3、

 田中家の門に立ち、またインターホンを押した。先日と違って、にこやかな声で返事が来る。
”ああ!芝浦さんですね”
先日の娘さんだ。
今度はすぐに出てきて、門を開けて中へ入れてくれた。
「どうぞ、あれからずっといつ来られるかなあって、待ってたんですよ。
母が話があるって言っていましたから、丁度良かったわ。」
「本当ですか?じゃあお邪魔します。」
「どうぞ!狭いですけど・・
お母さん!芝浦さんよ!お客さん!」
娘が先に立って案内してくれる。
後を追いながらキョロキョロと古い家の中を見ていると、襖を開けて奥さんが出てきた。
「あら!まあ!また来てくれたのね!
えっ!まさか!ハルちゃん?ハルちゃんでしょう?おばちゃんよ!まあ!ねえ、大きくなって!まあ、美男子になったこと!」
「おばちゃん?・・あ、あ!おばちゃんだ!
おばちゃん!」
首を傾げていたハルが、思い出して嬉しそうに奥さんに飛びつく。奥さんも、目を丸くして飛び込んできたハルを抱きしめた。
「奥さんも、知ってたんですか?」
「ええ、私は白川の家で長年家政婦してたのよ。職場結婚なの。」
ガーン、そんな事全然言わなかったじゃないか。だったら奥さんに話を聞くだけでも良かったのに。
芝浦が、口をぽかんと開ける。
春美が横からドンと腕を小突いた。
「おじちゃんは?おじちゃんもいる?」
「ええ、どうぞ、びっくりするわよ。
あなた!ハルちゃんが来たわよ!」
スラリと襖を開くと、車椅子の奥にベッドがあって、田中が横になっている。
ハルを見るなり神妙な顔が、パッと明るくなった。
「うぁうか!いわうぃういわを!をいうぇ!」
やっぱり芝浦には何を言っているか分からない。ところがハルは、「うんっ!」と元気に返事を返してベッドに飛びついた。
「うぁうはうえんいうあうあをわい?
うわううぃわんわをおいうぇう?」
「うん、あのね、ハルは元気だけど、シュウチが急にいなくなっちゃった。
ナッチンもね、お利口にしてなさいって、じゃあねっていなくなったの。
ハルは、一人はどうもないけど、やっぱりね、シュウチを探してるんだよ」
奥さんが、後ろで聞いていて涙ぐんでいる。
よくよく家庭の事情を知っているから、ハルの言葉に胸を打たれているのだろう。
「をうわ、わんわわむぁわうをわうわわいを。うわいをうう、うわうぃわんをうぃんうえわうえうおいうぇ。」
「うん、シュウチもナッチンもウソ付かない。
でも、わかってるけどね、やっぱりね、ハルはね、バーカだからね、頭、バーカだからね。
ほら、オニババ言ってたもん、ハルは「やくたたず」って。
だから、シュウチも、ナッチンも、ハルを嫌いになったのかな?いらないのかな?」
ハルがまた涙を流す。
「をわえはいいをわ。」
田中は動く右手でハルの頭を撫で、そして優しく抱き寄せた。
奥さんが涙を拭き、芝浦達をそっと部屋の外へ連れ出す。そして隣りにテーブルを出し、座布団を勧めてお茶を運んできた。
「ここで、話をしましょう。」
「ハルは・・ハルも田中さんの言葉が分かるんですね。」
芝浦も、そして初めて会った春美も驚いている。田中の言葉は、どんなに注意深く聞いても分からない。
「ええ、主人のお見舞いに来てくれたとき、私もびっくりしたのよ。
あの子は・・そう、ねえ・・言い方が良く分からないけど、あの子には言葉がいらないみたい。」
「言葉が?いらない?」
奥さんが、お茶を入れながら言いにくそうだ。
言葉の表現が難しいらしい。
「何て言うの?こういう事って、若い人が分かるんじゃない?
知ってるでしょう?あの子の右耳が聞こえないのを。」
「ええ、知っています。それが何で聞こえなくなったかも、恐らく。」
奥さんの手が、ふと止まり芝浦達の顔を見る。
そしてホウッと大きく溜息をついた。
「そう、そうね、調べて私達までたどり着いたんです物ね。
あの子は、五つの時に白川の旦那様の養子としてあの家にきたのよ。誰の子とか、詳しいことは知らないわ。それを詮索するのも無言の内に禁じられていたから。
でも、あの子の母親がその、オーランドさんなんですってねえ。」
「養子?白川会長の息子なんですか?」
「ええ、今はね。でも、来た時は五つと思えないくらい小さくてね。
可哀想に、母親と二人で家にじっとしていたと思うのよ、足が異常に細くてね、フラフラして全然歩けないの。
おトイレも間に合わないことが多かったから、きっと面倒で、ずっとオムツをつけていたんでしょうねえ、オムツかぶれが酷くて、お尻が凄くただれてたわ。
身体もあちらこちらに青あざがあったんだけど、母親がイライラして叩いたのかもねえ。
何をするのも遅いし、理解力も欠けてとにかく手が掛かる子だったから。」
「母親は旅行中だって聞きましたけど。
オーランドさんのことでしょうか?白川夫人のことでしょうか?」
「さあ、でも奥様は五年ほど前に亡くなっているのよ。それに、ハルちゃんは奥様のことをミーカ、ミーカって呼んでいたわ。
奥様もね、生みの母親とわかれた事がはっきり理解できるまでは、混乱するからって母親と呼ばせない方針だったの。
ハルちゃんも言葉には出さないけど、ずっと待っている様子だったしね。
死んだって事も分からなくてねえ、奥様が亡くなったときもご遺体に話しかけて、出棺の時だって泣きもせずに行ってらっしゃいなんて。」
「行ってらっしゃい?ですか?」
死人に行ってらっしゃいもないだろうに。
「するとハルは、白川夫人のことを言っていたのかな?いや、白川夫人を母親とは思っていなかったはずだから・・うーん・・」
「余計分からなくなったわ。
でも、ハルが自分の母親と思っているのはオーランドさんでしょ?白川さんはお母さんじゃなくて、ミーカですもの。
やっぱりハルはオーランドさんを待っているのよ。」
「でも、私が勤めていたのは奥様の亡くなる半年前までだから・・その後はどうかわからないわ。
でも私は、ハルちゃんは奥様を待っていると思いたいわねえ。」
キャアッと隣からハルの笑い声が漏れてくる。
「あら、楽しそうねえ・・ハルちゃんは良く笑うから。」
「ええ、良く笑いますね。」
春美と芝浦が顔を見合わせ、フッと顔を緩ませる。
「やっぱり精神遅滞とかあるからじゃないのかな?」
ところが奥さんは真剣な顔で首を振り、そしてちらりと襖に目を走らせて声を潜めた。
「あの子の微笑みはね、自衛手段なのよ。
笑いながら、凄く怯えているの。
そして不安な気持ちを紛らわせるように、楽しんで見せて一人でキャアキャア騒ぐの。」
「どうしてそう分かるんです?」
「奥様がね・・一番ハルちゃんのことを理解していた奥様がそう仰ったのよ。
ニコニコ笑うのは心の裏返し、不安を隠しているんだって。だから・・」
ドキッと芝浦が胸を突かれた。
「確かに、そうかも知れないわ。言われてみると・・」
春美も同意して俯く。
でも、あの微笑みが全部ウソとは思えない。
本当の笑みもあったはずだ。
「それに、あの子は来た時から人の気持ちを読むのが上手でねえ、びっくりすることも何度もあったわ。」
確かに、芝浦の不安を言いもしないのにピシャリと当てた。
思わず春美が身を乗り出す。
「一度なんか、旦那様が明日からアメリカに行くって日にね、用意していたトランクごと押入に隠れちゃったのよ。
航空券も入れていた物だから、とうとう間に合わなくて凄くお怒りになったんだけど。
それがびっくり。
乗る予定の飛行機が落ちちゃったの。」
「えっ!落ちた?じゃあ乗っていたら?」
「さあねえ、で、旦那様、腰が抜けちゃった。
色々あるのよ、あの子とクーはね。
旦那様も奥様も、凄く可愛がっておいでだったわ。そうしてね、少しずつあの子は自分を取り戻していったのよ。
そうだわ、つい話が長くなってしまったけど。
実は先日、あなたが帰った後で、今も家政婦している人に電話したのよ。
これは極秘なんだけど、今、旦那様入院されているらしいの。
今は住み込みがいないし、他の家族も病院に泊まり込んだり帰りが遅かったりで、それでハルちゃん、家に一人残されたんで不安になって出たんじゃないかって。」
「はあ、そうなんですか。」
奥様って人も、愛人の子だって分かって可愛がっていたんだろうか?
金持ちの一家はテレビみたいに愛憎劇演じているなあ・・
「こう言っちゃ何だけど、旦那様お亡くなりになったら、遺産が全部ハルちゃんの物になるって、洋子様が騒いでいるそうだから心配でねえ。」
「ええ、そのせいかは知りませんけど、もう少し預かって欲しいと言われました。」
「あら!連絡が付いたのね?」
「はあ」
あれを連絡が付いたと言っていい物か。
一方的に連絡が来たと言った方が正しいだろう。
奥さんも、ホッとした顔でまたお茶を飲む。
「きゃははは!」「ほっふぉっほ!」
いきなり隣から二人の笑い声が聞こえた。
「あら、話が弾むこと!珍しい。」
確かに、田中さんと話を弾ませるのは、普通の人間では至難の業だろう。
奥さんも嬉しそうに襖に笑いかける。
「ハルちゃん、クマさんとも話してるみたいでしょ?
変わった子よねぇ、まるで聞こえない耳が、私達に聞こえない声を聞いているみたい。」
「ああ!そうですね、そうかもしれない。」
芝浦も襖を見ながら考える。
「手が掛かると思うけど、迎えが来るまでどうか優しくしてあげて。
身体は十五だけど、中身は小さな子なのよ。
決して、目を離さないで。」
何故か、奥さんの顔がまじめになる。
二人は思わず足を正した。
「ええ、分かっています。私も子供なんか預かったことないけど、この子とは上手くやってますから。」
春美がにっこり返す。
最初はそれ程大した事に思えなかったけど、今はずしりと責任が肩に掛かっているのを感じる。人様の子供に、何かあったら大変だ。
奥さんが、テーブルの上で春美の手を取ってしっかり握った。
「お願いね、守ってあげてね。」
頷きながら、春美の胸が不安に襲われる。
何か、私は大変なことを引き受けたんじゃないのかしら?
財産がどうとか、奥さんは確かに言っていた。
腰が引ける春美の気持ちを知ってか知らずか、芝浦が時間を見て腰を上げる。
「ああ、もうこんな時間だ。
遅くにどうもすいませんでした。」
「え?ええ!そうね!帰りましょう!
ハル!帰るわよ!」
慌てて春美が立ち上がる。
「あらあら、ハルちゃん!もうお帰りですってよ!」
奥さんは、隣の部屋に入ってハルの手を繋いで出てきた。
「おじちゃん!バイバイ!またね!」
「わうぁをいを。」
「うん!また来るよ!」
開いた襖から芝浦達もお辞儀する。
顔を上げて田中を見たとき、その表情が穏やかに微笑んでいるのに驚いた。
まるで、ハルは本当のハル・・春だ。
みんなの心に、暖かな風を運んでくる。
 そうして、田中の家を後にした三人は、次に食事に向かった。
目的地はまだ決めていない。
車で適当に街を流していると、時間が過ぎる毎にどんどん通行量が増えてゆく。
ノロノロしか走らない車に、ハルだけが喜んで窓の景色を楽しんでいた。
「さあて、どこに行く?」
「あのね、ハンバーグ!甘いの!」
「甘いハンバーグなんて食えるのかよ。」
「まったく、ハルに合わせてたら一生ファミレスよ!」
「じゃあ、俺の行きつけに行こう。
あそこなら融通が利くから。」
春美は何だか心がウキウキする。
時計を見るとすでに七時を過ぎていた。
木曜の平日というのに、街も恋人達が多い。
コイン駐車場に車を止めて、盛り場を歩く。
芝浦と一緒に歩きながらハルの手を引くと、まるで親子のようかしら?と春美は何だか頬がポッと赤くなる。
「ねえねえ!あれなあに?あれは?」
しかしグイグイと関係ない方に手を引かれるたび、夢心地が現実に引き戻された。
くそー、おまえが邪魔なんだよ!馬鹿ハル!
「静かに歩けないの?ハル!危ないわよ!」
ハルは男の子だけあって、力が強い。
ひょろっとしているからと、油断していると春美までよろめく。
すると、目の前に芝浦が手を差し出した。
「僕が手を引くよ。ハル、おいで。」
「うん!お兄ちゃん!」
ハルはさっさと鞍替えする。
ちぇっ!その手、あたしが握りたいわよ!
しばらく歩いて路地に入ると、飲み屋を兼ねたレストランに入った。
『かがりび』
個人経営の小さな店だ。
ツタがびっしりと窓に絡まり、古びた木のドアが年代を感じさせる。
芝浦がドアを引くと、カランコロンとベルの音に合わせて、ギイイーッと蝶番がきしむ音もそれに混じり合った。
「やあ!久しぶり!どうしてた?」
カウンターの向こうで、チョッキ姿の鼻髭の中年男性がにこやかに手を振る。
彼の後ろにはずらりと酒瓶が並んで、カウンターにもすでに二人座っていた。
「おお!彼女かい?やるね芝ちゃん!
まさかその子、隠し子じゃないだろうねえ!」
「違うよマスター、この席空いてる?」
返事を待たずに窓際の小さなテーブルに三人で座ると、マスターの奥さんが水を持ってくる。
窓際にハルと春美が向かい合い、ハルの隣りに芝浦が座る。しかしハルは、不安な顔でキョロキョロ落ち着かないようだった。
「どうぞ、こちらがメニューですよ。」
「ありがとう。」
春美が差し出されたメニューを見ると、思ったより食事も色々ある。
「ハルはハンバーグでいいの?君は?」
芝浦は、メニューも見ないから全て頭に入っているんだろう。
「そうねえ、私もハルと一緒でいいわ。」
違うのを食べると欲しがるかな?
「じゃあ俺は肉じゃが。」
ン?肉じゃがなんてあったかしら?
春美がメニューを開く。
「また肉じゃがかよ!芝ちゃん、メニューにあるの食ってくれよ!我が侭なんだから!」
やっぱり、マスターが眉をひそめて溜息をつく。しかし、芝浦はフンッとそっぽを向いた。
「俺はそう、決めてるの。」
「もう!手が掛かるなあ。早く嫁さん貰えよな!時間かかるよ!」
ブツブツ言いながら、マスターが厨房に入ってゆく。
春美はまじまじ芝浦を眺めて、カウンターの奥にある厨房を見た。
何のかんの言いながら、今から肉じゃがを作るらしい。
我が侭オッケーなんて、随分親しいのねえ。
何か思っていたのとちょっと違う一面。
ハルはまだ緊張しているのか、クーをしっかり抱きしめて身体を小さく丸め、もじもじしている。春美が優しく覗き込んだ。
「ハル、大丈夫?怖くないのよ。」
そうっと顔をあげ、にっこりする。
「ハルね、ハルね・・シーコ。」
「え?」
ガタッ!
芝浦が反射的に立ち上がった。
「おいで!」
ハルの手を引いて、部屋の角に急ぐ。
そう言えば、銀行でシーコと言った時は慌てたっけ。
果たして銀行にトイレはあるのか?
心配ご無用、普段気が付かないが、あった。
いざと言う時のために、バックにはパンツを一枚と、銀行の帰りにパジャマ代わりに買ったスエットスーツにズボンも一枚、車にある。
しばらくすると、ハルが手を引かれてキャアキャアはしゃぎながら出てきた。
「お兄ちゃん!手!洗ったね!洗ったね!」
「ああ、ちゃんと洗ったよ、上手に洗った。」
変な話だが、ハルはトイレが間に合うと凄く喜んでご機嫌になる。おねしょをしなかった時もだが、本人も気にしているのだろう。
「無事間にあった?」
「滑り込みセーフ。玉、出したとたんジャーだもん・・・とと、失礼。」
芝浦が口をふさぐ。春美はプッと吹き出した。
 それから随分待たされたが、二人とも自分の事や仕事のことに話が弾み、あまり時間を感じなかった。
お互い何も知らない。
それに、芝浦はテディベアのことになると目が生き生き輝いて、止めどなく話し始める。
春美も何となく興味が出始めていた物が、グイグイ話しに引き入れられ、たかが縫いぐるみのクマに大層な歴史があることに驚いて、ドンドン興味がわいてきた。
「相変わらずだねえ、芝ちゃん。女口説くのに、クマの話ばっかり。」
カウンターの向こうで、マスターが呆れて苦笑いしている。
ハルもようやく落ち着いて、ボウッと外を眺めている。
ハルは不思議と外に出ても、あまり欲しいと言わないし、強く我が侭を言って困らせることがない。
ただ不安の裏返しなのか、時々異常にはしゃいで目が離せないのが多少負担になった。
「坊や、おじちゃんからのおごりだ。どうぞ。」
二人にすっかり無視されているハルに、マスターがオレンジジュースを差し出した。
しかしハルは窓を向いて気が付かない。
「ほら!いつもはケチのおじさんが、ジュースだって!珍しいぞ!」
「芝ちゃん、そりゃあないぜ。」
ポンと叩くと、ビクッと振り返る。きょとんとしながらにっこり笑った。
「あら、いやだ、こちら側聞こえない方だわ。
私と席、代わった方がいいわね。」
「おや、まあ、この子耳も悪いのかい?大きいけど、お嬢さんの子供?」
「いえ、今預かっているんです。
二人とも、立って。」
ガタガタと三人入れ替わる。
座って、芝浦が再度差し出したジュースを一口飲むと、ハルはにっこりマスターに笑いかけた。
「甘い!美味しい!おじちゃん、ありがとう。」
ポッと、マスターの頬が赤くなる。
「いや、いや、おや、まあ!なんだね!
いい顔で笑う子だねえ!
本当、綺麗な顔してるのに、可哀想だねぇ。」
しみじみ言われてハルを見て、春美が呟く。
「そうねえ、やっぱり可哀想なのかしら?」
「さあ、どうなんだろう。」
自分を可哀想と思っているのかは、本人にしか分からない。
しかしハルの場合、経済的にも春美なんかよりずっと恵まれているから、春美よりいい暮らしをしていると思われる。
将来も誰かが面倒を見るだろうから、不安も皆無だろう。
「何か、プー太郎の私の方が可哀想に思えるんだけど。将来も不安だし・・」
くすっと芝浦が笑う。
みんな誰しも一寸先は闇。
不安を抱えて生きている。
不安の無い人間なんか、いたら博物館行きだ。
「はーい!お待たせー!」
ようやく三人に、それぞれ食事が運ばれてきた。ハルと春美はハンバーグセット、芝浦は肉じゃが定食。
しかもハルの分は小さく一口大に切ってあり、真ん中に旗が立っていた。
「キャア!綺麗!綺麗!いいね!ね!」
ハルはもの凄く気に入って、皿をぐるぐる回して喜んでいる。
旗はたった今、マスターの奥さんが爪楊枝に紙を貼って作ってくれたのだろう、日の丸の丸が何故かハートになっていた。
「良かったわね、ハル。」
「うん!良かった!」
ハルが喜ぶと、何だかこちらまで嬉しくなってしまう。
芝浦と春美は顔を見合わせて微笑むと、さっそく食事にありついた。
 カランコロン、ギイイ・・
「あれ?芝浦さん。」
食事が済んで、後はハルが食べ終わるのを待っていると、その時入ってきた客が芝浦に手を挙げた。
「崎森、さっきは・・何だ、会うなら電話代損した。」
芝浦が思わず立ち上がり、歩み寄って崎森の肩を叩く。
「なんだはないでしょ!芝浦さん、病気は治ったの?」
「ごめん、迷惑かけたな。」
「ほんと!危うく俺の胃に穴が開くところでしたよ。
あれ?芝浦さん、彼女出来たんだ。
初めまして、俺、芝浦さんのマネージメントしてます崎森 良です。」
崎森が、春美に手を差し出す。
春美も慌ててそれに握手した。
初めて会って、握手なんて珍しい。まるでアメリカの商談みたい。
「マネージメントって?」
「そうですねえ、問屋みたいな事です。
芝浦さんの作ったベアを、日本各地からアメリカ、イギリス、ドイツまで卸しています。
彼は結構メジャーなんですよ。
ま、本職は雑貨の輸入輸出みたいな物で、小さな会社やってます。そうだ、あの話は考えて置いた?」
ふと、芝浦の顔が曇る。
「気が進まないな。何だか通販って安っぽい印象があるんだ。」
崎森は彼の返答に、がっくり肩を落としてブンブン首を振る。仕草が多少オーバーにも見えた。
「それは間違いだよ、先方も一時間かけて説明しながら紹介してくれるんだぜ。
それにCSテレビを見てくれる、全国の人がお前のベアを手に入れることが出来るんだ。
別に安くする必要はない、俺は安売りする気はないからね。現定数も決める。
な、一度やってみよう。
もう一度、じっくり考えてくれ。」
はあ、芝浦は大きな溜息しかでない。
販路開拓が、まさかテレビショッピングとは。
頭もアンティークな芝浦には、世も末だ。
「良、お食事中なんだからそのくらいにしなよ。ご迷惑だよ。」
崎森の連れの優しそうな顔の男性が、春美に頭を下げて囁いた。
崎森が分かったと手を上げ、その男性の肩を抱きカウンターに付く。
芝浦も席に戻り、両肘を付いて頭を支えた。
このご時世だ。
いつ売れなくなるか、分からない不安がある。
手に入りにくいからこそ、価値があるとも言えるのだ。
どこで一歩踏み出すか、タイミングが難しい。
じいっと、春美が崎森達の背を見ている。
まだ二十代に見える彼らは、仲良くグラスを傾けて親しく話を始めていた。
春美が、ちょっと詮索するように芝浦に囁く。
二人は見るからに自然なのに、怪しい。
「彼、二人仲がいいのね。」
「ああ、あいつ等恋人同士、ゲイなんだ。」
「は?・・はあ・・」
さらっと返事が返ってキョトンとした。
成る程、一昔前には公然と出来なかった物が、最近では当たり前になってきているらしい。
「私も、遅れてるわねえ・・」
「そうでもないさ。
なあ、崎森。お前もあのハニーベアのグランディスさん知ってるよな。」
「ん?ああ、知ってるよ。
こっちでも四越デパートで個展やるぜ。」
思わぬ返事に、バッと二人顔を会わせた。
まさか、こっちにも来る?!
「会うつもり、無いよね。」
「だろ?俺だってこの十年の内に日本で数回会ったんだぜ。
崎森、彼女の連絡先わからないか?知ってたら教えてくれよ、電話かけたいんだ。」
グラスを持って、崎森がゆっくり振り向く。
「へえ、何するんだ?」
「電話かけて、聞きたいことがあるんだ。」
相変わらずだと、くすっと崎森が笑った。
全く、俺を秘書かなんかと間違えてないか?
「芝浦さん、俺ベアを待ってる間、胃に穴が空きそうだったんだけど。」
崎森がグラスを空け、芝浦にそれを差し出す。
舌打ちして、芝浦がマスターに手を挙げた。
「マスター!崎森に一杯おごるよ。」
「じゃあマスター、この店で一番高い酒、どんぶり一杯。」
「崎森ぃー、冗談無しで頼んだぜ。」
「ふん!」
どうやら交渉は成立したらしい。
崎森が携帯電話を取りだし、アドレスを開いて芝浦に差し出した。
「電話をかけるの?国際電話?」
「ほら、借りた携帯があるだろ?ブラジルまででもいい奴。帰ったらあれ貸してくれる?」
ああ、確かにある。しかし、まさか本当にそれで国際電話をかけるなんて・・
「あなたって、図々しいの?」
「いーや、俺は我が侭なの。知らなかった?」
「そうね、ここに来てやっと分かったわ。」
ニヤリと笑って水を飲み、芝浦が立ち上がって携帯を崎森に返した。
「サンキュ、崎森。マスター、いくら?」
「あっ!私が払うわ!車だって乗せて貰ってるし、ハルも・・」
「ここは俺が払う。昨夜のお返し、これでチャラだ。」
「チャラって、あなた昼のパンだって!」
シッと芝浦が指を立てる。
マスターが、笑いながら春美に手を振った。
「女の分払うのは男の礼儀よ。
気にするほどの金額じゃあないさ。」
「そうだよお嬢さん。クマに夢中になっちゃあ振られる男の、クマ談義を聞くお駄賃と思えばいいさ!」
また崎森が悪態を付く。
「このお・・」
芝浦がカッとなって、彼を一発殴ろうかと一歩踏み出したとき、ハルがトコトコと崎森の前に歩いていった。
「何だよ、お前彼の隠し子?」
にっこり、ハルは笑って首を傾げる。
「お兄ちゃん、あのね、こっちのお兄ちゃんがね、大好きって。」
「は?」
キョトンと連れと向き合い、崎森がまたハルに目を移す。
「何言い出すんだ?この子。」
「みんなね、好きって言うとね、嬉しいんだ!だからね、お兄ちゃん、お兄ちゃんが大好きなんだよ!良かったね!」
「うっ、うう・・」
いきなり、隣で連れが顔を伏せて泣き出した。
「おい!おいって、どうしたんだよ。」
崎森が連れに泣かれてあたふたしている。
芝浦はくすっと苦笑して、金を払うとさっさとドアに向かった。
「がんばれよ、色男。」
「うるせえ!」
仕事上の相棒は、どうやら修羅場の気配。
芝浦は春美達を連れて店を後にした。
 夜の盛り場は、酒臭い男と、いちゃつく恋人で溢れている。
つい先日まで芝浦も酒臭い男の仲間に入っていたのが、今日は女連れでちょっと嬉しい。
まあ、コブ付きではあるが・・
ハルと手を繋ぎ、春美と並んで駐車場に向かっていると、ハルが楽しそうに大きな声で童謡を歌い出す。
好きなハンバーグを食べて、美味しいオレンジジュースまで飲んで、ご機嫌のようだ。
「なあ、ハル。どうしてあのお兄ちゃんに好きだって教えたんだ?」
好きなのは分かっている。
すでに同棲しているカップルだ。
マスターも、仕事仲間もみんな知っている公認だ。
最初は驚いたが、女か男かの違いだと言われて、そう言う物かと納得した。
「あいつ、いつもはあんなに絡んでこないのに、今日は機嫌悪かったなあ。」
「ね、彼あなたの事、『さん』付けで呼ぶけど、意味無いみたい。」
別に尊敬とか、一歩引いたような感じがない。
ただ、惰性で呼んでいるようだ。
「ああ、あいつは学校の後輩でさ、最初は先輩って呼ばれてたんだぜ。
それより、さん付けがマシだろ?」
「そうねえ」
あんまり変わらないみたいだけど、男同士って女には分からないことも多い。
「お兄ちゃん、ハル好き!お姉ちゃんも好き!」
結局訳も話さずハルは大きな声で、童謡を歌い続ける。
「ハルには負けるよ。」
芝浦がハルの手を引きながら、フッと溜息をついた。
前から酔っぱらいがフラフラ歩いてくる。
春美がハルを庇うように立ち、避けるように横へ寄った。
「なんでえ、このガキ、ノータリンの馬鹿か。」
すれ違いざま、酒臭い息を吐いて男が吐き捨てるように言って過ぎ去ってゆく。
ムッカア!「この・・!」
思わず芝浦が追いかける・・前に、春美が先に追いかけていた。
「何よ!このクソオジン!あんたの方がスカスカのピー馬鹿ジジイでしょ!」
ダッと走って追いつくと、持っていたバッグでバーンッと男の背中を思い切り叩く。
「いてえ!なんだあ!」
男が振り向くより早く、春美がダアッと逃げてきた。
「早く!逃げるのよ!」
「え?ええ!」
キョトンとする芝浦に、男がわめき立てて走ってくる。
「この野郎!待ちやがれ!」
「ハル!逃げるぞ!」
手を引いて走ろうとするが、ハルは極端に走るのが遅い。
芝浦はヒョイとハルを抱きかかえ、春美の後を追って走り出した。
「きゃああ!きゃはははは!お兄ちゃん凄い!」
ハルは人の気も知らず大喜びしてはしゃいでいる。
「フフッ!ハハハハ!」「きゃあ!アハハハ!」
何だか妙に可笑しくて、三人で笑いながら走って逃げた。
 「はあっはあっはあっ!アハハハハ!
あー面白い!おのオジンの顔ったら見た?!」
しばらく走って後ろを振り向くと、男が追いかけてくる気配はない。
芝浦もハルを降ろし、膝に手を置いて肩で息をする。
ハルを担いではいたが、少し走ったくらいでこんなに息が上がるなんて、運動不足だ。
あー、情けない。
「はあっはあっはあっ!君、いつも、あんな事、してる、わけ?ふうっ!」
「あー!きつ!冗談!初めてよ!
でもさ、ムッときたら、やり返さないと収まらないじゃない?」
「お姉ちゃん、凄いね!お兄ちゃん、ビューンって!凄い!」
芝浦が、ハルの頭をポンと撫でる。
「お前も、早く走れるようになれよ。」
「うん!ビューンだよ!クー!ビューン!」
クーを空高く掲げて、ハルが先を走り出す。
「ハル!危ないわよ!あっ!」
「きゃっ!」バタンッ!
身体に足が追いつかないハルは、春美が言うより先に転んでしまった。
クーが、道をころころと転がってゆく。
芝浦が青ざめてそれを追った。
「き、傷は!ああ!何て事だ!破けたりしなかっただろうな!」
芝浦はハルをそっちのけで、クーをクルクル回して傷の有無を確かめる。
「ちょっと!」
冷ややかな視線にハッと振り向くと、不思議と泣かないハルを起こして春美が睨んでいた。
ハルは頬と膝をすりむいて血が出ている。
「あ、いや、大丈夫かなあっと思ってさ。」
「そう思うのは普通、ハルにでしょ!
むかつくわねえ、だから振られるのよ!」
ムカッ!
「それとこれとは関係ないだろ!
失礼な女だな!」
女あ?ああそう!そんな事言うの!
「いいわ、ハルおいで!ちょっと!クーを返して!」
プイッと春美がクーを奪い取ってハルの手を引き、先を歩き出す。
「私達、電車で帰るから。」
「ああ!そう!じゃあさよなら!
ところで駅は反対だけど!」
そう言い捨てて芝浦は駐車場へ歩き出す。
「あら!ありがとう!」
春美はくるりと駅の方へ歩き出した。
ダンッダンッダンッ!
足音を鳴らして芝浦が腹立たしそうに歩き・・・・そして未練を残して後ろを振り向く。
どんどん春美達の姿は遠ざかってゆく。
相手は振り向きさえしない。
「フン!なんだあんな女!もう二度と会わねえからな!」
って、隣に住んでいるのを忘れている。 
何だか、会ってからの事を振り返れば、楽しい事ばかり・・
ベアにも興味を示してくれて・・初めての共同作業。
何だか披露宴のようだけど、二人で作ったあのベア、確かにあれは共同作業。
「くそう!」
未練をズルズル引っ張って、もう振り返るまいと芝浦は駐車場へひたすら歩き出した。

 ハルを引きずるようにグイグイ引っ張りながら、春美は血が上った頭を抱えたまま、駅を目指していた。
「もう!男なんて馬鹿ばっかり!
あー!腹が立つ!むかつく!何よ!駅は一体どこにあるのよ!むかつく!」
この辺は初めて来たところだ。
車の中から地下鉄のマークが見えたから、駅は近いに違いない。
「お姉ちゃん、足が痛いよう・・」
ずっと急ぎ足で歩いていると、だんだんハルの足がもつれて時々つまづきそうになる。
確かに、闇雲に歩いていても、駅にたどり着けるわけがない。
近くのコンビニに行って、絆創膏とウエットティッシュを買ってレジで訪ねてみた。
「ああ、駅でしたらこの先の道を右折すれば近道ですよ。真っ直ぐ行って、表通りに出たら左に看板が見えます。」
「ありがとう。ハル、行こう。」
ハルを店の前の明るい所へ連れてゆき、頬の傷をティッシュで拭いて、膝には絆創膏を貼った。傷自体は大した事がなさそうだ。
「よし!もう少しだから、歩ける?」
「うん、がんばる。」
ハルがにっこりして、やせ我慢の返事を返す。
よし!なかなかいい返事だ。
「じゃあ、行こうか。どうしても駄目ならタクシー使おうね。」
「うん。たくひーね。」
 盛り場を外れて、右折すると人通りもなく寂しい通りだ。街灯も少なく、歩いていていい気持ちしない。
普段なら絶対こんな道は通らない。
「何て道教えるのよ!もう!怖いじゃない!」
コンビニ店員の男性が親切に教えてくれた道は、女性には思い切り不向きだ。
店員の顔を思い出すたび呪ってやりたくなる。
今日は本当に男運が悪い日!
早く早くと思っても、ハルの足はなかなか急いでくれない。そうか、こいつも男だった。
ワンワンワン!
「ひいっ!」
犬だ。門の中から、犬に吠えられた。
「びっくりした!くそう、あの犬も雄だわ!」
ピカッと、後ろから車のライトが近づいてくる。
「車よ!ほら、ハル!こっちに寄って!」
ブロロロロロ・・!
ウヲオオオオンッ!
「ん?」
いきなり車がスピードを上げる。
そしてライトが壁すれすれに走り、二人に迫ってきた。
まさか・・まさか!
「ハルッ!おいで!」
春美にはハルを抱える腕力はない。
しかもハルは、どんなに引いても、速く走ってくれない。
「お姉ちゃん!怖いよう!」
ライトがどんどん迫ってくる!
反対の壁に逃げても、車は容赦なくハンドルを切ってくる。
間違いない!狙われているんだ!
キュキュキュッ!ウオオオンッ!
「誰かっ!助けて!」
もう駄目!お母さん!
「こっちへ!」
そこに黒い影が駆け寄り、ハルを片手で抱えて春美の手を引き、アパートの陰にある路地へと飛び込んだ。
キキキキッ!
急停車した車の運転席は暗くて中が見えない。
降りて追いかけてきたらどうしよう!
ブオンッ!ボロロロロ・・
車が路地に入れないのを見て、諦めたのか走り去ってゆく。
下りて追いかけてまでは来ないようだ。
「ああ!良かった!」
ドッと力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。
黒い影はハルを降ろして彼の服を整えている。
すると、ハルがその男の顔を覗き込んだ。
「ムーキ?」
シッと男が指を立てる。
「しいっなの?」
男の顔は暗闇に溶けて見えない。
しかし彼はハルの頭を撫で、手を引くと春美にハルを引き渡して立ち去ろうとした。
「ちょっと待って!あなた誰?
もしかして・・まさかハルが?
あなた、まさか白川の・・」
頭の中が混乱する。
心配そうに、ハルが春美の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
男はしかし、無言で一礼して去ってゆく。
立ち上がって追おうとしても、足がすくんで動いてくれなかった。
「お姉ちゃん、ごめんね。ハル、絶対、絶対速く歩くから、怒らないでね。」
半べそかいてハルが懸命に春美を力付ける。
「あんた、まさか命を狙われて・・?」
冗談・・冗談じゃあないわ!
涙が浮かんでくる。
こんな大きなリスクがあるなんて!命を狙われるなんて、普通じゃ滅多にあり得ない。
いくら貰っても、命あってのお金じゃない!
「お姉ちゃん。」
ハルが手をさしのべる。
「触らないでよ!冗談じゃないわ!」
その手を思わず払って、春美はしゃがみ込んだまま途方に暮れた。
私は、普通の人間よ?ハルを守る事なんて出来ないわ!
また、通りを車のライトが照らし、春美が思わず身体を堅くする。しかしゆっくりと横に停車したその車は、見覚えのある車だった。
バタンッ!
慌てて車から、芝浦が降りて来る。芝浦は道に座り込んだ春美の姿に驚いたようで、慌てて駆け寄り彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫かい?後を追ったんだけど見失ってさ、そこで黒服の男に聞いたんだ。」
「もう!来るの、遅いじゃない!馬鹿!」
ホッとして、涙がドッと流れる。
思わず彼の胸に飛び込んで泣いた。
「もう!もう!怖かったわよ!暗くて!怖くて!びっくりして!もう!」
「ごめん、ごめんな。」
ハルも芝浦の背にしがみついてくる。
ようやく声を押し殺して、ハルも泣いた。
「うう・・うーっうーっ、うっうっ・・」
「お前も、怖かったな。」
頭を撫でると、首を振る。
ハルには怖かったことよりも、春美に拒絶されたことの方が悲しくて辛かったのだ。
「シュウチ、シュウチ、ナッチン・・」
どこ?どこに行けば会えるの?
お姉ちゃんはもう、シュウチを探してくれないかもしれない。
きっと、ハルが早く歩けなかったことに腹を立てて、嫌いになったんだ。
不安がハルの心に広がって、涙を袖口で拭きながら春美の顔を心配そうに窺う。車のライトに照らされ、春美の顔は白く光って泣いていた。
「さあ、帰ろう。俺が悪かったよ。」
芝浦が優しく春美に手を貸す。
いきなり心配になって追ってきた物の、思いも掛けない事態に芝浦も自分を責めていた。
「うう・・うっ、うっ、私も・・悪かったわ。
もう!やだ!もう。」
涙止まれ!春美!恥ずかしいじゃない、いつまでもグジグジと。
でも、彼の優しさが身にしみる。
嬉しい!抱いてくれる手が凄く力強い。
今は彼が神様にも思えてきた。
「帰ろう、ごめんな。ハル、おいで。」
芝浦が、春美の肩を抱いて車に向かう。
「ハル、あれ?ハルは?」
「え!」
見回していると、ヒョコヒョコと足を引きずって、家の角を曲がるハルの後ろ姿が消えた。
「ハル!まさか!」
「ハル!駄目よ!戻っておいで!」
慌てて二人で後を追う。芝浦がダッシュをかけて走ると、ハルの身体を容易に捕まえた。
「こら!どこに行くんだ?!」
しっかりとクーを抱いたハルは、芝浦に引きつった顔でにっこり笑う。
追いついた春美も、息を切らしながらハルの肩を握って身体を揺すった。
「どうして?!何でよ!ハル!
こんな暗いのに、どこに行くつもり?」
ハルは、無言でただ、にっこり微笑む。
「ハルッ!」
「シュ、シュウチ、探すの・・」
ハルは、涙を堪えて懸命に笑う。
「どうして笑うの?ハル、泣いていいのに。
ハル、お姉ちゃんに怒っていいのよ!」
ハルの笑顔は歪に見える。
本当に、何故辛い時ほどにこの子は笑うのか、こんな顔をさせてしまった自分が情けない。
「ハル!お姉ちゃんにしっかりしろって言いなよ!ハル、ハル!
・・・ごめん、ごめんね。ハル、ごめんね。」
涙が溢れて暗闇にハルの顔が潤んで見える。
「お姉ちゃん、ハル、もっと速く、歩く。
だから、怒らないで。」
「馬鹿!そんなこと・・馬鹿!」
春美はハルの身体をしっかり抱きしめ、痩せたひょろひょろの身体に胸を打たれた。
一体誰?!こんなひ弱な子の命を狙うのは!
これ以上、この子から何を奪おうというの?
ああ、ごめん!ごめんね!
「うう・・うっうっ・・」
ハルが、春美の胸の中でまた泣いている。
そして、もう離すまいとするように、春美の背に手を回してしがみついた。
 暗い病室に、廊下を忙しそうに歩く看護婦の足音がパタパタと響く。
夜・・・
病人が一番嫌いなのは夜だろう。
眠れなくて、悶々と時を過ごすだけで、話しをして気を紛らすことも出来ない。
病気を治すため、自分の生活リズムなどまったく無視して、夜九時、強制的に床につかなくてはならない、まるで軍隊か刑務所のような生活。しかしそれが長くなると、慣れて九時に眠くなったりするから不思議だ。
風呂もしかり、風呂場は空いているのに決まった時間に先を争うようにしか入れない。
人間、順応性に優れる奴ほど長生きできると諦めるしかないだろう。
しかし、病院でも最良の特別室であるその部屋は、居間にベッドルーム、それに小さなキッチン、シャワー付きのバスルームまで付いて、ちょっとしたホテル並みだ。
だから、一般病室と違って余計な騒音もないので、ひっそりとしている。
ところがそれが災いするのか、あまり静かだと人は余計な事ばかり考えてしまう。
そして、そのベッドに休んでいる白川秀一も、明日が手術と言うこともあり、白い天井を眺めてなかなか寝付けないでいた。
隣のベッドに休む、夏美が心配そうに起きあがる。
この部屋には元々ベッドは一つしかなかったのだが、付き添いたいという夏美の希望で簡易ベッドを入れて貰ったのだ。
半分開けたカーテンから、月が煌々とベッドを照らす。
月明かりにも一層秀一の顔はやつれて見えて、夏美はまた不安感に襲われた。
「兄さん、眠れないの?」
「ああ・・気が立ってるのかな・・?
色々、考えてな・・安定剤を飲むのが遅かったんだろう。大丈夫だよ、お前も休みなさい。」
「大丈夫、無事に済むわよ。
まだまだ兄さんがやらないと、グループを引っ張ってゆく人は誰もいないのよ。」
秀一が、ゆっくり目を閉じた。
「そうだな・・」
「そうよ。正義さんも、重役達も何だか大変そうだけどがんばっているし、心配はいらないけど兄さんはどうしても必要なんだから。」
秀一が寝返りを打って、窓の向こうの月を見る。ほんの少し欠けた月に、ハルのにっこり笑う顔が見えた。
「あれは、どうしてるかな?」
ドキッと夏美が思わず俯く。
「家にいるわ、大人しく待ってるわよ。
ハルのためにも元気で帰らなきゃ!」
「ああ・・・あれには私のことは・・」
「ええ、言ってないわ。
どうせ説明してもわからないでしょうから、不安になるだけだもの。」
「そうだな、そうしてくれ。美香子が死んだ時もよく分かってくれなかったなぁ。
美香子が病院に行く前に、心配かけまいと旅行に行くなんて言ったものだから・・
慌ただしい雰囲気にも飲まれて、説明するとますます混乱していたっけ。」
「ほんと、あの頃は良く粗相ばかりして困ったわ。洋子姉さんが叱ると余計酷くなって。」
「そうだったな、生死を教えるのには、生き物を飼うのが一番だと友人に教えられたよ。
退院したら、あの子に犬を飼ってあげよう。」
「あら、それはいいかもしれないわ、命を言葉では説明するのが難しいから。
でも、あんなに世間離れしていたら、この先心配ね。学校ではこんな事教えてくれなかったのかしら?」
「はは・・あれだけ言葉が分かるようになったんだ。それで十分じゃないか。」
「そうねえ、最初は片言しか話せなかったもんね。あんまり外に出ようともしないし、いつも一人で居るのがいけないのよ。
犬でもいれば、もっと世界が広がるでしょう。」
「ああ・・可愛い犬にしよう。
それから、美香子はもう帰らないと、もう一度ゆっくり話してやらないとな。」
「そうね、いつまでも帰らない人を待ち続けるのは、寂しくて可哀想だわ。」
「あれが・・あんなに早く死ぬなんて、俺も信じられなかったんだ・・」
秀一が呟いて天井を見つめ、目を閉じる。
こうして目を閉じれば、ハルの手を繋いで見送りに立つ、美香子の笑顔が思い浮かぶのだ。
本当に、死んだ彼女を待っているのは、自分かも知れないな・・
「よし、しっかり治して、ハルのいいお父さんになりたいな。」
「ほんと!そろそろお父さんって呼んで欲しいわね。」
しかし、ハルが家を出たのを秀一は知らない。
行方不明になるのも初めてじゃないが、変質者に掴まったらどうしよう、事故にあったらどうしようかと、なかなか見つからないので心配も大きかった。それが知り合いから連絡が来て、ようやく居場所を突き止めたのだ。
ひとまず安心はした物の、何だかハルの周りで雲行きが怪しい。
春美や隣人のことも調べ上げたし、家に一人でいるよりも、春美に預けた方が得策だと考えた。
どうやら先方も若い女性のようで、ハルも慕っているようだし、その方が安心できる。
しかし・・
姉の様子が気になる。
猫いらずなんて・・
家政婦から、それがクッキーと一緒にゴミ箱に捨てられていたと聞いた時はゾッとした。
ハルはおやつに良くクッキーを食べるのだ。
姉を信じたいけど、心に余裕がない。
正義さんに相談したいけど、疲れているのを見ると何も言えなかった。
プルルル・・・
電話が、隣の居間で小さく鳴っている。
「ごめんなさい。」夏美が起きて居間に行き、受話器をあわてて取った。
「何?私よ。」
『村樹です。先程、また車で。
大事はございませんでした。
いかがしましょう、このまま距離を置いて護衛するのは危険かと思いますが。』
男の声が、緊張気味に話す。
しかし護衛のプロである彼が危険と言うからには、本当に危険が迫っているのだ。
「誰?姉さんの車?」
『いえ、国産車です。ナンバーから、レンタカーと分かっております。』
「レンタカー?誰が借りたかはわかったの?」
『それが、まったく関係のない若い女で・・調べましたら、小遣い欲しさに借りて渡したそうです。相手は女性としか・・』
関係ない女を使った?そこまで手が掛かっているなんて!
まさか、プロ?
いいえ、プロなら確実にやる方法を選ぶはず。
失敗するのは素人だわ。
「あなたは・・どうした方が最良だと思うの?」
『私は、指示に従うだけです。
しかし出過ぎたことを申しますなら、すでに晴美様の所在は知られていると思いますので、近くで警護するか場所を変えた方がよろしいかと。』
「場所を変えるのは無理よ、お世話になっている方の生活があるわ。これ以上迷惑は掛けられない。
訳を話して近くで警護なさい。
ただし、ご迷惑がかからないようにね。
難しいでしょうけど、頼みます。近々挨拶にも参ります、まだ一度もお会いしてないから。」
『承知いたしました。』
電話を切って、ソファーにボスンと座る。
がっくり項垂れ、頭を抱えた。
疲れた。
ハルを手元に置いた方が余程楽かも知れない。
けれどそれは現実的には無理な話だ。
寂しいわね、怖いわね、ハル・・
ごめんね・・
私は、とても美香子さんのようになれない。
どうして・・どうしてあの子を狙うの?
あの子は体も弱くて、障害を沢山抱えている。
これ以上・・姉さん・・
キッと顔を上げ、受話器を取る。
ピポピパピ・・ルルルルル・・
すでに十時は過ぎている。
不謹慎なのは分かるが、あの人のことだ。
遊びに行って不在かもしれない。
ル・・・・
『はい、佐倉です』
不機嫌な声が聞こえる。
「姉さん、私よ。」
『何だ、夏美?何?兄さんに何かあったの?』
「いいえ、兄さんは休んでいるわ。
ところで姉さん、私が何で電話したか分かる?」
『はあ?あんた何言ってるのよ。
あの馬鹿、ハルが見つかったの?』
何を言ってるの?白々しい。
「姉さん、姉さんはどうしてもハルに財産を譲りたくないのかもしれない、でもまだ兄さんは生きてるのよ。
ハルに危害を加えるのは止めて。」
『・・・・』
相手は返答に困っている。
電話先で、洋子の息づかいだけが聞こえた。
『そんなこと、関係ないわ。
用が無いなら切るわよ。』
「姉さん!お願い、ハルを・・」
プッ!ツーツーツー・・
切られてしまった。
もう、自分が動けない以上は村樹を信じて任せるしかない。それにハルはのんびりしているようで、妙に勘が鋭いところがある。
大丈夫、大丈夫よ、夏美。
不安を吹っ切るように頭を振り、そっと物音を立てないようにしてベッドに戻った。
ようやく安定剤が効いて眠ったのか、秀一は目を閉じている。
夏美はまた床に入ると、不安を抱えたまま目を閉じた。
 『あなた・・どうぞ』
秀一がまどろんでいると、美香子が好きなコーヒーを入れてくれる。
気が付くと、そこは自宅のダイニングだった。
綺麗に髪を結い上げ、赤と言うより上品な紅色の口紅を好んだ美香子は、笑うと頬に小さなえくぼが出来て幾つになっても可愛く、笑顔が輝いて見える。
「ありがとう」
カチャン、
ソーサーを慎重に受け取り、手前に置いてカップを回す。
お気に入りのマイセンフラワーのカップに、コーヒーが揺らめく。
そこへタタッと軽い足音がして、テーブルの下に小さなハルが隠れる。
美香子が秀一にシッと指を立て、キョロキョロと三文芝居を打ちながら大きな声で話した。
『あらあ?ハルが来たと思ったのに、消えちゃったわ!ハルはきっと魔法が使えるのね!
魔法使いのハルちゃん!さあ、出ておいで!』
『きゃあ!きゃははは!』
大きい声で、ハルが嬉しそうにテーブルの下で笑い声を上げる。
美香子がしゃがんで下を覗くと、這い出してきたハルが、手を伸ばして美香子のえくぼを触った。
ふふ・・・夢か・・
頭の奥で、微かにそう認識している自分が居る。
美香子は五年も前に死んでしまったし、ハルは今、こんなに小さくない。
あの子は、もう十五だ。
とても愛らしい子だったが、母親に似て男の子なのに成長するたび綺麗な子になって行く。
同い年の子から見れば小さいだろうが、本当に大きくなった。
子供はいい、見ているだけで未来を感じる。
ハルのような障害児でも、健常児と同じ未来がある。
『そうね、この子は幸せにしてあげたいわ』美香子が椅子に座り、ハルを膝に抱く。
そして呟くように、それでいてしっかりした口調で言った。
「大丈夫、幸せだよ」
『じゃあ、あなたも、幸せにならなきゃ』
え?
美香子の顔を見る。
彼女は満面に眩しい笑顔を浮かべて、ハルを抱きしめながらそう秀一に漏らした。
「私は、お前がいればうんと幸せだったよ」
先にさっさと死んでしまって、ひどい女だ。
こんな事ならもっと大事にするんだったと、どんなに後悔しただろう。
しかし、美香子がツンとすねたように笑う。
『そうね、あなたはいつも帰りが遅くて、休みも少なくて、私とハルはいつも二人っきり。
ひどい人だったわ。
でも・・・・私は、幸せでしたよ』
秀一が、ぽかんと口を開けて美香子を見つめる。そしてニヤリと笑い、コーヒをすすった。
「そうか・・幸せだったのか・・そうか・・」
カチャン、
カップを置いて、ホウッと一息つく。
そして、宙を見つめ、諦めたように言った。
「俺は、もう死ぬかもしれないんだ・・」
その言葉に、美香子が目を丸くする。
『まあ!本当なの?ハル』
え?
美香子の視線が秀一の背中に向かう。
ハッと顔を上げると、十五才のハルが、秀一の背をそうっと抱いていた。
『大丈夫、シュウチは大丈夫
ハルは、それを言わなきゃって探しているの』
ハルが美しい笑顔で秀一を見守る。
秀一はそっと手を伸ばしてハルの頬を撫でた。
『ハルはね、呼びたいの。呼びたいのに、シュウチいなくなっちゃうんだもん。
びっくりしたよ、だから探してるの。』
「お前、私を捜しているのかい?」
『うん、だからね、シュウチをお父ちゃんって呼んでいいのかな?ママ、怒るかな?』
秀一が突然、思いもしない言葉を聞いて驚き、そしてにっこり笑う。ハルは、不安そうな顔で戸惑いながら微笑んでいた。
「誰もお前を怒ったりしないよ。
ハル・・晴美、お前は私をお父ちゃんって呼んでくれるのかい?」
ハルの顔がパッと輝き、大きく頷く。
『お父ちゃん大好き!ハルはちゃんと、クーにもお願いしたよ。シュウチは、大丈夫だよ』
「お前は、本当に不思議な子だ」
『あなた、ハルの予言は外れたことがないでしょう?だから大丈夫
死んだらちゃんと迎えに行ってあげるから!
だから、安心してしっかり生きて、それからまた一緒に暮らしましょう』
「ふふ・・そうだな、安心してもうひと頑張りするか?」
『ええ、ハルの事、お願いね』
「ああ、お前も元気でな」
死んでから元気もないか・・
それでも、穏やかな妻の笑顔を、秀一は心に刻み込むように見つめていた。
『私はいつも、あなたの傍にいるわ・・』
「ありがとう」
美香子の姿が遠くなる。
フウッと、夢が終わり目が覚めた。
周りを見回すと、まだ窓の外は星が瞬いている。足下に人の気配がして、ハッと身体を起こすと、ぼんやり、白く光る透き通った人影が立っている。
目を凝らすと、それは整った顔をしてにっこり笑う、美しい見慣れた少年だった。
「ハル・・」
声を掛けた瞬間、それがフワリと消える。
「ん・・兄さんどうしたの?」
春美が、浅い眠りから目を覚まして身体を起こし、ルームライトをパチリとつけた。
「今な、来てたんだ。」
秀一が、くすっと笑う。
「え?何が?」
「ハルが大丈夫ってさ、言いに来てたんだ。」
「ハル?」
「ああ、ハルは家を出たんじゃないのかい?
私を捜しているって言っていたぞ。」
「えっ?!」春美が、口を両手で覆う。
ハルがいなくなった事は秀一は知らないはずだ。
「ようし!ハルのお墨付きだ!
夏美、私は大丈夫だよ。
さあ、まだ遅い、よく眠って明日に備えよう。」
秀一は、何か吹っ切れた顔でまた横になる。
夏美はその顔に戸惑いながらライトを消し、そしてまたすぐに眠ってしまった秀一の寝息を聞きながら、不安な夜を過ごした。

 ピンポーン!
「はーい!」
キッチンで、洗い物をしている春美が手を拭きながら玄関に向かう。
しまった!思わず返事をしてしまった。
新聞の勧誘とか、変なセールスマンだったらどうしよう。
返事をしたからには、もう居留守は使えない。
「どちら様ですかぁー・・・」
覗き窓から覗くと、扉の向こうには芝浦が立っている。
「あ!待って。」
慌ててドアを開けると、はにかんだ様子で彼は片手を上げた。
「よ、おはよう。ハルは?」
「昨日はごめんなさい。ハルは奥よ、電話は?」
「今からさ。はい、これ昨日借りた電話。君がかけてくれる?」
芝浦が、携帯電話と数字を書いたメモを差し出す。
覗き込んだ春美は、ハッと両手を後ろに組んでブンブン首を振った。
「待って、私英語とか全然駄目!根っからの日本人なの!」
「ぷっ!く、ふっふふ・・」
芝浦がプウッと吹き出して、笑い出す。
「何よ、失礼ね。大体よ!話せない人の方が多いんじゃない?ここは日本ですもの。」
春美がプウッとむくれる。
「まあまあ、実は俺も話せないんだ。」
「何よ!もう!人を馬鹿にして!」
キイッ!カマかけられた!
むかつく!
「あれ?ハルは出てこないね?」
いつも、我先にとドアから飛び出すのに、今日はやけに静かだ。
「さあ、何だか凄く眠いみたいで、朝ご飯食べながらスウスウ寝ちゃうのよ。
仕方ないから、また寝かせたわ。」
「じゃあ、出られる?家で待ってるよ。」
「え、ええ・・何だか、あなたまでハルの事で巻き込んじゃったわね。」
春美より、芝浦の方が今ではハルに関心が高いように思える。ハルに危険が付くのなら、もしもを考えれば芝浦に悪い。
しかし、そんな憂慮を吹き飛ばすように彼は笑っていた。
「そうだな、巻き込まれたと言うより、謎解きみたいで面白いのさ。
こんなガキんちょなのに、大物やら愛人やら、殺人未遂に果ては神懸かったことまでバラエティーに富んで、テレビのサスペンスより面白いね。
ま、これはハルには秘密だけどね。」
ハッ!呆れた。
「あなたって、全然緊張感無いのね。
あの子、命狙われているかも知れないのに。」
「心配いらないさ、ほら。」
目線でエレベーターホールを指す。
見ると、昨夜助けてくれた黒服の男が一人、目立たないところでこちらを窺っている。
「昨日の夜から、ずっと居るよ。
大変だね、寒いのにさ。
あいつが白川の家から来たって、金と携帯持って俺の家にも来たんだぜ。
やっぱ、命狙われる覚えがあるんだろうさ。」
「ふうん・・心強いけど、見張られてるみたいで嫌ね。ストーカーみたい。」
「気にしないことさ。」
気にしない・・か、大変な仕事もあるもんよねえ。張り込みって、まるで刑事みたい。
何となく、春美はぺこりとお辞儀すると部屋の鍵を取りに行った。
 芝浦の部屋は、いつ来ても片づいて神経質な感じを受ける。
本はずらりと発行順に並び、棚にはベアが並んでいる。来客があるように見えないのに、居間のソファーはカバーを変えたばかりなのか、パリッとしていた。
「いつ来ても綺麗に掃除してるのねえ。」
「ああ、俺って一仕事の後は必ず掃除してカバーやらシーツやら変えるのさ。
じっと部屋に閉じこもるだろ?だから、気分を変えるんだ。
お茶、紅茶でいい?」
「ええ、何でもいいわ。あなた紅茶入れるの上手だもん。」
「君がへたなんだよ。」
ま!口は悪いこと。
棚のベアが、寄り添って見下ろしている。
人形は不思議だ。
明後日を向いていても、どこかこちらを窺っている気配がする。
立ち上がり、並んでいるベアを手に取った。
その一つは随分古いように見える。
色あせて鼻はゆがみ目は上下にずれている。
他の完璧と言えるベアとは違って、子供が工作で作ったようなベアだ。
カチャカチャとトレーを持ってきた芝浦が、カップに紅茶を注ぎながら笑った。
「それ、俺の一作目。名付けて福笑いベアさ。
散々笑い物になったけど、それが俺の原動力。」
「へえ、そうなんだ。プロでも、最初はやっぱり最初なのね。」
「当たり前だよ、ピアニストだって、最初からモーツァルトを弾ける訳じゃない。最初は”猫踏んじゃった”からさ。」
あははは!成る程。
「でも、私これが一番好きだわ。味があっていいじゃない。みんな同じに見えるけど、ちょっと違うわね。」
「さあ、そのうち俺のベアはどれでしょう。」
芝浦がソファーにボスンと座り、紅茶を飲みながら謎かけする。
ベアは棚に全部で16体。
ふーん、と春美が腕組みして考える。
一つ一つ、顔が微妙に違う。
・・あの、ケープをつけてあげたベアは、どんな顔だったかしら・・
じっと、一つ一つ見つめる。
芝浦は、分かるわけないさと高をくくって澄ましていた。
「・・・無いわ。ね?無いでしょう?
ここに、あなたのベアはないわ、どうして?」
春美がくるりと芝浦を振り返る。
彼はぽかんと口を開けたまま、春美を見つめていた。
驚いた!ここに来た奴・・今まで付き合った女の誰一人当てきれなかった。あの崎森だけだ、今までの正解者は。
「どうして分かったんだ?」
「あら、昨日あんなに見たじゃない、あなたのベア。これとこれはほら、タグにシーバって書いてないし、他のは顔が違うわ。」
見た・・
そうか、見てくれていたんだ。
俺のベアを。
そうか・・
「ね、何で置かないの?自分の。」
「置いてるよ、ベッドの横にずらりとね。
ここにあるのは他のお気に入り。」
「アハハハ!それで彼女に逃げられるんだ!」
「そうかもね。」
みんな、俺を理解する気の無い奴ばかりだった。だから続かなかったんだ。
だからゲイの崎森と手を組むことに抵抗がなかった。あいつも自分を理解してくれる人間を捜していたから。
みんな、寂しいんだ。
「今朝早く、崎森から電話かかってきたんだ。
ハルに、よろしくってさ。」
「ハルに?」
春美がソファーに座り、紅茶を一口飲む。
芝浦が入れると紅茶は倍の香りを放ち、苦みが消えて美味しい。
「美味しい、あなた、喫茶店も開けるわ。」
「そうだな、ベアが売れなくなったらそうするよ。
ほら、『かがりび』でハルが崎森の連れに好きだって教えたろう?」
「ああ、そうね、恋人なら好きあってて当たり前じゃない。」
「それがさ、彼、あの後別れ話を言うつもりだったんだって。もう、崎森を嫌いだとか言ってさ。」
「え?!」
「崎森と仕事で知り合った女性との仲を、勘違いしたらしいんだよね。あいつゲイのクセに、やたら女に優しいから。」
「ハルは、やっぱり人の心が読めるんだ。」
うーん、芝浦が考える。
人の心が読めるって、どういう感じか分からない。でも、相手が怒っているか、自分をどう思っているかを分かるはずだ。
それなら・・
「でも、それならあの時に逃げたのは変だろう?俺、思うんだけど、笑うなよ。」
「笑わないわ。」
「クーの力じゃないか?・・ってさ。」
「あれ、ただのぬいぐるみよ?」
「ただの・・とは思えないんだなあ・・
確かに、あり得ないことが起こるし。」
「そうなの?」
「そうなの。」
「へえ・・やっぱりトッテンパッてやったんだ。」
クスクスと春美が笑う。
芝浦がクーを前に、拝みながらクーリン、クーリン、トッテンパッと言っている姿を思い浮かべる方が面白い。
「ほら、あの子は純だろう?だからこんな不可思議な力の影響を受けやすいと思うんだよ。
何か幽霊でも乗り移ってるのかな?
だからアンティークって怖いんだよな。」
「やだ!怖い事言わないでよ!もう!
で、電話は?私は絶対かけませんから!」
「実は、もうかけた。」
「ウソ!もう?」
春美の心配をよそに、芝浦は涼しい顔でお茶を飲む。
「君、時差忘れてるよ。
今かけても向こうは夜中。失礼だろう?」
「あ、そっか。それで、何て?」
彼はポットから、またお茶を注ぐ。
そしてのんびり一口また飲んだ。
「話が長くなるからお茶入れたんだよ。
向こうは日本語が出来るから助かるよ。」
 芝浦は昨夜遅く、帰ってすぐに電話した。
時差を考えれば、今かけた方が得策だ。
向こうは昼過ぎ、いい時間だ。
ルルルル・・・
しかし、コールが鳴っても、なかなか先方は出てくれない。
事務所兼自宅だから、誰かはいるはずだ。
ルルル・・ル、
『ハロー』
うわっ!英語は聞きたくない!
「お久しぶりです、シーバベアの芝浦です。」
『ああ!芝浦さん?まあ!本当にお久しぶり!』
電話はかなり遠いが、まだ若く張りのある声が聞こえる。
さすがに日本語にほっとした。
「ええ、今度こちらにみえると聞きまして。」
『あら、そうだわ、今度の企画には、あなたのベアも出るんですってね。
まあ、またお会いできるかしら?』
「ああ、あれは作品だけですよ。
招待でもあれば行きますけど、遠いですからね。まあイギリスよりは近いですけど。
グランディスさんも、こちらで個展も開くとかいう話じゃないですか?
さすがに精力的というか、ベアの数が桁違いだもんなあ。俺も今度の企画と新作で一週間缶詰めしたら、もう神経からくたくたになってしまって、スランプになるところでした。」
スランプだったんだけど・・
『まあ、それはいけないわ。
缶詰が一番良くないですよ。
いつも自分に風通しを良くしておかないと、心がベアの表情に出てしまいます。
私も個展の準備で今度そちらに行くんですよ。
会えるといいですね、是非新作を見せてください。』
「ええ、もちろんです。
ところで、ちょっとお聞きしたい事があって。」
ようやく本題だ。
長く会わないと、前置きが長くなって何を喋るつもりか忘れてしまう。
ボケかもしれない。
『まあごめんなさい、勝手に喋ってしまって。
何かしら?』
言いにくいが仕方ない。
「実は、息子さんのことで。」
『息子?ロビーのこと?』
スウッと、一息すった。
「日本にいる息子さんです、白川晴美。
旧姓を、晴美・オーランド。ご存じでしょう?」
『・・・・』
電話の向こうが、急に無口になった。
切られるかもしれない。
思わず目を閉じ、神に祈った。
『知りません、私は存じませんわ。
芝浦さん?あなた、いつから探偵を始めたの?』
「必要に迫られて。
実は、訳あってハルを隣と一緒に預かっているんですよ。
それで、旅行へ行ったお母さんを待っているんだって、ハルが言う物だからつい。」
『・・・・』
じっと、しばらく返事がなかった。
いつかこんな日が来ると思っていたに違いない。人一人生み捨てて、それで関係ないなんて言えるほど、世の中甘くはないのだ。
『あなた、お母様には可愛がって貰った?』
え?そう改まって言われると考えるが、確かに悪戯して尻をホウキで叩かれても、ガラスを割って押入に閉じこめられても、いつも気に掛けてくれて可愛がってくれたと思う。
「親なんだから、可愛がって当たり前でしょう?多少厳しいところはありましたけど。」
『当たり前なんて、この世の中にはあり得ないのよ。今日可愛くても明日は憎い事もある。人は嫌な思い出には蓋をしたい物だわ。
それはその子も一緒じゃないの?
切るわよ。』
「じゃあ、蓋をして、無かったことにするんですか?母親から産まれてきた子供を。」
『無かったこと?そうね、そうかもしれない。
でもね、確かにその子を五年の間育てたのは、生みの母親なのよ。
捨てたんじゃないわ、育てられないから育てられる人に譲ったのよ。』
「誰も、捨てたなんて言ってませんよ。」
やっぱり、この人自身も後ろめたいんだ。
『その子が今、幸せならそれでいいじゃない。
立派な家の養子になって、何も生活に不安がないのならそれで。』
そりゃあ違うんじゃないか?
「今度来日された時にでも・・」
『母親は会わないわ。会わない方がいいのよ。
あの子だって辛いだけ。
じゃあ、さよなら。』
「あっ!待っ・・」
プッ、ツーツーツー
さっさと切られてしまった。
まあ、話が出来た方だろう。
しかし・・あの、素敵なベアを作る人が・・
幻滅してしまった。
そりゃあ、金持ちの養子になったなら、お金の心配はないだろう。
でも、あのハルにお金がどれほど価値があるのだろうか?
どんなに貧乏でも、自分を愛してくれる親が居る方が、どんなに心が満たされるだろう?
芝浦は雑誌に載っている彼女のベアを見ると、あまりの皮肉に空虚な気持ちでソファーに寝っ転がった。
”幸せを運ぶハニーベア
「愛情を込めて、一つ一つ大切に作ります」
笑顔で語る、グランディスさん”
にっこり笑う彼女の写真・・ハルはベアにも劣るのか?馬鹿げてる。
ベア好きに悪い奴はいない!
それがあまりに簡単に裏切られて、嫌な気持ちでその夜はあまり眠れなかった。
 話をじっと聞いていた春美が、背もたれに寄りかかりがっくり項垂れた。
「じゃあ、とても会ってはくれないわねえ。」
「うん、でも考えてるとさ、確かに会わない方がいい気がするよ。」
「どうして?あんなに会いたがっているのに。」
「彼女には、もう家庭があるんだ。
会っても引き取れないなら、また別れの繰り返しだ。ハルには辛いだろう?」
「あ、そか・・」
一緒に暮らせないと、ハルに理解できるのか。
確かにまた辛いことの繰り返しかもしれない。
「それにね、あのパンフレット見てひっくり返ったハルは、とても喜ぶように見えなかったんだ。」
「え?そうかな?良く、分からない子よねえ。」
ピルルルル・・ピルルルル・・
いきなり、白い携帯が鳴り出した。
芝浦は、取れば?と目配せる。仕方なく、春美が電話を取った。
「はい・・」
『玄関に、宅配業者が来ています。』
「えっ!うそっ!」
電話を切って、バタバタ玄関に走る。
ガチャンとドアを開けると、黒服の男と並んで若い制服姿の兄ちゃんが、苦笑いを浮かべ緊張した顔で立っていた。
恐らくは、黒服の男を暴力団関係と思ったのだろう。
「ごめんなさい、私が矢坂春美です。」
「すいません、特急便です、はんこ下さい。」
慌てて部屋に帰りはんこを取り出す。
ギュッと印を押して特急便で来た手紙を受け取ると、兄ちゃんは慌てて帰っていった。
黒服は、またホールの方へ離れてゆく。
春美はハルの様子を見にそっと中へ行くと、まだまだハルは熟睡状態だった。
「よく寝てるわねえ、もう少ししたら起こそう。トイレにも行かせなきゃ。」
手紙は、少し厚めの何か商品券でも入っている感じだ。
くるりと裏返してドキッとした。
えっ?
「佐倉(白川)洋子」って誰?
ど、ど、ど、どうしよう!
どうして白川なのに、あの黒服が持ってこないの?洋子って誰?黒服に聞こうか?
命を狙われてってまさか白い粉がこれに・・それはないわよねえ・・
手紙の角をつまんで、じっと見る。
ハサミを持ってドアの外に出ると、芝浦が廊下に立っていた。
「どうした?」
「見てよ、この洋子って誰?開けても大丈夫かな?まさか白い粉なんて無いよね。」
またプッと芝浦が吹き出す。
「そりゃあ無いだろ?テレビの見過ぎじゃない?開ければ?」
「そうね、じゃああなたの部屋で開けようか?」
ドキッと彼が慌てて手を振る。
「いや、やっぱりそれは遠慮するよ。
ここで開けよう。」
「ほーら、やっぱり。怖いんじゃない。」
「そっそれは君が余計なことを言うから!」
「まあいいわ、開けよっと。」
緊張した面もちで、春美がハサミを入れる。
ジョキッ!ジョキジョキッ!
すると、中からやっぱりクーポン券が、一枚の手紙と共に出てきた。
「えーっと、お伺いもせずに、いきなりのお手紙失礼します?・・・・んーっと、私、晴美の叔母に当たる者でございます、かなぁ。
何か達筆で読みにくいわねえ、
晴美が大変お世話になっております?つきましてはお礼も兼ねまして、当方が経営しておりますホテルに御滞在下さい。
良い部屋で、くつろいでいただければ幸いかと思います・・だって!
お食事も、ホテル自慢のレストランをご利用下さい・・って、やった!
見て!ホワイトリバーホテル・シティードリームだって!あそこはさ、女性客ターゲットで凄く凝ってるのよ。
都心のリゾートホテル!エステにプールに温泉!知ってる?ブランド物の洋服をレンタルする店もあるのよ!
一度でいいからさ、シャネルのスーツ着てみたかったんだ。レンタル料っていくらなんだろう。
タダでいいのかな?
嬉しいー!一度泊まってみたかったのよねえ!」
夢見心地ではしゃぐ春美に、芝浦はタジタジと引いてしまう。
こう言うことには、女のパワーは凄い。
シャネルなんて、俺はそんな物より一度でいいから名のあるオールドベアを、金に糸目を付けずに買ってみたい。
「こうしちゃ居られないわ。さっそく準備しなきゃ!ハルのお迎えだっていつ来るか分からないんだし、一日でも泊まらないと損よ。」
「行くの?」
「当たり前よ!家よりずっと広い居間にベッドルームと、素敵なお風呂!
いいわあ!それで美味しい物食べ放題!
一食でも多く食べなきゃ損よ!
そうだ、一緒に行かない?」
部屋に入り、奥でガタガタと春美は大きなボストンバッグを取りだしている。
そして次々引き出しを開けては、それに詰め込んでいった。
芝浦は玄関先で、手紙を改めて読み返す。
これは、本当にハルの叔母さんからだろうか?
まさか罠じゃ・・
芝浦は思いきって、手紙を手に黒服の元に歩き出した。
黒服は、すでに宅配業者から渡される時点でチェックを済ませているだろう。
「あの・・」
ヌッと、黒服が芝浦の前に立つ。
やっぱりちょっと怖い奴。
「この、佐倉洋子って、誰か知ってます?」
「晴美様の叔母様です。ホワイトリバーホテルの社長をしてらっしゃいます。
それで、何か?」
彼も中身が気になっているんだろう。
「別に、聞いただけだよ。ありがとう。」
黒服が、何か言いたげな様子で一歩引く。
芝浦が引き返すと、誰かに連絡を取っている様子だった。
春美は舞い上がりながら鼻歌交じりで、ボストンに化粧品を詰めているようだ。
「なあ、不味いんじゃないか?家にじっとしている方が、安全だと思うけどなあ。」
しかし、男のぼやきなどどこ吹く風。
彼女の頭の中は、すでにホテルの中なのだ。
「ハル!起きなさい!着替えるのよ!」
よいしょと身体を起こしても、ハルはスウスウ熟睡している。
「何で?どうしてそんなに眠いのよ!もう!
ねえ!手伝ってよ!」
「えっ?俺は止めた方がいいと・・ちょっと!
俺の話も聞けよ!」
春美がドタドタ玄関に来て、ボウッと突っ立っている芝浦の手を引いて行く。
止めた方がいいと、助言するためにこうして寒い玄関先に立っているというのに、芝浦まで結局巻き込まれてしまった。
「ほら、何しろ服を着替えさせなきゃ。
そうだ、その前におしっこ!
ハル!トイレ行くわよ!トイレ!」
ハルはトイレと言う言葉に、微妙に反応してポッと目を覚ます。
夜中必ず一度は起こしてトイレに行かせなければ、朝は大洪水なんて洒落にならない。
きっとそれに身体が慣れているのだ。
「ト、トー・・レ・・トーレに行かなきゃ。」
ぼやあっとようやく起きて、這うように台所に向かう。
「またあ!そっちは台所だって!こっちがトイレ!」
慌てて春美が進路変更させた。
何とか這うようにしてトイレに入る。
しかし、入ったっきり出てこない。
「ちょっと、あなた男でしょ!見てよ。」
「どうして俺が!もう!どうなってんだよ。」
小突かれて芝浦が、仕方なくそうっとドアを開けた。
くーくーくーすうー・・
ハルは便器に座ったまま、爆睡している。
何だ、びっくりさせるぜ。
水を流すと、降ろしているブリーフとズボンを上げながら、春美がハルの身体を叩いた。
「ハル、起きて!ホテルに行ったら好きなだけ寝かせるから!」
「う・・ん・・うう・・・眠うの・・」
駄目だこりゃ。
「どうして?昨夜寝なかったの?」
「寝たわよ、ちゃんと。
それが、変なことばっかり言うのよ。」
「何て?」
「えっとね、夢でお兄ちゃんに会ったら眠いって。夢は関係ないっての!」
まったく謎だ。ヒョイと芝浦が肩をあげる。
「分かったよ、俺が送っていこう。
いや、車はあるのかな?いい車が。」
「どこに?」
芝浦が、外をクイッと親指で指す。
黒服の男が思い浮かんで、ああと春美も頷いた。
「どうせ、追いかけてくるんでしょうね。」
「だろうね。ほらハル、洋服を着るぞ。」
「うん、シューチ、シーコ済んだよ。」
「俺はシューチじゃないよ、シーバだろ?」
ぼんやりした頭で、ようやく立ち上がってハルがフラフラ歩き出す。
「手!手を洗いなさい!ハル!」
「あ、そか、手を洗わなきゃ、ナッチンに怒られる。」
ハルは家と混同して、フラフラ違う方向へ歩き出す。
「しっかりしてよ、ハル。」
春美も困った顔で手を洗わせると、服を着替えに居間へと引っ張っていった。

 いつもより、冷たく感じる病院の廊下に、夏美はじっと手を合わせてその重々しいドアに向けて立っていた。
ドアの上には手術室とだけ表示がある。
中には数室の手術室が並んでいるらしいが、家族はここから入る事が許されず、手術室の近くにある待合室で待つようにと看護婦に指示された。
待合室は、八畳ほどの部屋をカーテンで二つに分けてあり、それぞれに小さなテーブルに椅子がいくつか置いてある殺風景な部屋だ。
幾つも同時に手術が重なると、それぞれの家族でごった返すのだろうが、今日は白川家の他に二家族が待っている。
しかし彼らの家族は簡単な手術だったのか、早朝から二時間も過ぎた頃、さっさと手術も終わって後には白川家だけが残された。
刻々と時間だけが過ぎて、それで居ても立っても居られない。
洋子は何度も部屋を出ては、タバコを吸いに行く。先程まで会社の上層部も来ていたのだが、仕事に差し支えるし、部下に動揺が走るので、連絡を入れるからと帰って貰った。
とにかく落ち着かない。
ピルルルル・・・
突然、部屋の電話が鳴り響き、いぶかしい顔で夏美が受話器を取った。
『白川夏美様はいらっしゃいますか?』
「はい、私ですが。」
『外線が入っておりますので、おつなぎします。』
ピッと音が変わり、電話の向こうに息づかいが聞こえる。
「はい、夏美です。」
『村樹です。晴美様が移動されました。』
「移動?そんなことわざわざ・・」
『洋子様の、ホテルです。
シティードリームに招待されたと仰いまして、矢坂様と芝浦様もご一緒に。』
ガタン!
思わず夏美が立ち上がる。
キョロキョロ辺りを窺い、洋子がいないことを確かめると、目立たぬように部屋の隅で壁を向いた。
「姉さんのホテルって、どう言うこと?
それじゃ、姉さんの思うつぼじゃない。
何かあっても、事故で簡単に済まされてしまうのよ。矢坂さんとは話したの?」
『はい、しかしどこにいても同じだと、跳ね返されました。
とにかく部屋の外に張り付いて、晴美様がお一人にならないように注意します。』
「頼むわ、絶対に一人にしちゃ駄目よ。
あのホテルは若い女性には刺激が強いから、矢坂さんは恐らく部屋にじっとしていないでしょうから。
ルームサービスの時も、目を配りなさい。
ホテルマンだけがホテルマンの格好をしている訳じゃないわ、騙されないように。
それはあなたの方が詳しいでしょうから、任せます。晴美をお願いね。」
『承知いたしました。』
電話を切って脱力する。
黙ってこんな小細工するなんて、姉さんは本気なのかしら?
ガチャッ!
いきなりドアの開く音に驚いて振り向くと、正義が立っていた。
「ごめんよ、夏美!遅くなってしまって。
兄さん、まだ終わらないのか?」
夏美の不在に山根が良くやってくれているのだろう、プレスの効いたズボンに、パリッとしたシャツが目を引く。
コートを脱いでいると、綺麗に整えた髪から整髪料の香りがぷんと夏美の鼻をくすぐった。
ようやく仕事にも一区切り付いたのか、息を切らせて駆けつけてくれたのだ。
「もう!遅いわよ!」
ブワッと、夏美の目から涙が浮かぶ。
思わず正義の胸に飛び込んでしまった。
「ごめんごめん、寂しい思いさせて悪かった。
ほら、もう昼も過ぎてるから食事をしなさい。
弁当を買ってきたよ。
山根さんと洋子さんは?叔父さん達も来ているんだろう?」
「姉さんはタバコだと思うわ。
山根さんの案内で叔父さんも叔母さんも、まだかかるだろうからって食事に行ったの。」
正義が、暖かい弁当が入った袋を差し出す。
食欲はないが、正義の気持ちが嬉しくて夏美は受け取り、部屋にある小さなテーブルに広げた。
弁当は四つある。
「姉さんも、早くくればいいのに。
全然じっとしていないのよタバコタバコって。あなた、秘書の方はご一緒じゃないの?」
「ああ、彼女には部署に残って貰ったよ。
ここじゃ携帯も使えないから。」
「あんまり騒ぎになると、会社にも悪い影響出るんじゃない?株も下がっているんでしょう?」
正義はガサガサと弁当を開けて、さっさと口に運び始めている。
夏美も、ポットに入れてきたお茶を取りだし、湯飲みに注いで勧めた。
「株はね、上がっている会社が少ないんだよ。
投資人口が減っているんだ。夏美は心配しないでいいんだよ。」
ふと箸を止め、正義がにっこり笑った。
少し、痩せた気がする。
綺麗に整えた髪もいつもと分け方が違うし、肌に艶がない。
久しぶりに見た夫の顔は、少し憔悴しているように見えて、夏美は不安がよぎった。
ここにハルが居たら、素直に思ったことを話すだろう。
『セーギ、お仕事、お休みするといいよ』
にっこり笑って、正義に甘えるハルの姿が思い浮かぶ。
夏美は、思い切ってハルの事を相談しようか迷っていた。
仕事で手一杯なのは分かっているから、今までまったく相談しなかったのだ。
洋子を悪く言うつもりはない。でもお金がからむと、たとえ兄弟でも不安になる。
正義には、ハルを人に預けている事までは話してある。
その事で彼は最初いい顔をしなかったが、ハルが相手を気に入っているのならと了承した。
家に一人で置ける子ではない。
大丈夫そうに見えてまったく大丈夫ではない。
実際、ハルがあのセキュリティーの厳しい家のどこから外へ出るのか、まだ謎が解けていないのだ。
「洋子さん遅いな。」
二人っきりの待合室で、夏美はお茶を飲むと正義に切り出した。
「実はね、姉さんったらハルを自分のホテルに移動させたらしいのよ。
物騒なことも言っていたし・・心配で・・
大丈夫かしら?」
思いがけず、正義はくすっと笑ってご飯を口に運ぶ。
「やだ!私は真剣なんですからね!
ハルだって、二度も車に跳ねられそうになったし、姉さんは・・」
「兄さんの遺産の話ばかり・・だろ?
僕も聞いたよ、まあ気持ちも分からなくはないけどね。でも、あのハルが大金や会社を貰っても、ネコに小判だよって笑ったよ。
そんな心配いらないって。」
「もう、のんびりしてるんだから!
私は美香子さんに、くれぐれもハルの事をよろしくって頼まれたんですよ、何かあったら死んでもあの世に行けないわ。」
「おいおい、君は僕の奥さんなんだから、ずっと傍にいてくれないと困るよ。
焼き餅焼いても仕方ないけどね、僕はハルに負かされっぱなしだ。」
「まっ!」
コンコン、カチャ!
「はい・・あら?」
ノックの音に、返事をする間もなくドアが開いた。
「焼き餅焼いてたのは、父さんよりも僕の方だよ。ただいま!」
そこに現れたのは、てっきり洋子だと思ったらイギリスにいるはずの二十歳前後の青年だ。
大きなボストンバックを肩に掛け、笑いながら入ってきた。
髪を栗色に染め、スラリと長身だがスポーツマンらしく、がっしりと締まった体つきをしている。健康的で母親似の彼は、確かに手の掛かるハルにずっと母親を奪われていた。
目を丸くして夏美が立ち上がると、一人息子の芳樹がガバッと抱きついて頬にチュッとキスをする。
夏美は恥ずかしそうに頬を赤らめて、両手でパンッと息子の顔を挟んだ。
「まあ、あなた変な挨拶だけは覚えが早いこと!どうして?誰に聞いたの?」
チッチッチッと芳樹が指を振り、母親を椅子に掛けさせて自分もボスンと座る。
「おっ!飯だ!俺も食っていい?
金をケチってエコノミーに乗ったらさ、機内食不味いし少なくて。バタバタしたから腹減ったよ。」
返事も聞かず、蓋を取ってすでに箸を握っている。相変わらず慌ただしい子だ。
「ねえ、返事は?誰から聞いたの?」
「ハル。」
「はあ?」
両親が、口を揃えて思い切り首をひねる。
一番あり得ないことだ。
ハルは電話を取ることは出来るが、かけることは出来ない。あの長い番号を順番に押す事が不得手なのだ。
「ハルはいつあなたの電話番号を聞いたのかしら?」
「電話じゃないよ。
言っとくけど、手紙でもない。」
「じゃあ何?他にどんな方法があるの?」
何だかまどろっこしい。
「母さんに言って、分かるかなあ?」
「失礼ね!私だって、パソコンぐらいちょっとは使えるのよ!」
芳樹はガツガツ下品にご飯を流し込む。
そしてお茶をコップ一杯飲み干すと、大事そうに卵焼きを挟み、カプッと口に放り込んだ。
「やっぱ、母さんの卵焼きがうまい。
これ、甘すぎるよね。ハルなら好きだろうな。」
「芳樹っ!ね、教えてよ。」
「ハルはね、来たんだよ。キャンパスまで、わざわざ。」
「どうやって!」
そんなこと、あり得ない。ハルは一度も日本から出ていないのだ。
「ン、友達が言うにはさ、そう言う事を出来る奴が、たまにいるらしいよ。
何でどうやって俺を突き止めてきたのか、良く分からないけどね。
クーを抱いてさ、にっこり笑って『お兄ちゃん』だって。
キャンパスで、しかもみんなの前でだぜ?
廊下に立っているから、どうしてここに来たんだ?って聞いたらさ、『シューチ、びょーきなの』って言った後、フッと消えたんだ。
もう、大騒ぎだよ。俺、帰ったら有名人だぜ。」
話を聞くほどに面食らって言葉が出ない。
そんな事があり得るのだろうか?
ハルは確かに日本にいたのに、イギリスにもいたなんて。
「一体、どう言うことだ?芳樹、父さんにはまったく話が見えないよ。」
まるで良くテレビでやっている、オカルトっぽい話の再現だ。それがヤラセで無くて、現実で本当に起きるなんて信じられない。
「芳樹ったら、ウソばっかり!
ハルがそんな超能力みたいなこと、出来る分けないじゃない。」
芳樹は、含み笑いでガブガブお茶を飲む。
飛行機で、相当喉が渇いていたのだ。
「だから母さんに言っても分からないって!
それでハルはどこ?」
「ハルはね、人に預けているのよ。
洋子伯母さんも見てくれないし、父さんも忙しくてハルの面倒まで見る余裕が無くてね。」
「へえ、あいつの世話をしてくれるような物好きも居るんだ。てっきり俺が世話すると思って、覚悟してきたのに。」
ラッキーとばかりに、パッと顔を明るくする。
「あらまあ、そんな顔してハルが聞いたら何て言うかしら。
お前がいるのなら、呼び戻そうかしらね?」
夏美は芳樹の頭をポンと叩いて、軽くなったポットを抱き上げ、ドアに向かった。
「急いでお湯沸かしてくるから。
もしも手術終わったら、すぐ教えてよ。」
「さっき手術室から出てきた看護婦さんに丁度会ったけど、まだまだって言ってたよ。
綺麗に取れるだけ取るそうですからってさ。
転移してるの?見つかるのが遅かったんだね。」
芳樹は詳しく聞いていない。
だから、不用意に言葉が出てしまった。
”遅かった”は、今の夏美に厳禁なのだ。
具合が悪そうなのは、ずっと早くから知っていただけに、病名を聞いた時は自分を責めて辛かった。
夏美がふとドアの前で立ち止まり、項垂れながらポットを抱きしめる。
「母さんも、悪かったの。」
「お前が自分を悪いというのなら、私も悪かったんだ。この不況も、会社も、全て悪かったんだ。お前だけが悪いんじゃあない。」
「ありがとう。」
カチャ、
肩を落として、力無い微笑みを浮かべながら夏美がドアに消えた。
その後ろ姿に首を振りながら、芳樹が大きく溜息をつく。そしてグッと身体を曲げて膝を抱え込んだ。
「やっぱり、ハルが言った通りだ。」
「また、ハルかい?」
「父さんは信じるてくれるの?
キャンパスで会ったハルは、本当はこう言ったんだ。
  『シューチが病気なの
    ナッチンが泣いてる
     お兄ちゃん早く帰ってきて』
僕は背中をゾオッと冷たい物が走ったよ。
そして凄く切羽詰まった感情で、胸が突然押しつぶされたような気がしたんだ。
それで、ただ事じゃないって慌てたよ。」
芳樹が、身体を起こしてンーと伸びをする。
飛行機で多少は眠ったが、時差があるから今が一番眠い。しかし、ここで眠ったら時差ボケしてしまう。
「ハル・・か・・」
正義がぽつんと漏らす。
「あいつも、たまには役に立つよなあ。
でも、横で見ていた友達が十字を切って、そして手を合わせて言ったんだ。
”彼は、聖なる神の御使いだ”
そこで笑ったら絶交だからグッと我慢したよ。」
「なるほど、神の御使いね。」
妙に納得してしまう。
コンコン、カチャリ!
返事も待たずに洋子が部屋に入ってきた。
「あら、芳樹じゃない!あんたもやっぱり遺産が心配なのね?」
「伯母さんも、相変わらずで。」
挨拶より、苦笑が先に立つ。
不可思議現象ファイルも、現実的我が道を行く洋子のパワーの前では、まったく歯が立たない様子だった。

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