぱり・・・お尻を打たれると、後がとても辛い。
サーベラに背を向け、ズボンを下ろして前屈みになる。
ギュッと膝頭を握っていると、ヒュンと風を切る音がして、ビシッと火の様に熱いムチが小さなお尻に赤いすじを作る。
3回それを受けて涙を流していると、ようやく許しが出てズボンを上げた。
「ゆめゆめ自分の身分を忘れぬように。」
「はい。」
「セフィーリア様を呼んでいらっしゃい。」
「承知いたしました。」
涙を拭いて、これから食事が始まるので給仕の手伝いだ。
師は薬草を使って薬を作っているので、急いで別棟の部屋へ呼びに走る。
潤む目をギュッと拭いて、気取られないように明るく声を掛けた。
「御師様!御夕食の準備ができました!」
中で、ガタンバタンと物音がして、ガチャリと長い白髪の美しい女性が顔を出す。
リリスの師、セフィーリアだ。
プンと強い薬草の香りが鼻を突き、隙間から覗くと奥の方で、ここでも最も長く弟子をしているレナードが何かをゴリゴリ潰していた。
この薬草の部屋は、許された者しか入る事ができない。数々の薬草と古い書物が並び、一度覗きたい物だが、そこはリリスさえ危ないからと入室を禁じられ、師の他はレナードしか入らない部屋だった。
「おお、リーリか。可愛いのう、お手伝いだな?よしよし、一緒に夕食を取ろうぞ。
レナード、これが済んだら食事じゃ。
早う行かねば、サーベラに私の可愛いリーリが怒られてしまう。」
「はいはい、承知しました。」
困った顔で、クスッと笑う。
レナードは手を上げてリリスに笑いかけると、その手を急ぎはじめた。
 食事は、焼いたパンに野菜がたっぷりのスープ。そして肉のソテーだ。
師は城からの援助を十分に貰っているおかげで、貴族と同程度の生活が保障されている。
そうは言っても、貴族にしては食事内容は質素な方だろう。
いつもはアルカイドが食事を作るのだが、今日は城へ手伝いに行っている。
明日は王子の誕生日パーティーで、城は大変な忙しさなのだ。
「さて、」
と師が座り、3人の弟子達が食卓に付いた。
リリスがワインを運び、サーベラが食事を用意する。
「どうぞ、パンを。」
ワインをつぎ終えた後、急いでパン籠を持ち皆にパンを配る。
師ははらはらと落ち着かない様子で、リリスから籠を取り上げ、空いた席に座らせた。
「もう良い!お前もここへかけるのじゃ。
パンはここへ置けば勝手に取る!」
「いけません!いけません!叱られましゅ!」
血相を変え、あたふたと椅子を降りようとするリリスを椅子に押しつけ、師が籠を手の届かないところへ置いてしまう。
そこへ運悪く、サーベラがデザートを載せたワゴンを押して現れた。
「セフィーリア様、何をしておいでです?
リリスが何か粗相を?」
「違う!一緒に食べて何が悪のじゃ。食事は皆と取った方が美味しいではないか。」
「またそのような・・・リリス、降りなさい。」
フウッと、大きな溜息をサーベラがつき、強い口調でリリスを叱る。
リリスはビクビクと身体をこわばらせながら、ようやく椅子を降りると師に深々と頭を下げ、キッチンへと逃げてしまった。
「何故一緒に食事もままならんのじゃ!?」
「身分、をわきまえるならば修行をしても良いと申し上げました。ダラダラとそう言うことがうやむやになるのでしたら、きっぱり修行を止めさせます。」
「うるさい奴じゃ、身分身分と・・」
「身分をわきまえることは、リリスのためにもなるのでございますよ。私は本当のことを言ったまで、リリスは魔導師になろうとも、あなた様の召使いという身分は変わりません。」
弟子達は、いつもの事と知らん顔で食事をとっている。
頼りない、誰も口添えさえしないのかと腹立たしい彼女だったが、諦めるしかない。
「身分など、犬にくれてやるわ!ふんっ!」
セフィーリアも腹立たしそうにしながら、食事中とあってそこで折れた。
 「ところで御師様、明日は何かお持ちになって登城されるのですか?」
商人の息子らしく、レナンはこう言うことに気が利く。しかし、師は不機嫌そうにプイッとそっぽ向いた。
「私が行くのだ。それで十分であろう。」
「しかし、手ぶらで行かれるのは・・それとも何か贈り物に術を使われるので?」
「くだらんっ!招かれただけでも面倒なのに、どうしてあんなガキのために・・ふんっ!
そうじゃ!帰った後でリリスの誕生会をしようぞ!」
パンッと手を叩いて目を輝かせる。
カイエがサーベラがいないのを見て、カランとスプーンを放り呆れたように首を振った。
「いい加減になさったらどうです?
毎日毎日、使用人を同等に扱おうとしてもこのアトラーナでは無理という物でしょう?
あんな赤毛のガキのために、あの婆さんとの言い合いなどもううんざりだ。
捨て子の生まれ日など、分かりもしない物を祝ってどうするのです」
「赤毛のガキか?お前より、先の者じゃぞ。
魔導に年なぞ関係ない、それはお前とて見ていて分かるであろう?
それに誕生を祝うのに、生まれ日など関係ないではないか?」
カイエがヒョイと肩をあげる。
頷くのもしゃくだし、否定するのもわざとらしい。
「どうぞ、お好きになさるといい、私は遠慮させていただきます。」
不機嫌そうに、カイエはまたスープを食べはじめた。
「本当に、リリスは凄いですね。
御師様、僕は、本当に魔導師になれるでしょうか?」
レナンが力無く溜息混じりに呟く。
後輩で年少のリリスには、すでに術師としては負けている。落ち込むのも無理はない。
「まっ!ほっほっほっほっほ!何と気のない事よ!お前は何しにここにいるのだ?」
「魔、魔導師になるためです。」
「人のためになりたいと心に目標があるのなら、それはお前の大きな力になろう。
なれるかどうかと惑うのは、前に進もうとする力を大きく遮るぞ。」
「は、はい!」
暗い顔に師の一言で、パッと明るく日が差した。
 明日の誕生日には、城へセフィーリアも招かれている。
壮大で派手な式典になることだろう。
それぞれの町や村では、王子の誕生を祝って色々な催しもある。
毎年のことだが、それだけ王家は人々に愛され敬われているのだ。
この丘から見える村の楽しげな様子に、毎年リリスもそわそわと落ち着かない。
それでもサーベラの目が特にこの日は厳しさを増し、村へそっと見に行く事さえ許されないのが、当のリリスよりもセフィーリアには腹立たしい一日だ。
 暗いキッチンでリリスが遅い夕食を取っていると、サーベラが帰り支度をはじめる。
サーベラは、リリスのオムツが取れた頃から通いに切り替え、夕刻には家に帰る。
城下に住んでいるので、日が暮れる前にここをたたなくてはならない。
弟子達も離れに住むので、おかげで夜だけはセフィーリアと母屋に二人っきりの時間がとれていた。
「では、私は帰りますが、主人に粗相のないよう気を付けなさい。甘えるなどもってのほかですよ。」
「はい、承知しました。」
「師は母ではないのです。勘違いせぬように。」
「はい、承知しております。」
「セフィーリア様が甘えても良いと申されても、決して失礼のないように。
お前は身分の低い、使用人なのですから。」
「はい、わかりました。」
淡々と誓いを立てるリリスに、サーベラが溜息をつく。どれほど守られているか、セフィーリアのあの様子では、昼間の分も可愛がっていることだろう。
「明日の修行は休みでしたね?
他の方々は祭りに行かれても、使用人のあなたには日頃できないことまで仕事が待っています。」
「はい、お掃除をしようと思っています。」
どちらにしても、リリスが村へ入るなど許されないだろう。祝いの席に、不吉だと村人の怒りを買うのは目に見えている。
「よろしい、では、後を頼みましたよ。」
「はい、お疲れでございました。お気をつけて。」
椅子から飛び降りて、いそいそとサーベラを見送る。
丘を降りるサーベラの姿が夕焼けの向こうに消えたとき、リリスはホッと胸をなで下ろしてうんと伸びをした。
「ハア!やっとお帰りになった。さあてと、ご飯を食べて後を片づけようっと。」
ててっててっとスキップしてキッチンに戻り、キョロキョロ辺りを見回して、粗末な木椅子によじ登る。そして手を伸ばして戸棚から御師様方に出す、木イチゴのジャムを取りだした。
蓋を開け、くんくん嗅ぐと甘酸っぱい香りに、よだれがドッと口を満たす。
落とさないよう大切にテーブルに置き、気付かれないくらい表面を薄くすくってパンに付ける。
パクッと食べると、甘くてとろけそうに美味しい。しかし、薄くパンに塗って食べただけでは物足りない。
「もう少し・・」
あと一匙と、また薄くすくって今度は直接パクッと口に運んだ。
「おいしーい!」
給仕をしながら、食べたくて仕方がなかったジャムだ。
今夜は絶対ほんの少し食べようと、楽しみにして日が暮れるのを待っていた。
もう少し、分からないくらい・・
そうっとすくって舐める。
「やっぱりおいしい。森で食べる物より、ジャムにした方がうんとおいしいや。」
もう少し、もう少しとすくっている内、ドキッとするくらいに減ってしまった。
「あ・・どうしよう・・」
時々貰える菓子は、木の実を煎った物や森で取ってきた木イチゴなどの果物だ。甘い菓子など、滅多に貰えない。
師や他の弟子達に出すお茶菓子も、サーベラが厳しく監視しているので余程上手く貰わないと取り上げられる。
使用人が、主人に菓子をねだるなどとんでもないと叱られるのだ。
それ程厳しいのに、どうした物かとリリスが途方に暮れた。
また、ムチで打たれるかもしれない・・
恐怖がドッと押し寄せ、食べてしまったことに後悔ばかりでどうした物かが浮かばない。
「仕方・・・無いね・・」
ギュッとビンを握りしめ、ガックリと肩を落とすリリスは、いきなりその肩をポンと叩かれ飛び上がった。
「わっ!」
「あはは!びっくりしたろう?おやおや?イタズラ小僧は何で困ってるのかな?」
顔を見るまでもない、レナードだ。
急いで隠そうとするビンを取り上げられ、あっと手を伸ばした。
「ああ、このジャムは確かにうまかったよ。
彼女は、口うるさいがジャム作りの天才だ。
おお!まだ残ってるよ、じゃあ、残りは僕が貰おう。」
「あっ!駄目です!それは・・」
飛びつく暇もなく、レナードが木匙でガバッとすくい、パクッと食べてしまう。
「美味い美味い!また作って貰おう!明日は、木イチゴ摘みにいこうか?リリス。」
「え?また?作ってくださるかな?」
「ああ!もちろんさ。彼女はあんな顔して、誉められると弱いんだよ。」
そう言って、指で両目を釣り上げる。
キャアッと笑いながら、リリスが手を叩いた。
「レナード様、お上手!」
「レナードでいいよ、おチビさん。」
「くふふふ・・いいえ、皆様はお偉い方ですから。」
レナードが、ポンとリリスの頭を撫でる。
 レナードは、元剣士だ。友人を亡くしてから、剣を捨てて魔導の道をめざしている。
人のためになることで、友人の慰霊の意味を込めるためだ。
ここへ初めて来たとき、リリスはまだはいはいしていた。動き回って危ないからと、サーベラがよく腰に縄を付けて柱に繋いでいたのを思い出す。
それでも、いつの間にかすっぽりと抜け出て、こそこそ家中を這い回ってはいなくなり、慌てて探し回っていたのが懐かしい。
子供をあやすのは初めてで、良く戸惑っていた。オムツも替えたことがある。
なのにサーベラはリリスに物心付いた頃から、まわりのみんなをただ、「さま」「さま」と呼ばせていた。
甘えると叩かれる。泣きわめきもせず良くも辛抱強い子だとレナードは師と共に、サーベラの目を盗んでは可愛がっていた。
 「明日、朝から森に行こう。」
レナードの誘いにパッと顔を明るくしたリリスが、あっと思いついて首を振る。
見る間に落胆して暗い顔で首を振った。
「ああ、駄目です。明日は朝からお掃除をしなくてはなりません。やっぱり駄目です。」
「明日は休みだろう?」
「いえ、私は修行に入ってからは半日が勉強でお仕事ができないので、お休みの日は朝からいつもお掃除をするんです。」
「そうだったのか、明日は祭りがあるのにな。
お前は全然休みがないんだな。」
「えへへ、リリスはそれが普通です。
お祭り、レナード様も行かれるんでしょう?
リリスは、丘の上から見ていますから、どうぞ行ってらっしゃましぇ。あれ?いって、らっしゃ、いましぇ、ませ。」
へヘヘッとリリスが笑って頭をかく。
「フフフ、その方が年相応だよ。」
「年、そーおーでしゅか?ですか?」
気心の知れたレナードの前で、リリスの緊張が解けてゆく。舌が回らずペロッと出すと、クルクル頭を撫でてくれた。
 カランカランカランカラン・・・
朝からずっと至る所で鐘が鳴る。
丘から見る村には、女性がカラフルなお祝いの服を着て花を籠に入れ、歌を歌いながら家々に配る姿が時々見られて楽しそうだ。
子供達が連れ立って、キャアキャアと家々を回ってお菓子を貰う。
王家の祝日は、この国の人々も楽しみにしている大切な日だ。
広場ではご馳走が準備され、音楽に合わせて皆が踊り出す。
楽しそうな音楽は、村いっぱいに広がって丘の上のセフィーリアの家まで良く聞こえてきた。
 ガラガラガラ・・ジャアア・・コトン
井戸から水を汲み、丘から眼下に広がる村を見下ろす。
青空には軽快な音楽が鳴り響き、時々笑い声が混ざって思わずリリスはにっこりした。
今日は朝早くからセフィーリアは出かけてしまっている。
レナンも、嫌がるカイエを連れて村へ遊びに出てしまった。レナードは、薬草取りに森へ出ている。
家にはリリスとサーベラの二人。
わびしい物だが、サーベラも用があって昼前には村へ降りる。
つまり、昼からはリリス一人だ。
それもかえって気が楽かも知れない。
午前中に掃除が済んだら、あとは家の中でなら遊んで良いと言われたので、あの薬草の部屋に忍んで本を読もうかと思っている。
また怒られるかも知れないが・・
サーベラには、驚くことにジャムについては叱られなかった。
ただ、隠れて食べたことに説教されただけだ。
あまりに美味しかったのでと泣きながら訴えると、また、作ってあげましょうと言ってくれた。レナードの言葉もあながち嘘ではなかったのだろう。
しかし実際は国を挙げての祝日に、サーベラも叱る気になれなかったのだ。
運が良かったと言える。
 「よいしょ、よいしょ、」
重い桶をぶら下げ、音楽に合わせてステップを踏みながら家に入る。
「ポンポンポン、んんんー、キュッキュッキュ!」
村には行かなくても、音楽が聞こえるだけで心が躍って床磨きが楽しい。
「そう言えば、御師様は今度フィーネを教えて下さるって言ってたな。うふふ、楽しみだなあ。」
キュッキュッと磨くと、床板がピカピカ光る。
リリスは小さな手で、師の喜ぶ顔を思い浮かべながら、床を懸命に磨いていた。

「カイエ!早く早く!」
レナンがカイエの手を引いて、村の広場へと道を急ぐ。
人々は楽しく話しながら、男達はやや酔い加減でフラフラと皆が広場に集まっている。
籠を持った女達は若い者も中年の女も、着飾って美しい。
ちょっと下手な楽器がガヤガヤと鳴り響いているが、恐らく奏でる者も酔っているのだろう。
その内楽しげな歌が始まり、踊っているのかかけ声が聞こえてきて、レナンはパッと明るい顔で、嫌々歩くカイエの手を更に力強くグイグイ引いた。
「ほらほら!急がないとダンスが始まるよ!
女の子を誘って踊りたいじゃない!」
「女と踊る?冗談じゃない、俺は・・ぅおっと!」
「きゃあ!ごめんなさい。」
ドンとぶつかった女性が、慌てて振り向きぺこりと頭を下げる。
17歳前後だろうか?なかなか可愛い。
「あなたこそ、お怪我はありませんか?美しいお嬢さん。」
「ま!お上手。」
フンと無愛想なカイエをよそに、チャンスとばかりレナンがその子の手を握る。
ポッと赤い顔ではにかむ彼女は、先でキャアキャアとはしゃぐ友人に手を振り、レナンの腕をぐいと引き寄せた。
「あなた!風の丘の魔導師さんじゃございません?」
「えっ!ごぞんじですか?」
まだ魔導師ではない、見習いだ。
「ええ!もちろん!村にはあなたみたいないい男はいないもの。」
確かに、レナンはひょろりと長身の優男で、顔も普通よりは整っていると言える。
「ね!一緒に行きましょう!」
娘は、気分が舞い上がっているのか積極的だ。
隣にいたカイエは、娘の友人達が取り囲み、問答無用で広場へと引っ張ってゆく。
「わ!俺は行かないって!はなせよ!こらっ!」
「祭りに来て遊ばないってどういうつもり?行きましょう!キャハハハハ!」
「うわっ!おい!レナン!レナン!」
カイエが娘達に手を引かれながら振り向くと、すでにその姿は人混みに消えている。
呆れて周りを見回すカイエに、娘の一人が首を振った。
「ダメダメ!エリザベータは村長の娘よ!
ほんとわがままなんだから、彼ってきっと振り回されてレロレロで帰るわよ!あははは!!」
「村長・・の娘?」
ほんの少し、嫌な予感が走る。
それが気のせいならいいと願う前に、彼自身も強引な娘達に引っ張られ、やがて広場に付くと大きなグラスを渡されて、それへなみなみとワインを注がれた。
エリザベータは、好奇心旺盛な娘だ。
親に禁じられたあの丘への興味は、なかなか潰えずに一度見に行ったことがある。
そっと物陰を進むと、そこはごく普通の家で、数人のちゃんとした人間が普通に生活しているようだった。
気が抜けてがっかりしたのが初印象だったのに、いきなり目の前に現れたのだ。
赤い悪魔の子供が。
恐ろしいほどに髪が赤く燃え上がり、子供の顔で不気味に微笑む赤とグレーの色違いの瞳。
びっくりして、悲鳴を上げながら走って逃げた。
しかしその時一番驚いたのはヨチヨチ歩きの当のリリスだったのだが、そんなことは分かるはずもなく、ただ村の若い者の間で「赤い髪の悪魔」の話しが持ちきりになって、大人達の眉をひそめさせた。
その恐怖も薄れ、エリザベータはまたあの丘への興味が湧きだしたところでレナンに会ったのだ。
ラッキーとばかりに彼を誘い、広場の片隅のベンチで酒を飲ませ、食事をして親しくなり、そしてレナンがほろ酔い加減になったところで話を切りだした。
「ねえレナン。あんたあの丘で暮らしているんでしょ?ねえどんな感じ?」
「別に、普通だよ。」
「ねえ、赤い髪の悪魔がいるんでしょ?怖くない?」
「悪魔?あはははは!リリスは普通の子だよ!
・・いや、ちょっと凄いかな?」
「凄い?」
言いかけて、ふと止めた。
まさか自分が子供に負けているなど、格好悪くて言えるわけがない。
「まあね、普通より変わってるってことさ。」
「ねえねえ、あの丘の家を案内してくれない?
ねえ、あなたも魔法が使えるんでしょう?見せてよ!」
「えっ!」
びっくりして、思わずグラスを落としそうになる。
自分はあの中でも最も半人前、一番術者としては未熟だ。
それに、まだまだ、あのレナードでさえ師がいるところでしか術を使うことを許されていない。
それだけ不安定で、危険を伴う物だ。
「だ、駄目だよ!駄目駄目!それは禁じられているんだ!」
思った通りの答えに、エリザベータがむくれて見せる。
肩をすぼめ、上目遣いでしなだれると、レナンの胸元をツンツンと小突いた。
「わかってるわよう。私だってバカじゃないもん。でも、ちょっとだけ、簡単な魔法ならいいでしょ!
・・ねえ、私の彼が魔法使いだって、みんなに自慢したいの。」
「彼?俺を・・?自慢?」
「そうよ、私の彼は、こんなに立派な魔導師なのよって。」
パチッとウインクして両手を胸で組み、グイッと胸を持ち上げる。すると大きく開いたドレスの胸元から、ふくよかな胸の谷間が露わになった。
カアッとレナンの頭に血が上り、知らず頭がウンウンと頷く。
キャアッと喜ぶエリザベータを伴い、レナンはとうとう丘へと向かって歩き始めた。
丘への道は、村を外れてすぐのところだ。
いつもは人通りのない道も、今日は村の喧噪を嫌って静かに語りながら飲みたい者が、足下をふらつかせながらうろうろしている。
館への坂を上り始めたレナンとエリザベータの姿に、丁度居合わせた彼女の叔父が声を張り上げ手を振り回した。
「こらーっ!エリーザ!また風の館に行くつもりかっ!ゆるさんぞ!
このバカ娘が、あんな所に行くと呪われるぞ!」
あっ!と身体を小さくして、思わずエリザベータがレナンの陰に隠れる。
叔父に見られたからには、口うるさい両親に知られたも同然だ。
丘の上の館はもうすぐだというのに、諦めて彼女はレナンの腕を掴み、その場に立ち止まった。
「もういいわ!もう!何て運の悪い!
ねえ、ここでいいからせめて魔法を見せてよ!」
「え!ここで?」
「いいじゃない!見せてくれるって言ったでしょ!叔父さん、びっくりさせてあなたを認めさせるのよ。
あなたは私の『彼』なんだから。」
レナンがいきり立つ彼女の顔を見て、そしてすぐそこへ迫った丘の上にちらりと顔を出す館を見比べる。
大した事のない、差し障りのない術なら。
この、館に近いところなら。
たとえ館に近くても、館にはリリスしかいない。しかし、いつもの場所に近いと言うだけで、レナンの気持ちがホッと緩む。
彼女の叔父の言葉もカチンときて、ヨシッと腹を決めた。
しかし、術と言っても色々ある。
風を巻き起こすくらいは、あまりにも地味だ。
彼女が喜びそうな・・驚くような術・・
そうだ、あの「仮初めの術」を。
手の中で風を巻き起こし、仮初めの命を生み出すかなり高等な術だ。
レナードは十中八九だが、自分が成功できたのはまだたった一度。
美しく透き通った鳥はあっという間に消えてしまったが、きっと彼女も驚いて喜ぶに違いない。そう思えば、何だか出来そうな気がする。
「よし。」
「きゃっ!うれしいっ!」
はしゃぐ彼女の横で、スウッと深呼吸しながら丘を背にして両手を前に差し出す。
そして精神を集中し、口の中でもごもごと呪を唱え始めた。
ヒュウウウ・・・
レナンの手に、徐々に風が集まってくる。
隣ではエリザベータが両手を会わせ、目を輝かせて見入った。
上手く行くかもしれない!
レナンの心に隙が産まれる。
「すごいわ!すごい!」
パンパンと手を叩いて、彼女が感嘆の声を上げる。
よし!・・よしっ!今だ!
「風よ!我が手の中に仮初めの命を作り出せ!
ファルド・コン・コルド!ファルド!コン・コルド!」
ビュオオオオオ・・・・
レナンのかけ声に答えるように、風の勢いが増してゆく。
風は手に絡み付き、そしてレナンはその風を包み込もうとして弾かれた。
「あっ!」
「きゃっ?!」
つむじを巻いた風がレナンの手を離れ、急速に二人の前で大きくなって行く。
「あっ!あっ!あっ!」
「レナン!レナン!もういいわ!これ消して!
レナン!もういいから止めてよ!」
二人が抱き合うように、次第に風を大きく巻き上げて行くつむじを恐れて後ろへ下がる。「ダッ、駄目だ!駄目だ!もう駄目だ!」
ビュオオオオオオ・・ウオオオオオオ・・・・
「ひいっ!誰かっ!誰かああ!!」
あたふたと逃げる二人の後ろで、つむじ風はすでに人の高さを大きく超えている。
やがてそれは、事もあろうか丘を駆け降りて村へと逃げ出した二人の後を追い、土を巻き上げ、草木を巻き上げ、そしてその場へいる人々さえ巻き上げ始めた。
ビュウウウオオオオオ・・・!!
「ぎゃああ!!」
「助けてくれえ!!」
ゴオオオオオヒュオオ・・・・ビョオオオオオ・・
「叔父さん!叔父さあーん!!
「きゃあああーーー!!!」
とうとう、エリザベータの叔父まで巻き上げられ、あまりの恐怖にエリザベータが気を失ってその場に倒れる。
「ああ、ああ、師よ、御師様、俺は大変なことを・・禁を犯した俺の・・これは俺の・・」
目前にそびえるつむじ風を前に、大変なことを引き起こしたとすでに逃げる気力を失って、周りを見回した。
逃げまどう人々は恐怖に顔を引きつらせ、コントロールを失った風は爆発的に大きく長く、恐怖を伴い竜巻のように空へと伸びてゆく。
取り返しの付かぬ過ちに、レナンは震える手で顔を覆ってその場に立ちつくした。
「一体・・一体何?!」
館にいたリリスが外へ飛び出して、丘の下から村へと向かうつむじ風を見つけた。
それは恐ろしいほどに大きく、晴れ渡った空に伸び上がり、様々な物を巻き上げては放り出す。
「あ!あ!あ!あああ・・・!!」
恐怖に思わず数歩下がり、そして思い直して丘を駆け下りた。
「違うよ!違う!あれは普通じゃないよ!
精霊達が騒いでる!魔法だよ!魔法だ!」
タタタタッと走る足が、もつれて小さな石につまずく。
「あっ!」ドサッ!
倒れた拍子に膝小僧と手と頬をすりむいた。
しかしリリスは土を払うことさえ忘れ、立ち上がると丘の中腹まで駆け下りて立った。
そこからは、村のほとんどが見渡せる。
つむじ風はすでに村の入り口まで行き着いて、小さな家の屋根をメリメリとはぎ取り、そして家の中まで巻き上げて辺りにまき散らしている。
人々は恐怖に引きつった顔で逃げまどい、村は大騒ぎになって祭りどころではない騒ぎだ。
「御師様は・・御師様は・・」
師は、気が付いているだろうか?
被害はどんどん広がり、これ以上待てないせっぱ詰まった恐怖が大きく覆い被さってくる。
リリスは目を閉じ、気を落ち着かせると御師様が以前教えてくれた、一つの禁じられた言葉を思い出ししていた。
『これは、それに属する全ての呪を封じ、無に返す。それは、返せば精霊の力を奪う物だ。
絶対に、軽々しく用いてはならない。この言葉は、私の許可無くしては用いることを禁ず、禁句としよう。良いな。』
古い書物に載っていたその言葉は、二度と教えて貰ってはいない。
その書物自体、あの入室を制限された薬の部屋にある。
でも、リリスは一度聞いたら忘れない。
キュッと唇を噛み、そして意を決すると足を心持ち広げて、両手の平をすでに手を付けられぬほどに大きくなった、つむじ風へと向けた。
息をスッと整える。
禁じられていても、あの呪文しか知らない。
今を収めるのは、あの言葉しかないと心に決めた。
精神を集中し、心を研ぎ澄ます。
何かがカッと身体の中で熱く燃え上がる。
それが全身から手の平へスウッと移動して、時を同じくして巻き起こった風がリリスの身体を包み込んだ。
「風よ!風よ!精霊よ!己に返り我が声を聞け!総ての力を我が手に預けよ!我が手は無なり!我が手は清なり!我が手は慈しみなり!
フールフール・クリアレーン・レスカトラス・ルーン・ファラーン!!
精霊よ!力を預け、眠りにつくがいい!」
言葉が、自然に湧きい出た。
リリスの手がキンと光り、その手からキラキラと光りがほとばしる。
優しい風がリリスを守るように取り巻き、そしてその小さな身体を宙に浮き上がらせた。
ゴオオオオ・・・ォォォォォ・・・
風が見る間に勢いを弱らせて、つむじを乱しリリスの元を目指して飛んでゆく。
ゴオオオ!ウオオオヒュオオオオオオ!!
周辺の風が勢い良くリリスの手に引き寄せられ、手が引き裂けそうに、弾かれそうに痛い。
「うう・・あ・・くっ!」
ヒュウウウオオオオオ・・・
集まった風はリリスのまわりでとてつもなく大きな風の塊となり、一瞬リリスを包み込んで巻き上がり、全て吸い寄せられるように小さな手の中へと消えていく。
そしてフワリと最後に優しい風までもリリスの頬を撫でて、手に吸い寄せられてしまった。
あとにはこの村でも滅多にない、無風の、不気味なほどの静けさが戻って行く。
無事に術を使い終えて息を付くリリスが、ホッとして近くに倒れた人々を見回した。
「ああ、はあ、はあ、はあ、良かった、何とか・・ああ、あの方達は無事かな?」
何が起こったのか分からない村人が、丘の下でキョロキョロと辺りを見渡している。
丘を駆け下り近づこうとしたとき、その村人は更に恐怖の目でリリスを見つめた。
「悪魔!赤い悪魔だ!悪魔の仕業だぞ!!」
違うと、リリスの喉が声を出そうとしても、何かが喉に詰まったようで声が出ない。
そうしている内に村人は叫び声を上げながら、村へと逃げていってしまった。
「・・・どう、しよう・・」
他人の恐怖に引きつった顔は、あまりにも幼いリリスには恐ろしい。
何か、良からぬ事が起きる気がする。
リリスは自分に訪れる何かを感じ取ると、くるりと踵を返して一目散に館へ向かった。
何かが何か分からない。
でも、その何かがとても恐ろしいことに思える。
ずっと前、生まれたときから自分はこの姿を人間に忌み嫌われ、父や母さえこの姿のせいで捨てたのだ。
『師に拾われなければ、きっとお前は殺されてしまったでしょう。師に感謝なさい。』
そう、物心付いたときからサーベラにずっと聞かされている。
『呪われた悪魔』
知らない大人は、ひっそりとそう言っては誰しもリリスを嫌う。
殺される・・
村の人達が、僕を殺しに来る。
言いしれぬ恐怖に駆られ、館に駆け込み、涙を流しながら慌ててドアに鍵を掛ける。
「窓を、窓を閉めなきゃ!」
換気のために開けていた窓に、慌てて飛びつきバタンと閉めた。
閉めた拍子に、カチャンと窓の薄いガラスが音を立てる。
割れなかったけれど、リリスもはしゃいで2回割ったことがある。
そう、ガラスは割れるのだ。
「ど、どうしよう・・・
そうだ!2階の部屋だったら、きっと割れても入っては来られないよね!」
リリスが磨いて、アメのように光る階段を上がろうと段に足をかけ、そして立ち止まった。
「駄目、駄目だ・・」
絶望的な顔で首を振り、ガックリと力を落とす。
御師様に、大変なご迷惑をかける・・・
そう・・だ、僕だけじゃない。
僕のために、御師様まで・・・
ポロポロと、流れる涙はいつ尽きるのか、無情に止めどなく流れ落ちる。
顔に両手を当て、力が抜けたようにトスンと階段に座り、家の中を見回した。
開いたドアから見える居間に、楽しそうに弟子達と話をする師の姿が幻のように浮かんでは消える。
ギュッと唇を噛み、ゴシゴシと袖で涙を拭いて立ち上がった。
プルプルと首を振り、台所へと走る。
椅子を持ってきて、棚にあるパンを二つとチーズのカケラを一つ取った。
そして二階へ駆け上がり、自室で学校へ入学するはずだったときに買って貰った、薄いブルーの鞄にパンとチーズを詰め込む。
キョロキョロと見回し、勉強のノートを手に取って鞄に入れかけ、また机に戻した。
もう、このノートは必要ない。
そして鞄を背負うとまた階段を駆け下り、居間へ向けて、そして二階の師の部屋へ向けて深々とお辞儀する。
二度と・・二度と帰らない。
そう心に決めて。
そっとドアを開けると、まだ誰も来ていない。
外へ出て静かにドアを閉め、もう一度深くドアへ向かってお辞儀する。
「・・・・よ!こっち!」
小さく、大勢の人の声が遠くに聞こえて、ブルッとリリスの小さな身体に震えが走る。
ギュッと頬を一つつねり、動こうとしない足を、裏の森へ向かって一歩踏みだした。
そうしてリリスは、初めて一人旅へと旅だった。
たった、二個のパンと小さなチーズのカケラを持って。
目指すのは、シールーンの住む谷間の聖地の川。
リリスには、頼れる人など誰もいない。
まだ小さな彼を見かけに囚われず可愛がってくれるのは、精霊達だけ。
シールーンは山奥の川上に住む、水の精霊王ドラゴンの一人だ。
そこへは、以前御師様とレナードの三人で旅をした思い出がある。
今思いだしても楽しく、嬉しくてはしゃぎすぎて、何度もレナードに怒られた覚えがある。
優しく微笑み、良い良いと手を引いてくれた御師様の手のぬくもりが、今でも手に感触として残っている気がして、リリスは頬に手を当てた。
あの、楽しかった道のりを、今度は一人何も持たず。
そして、やがてそれがどんな旅になるのかは、想像するリリスの考えを、遙かに越えて厳しい物となった。
誰も手を伸ばしてくれる者はなく、飢えと乾きに疲れ果て、悪魔とののしる人間から懸命に逃げる。
雨を避ける雨具もなく、薄いブルーの鞄は次第に薄汚く黒ずみ、リリス自身も浮浪孤児のように汚れ痩せこけて、果てない旅にとうとう服は破け、靴は穴が開いて裸足同然となってしまった。
それでも、ひたすらうつろに覚えている景色を頼りに、シールーンの元へと聖地の川を目指す。
何故か風もリリスに構ってくれず、暗い森の中で食べ物を捜すリリスに、木々の精霊が木の実や葉を、我が身を削って食べさせてくれた。
家を出て、何十日が過ぎただろう。
幼い彼は、歩く距離もたかが知れている。
それでも、すでに山を一つ越え、今、一つの山の中腹にさしかかっている。
どこかの家から飛んできたのか、途中の村はずれで拾ったシーツを身体に巻き、髪と顔を隠すようにして道を歩いていると、時々人に会う。
それでもこの、みすぼらしい姿に、声を掛けてくれる人は少ない。
何度か、馬車からパンを放られて恵んで貰った。食べかけもあったが、有り難いと手を合わせてお辞儀する。
のどが渇いて難儀していると、水が湧きい出るところで精霊が騒ぎ、場所を教えてくれた。
そうして、何とか旅を続けていた。
立ち止まり、顔を覆うシーツを緩めて森の中の辺りを見渡す。
日がまた、どんどん木の間に消えて沈んでいく。
夜が来る。
真っ暗な闇に包まれる夜が。
毎夜、眠る場所に恐ろしくて迷い、初めの頃は日が昇る頃に寝て、夜中は歩き通していた。
怖くて怖くて泣いていると、精霊達が集まってきて慰めてくれる。
リリスは、精霊達に守られて旅をしていると言っても、過言ではなかった。
「寒い・・」
ブルッと震えて、空を仰ぐ。
天気がいいのに、やけに気温が下がって冷えてきた。
「そっか、随分山を登ったんだな。」
時折、家路を急ぐ鳥の声が聞こえる。
それだけで、辺りはシンとして自分の足音だけが妙に辺りに響いていた。
「何だか、誰かと歩いてるみたいだね・・・」
息を切らせながらつぶやき、フフッと笑う。
あ、精霊達だ。と顔を上げた。
キラキラと、薄闇のかかる森を精霊の光りが幾つも飛んでいる。
それを見ている内、どこからかサラサラと水の流れる音が聞こえてきた。
「あ!水だ!」
被っていたシーツを頭から外し、キュッと身体に巻き付け直す。
そしてじっと耳を澄ませ音の方向を探った。
サラサラサラ・・・
音は森を反響し、はたしてどこからなのかは小さなリリスに分かるわけもない。
その内精霊達がはしゃぐように乱舞し、そしてサッと道のずっと先に流れるように飛んでいった。
「わかったよ、そっちだね。うふふ、リリスにはやっぱり、全然分かりません。」
困り顔で首を振り、それでも走る気力はなく、せめて急ぎ足で先を急ぐ。
フワフワゆっくりと飛んでいた光りは、やがて道を外れて森の中の小さな脇道に入り、そこを進む毎に水音は次第に大きく、力強い物になっていく。
「あ、もしかして、川だね?」
道を急ぐと、突然大きな木が斜めに傾いで道をふさいでいる。
「よっと・・」
それをくぐると、そこには川の源流とも言える、小さな、それでいて力強く流れる川が現れた。
「水だ!水だよ!ありがとう!」
パッと明るい顔で踏みだそうとした、その時。
横の草むらの向こうで、ユラユラと赤い炎の明かりが飛び込んできた。
しまった!人だ!
リリスが慌ててシーツを被り、そして顔を隠すようにしながら水辺へとそっと忍んでゆく。
のどの渇きだけは押さえきれない。
水の流れのたもとにしゃがみ、そっと手を伸ばそうとしたとき、草陰からいきなりおじさんが現れた。
「誰?誰だい?!」
「あ!あ!ぼ、僕!悪い人じゃありません!
僕、のどが渇いてそれで!水を飲みに来ただけで・・!」
リリスが慌てて手を振り、引きつった面もちのおじさんに叫ぶ。
しかしおじさんは、リリスの小さな身体と幼い声にホッとすると、パッと明るい顔で手招きした。
「何だ!小さな旅人さんか!驚いた!
なんだい?親とはぐれたのかな?お使いにしては物騒だ。」
「いえ・・・あの・・」
口ごもっていると、おじさんが歩み寄ってくる。
汚い格好に物怖じもせず、ニコニコと慣れているような感じだ。
「さあ、いいからフードを取って、こちらで火に当たりなさい。ン?こりゃあシーツかい?なんだ、これじゃあ寒いだろう。」
背中に手を回されて、ドキッとすくみながら、それでも久々に感じる優しさが何と心地よいことか。
誘われるまま火の側により、おじさんの勧めるままにストンと腰掛けてしまった。
「腹減ってないかい?ほら、パンを少し分けてやろう。水ばかりたらふく飲んでも、体に悪いだけだよ。」
「あ、ありがとうございます。」
シーツを深く被り、顔を見せないように俯いていたリリスが、久しぶりのパンにパッと顔を上げる。
火に照らされた顔の目が合って、急いで俯いた。
色違いの目を、見られただろうか。
ドキドキと胸が早鐘をうち、貰ったパンを抱きしめて川へ水を飲みに行く。
「シールーン様、お水を分けてください。」
手を合わせて感謝し、水をすくって飲みながらパンをかじる間、おじさんは何を考えているのか、無言で火に薪をくべているようだった。
「さあて!お前さんはこれから何処へ行くんだい?行く当てはあるのかい?」
やっぱり見られたのだろう。
ちょっと溜息混じりで、そう話しては酒を取り出し一口飲んでいる。
行く当て・・・
聞かれても、リリスには師の他にはシールーンしかいる所が分からない。
「はい、一度だけお会いした方を頼って、旅を続けております。」
「一度?そりゃあまた頼りないな。今まで住んでた所は?」
「それが・・・色々あって、出てきてしまいました。」
「ふうん、まあ、色々あるもんさね。
しかしお前さんは子供のようなのに、しっかりしているな。話し方なんか、良くしつけられているじゃないか。いい所にいたんだろう?」
「え?あ、はい。良い方の所で、働かせていただいておりました。」
「へえ。」
リリスが遠巻きに火を囲んで座ると、またおじさんが手招きする。
「まあ、そんな遠い所へ座らずに、もっとそばに寄りなよ。おじさんこそ悪い人じゃないさ。
そうだな、おじさんは、お前さんのような困っている人に、とてもいい仕事を世話する仕事をしているんだよ。」
「お仕事を?ですか?」
「ああ、だから気にせずに、そのフードを取ってご覧、顔も見せずに話がしにくいだろう。
お前さんのように困っている人はね、だいたい一人で当てなく旅をしている。おじさんはそう言う人に、手を貸して幸せになって貰ってるんだ。」
「でも・・」
この髪を見られたら、おじさんはどう言うか・・
でも、本当によい仕事が貰えるなら、こんなにいい話はない。
リリスは思い切って、頭からシーツを取った。
「わっ!」
やはり、驚いた様子でおじさんが目を丸くしている。しかし、何故か次にはニヤリとほくそ笑むと、声を上げて笑い始めた。
「あっはっはっはっは!!こりゃあいい!!
お前さん、こりゃあいい仕事になる!いいよ、いい!こんな所で、掘り出し物だ!」
「えっ?いいんですか?本当に、僕を雇ってくれる方がいらっしゃるのですか?」
「ああ!もちろんだ!喜んで雇ってくれるさ。
おじさんも嬉しいよ、君のような子の力になれて。」
パッとリリスの顔が明るく輝き、ホッとして涙が溢れる。
「よかった。僕も、きっとご迷惑になると思いながら、知り合いの方を頼っていたんです。
良かった、自分で居る所を見つけられたら、本当に助かります。
良かった!僕、一生懸命働きます!」
「ああ!それ程キツイ仕事じゃねえ。
お前さんのような小さな子は、うんと人気も出てタンと稼げるよ。
俺も運がいい。
じゃあ、明日の朝から一緒に行って、ちゃんと送り届けてやろう。
これからはおじさんも一緒だ、安心して休むがいいさ。」
「ありがとう、ありがとうございます。」
ポロポロと流れる涙を、シーツの裾で拭きながらにっこり笑う。
おじさんは嬉しそうにビンに残った酒をあおり横になると、リリスの元へ這ってきた。

「何だ、色違いの目なのに、涙は一緒の色なのかい?」
シーツに作る涙のシミを、指さして笑う。
「あ、本当ですね。同じです。」
「色が違うならもっと面白いのになあ。
まあいい、ようし、今夜は祝い酒だ!
もう一本・・とその前に出すもん出してさっぱりするか。」
パンッと膝を叩いてよっこらしょっと立ち上がったおじさんは、しかしとんでもないところへ向かった。
「おじさん、そちらは川です。」
「おう、川に小便するのが気持ちいいんじゃねえか。うるせえな、お前もやってみろ!」
驚いて、リリスがおじさんの足にすがった。
「いけません!川の始まりはシールーン様の聖地です!汚したらお怒りをかいます!」
「さわるな!この化け物野郎!何がお怒りだ、俺の気に障ることするんじゃねえ!」
「きゃ、」
カッとしたおじさんが、ドカッとリリスを蹴って川岸に立つ。
ズボンから一物を取り出し川に向けて顔を上げたとき、いきなり水面がさざめきだった。
ザザザザ・・・ザアアアアアア!!!
「な!なんだあ!」
ザアアアアア・・・・
水は人の高さに立ち上がり、そして次第に人の形を成してゆく。
やがて透き通った美しい女性になると、スッとその手を男に向けて上げた。
「な!な!ひいっ!」
バシャンッ!バシャ!
おじさんの足下の水が、いきなり伸びて足首を掴む。そして勢い良く水へと引き込み、両足を取られたおじさんはバシャンッとその場にうつ伏せに倒れた。
「助けて!助けてくれ!わああ!誰かあ!!」
どんなに岩にしがみついても、為すすべもなく引きずり込まれてしまう。
「おじさんっ!」
リリスが慌てて駆け寄ると、その身体はフッと宙を浮き、フワリとシールーンの手の中に抱き留められた。
「シールーン様!シールーン様!どうかおじさんをお助け下さい!」
『あれは、お前を人買いに売ろうとした。
その上、狼藉を働こうとしたのじゃ、絶対に許せぬ。』
透き通った、独特の声でシールーンがリリスに優しく言う。しかしいささか震えるように聞こえるのは、きっと怒りがこもっているのだろう。
しかしリリスはシールーンの水の胸に顔を埋め、そして涙で濡れる目を上げて懸命に訴えた。
「でも!悪い人じゃありません!僕のこれからを案じてくださいました!僕に、安心して良いと言ってくださいました!どうか助けてください!
あ、あ、リリスは・・リリスは恐ろしゅうございます。」
そう声を震わせ、リリスがまた胸元へ顔を埋める。人が死ぬ姿など、恐ろしくてショック以外の何物でもない。
シールーンはリリスの髪を撫で、仕方なく振り向いた。
男はすでにシールーンの足下で、溺死寸前に目を剥き水底に沈んでいる。
『フン、あとは運次第よ。リリスに感謝せよ。』
ザバアッ!ドシャンッ!
男は水から放り出され、川岸にうつ伏せに横たわったまま身動き一つしない。
「げふっ、ごぼっ!」
そのうち男が咳を二つ。
シールーンはまた腕を一振りして焚き火の火を消すと、胸元で泣くリリスを大切に抱いたまま、スウッと水の中へ消えてしまった。
はたして男は助かるのか、それは運次第。
そしてフワフワと飛ぶ精霊の光りは、安心したように森の中へと消えていった。
コトン、コトコトコトコトコト・・
・・あれは・・お食事を作る・・音?
パンッ!パチ、パチ・・・・
ああ・・暖かくて、フワフワでいい気持ち・・
「え?」ここ、どこ?
ガバッと飛び起きた。
キョロキョロ見回しても、覚えがない。
・・いや、あるかな?うつろに、一度来た覚えがある。
でも、中はその時とは一変して生活感があるような気がした。
小さなたった一間の粗末な部屋に、寝ている小さなベッドの横には小さなテーブルに椅子。
そして壁にこさえた棚には古そうな書物などが並び、その横には暖炉がある。
パチパチという音は、この暖炉の薪がはぜる音だったのだろう。
床には大小の壷が並び、漂う匂いから察するに、乾かした色んな薬草が入っているのか。
つまりここは、魔導師の部屋だと思われた。
「ああ、ふん、やっと気がついたかい?」
溜息混じりの女の声にハッと振り向けば、そこは部屋の隅に小さなキッチンがあり、その前に黒髪の女が腰に手を置いて偉そうに立っている。
至極不機嫌そうで、つぎはぎだらけでボロボロのドレスの袖をまくり上げ、片手には包丁を持っていた。
リリスのぼんやりした頭に、昔レナードに読んで貰った童話がぼんやり浮かぶ。
思わず薄い布団を握りしめ、小さく身体を丸めて恐る恐る顔を上げた。
「あっ!あっ!魔女のおばさんですね?
リリスはきっと美味しくないです。どうか助けてください。」
「はあ?」
ガックリと、女が怪訝な顔でリリスを覗き込む。そしてハッと思い直し、包丁を振り上げ叫んだ!
「この、恩知らず!あたしはおばさんじゃない!お姉さんだ!今度言ったらスープに入れて食っちゃうよ!」
「ご、ごめんなさい!おばさん!あ、お姉さん!」
ビク、ビク、リリスが小さくなる。
バシャンッ!
『これ、グレタガーラよ、リリスをいじめると破門じゃぞ。』
突然、キッチンの横にある水瓶の水が立ち上がり、小さなシールーンが現れた。
チェッと舌打ちして、グレタと呼ばれた女が水瓶にひざまづく。
リリスはパッと顔を明るくして、慌ててベッドから飛び降り床にひれ伏した。
「シールーン様!夢じゃなかったんだ!夢じゃなかったんですね!ああ、良かった。」
へなへなと、そのまま身体中の力が抜ける。
「何やってんだよ、手の掛かるガキだね。」
「何だか身体が・・すいません・・おばさん。」
「お姉さんだ!このバカッ!もうっ!」
渋々グレタが立ち上がり、リリスを引きずってベッドに上げた。
『グレタよ、ちゃんと世話を頼むぞ。
リリス、遠慮のうグレタに甘えるがよい。その女は口は悪いが情に厚い女じゃ。・・・そうじゃな、サーベラによう似ておると思えばよい。
あれは使命あって厳しいが、お前の幼いときはようお前を背負って歌を聴かせておったぞ。
お前は覚えておらぬだろうが、あれもひっそりとお前を愛しておる。』
「はい、微かに覚えています。
誰もいない時しか歌ってくれませんでしたが、とてもしゅきでした。あ・・すき、でした。」
久しぶりに、気が緩んで舌が回らない。
パッと口を押さえて頬を紅くした。
『ホ、ホ、ホ、良い良い、何と愛らしい。その方がお前らしゅうて可愛いぞ。
まだお前は五つであろ?立派すぎるより、年相応にしておる方が楽に生きられよう。』
シールーンが嬉しそうに手の甲を口元に当て、澄みきった声で笑う。
「可愛げの無いガキ・・」
ボソッと呟くグレタは、ケッとリリスから顔を背けた。
グレタガーラの住む小屋は、シールーンの住む川のたもとにある。
谷の底の川岸なので、水かさが増すと容易に流される場所だ。
しかし、これで流されないのだから、グレタが凄いのかシールーンが守っているのだろう。
 リリスが目覚めた翌日。グレタは外に大きな木のたらいを出し、川の水を汲んでいっぱいにするとリリスを呼んで、服を脱ぐように言った。
しかし、ここは川の上流、水はかなり冷たい。
汚れていることは分かっていても、寒いのは耐えられない。
リリスは少しわがままも出て、嫌だと首を振りドアの前に座り込んでしまった。
「あんたねえ、汚れたまま誰のベッドに寝てると思うんだい?こっちは床に寝てるんだよ。
冗談じゃない、今夜からはあたしもベッドで寝たいんだよ。」
フンッと溜息をつく。あの狭いベッドに、一緒に寝るつもりだろうか?
「でも、冷たいのは嫌です。」
「わがままだねえ、ここは川だよ!」
そう言いながら、ニヤッと笑う。
グレタはたらいに向かってしゃがみ込み、両手をかざしてブツブツと呪文を唱えた。
すると、見る間に湯気が立ち、たらいの水が湧いてゆく。
グレタは湯加減を見てヨシッと立ち上がると、自慢げにクイッと手を振った。
「これで文句はないだろ?」
「凄い!凄いですね!わあ!おば・・お姉さん凄い!」
タッと駆け寄り、キャッキャと目を輝かせる。
グレタはますます鼻をツンと上げ、ホッホッホッと高笑いした。
「ホッホ、じゃ、服脱いでドボンと入りな。」チョンチョンと、リリスが湯を触る。
「でも、僕には熱すぎるんですけど。」
ムカッ、
「何だって?!このくらいが丁度いいじゃないか。」
「だって、僕は子供です。もっと温いのがいいです。」
ムカムカッ!
「キー!風呂なんて、あっついのにザバッと入るのが気持ちいいんだろ!」
「いいえ、僕は温いのにゆっくり入るのが好きです。」
「お前は使用人だったんだろ!なのに何でゆっくり入るんだい!」
「だって、僕は最後に入ってましたから。
皆さんがお入りになったあと、ゆっくり入りましてお掃除して上がっておりました。」
ムムムム!グレタとリリスが見つめ合う。
フンッとグレタは手桶を持って水を汲んでくると、ドンとたらいの横に置いた。
「ふんっ!好きなようにするといいさ。
付き合いきれないね、私は薬を作ってくる。」
プイッと小屋に入ってしまった。
「あれ、怒って行かれたね。」
フフッと笑いながらリリスが湯に水を足し、服を脱いでそっと入る。
「わあっ、気持ちいい。」
何十日ぶりの湯だろう。皮膚にピリピリと、染み渡って生き返るようだ。
湯をすくい、肩から流すと、後ろに師がいる気がしてドキッと振り向く。
館を出た時の悲しみが、また昨日のことのように思い出される。フウッと涙が浮かび、ごまかすように顔を洗った。
「へへ、今日からここで暮らすんだね。」
サラサラと流れる川を見ていると、涙が止めどなくこぼれてくる。
ずっと堪えていた物が、胸の底からまたムクムクと沸き上がってきた。
「駄目だよ、駄目だ。忘れなきゃ、リリス。」
バシャバシャとまた、顔を洗う。
無理ににっこり笑うと、パンッと頬を叩いた。
 そうやってチャプチャプ身体を洗っていると、バタンとグレタが不機嫌そうに家から出てきて、コップを片手に近寄ってくる。そしてジョロジョロとコップの中を湯に入れた。
「わあっ!」
色々なハーブの香りが立ち上り、湯が薄い黄色に変わってまろやかになる。
つるつると肌に優しく、香りを吸い込むと心が落ち着いた。
「おまけだよ、おまけ。お前が気に入った訳じゃないんだからね。」
プイッとしながらしゃがみ込み、リリスの背中を優しく流す。
「なんて気持ちがいいんでしょう。ありがとうございます。」
「お前が臭くて仕方ないからね、こっちの鼻が曲がりそうだからさ。」
「うふふ・・自分でも鼻が曲がってました。」
「まったく、ベッドまで臭くなってかなわないよ。」
ブクブクとソープの泡を立て、リリスの赤い髪を洗いジャアッと流す。
「きゃっ!」
「ほら、体も良く洗うんだよ、汚いなりしてたら追い出すからね。」
「はい」
泡をなでつけて洗いながら、そうっとリリスがグレタを覗き込む。
「なんだい?私があんまり綺麗だからって、ジロジロ見るんじゃないよ。レディに失礼だろ。」
グレタは不機嫌そうだが、これだけは言っておかねばなるまい。
「これから・・・よろしくお願いいたします。」
小さく、そうっと言った。
「やだねっ!」
「えっ!でも、僕は・・」
「あんたは風の弟子だろ!あたしは水だ、関係ないね。
今は御師さんに言われて世話してんだよ、あんたはお客さんなんだ。」
「いえ、ちゃんと明日、シールーン様に言うつもりです。僕も・・」
ここに置いてくださいって。
「駄目だ!ここはあんたのいる場所じゃない。」
グレタはきっぱりと言い放つ。
パシャンと湯を叩き、リリスが懸命に声を上げた。
「僕は、ずっと、ずっと旅をしてきて!」
「旅しようが、隣から来ようが、ここは水の聖地だ。あんたは風の匂いがする。風臭くて冗談じゃない。
御師さんだって、人は大嫌い。弟子のあたしがここにいても、滅多に姿を現さない方だ。
これ以上、邪魔が入ったらあたしも迷惑だよ。」
「でも、僕は行く当てがありません。ここを追い出されたら・・」
ガーンと来て、ブワッとまた涙が浮かぶ。
「泣くんじゃないよ!男だろ!」
「だって、だって、僕は御師様の所を出ちゃったんだもの。もう帰れないよ。」
「帰れないよ〜!ずっと泣いてるんだね!
ほら、流したら立って!湯を替えるよ!」
グシュグシュ泣くリリスをたらいから放りだし、水を換えてまた魔術で湧かす。
「ほら!さっさとお入り!綺麗に流して暖まったら出るんだ。
服なんか無いからね、あたしの上着でも着ておくんだね。」
「ううー、はい。」
チャプンと浸かると、頭からザブンと湯をかけられた。そしてタオルでゴシゴシ頭を拭き、ゆっくり暖まる。
「良くまあ、あんな所からここまで旅してきてさ。強いかと思えば案外弱いガキだよ。見損なったね。」
「リリスも、悲しいときは泣きます。」
「あー、そうだね!あんたはお子様だ、泣くのも仕事の内さね!
あーあ、付き合ってられないよ。」
タオルを大きな石に置き、グレタはさっさと小屋へ帰って行く。
リリスも涙を湯で洗い流し、湯から上がるとタオルを巻いて小屋へと入った。
リリスが着る小さな服はないので、なるほどグレタの上着を着てタオルを腰に巻き、その格好で過ごすしかない。
リリスはやっぱり堪えていても、また涙が出てくる。
グレタはお構いなしにずばずばと本音を吐くが、それも慣れるしかないと思う。
シールーンは、あれから姿を現さない。
考えても涙しか出ないが、居場所を捜してまた旅に出るしかないのかと、リリスは途方に暮れていた。
数日後、リリスもようやく落ち着きを取り戻してきた頃。
何をする気も起きず、グレタが川に入ってザバザバとシーツを洗うさまを河原に座って眺めていると、グレタが空を仰いで首を振った。
「世の人々は、これでは困っているだろうね。」
「どうしてですか?」
シーツを丸めてグッと絞り、ザブンザブンと川を歩いて川岸までやってくる。
パンパンと広げ、何やら呪を唱えると、サッとシーツは乾いてしまった。
「わっ!凄い!あっという間に乾いた!」
「ふふ、いいだろ?」
「水に属すると、日頃から便利なんですね。」
「フン、まあここまで来るのも大変なんだよ。」
「ええ、そうでしょうね、本当に。でも、どうして皆さんが困ってるのですか?」
「まあ!お前は自分が属する物の気配も分からないのかい?」
グレタが呆れながらシーツを畳む。
リリスは立ち上がり、耳を澄ませて周りを見回した。
「そう言えば、ここには風が吹きませんね。」
「そう言えば?ぷっ、あはははははは!!
お前、あれから何にも気が付かなかったのかい?」
言われてみると、歩くので、逃げるので、食べるので精一杯で、まわりには全然気が回らなかった。
「そうだ、いつもまわりにいてくれた、風の精霊が寄りついてくれませんでした。」
「お前を加護していたのは、大地の精霊達だ。
さあて、風の精霊はどうしたんだろう。」
ドキッと思い出した。
今までどうして忘れていたんだろう。
『これは、それに属する全ての呪を封じ、無に返す。それは、返せば精霊の力を奪う物だ。』
「あっ!あっ!」
リリスが両手を広げて、見開いた目で見つめる。
「僕が、この手に・・・・!」
愕然と、恐ろしい物を見た顔で数歩下がりへたり込んでしまった。
「ようやく思い出したか。馬鹿者が。
お前は自分が思っている以上に、逃げ出したことで更に師に迷惑を掛けているのだよ。」
「どうすればいいのでしょう。」
リリスがまた、涙を浮かべてグレタに問う。
「知らないね、あたしは風の呪なんて全然さっぱりだよ。」
グレタはプイッと顔を背け、小屋へと向かって歩きだした。
「どうしよう・・僕は、僕の手に、風を封じてしまった。風は・・眠ってるんだ。」
御師様はどうしているのか、考えるのも恐ろしい。
風に属する物の力を封じている、この小さな手が。
そう言えば今まで旅していて、まるで呼吸ほどのそよぐような風しか感じず、高台にある風車は止まっていた。
雲は動きが鈍く、雨が降り始めるとなかなか止まずに川は増水して、川下は大変だろうと思っていたのだ。
それが、自分のせいだったなんて・・・!
何て事をしてしまったんだろう!
何て恐ろしいことを・・!
「どうしよう、どうしよう・・・ああ、御師様、どうすればいいんだろう。」
怖くて溢れる涙を拭くのも忘れ、ガタガタと体を震わせる。
禁じられた言葉は、使いようによっては人の命を救い、奪うのだ。
幼く、未熟な自分の軽率な行動が、どれほどの迷惑を振りまいてきたのか。
それまで自分の事で精一杯だったリリスは、そこでようやくまわりのことに気が付いた。
「御師様・・御師様・・助けて・・リリスは、リリスは怖い。御師様、ごめんなさい・・」
ザザザザザ・・・
川がさざめいて、シールーンが姿を現す。
水で出来た彼女の姿は、差し込んでくる日差しを反射して美しく輝いた。
『ようやく、我を取り戻したか。』
慌ててリリスがひれ伏し、そしてシールーンの顔を見上げた。
しゃくり上げるリリスが、言葉を探しても見つからない。
過ちを正すことなど思いも浮かばず、泣くだけで精一杯だった。
『リリスよ、帰りたいか?』
ブンブンと頭を振る。
『セフィーリアが、心配ではないのか?』
ブンブンと首を振る。
『セフィーリアに会いたくないのか?』
ブンブンと首を振る。
『お前は、それ程に自分が大切か?』
・・・それは・・それは、良く分からない。
フッとシールーンが微笑み、スウッとリリスに近寄ると水の手を伸ばし、優しく頭を撫でた。
『良い子じゃ、美しく聡明で小さな風の魔導師よ。
苦しみから逃れようなど、お前は考えておらぬ。お前の心は、他への慈愛に満ちておる。
お前はきっと、心も技も素晴らしい魔導師に育つであろう。』
スッとシールーンが両手を空に、大きく広げる。
フワッと溜息のような一陣の風が吹いた。
パシャン!ザザザザザ・・・
シールーンの隣りに、またさざ波が立ってそこに風が巻き、水を立ち上げる。
それが人一人の大きさまで伸び上がると、いつの間にか水の向こうに人の姿が見え隠れし、やがて水の中から白いドレスの白髪の女性が歩み出てきた。
「あっ!あっ!」
驚いて、リリスが後ろにひっくり返る。
「リーリ!」
その女性は感極まった顔で涙を流しながら、リリスに抱きついてきた。
「わーん!リーリーー!!会いたかったーっ!
許しておくれ!どうしてもすぐにお前を追うことが出来なかったのじゃ!」
「・・・御師様・・」
柔らかな胸に抱かれ、師の懐かしい暖かさが胸にしみこんでくる。
リリスはポロポロと涙をこぼしながら、どうしていいのか身体を任せられない。
迷いながら、目を閉じ俯いていると、師がいきなり身体からリリスを放して、今度はリリスの頬を両手で包み込み、身体を隅々まで確かめた。
「どこも、どこも怪我などしておらぬな?
ああ、何て痩せてしまったのじゃ。子供はころころと太っておらねば、立派に育たぬではないか!
そうじゃ!人買いにさらわれそうになったと地の精霊が漏らしたぞ!
おのれ!どうしてくれよう!」
「それは、シールーン様が・・・御師様・・」
「お前は可愛いから、愛らしいから、純粋じゃから騙されるのじゃ!いかん!
今度から、悪い大人の事も勉強せねば!」
「・・・・師さま・・」
「お前のことじゃ、自分が悪いと思ったのであろう?大丈夫じゃ、お前は悪うない。
ちゃんと村も合点がいって、全て承知してくれた。だから安心して・・・」
機関銃のような師の言葉を遮り、リリスが思い切って後ろに数歩逃げる。
「リーリ!」
「御師様!リリスは帰れません!」
「何故じゃ!」
「リリスは大変なことをしてしまいました。これ以上、御師様にご迷惑をおかけ・・できましぇん・・うう、うっく、うっく・・」
ジュルジュルと鼻水を吸い上げ、ゴシゴシ涙を拭く。
「リーリ・・・」
セフィーリアはフッと困った顔で微笑み、さあと手を出した。
「お前は、私の弟子でも最高の弟子だ。
さあ、手をお出し。私はおかげで眠くてたまらないよ。力をお前に封じられてしまったからね。
まさかあの、高位の術をお前が使えるとは、私も驚いたぞ。」
「あ・・」
そうだ、封印を解かねばなるまい。
リリスが腰に巻いたタオルでゴシゴシ両手を拭いて、彼女に差し出す。
「さあ、一緒に唱えるんだよ。」
「はい。」
「「風の精霊よ、我が手より羽ばたけ。
その力で聖なる風を巻き起こし、世を清々しく清めるがよい。
フールフール・ファーラルーン・セオ・セフィーラ!
精霊よ!眠りより覚め、光りの元へ!」」
ブワッッ!!ゴオオオオ!!!!
「きゃっ!」
リリスの手から、光りと共にもの凄い風が巻き起こり空へと舞い上がる。
一瞬浮き上がった二人の身体は、しかしすぐに地に足をつけて手の平に湧き出た光りも消えた。
ヒュウウウウウ・・・!!
「あっ!風が!戻りました!」
「ホホホ!私もようやく目がパッチリしたよ。
さあ、帰ろうか。」
手を繋いでくる師の柔らかな手に、リリスがまた戸惑う。
「でも・・・」
「ホホホホ!迷惑を掛けたと思うなら、立派な魔導師となり、人々の力となって恩を返せばよい。
お前は子供、まだまだ先は長いぞ。
過ちはいくらでも取り返せよう。」
「皆様は、怒っていらっしゃいますか?」
そうっと、リリスがうかがうように顔を上げる。
セフィーリアは抱きしめたい衝動を抑え、くりくりと頭を撫でた。
「可愛いのう。サーベラは木イチゴのジャムを作って待っておるぞ。木イチゴはな、レナードが取ってきたのじゃ。
カイエはな、本をお前に貸して良いと言っておる。あれは物持ちじゃ、沢山借りればよい。」
「レナンは?」
ふと、師の顔が曇る。
リリスは嫌な予感がして、ドキッと胸が波打った。
「レナンは、あれは心が弱かった。
城からも、きつく達しが来てな、破門じゃ。」
「えっ!!」
また泣きそうなリリスに、しゃがみ込んでセフィーリアがキュッと手を握る。
頬を優しく撫で、愛おしく見つめた。
「あれは商人に戻って家を継ぎ、幼なじみと結婚するそうじゃ。
王子の誕生の日を騒がせてしまったからな、罪は重いと城がうるさかったが、破門で全て終わらせた。
そのあと両親が心配して迎えに来たが、子が帰ると聞いてかえって喜んでいたぞ。
リリス、レナンは新しい道をすでに歩きだした。お前はまだ立ち止まったままでよいのか?」
ああ・・・
リリスがホッと胸をなで下ろした。
あれだけの騒ぎを収めるのに、師はどれほど苦労したのだろう。
それでも、ここまで迎えに来てくれたのだ。
「私は、帰っていいのでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。私はまだ、お前にもっと教えたいことがあるぞ。
そうじゃ、フィーネを教えると約束していたな。良く引けるようになったら、私のフィーネを譲ってやろう。あれは飾り気のない地味な物だが、良い音を出す。」
「本当ですか?!」
思わず目を輝かせるリリスが、あっと口を押さえる。
「ま!ホホホホ!さ、行こうぞ。」
セフィーリアは笑い声を上げて抱きしめると、リリスの手を引いた。
すると、腰に巻いていたタオルがストンと落ちる。
「きゃ!」
オチンチンがポロンと出て、リリスが真っ赤に顔を染めてしゃがみ込んだ。
「何じゃ?服はどうした?」
「それが・・ボロボロで。」
小屋を見ると、隠れていたグレタがそうっと顔を出す。二人と目が合うと、バタンとまた隠れてしまった。
「御師様、少しお待ち下さいませ。」
リリスがタタッとタオルを持って、服を取りに行く。
「お世話になりました。あの・・服とタオルを・・」
声を掛けると、いきなりほんの少し開いたドアから、グレタがリリスの腕を掴んで引き入れた。
 中に入ると、グレタはこそこそリリスの服と鞄を差し出して、「さっさと着替えな」と不機嫌そうに言う。
きれいに畳んであるあのボロボロだった服は、広げるとつぎはぎに繕ってある。鞄は洗ったためか少し縮んでいた。
「あ!洗っていただいて、その上直して下さったのですね。」
「いいからさっさと行きなよ、あたしゃあんたの師匠は特に苦手だ。
昔、一度ちょっとしたことで飛ばされてね。」
「え?ああ、御師様は気に入らない方はポンと飛ばして目の前から消しておしまいになりますから。」
着替えながら考える。
飛ばされた人がどうなるのか知らない。
リリスが知っている限り、飛んでいったのは怪しくてしつこい物売りと、峠で会った盗賊達だ。
「で、どうして飛ばされてしまわれたんですか?」
「そんなこと知らなくていいんだよ!さっさと出ていきな!あー、やっと清々する!」
プイッとグレタが明後日を見る。
リリスは支度を済ませると、着ていた物をたたんでテーブルに置き、姿勢を正してぺこりと頭を下げた。
「グレタ様、お世話になりました。」
「ま!おばさんじゃあないのかい?」
「はい、水の魔導師グレタガーラ様。
お優しいあなた様を、私は魔導師として目標の一つと致します。
あなた様は、私を決して怒りませんでした。
責めたりなさいませんでした。
私は、ここへ来てようやく心が静かになったのです。」
胸に手を当て、リリスがフッと俯く。
何という子供か。
グレタには、小さなリリスが何故か大きく見えて、それがまだ5才だという事が信じられなかった。
これが、末恐ろしいという物か・・
それに、優しいなどと初めて言われた言葉だ。
「クックック、ホッホッホ!まあ、何と口の上手な子だ。本当に、ガキらしくないよ。
さあ、お行き、御師様が待ってる。」
「はい。」
深々と頭を下げ、リリスが出てゆく。
窓から見ていると、リリスは大切にセフィーリアの胸に抱かれ、シールーンの見守る中を風に乗って空に消えてしまった。
グレタがガックリと椅子に座り、テーブルに置かれたタオルを取る。
「あーあ、行っちゃったよ。」
それをポイッとベッドに放り、はんっと笑った。
「あー、清々したね!今日からベッドも独り占めだよ!」
言って、ウッと綺麗に畳んである上着を取り、顔に押さえる。
抱き合うように眠った夜が思い出され、ベッドに飛び込み足をバタバタした。
「うううー、行っちゃったよー!」
ホカホカで、柔らかくていい香りのリリスの身体が、思い出されて寂しさが募る。
誰もいない小屋の中、クシャクシャになった上着を更に丸め、グレタは止まらない涙を押さえてその夜は泣き通しだった。
リリスの帰った丘の館には、レナードとカイエがポツンと待っていた。
サーベラはリリスを逃した責を問われ、しばらく後に他の目付役と変わることになる。
それはリリスにとって育ての親を一人失うことになり、しかも大変厳しい女性だったために辛く悲しい思いを積み重ねて成長して行くこととなった。
グレタは、時に旅に出ては訪ねてくれるリリスを楽しみに、数年をシールーンの元で過ごし、やがてラグンベルクに招かれる。
それぞれがそれぞれの道を進み、そしてリリスはグレタが感じた通り、魔導師としてはアトラーナでも指折りの術者となって行く。
愛らしい魔導師見習いが、若くして独り立ちするのにさして年月は必要とせず、やがて王子の旅の供を決める星占いに彼の名が出たとき、魔導師達の間では反対する者はいなかったという。