桜がちる夜に

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更新日 2018-05-20 | 作成日 2018-05-20

4、

 女性なら、誰でも一度は泊まりたいと考える、そのホテルはホワイトリバーホテル・シティードリームだ。
高層化が当たり前の都心でこの異色のホテルは、あえて建物自体を低くして内装はまるでヨーロッパの城のようだ。
ここは皇居周辺に残った緑とホテル自慢の英国式ガーデンを生かし、それぞれの客室から緑をふんだんに味わえるように工夫してある。
部屋数が少ないかわり、広い部屋と充実したサービスが売りだ。
 ホテルに到着すると、まずは古風な煉瓦の門を抜け、敷き詰めた芝に走る石畳を走り玄関へ。
ここは一階を駐車ペースに取り、嵩上げして二階が玄関なのでやや坂になる。
車が玄関先に到着するとドアマンが出迎え、荷物を降ろしてゲストは手ぶらでロビーへ。もちろん車はキーを預かり、一階の駐車場へ運んでくれる。
ロビーに案内されてまず飛び込むのが、中央に緑と自然石に囲まれた泉だ。
そして、低いカウンターの向こうには、ゆったりと微笑むホテルマンが宿泊手続きのためにロビーの椅子を勧めてくれる。
ほっと一息ついて、デミタスカップのお茶で落ち着いた頃、ゲストは改めて知るのだ。
このロビーこそが別世界の入り口、ここからがリゾート。
『あなただけの為の時間』
しかし、別にゴルフ場があるわけではない。
カラオケもないし、宴会場もない。
エステやドレスレンタルなど女性向きのサービスには用のない男性には、バーやカジノ、そして図書館、スポーツジムもある。
食事は一流、何より一日休みがあれば、移動の時間がないのでゆっくりできる。
だれしもが、静かな自分の時間が欲しいのだ。
そして、とにかくこだわりがある。
陸の孤島・・それがピッタリだ。
ある評論家は、陸の豪華客船と言った。
 客室は、スタンダードでも天井が高く広い。家具は北欧から特別注文して備えつけ、ベッドは天蓋付きでテーブルとソファーも備えている。都心のホテルでは考えられない緑に面したバルコニー。そしてバスルームはもちろんトイレも美しい。
バルコニーの方角は、隣接するビルの死角となり、高層ビル群から離れているのであまり人目も気にならず、一角には大胆にも温泉を利用したジャグジーがある。
備え付けの消耗品やルームシューズも凝っていて定評があり、果ては希望者には、まるで社交界の貴婦人が着るようなドレスやネグリジェのレンタルまであるのだ。
屋上の空中庭園には巨大なサンルームに、緑豊かな植物が生い茂り、鳥の声が涼やかにさえずって、目を閉じるとここが都心だと言うことを忘れさせる。
そしてそこにはプールにテラス、そしてオープンカフェにレストランがお洒落に、そして静かな空間を提供する。
徹底的に都心でのリゾートライフにこだわり、ホテルでの一時を楽しんでリフレッシュして貰う。
その潔さが『選ばれたあなただけに・・』と言うコピーをして、女心をくすぐるのだ。
都心にいてリゾートの雰囲気を味わえるこのホテルは、客室を減らして室料が高額にも関わらず、いつも満室で空室待ちというのもまったくこの不況下では考えられない状況だった。
 ロビーでの手続きを終わり、部屋に案内される間もハルはウトウトして、ここがどこなのか見当が付かないようだ。フラフラしてまともに歩けない様子に、スタッフが車椅子まで用意してくれた。
「どうぞ、こちらでございます。」
重厚感のあるドアが開かれ、春美はキョロキョロ物珍しそうに部屋に入ると、突然歓声を上げてまずはふかふかのベッドに飛び込んだ。
「キャアアアア!!素敵!最高ー!見てよ!このベッド!お姫様みたい!」
「君はいいね、お気楽で。ハル、このまま寝かせとくよ。クーは枕元に置くから。」
くつろぐ春美の横で、芝浦はハルを抱えてベッドに寝かせる。
天蓋付きのベッドが二つ、この部屋はツインだ。芝浦は、やはり宿泊しないで帰るらしい。
「申し訳ございません。
オーナーの大切なお客様に、スイートをご提供できませんでしたことを、深くお詫びいたします。
しかし、当ホテルはどの部屋も自信を持ってお勧めできる・・」
「いいんだよ、どうせこの人タダで世話になるんだから。それよりこの子、たまにおねしょするんだけど。ベッド大丈夫?」
案内してくれたホテルマンが、芝浦に言葉を遮られてにっこり微笑む。
「はい、では後ほど専用のシーツをお持ちいたします。では、お部屋のご説明を・・」
「はい!ちょっと待って。」
はしゃぐ春美に軽く礼をして、部屋の説明を済ませると、その間にもう一人の男性スタッフが荷物を運び入れた。
「外出されるときは、必ずキーをフロントへ御預けになって下さい。カードをお渡ししますので、それがキーのお預かり証になります。
セキュリティーには気を配っておりますが、万全ではございません。部屋を出るときはオートロックで鍵が閉まりますので、鍵は必ずお持ち下さい。
何かご質問はございますか?」
「分からないときは聞くわ。」
「では、どうぞおくつろぎ下さい。
手が足りないときには、どうぞご遠慮なさらずにフロントまでご連絡を。晴美様のことは、こちらも存じております。」
「あら、この子ここに泊まったことあるの?」
当たり前のような気もするが、ハルにはどうも似つかわしくないところだ。
「はい、晴美様は最上階にございます、空中庭園のプールがお気に入りでございます。
水着のレンタルもございますのでどうぞ。
何かご入り用な物がございましたら御連絡を下さい。では、失礼いたします。」
二人のスタッフが、にっこり微笑み軽く礼をして部屋を出てゆく。
その嫌味のなさに、春美はハアッと溜息をつき、外を見ようと窓を開けた。
ここは五階だが、裏を向いているのでビル風などとは関係なく、冷たい風がフワリと吹いて頬を刺す。
「凄い、こっちにジャグジーがある!
これ、温泉よ!見てよ、信じられないわ、都心のホテルにバルコニーなんて。
綺麗ねえ、まるでヨーロッパの貴族みたいな装飾。
わっ!すごい、見てよこれよこれ!ここの売りの英国式ガーデン!冬なのに薔薇がすごい!あら、お茶も飲めるのかしら?いいわあ!
ハルも寝てるし、後でエステに行こうっと。」
芝浦も、バルコニーへ出てへえっと溜息をつく。都心でこんな贅沢な作りに、この部屋数で採算がとれるのか?
「ここって、普通泊まればいくら?」
「さあ、一番安い部屋で十万くらいかしら?
もっとするのかなあ、何でも込みだもん。」
「十万?それが相応だと思うの?女は分からないな。」
フワリと、ドレス姿の女性が庭園を散歩している。
普通の生活では絶対に経験できない事を、ここでは人目を気にすることもなく体験できる。
エステで肌を磨き、ドレスを借りて即席の貴族にもなれるし、ただゆっくりと時間を楽しんでもいい。
高い交通費を宿泊費に回したと思えばいいのだ。
「そうだわ、あなたも食事をご馳走になってみたら?ここの、凄く美味しいんですって!」
「肉じゃが、あるの?」
プウッと春美がむくれる。
「またそんな意地悪言って!」
しかし、芝浦も興味はあるが、どうも堅苦しそうで足が進まない。
「どうせあの黒服さんがドアの前には陣取ってるんだろうし、ハルには後でルームサービス取るから行きましょう。空中庭園なんて、凄い興味あるじゃない?」
「そこ、プールもあるんだよね。」
と言うことは、水着美女がいるかも・・
ポヤンと、胸の谷間を際だたせたグラビアアイドルの肢体が目に浮かぶ。
「あー、エッチなこと考えてる、最低!」
「俺だって男だもん。」
「クマのことしか考えてないと思った。」
「クマで発情するかよ。」
「あら、鼻血出してひっくり返ったくせに。」
気まずそうな顔で芝浦がベッドに歩み寄り、ハルの様子を窺う。
「ハル、意地悪なお姉ちゃんと行ってくるよ。
目が覚めても部屋にじっとしてるんだぞ。」
春美がバタンと窓を閉め、そして芝浦の腕を取った。
「じゃあ、行きましょう!レッツゴー!」
「いたた!分かったから放せよ!」
どこか二人は友達以上の様相で、芝浦が生き生きとした目の春美にグイグイと腕を引かれてゆく。
ドアの外には、やはり黒服が廊下の角に座り、二人が出ると立ち上がった。
「どこかに出られるのですか?晴美様は?」
「ちょっと食事してくるから、ハルをお願いできる?今寝てるけど、起きたら部屋で待つように言ってくれます?
ああ、何なら中に入ってもいいけど、部屋のキー預けましょうか?」
「いえ、キーはご自分でお持ち下さい。
私はここで警護させていただきます。」
まったく無表情なこの黒服の男は、少し不気味でもある。しかし、彼がいるから精神的に、随分春美の負担は減った。
「すいませんけどあなた、お名前を教えて貰えます?何と呼べばいいのか分からないわ。」
黒服は、ふと目をそらし、間を空けてようやく答えてくれた。
「村樹と、お呼び下さい。」
「村樹さんね?わかったわ。じゃ、」
二人は、そそくさと部屋を後にする。
村樹は二人の背中を見送った後、ポケットから携帯を取りだした。
 最上階の空中庭園は、やはり最も人気のある場所なのか人が多い。
季節を忘れるほど適温で暖かく、温水プールでは数人が楽しそうに泳いでいる。
「へえ、いいな。」
芝浦がニヤリと笑う。
プールでは、中年の女性のグループの他に、男性が二人ひたすら時間を忘れたように泳いでいた。
「あら、水着美女に年齢制限はないの?」
「そうだな、ベアと同じさ、年を取った物にはそれなりの良さがある。」
「見境がないだけじゃない。」
「何か言った?!」
「いいえ!なんにも!向こう歩きましょう!」
植物の間にある散歩道を歩きながらぐるりと一巡りしていると、緑の手入れをしていたホテルマンが、頭を下げて話しかけてきた。
「この散歩道は玉砂利が足の裏を刺激しますから、裸足の方が気持ちいいですよ。」
「ああ、なるほど。でも、俺は遠慮するよ。」
芝浦の横で、春美はさっそく靴を脱いでいる。
「そうね、水虫うつったら嫌だからその方がいいわ。」
「失礼な女だな!だれが・・!」
「失礼。」
フワリと香水の残り香を漂わせ、大きく背中を見せた白いドレスの美しい女性が二人を追い抜いていく。思わず芝浦がその後ろ姿に見とれて、春美に背中を叩かれた。
「どっちが失礼よ!もう!」
あーあ、ドレスを先に借りれば良かったわ。
今度キッツイ香水買ってやる!
何故か他の女性にライバル心を燃やす春美だが、そこでハッと我に返った。
そうだ、ここは女を磨くところ。美人がいっぱいだ。
見境のない芝浦には、毒以外の何者でもない!
早く食事して帰そう!
「いいから、ご飯食べに行くわよ!
そして目を閉じて帰りなさい!いいわね!」
「目を閉じてちゃ帰れねえよ。なんだよいきなり・・」
春美が芝浦を引っ張り、急いでレストランを目指す。しかし、一流レストランの重厚な雰囲気に、気負いが出て足が止まった。
「何だか格式ありそう・・このまま入っちゃえ!」
「オウッ!」ドン!「ギャ!」
そのまま勢いで入ろうとしたとき、春美に五才くらいの少年がドンとぶつかって転んだ。
転んだ少年は、栗色の髪に青い瞳の可愛い外国人だ。
言葉にどぎまぎしていると、芝浦が子供をサッと起こしてくれた。
「よーっし、いい子だ。泣かなかったな。」
ポンと頭を撫でると、にっこり無邪気に笑う。
「サンキュー、どうもありがとう。
お姉ちゃんごめんなさい。」
何と流暢に日本語が返ってきた。
「何だ、日本語でいいんだ。」
「うん、ママが日本語なんだよ。あ、ママ!」
少年が手を振る方を見て、芝浦が愕然としている。
少年と同じ髪の色をしたその女性も、芝浦に気が付くと思わず立ち止まった。
春美が怪訝な顔で二人を見ていると、芝浦がぽつりと教えてくれる。
「彼女だよ。レティナ・グランディス。
ハルのお母さんだ。」
「えっ!うそ!」
少年が、嬉しそうに母親に駆け寄ってゆく。
母親は芝浦をじっと見つめたまま、まとわりついてくる我が子を優しく撫でていた。
芝浦が、やあ!と手を上げる。
不意にレティナの口元だけがにっこり笑った。
「先日は、不躾な電話で失礼しました。
こんなに早くこちらにみえるとは知りませんでしたよ。」
「ママ!お友達?」
少年が母親の顔を見る。
しかし彼は母親のこわばった顔を見て、怪訝な顔で芝浦達を探るように覗き込んだ。
「ロビー、部屋に帰ってなさい。わかる?」
「オーケー、わかるよ。」
にっこり母親に親指を立て、ちらりと芝浦達を一瞥して少年がエレベーターの方へ消える。
母親は心配そうにその後ろ姿を見ていたが、ホテルマンが声を掛けて、手を繋いでくれたのを見るとホッとした。
「心配ですか?ハルの弟ですね。」
芝浦が、皮肉を込める。
「心配よ、当たり前だわ、我が子ですもの。
自分の子が可愛くない人はどこにもいない。
それに、あの子に兄弟は、他に一人妹がいるだけよ。」
「ハルは?嫌なことには蓋をするんですか?」
「ここでは・・行きましょう。」
芝浦の言葉にレティナが俯いて、そしてレストランへ向かう。
春美と芝浦も顔を見合わせ、その後を追った。
レストランは昼食時をすぎて客も落ち着いている。レティナが何かウェイターに話すと、三人は奥の個室へと案内された。
「どうぞ、ここなら落ち着いて話せるわ。
それであなた、まだあの子を預かっているの?
お隣の方ってこちら?」
スタッフが部屋を出るなり、レティナが話を切りだす。いらついた話しぶりではないので、話を付ける気なのだろう。
かえってその気迫に押されて、二人は言葉が出なかった。
「え、ええ、まだ居ますよ。部屋に寝てます。」
「ねえ、芝浦さん。私にはもう新しい家族が居るの、そしてそれを大切にしたいの。
過去のことを掘り返されると迷惑なのよ。」
「ハルは・・ハルは大切じゃないんですか?」
春美がやっと喉を詰まらせ言葉を出す。
コンコン、「失礼します。」
丁度そこへ、ノックの音と共にウェイターが入って来た。レティナが先に頼んでいた、紅茶が運ばれてきたのだ。
芝浦が、ポットやカップを見るなりゲッと声を漏らす。
「マイセンじゃないか!こんな所でどうして?」
給仕が、芝浦に微笑んで頷くと、頭を下げて出てゆく。
「ウソ、割っちゃったらどうしよ。」
春美が手を出せないのは貧乏人の証か?
レティナは優雅にカップを取り、紅茶を口に運んだ。
「さっきも言ったはずよ、我が子は可愛いって。だからあんな金持ちに後を頼んだの。
何不自由ない生活が送れているなら十分じゃない。」
ようやく彼女がハルの親だと認め始める。
もう、すでに誤魔化しようがないのだ。
「でも!心はきっと、満たされてないと思います!きっと傷ついたわ!」
「あなたに言われるまでもないわ、傷つくのは分かっていたけど、仕方がないの。普通よりもうんと手が掛かる子よ。
私一人で、ようやく五つまでは育てたの、誉めて欲しいくらいだわ。」
確かに、今よりもずっと手が掛かっていたのは分かる。覚えるのも遅いし、一人では出来ないことも多い。体力も人並みにはない。
十五になっても、まだトイレが間に合わないことも多い。
あのまま大人になるのかと、親なら不安も大きいに違いない。自分が、子供よりも長く生きる可能性はずっと低いのだ。
「分かるけど・・じゃあ、ハルが普通の子だったら連れて帰ったんですか?
籍にだって、ちゃんと入れてあげたんですか?」
普通の子だったら・・それを言って、どうしようもないのは分かっている。
レティナはカップの紅茶を飲み干し、またポットから注いだ。
「籍に入れなかったのは・・悪かったと思っているわ。
子供が生まれたら必ず結婚するって・・約束を破った彼と、反対する彼の家族に対して意地を通しただけだったから。
小さい時から、ちゃんとした教育も受けさせてあげられなかったし・・
知恵遅れだからって、それは・・・」
思い出したようにくすっとレティナが笑う。そのハルとよく似た目元に、やっぱり本当の親子だと二人は確信した。
「普通だったら・・どんなに考えたかしら。
普通だったら、きっと可愛くて聡明な子だったに違いない。
普通だったら・・きっと彼ともちゃんと結婚できて、幸せに・・普通だったら・・
何度も何度も考えたわ。馬鹿よね。」
「可愛いじゃないですか。
目元なんか、あなたにそっくりだ。」
「可愛いだけじゃ駄目なのよ。本当はね、彼の家族への面当てに、パーフェクトな子供であって欲しかった。馬鹿だわ。
そんな考え自体、子供よね。
どうにもならない事にあの頃は悔しくて、憎らしくて、普通じゃないわ、自分中心でしか考えが回らなかった。
初めての育児、両親は先にイギリスへ帰っていたし秘密だったから、誰も相談できる人がいない。
世話が凄く難しくて気が狂いそうだったけど、それでも一生懸命だったわ。
あの子の笑い顔だけが私の支えだった。
あの子がにっこり笑うとね、幸せそうで嬉しかったわ。
可愛くて、粗相しても全然腹も立たなかった。
あの人の言葉を信じて、きっと結婚できると信じて、時々来るあの人を待ちわびて・・
ひたすら信じて・・待って、待って・・
そして・・もう、待てなくなってきた。
辛くて、辛くて、立派なマンションだけど、お金はあるけど、全然心が満たされない。
はけ口を求めて、趣味でしかなかったベア作りに没頭して・・」
「でも、ハルはあなたのベアを持っていません。ハルには、どんな価値のあるアンティークベアよりあなたのベアの方が価値があるんじゃないんですか?」
離れ離れになるのなら、何かきっと思い出が欲しかったはずだ。
「私はね、あの子にベアを作ってあげたことはないわ。私は自分のために作っていたの。
・・・笑ってもいいのよ。
私は、彼があんまりハルを可愛がるから、最後はハルに嫉妬していたの。」
「父親なら子供が可愛いのは・・」
当たり前だ。
「いいえ!それが許せなかった!
都合のいいときだけ来て、時間が過ぎたら帰って行く。
彼が帰った後の虚しさは誰にも分からないわ。
彼が買ってきた、あの子へのオモチャでさえ憎くなって、すぐに取り上げて絶対に遊ばせなかった。
でもあのアンティークベアはね、一旦は取り上げたんだけどあの子が珍しく欲しがったの。
欲しい欲しいって泣いて。
価値がある物って知っていたわ、だから服を縫ってあげたのよ。
本当は・・価値もわからないあの子に、渡したくはなかったわ。」
レティナがフッと一息つき、紅茶を口に運ぶ。
芝浦はじっとレティナを見つめて動かない。
信じていた友人の告白の重さに、ショックを受けたのだろうか?春美は彼を少し気の毒に思って、カップを両手で包み込んだ。
レティナの意外な告白は、空調とは関係なく、心から体を冷々とさせる。
確かに、ハルは絶対にクーを身近に置いて離さない。クーは、両親の思い出がこもった誰よりも大切な家族なのだ。
「でもね、オモチャを取り上げるだけの内は良かったのよ。
胸にわだかまった苦しみは、たった二人っきりで暮らすあのマンションの部屋で、最後にはあの子に向けられてしまった。
だんだん自分で自分が押さえられなくて、とうとう手を上げるようになってしまったのよ。
私は、惨めでたまらなかったわ。
辛くて・・悔しくて・・この子がいなければイギリスへ帰れるのに、この場から逃げることが出来るのにって・・」
目を潤ませて、レティナが両手で顔を覆う。
つうっと一筋流れる涙は、後悔にさいなまれる母親の真実を映し出した。
「あの子が、私に会いたいわけないのよ!
きっと憎んでいるに違いないわ!
私は、あの子を育てる資格のない母親なのよ。」
「しかし、ハルを産んだのはあなたなんです。
あなたが母親なんです。」
「そうよ、でもね、私はあの子を・・自分の子を人にあげたの。
酷い人間だわ、私は解放される喜びの方が大きくて・・ほっとして・・子供を捨てた親なんて、天国には行けないわね。
あの子が最後に、何も分からずにっこり笑いながら、バイバイって手を振っていたのが今も目に焼き付いてる。
きっと、すぐに迎えに行くって信じてたんでしょうに。」
「え!まさか・・
まさか、あなた何も説明しなかったの?
ハルに黙って置き去りにしたの?!」
「まだ五才の子に、何を言えって言うの?
ましてろくに言葉がわからない子に、何を言っても無駄よ!」
「違うわ!」
春美が身を乗り出したところを芝浦が制した。
春美はカッカと血が頭に登っている。
どんなに言葉が分からなくても、説明はするべきだ。そうでないと可哀想じゃないか!
置いて行かれたことを知らない子供は、訳も分からずずっと待たされるのだ。
いつか来ると信じて待って、そして諦めの向こうで絶望する。
こんな酷い仕打ちがあるだろうか?
「私だって苦しんだのよ。
何を言っても分かって貰えないでしょうけど、あの子にはイギリスで暮らすなんて無理よ。
こうするしかなかったのよ!」
レティナが涙を拭いて首を振る。
確かに、日本語さえ良く分からない子に今度は英語なんて無理だったのかもしれない。
どうすればハルにとって一番良かったのか、春美にも良く分からなくなってきた。
「もう、十分でしょう。
今更、私はあの子には会わないわ。
そう、決めているの。」
紅茶を一口飲み、立ち上がるとドアへと向かう。そして彼女はふと考えるようにしてドアのノブを握り、その場に立ち止まった。
「あの子ね、左耳が聞こえないのよ。」
「知っています。」
ゴクンと、彼女が息を飲む。
二人は、じっと息をひそめた。
「知らなかったのよ、耳が聞こえなくなってたなんて。
言いつけがわからないあの子を、何度も何度もたたいたわ。
だから、いつ耳が聞こえなくなっていたかわからなかった。
いろんな理由を考えて、ようやく医者に行ったけど、もうすでに左の聴力は消えていた。
先生は、右があるからと言われたけれど、そんな問題じゃない。
私は、自分が許せないの。
ただでさえハンデのあるあの子に、あんな惨いことを・・
あの子は、両耳で聞く世界を、もう持たないのよ。」
ガチャン!
逃げるように、レティナの姿が消える。
・・・バタン!
レティナは、懺悔を済ませただけで部屋を去ってしまった。やはり、会ってはくれないつもりだろう。
自分が許せない・・
たとえどんな理由があろうと、自分が原因だからこそ許せない。
二人は、大きく溜息をついて冷めてしまった紅茶を見つめた。
ゆらゆらと、そこに自分の顔が映し出される。
彼女はどんな気持ちでそれを見ていたのか、何度も何度も映し出された自分の顔を飲み干し、それでもまたポットから注ぎ入れては飲んでいた。
苦い過去を消し去るかのように・・
二人はハルの笑顔を思い浮かべては、力になれそうもない無力感に、心が虚しくなっていった。

 手術から二日、ICUで治療を受ける秀一の横には、夏美が予防衣姿で座っていた。
手術も無事に終わり、ひとまずホッとしたのだが、やはり無理がたたって体力が随分落ちていたからだろう、秀一はやつれきって意識が戻ってからも言葉も出ない。
飲食制限があるので、乾いた唇を、夏美が濡らしたガーゼで少しでも潤してあげようと苦心している。
「兄さん、辛いわね、だんだん良くなるからもう少しの辛抱よ。」
ウソでもいい。良くなると言った方が励みになる。手術して、命を縮めたとは思いたくはない。
先生は全部取れたとは言われたけれど、まだ二日しかたっていないにしても全身状態が悪い。こうして傍にいると、今にも息が止まりそうで恐ろしい。
「母さん、少し休みなよ。俺がいるから。」
「ええ、そうね、じゃあお願いね。」
夏美も心身とも疲れ切って、気の利いた息子の言葉にホッといやされる。
後を息子に任せて息抜きにICUを出ると、丁度様子を見に来ていた正義に廊下で鉢合わせた。
「どうだ?少しはいいのか?」
夏美が目を潤ませて首を振る。
「わからないわ・・わからない・・」
「そうか・・」
二人は、家族の控え室を覗き込んだ。
狭い八畳ほどの部屋に、数人の他の家族が心配そうに座っている。
正義は夏美の肩を抱き、院内の喫茶室へと向かった。
美味しいとは言えないが、一応喫茶店並みにメニューがある。一番奥のテーブルに座ると、店内に漂う心地よいコーヒーの香りに心が少し落ち着いた。
「今日も、お仕事いいの?」
ずっと忙しくて手が空かなかったのに、毎日短い時間でも来てくれるのは嬉しい。
「あ、ああ、いや、そういうわけじゃ・・
いや、心配でね、うん、いいんだよ、後は任せてある。」
何故か正義は戸惑った風に上着を直し、言葉を曇らせた。
そわそわして、いつも冷静な正義には珍しい。
「何かあったの?」
「いや、何もない。」
「でも・・」
「うるさいな、君は心配しなくていいんだ!!」
いきなり大きな声で怒鳴って、慌てて口を押さえる。夏美は驚いて顔を引いた。
「いや、すまない。私も疲れているんだろう。」
「ええ、本当ね。時間があるのなら、少し家で休んでくださいな。
あなたにまで何かあったら、私たまらないわ。」
「そうだな、じゃあ・・ハルに・・」
「え?ハルがどうかして?」
「ああ、ハルが世話になっているから、一度挨拶に行こうかと思ってね。」
「まあ!よかったら頼みます。
村樹がずっと付いていてくれるから、先方様にも失礼はないと思うけど。
電話もしないで、ずっと気になっていたのよ。
姉さんも会ってないようだし。
それに・・もしもの事を考えたら、ハルにも兄さんに一度会わせた方がいいかしら?」
まさか、手術でこんなに弱るとは思ってもみなかった。
秀一は元気に帰るつもりで、入院した姿をハルには見せたくないと秘密にしていたのだが、少し事情が変わってしまった。
「しかし、ハルを不安にさせるからってこっそり入院したんだろう?
親がこう次々いなくなるんじゃ、あの子も不安になって当たり前だよ。」
「そうね・・でも、このまま退院できなかったらって考えると、きちんと説明するべきだったと後悔するわ。」
「後悔なんて・・する事はないよ。
あの子には、説明してもわかるわけがないさ。」
「ええ、私もそう思っていたわ。でも・・」
フウッと、大きく正義が溜息をつく。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、くすっと思い出したように笑った。
「まるで・・・あの子が親を不幸にしているようだな。」
思いも掛けない言葉に、夏美がギョッとする。
まさか、正義までがハルをこういう風に言うなんて・・
「どうしてそんな酷いことを仰るの?」
「君は怒るだろうな。
でも、そうじゃないか。あの子の父親は死に、母親はあの子がいることで随分苦しんだ。
そして養子になってみると、また新しい母親が死んで父親もガンだ。できすぎだよ。
兄さんが死んで、今度俺達が面倒見るようになったら、今度は俺達の番かな?」
「酷いことを仰らないで!
正義さん、一体どうしたの?あなたがそんなこと言うなんて。」
夏美の目が潤む。
正義は頭を振って額に手を当て、髪を掻き上げた。
「君が知らないだけだよ。あの家はもうバラバラだね。ハルはとんだ貧乏神さ。」
「ハルのせいじゃないわ!」
カッとして思わず大声を出した夏美に、周りの客が一斉に振り向く。
俯いて壁を向き、夏美は目を閉じて大きく首を振った。
「違うわ!ハルを悪く言うのは止めて。
私・・私だって・・薄々感付いてはいたのよ。
あの子、時々父さんの写真にパパって言ってたから。慌てて言い直すけど、あの子は嘘なんかつけない子だもの。
パパって・・やっぱりそうだったのね・・」
夏美が大きく目を見開き、震える手でカップを握る。
父は亡くなる頃に、恋人がいたらしい事は知っている。
それは何かと理由を付けて頻繁に帰りが遅かったし、時々出張と称して急な外泊があったりしたから・・姉さんは知らないと言っていたけど、私自身は察していた。
それが・・子供まで・・
やっぱりハルは父さんの子だった・・
でも・・
確かにあの家に来る前は私は離れて暮らしていたけど、どうして私だけに秘密なの?
大好きな人が・・尊敬して、一番慕っていた人が・・まさか子供まで・・
しかし夏美の気持ちを裏切るように、正義が身を乗り出し小さな声で囁いた。
「知っていたならいいさ。
ハルは、お義父さんの子だよ。
六十五の白川洋秀と、二十のレティナ・オーランドの間に出来た子。
君はお父さん子だったからね。ショックだろうから、秘密にしてくれと義姉さん達に頼まれたんだ。」
夏美の手が、ブルブル震える。
二十?!相手は二十の子供?!
優しくて、母親を生涯一番愛していると信じていた父親が、母の死後とは言っても、親子ほどに年齢の離れた女性と子供まで作っていたなんて信じられない!
何て・・不潔な・・不潔だわ!
反対して当たり前よ!
何て恥ずかしい!恥知らずなことを・・自分の娘よりも若い子に子を産ませるなんて・・!
「だからなの?私に秘密だから、父さんのことあの子にお祖父ちゃんって呼ばせたの?」
「そうだよ、まあ無駄な努力さ。
あの子には、所詮無理な話だったんだな。」
何て可哀想なことを無理強いしたのかしら。
お父さん・・酷い人・・
「お父さんは認知もしなかったのね。
相手の女性も傷つけて・・酷い人だわ。」
「いいや、ちゃんと結婚するつもりだったんだよ義父さんは。でも、義兄さんと義姉さんが二人の結婚に強く反対したんだ。
だからお義父さんも困って、ハル親子をマンションに住ませて時々通っていた。
だからかな?そんな扱いに、不満が大きかったんだろう。ハルの母親はハルをとうとう自分の籍にも入れなかった。
その母親が日本を離れたいけど、連れて行けないからと義兄さんに託したんだ。
だからね、籍を入れるのに、義兄さんの子の方が年齢的に自然だろう?それに、義父さんの遺産の分配にも影響が出るしね。」
「美香子さんは?」
「もちろん知っていたよ。
元々彼女が施設に入れる予定だったらしいのを、引き取ると言ったのは美香子さんなんだ。
でも、やっぱり愛人の子という名目は辛かったと思うよ。みんなそう言う目で見るから。
義兄さんも人がいいよ、母親は手が掛かるから手放したくてたまらなかっただけだろうに、やっかいな子を押しつけられたものさ。
結局、最後は君が一番迷惑を受ける事になったんだから。」
何故か懸命に正義がハルの悪態を付く。
しかし、その言葉も夏美の耳にはほとんどが入ってこない。自分だけが知らなかったショックの方が酷く大きくて、頭は兄弟にさえ裏切られた気分で混乱していた。
自分だけが・・
自分だけが知らなかったなんて・・
夏美の手がワナワナと震え、目を閉じて頭を抱えた。
どうして今、こんな事を正義は言うのだろう。
どうしてもっと早く。
もっと気持ちが落ち着いているときに教えてくれなかったのだろう。
「迷惑なんて・・・あなたは迷惑だったの?
あなたはあの家が嫌いなの?」
夏美の目から、涙が溢れて頬を流れ落ちる。
その涙に正義は我に返って、悲痛な顔で小さく首を振った。
「すまない、俺もどうかしていた。」
落ち込む夏美の手に、正義がそっと手を添える。潤んだ目で見た彼の顔は、目の回りにクマが出来て肌に艶もなく、酷く疲れて見えた。
「あなた・・・」
そんなことは、今聞きたくはなかった。
今の精神状態で、一番聞きたくなかった。
それは、正義にも分かるはずだ。
彼らしくない。
夏美は涙を拭きながら彼の顔を覗き込むと、今は父の裏切りよりも正義の方が心配になってきた。それに気が付いたのか、何故か彼は手を引いてスッと視線をそらす。
「あなた、お仕事、うまく行ってないの?」
妻の言葉に、視線をそらしたまま項垂れて、そして顔を上げるとにっこり笑う。
「そんな事ないさ。今はどこも厳しいだけだ。
君は何も心配いらないよ。」
何も心配いらない・・その言葉が、いつも夏美は寂しい。
「ね、あなた。私はあなたの妻よ。
だから、仕事のことは分からないけど、せめてあなたの心の支えになりたいの。」
夏美に何も出来ることはないだろう。
でも、何か出来ることもあるはずだ。
正義が上着のポケットに手を差し入れ、何かガサッとレジ袋のような音をさせる。
何を入れているのだろう。
何故か酷く気になる。
しかし、彼は思いとどまるように、そのポケットにある物を出してはくれなかった。
「あなた・・」
「大丈夫だ。ありがとう。もうすぐ何とかなるよ。もうすぐね。
それで何もかも、上手く運ぶんだ。
仕事も、家もうまく行く。
辛いのは、ほんの少しの間だ。」
正義が、自分に言い聞かせるように呟き、冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がる。
夏美も慌ててコーヒーを飲み干し、店を出る彼の後を追った。
「じゃあ、ハルの様子を見て帰るよ。
君も無理しないで、芳樹もいるんだから。」
「ええ、あなたも無理しないで。」
「・・そうだな、わかっているよ。じゃあ。」
暗い顔で笑って帰る正義の背中に、いい知れない不安を感じる。
知らず電話を取って、ボタンに指を添えた。
でも・・電話をして、村樹に何て言うの?
正義さんに気をつけてって?
馬鹿な・・馬鹿な考えだわ。
私が信じなくてどうするの?
姉さんの方が怪しいんじゃないの?
そうよ、姉さんに気をつけるべきだわ。
私にだけ秘密にするなんて、ナンセンスよ。
夏美は、兄弟にも信用されなかったのかと考えれば、腹立ちよりも情けなさや悔しさが溢れてくる。
潤む涙を拭いていても、病院という場所はそれが不自然ではないところだ。行き交う人は、気の毒そうな顔で夏美をちらりと見てゆく。
私だけが・・何も知らない・・正義さんが、今何を考えているのかもわからない。
会社がどうなっているのかもわからない。
私だけが・・・
ああ・・・・
疎外感が胸で大きく膨らみ、ポロポロと涙がまたこぼれる。
周りに目を配り、慌ててトイレに駆け込むと、追うように小さな子供連れの母子が入ってくる。思わず洋式の個室に隠れ、じっと息をひそめた。
「ほら、ちいちゃん、おしっこ自分で出来る?」
「うん、できるよ。」
ゴソゴソ、隣の個室で用を済ませる音に、夏美の脳裏にハルが浮かぶ。
あの子、どうしているのかしら・・
「シーシー・・・
ねえ、ちいちゃんのおしっこ、たんぱくって言うのが入ってるの?」
「そうよ、だからね、お家でじいっとしてなきゃ駄目なの。
そしたら腎臓さんが、あー助かったあ!って喜ぶのよ。ちいちゃんに出来るかな?」
「うん、がんばってじいっとしてるね。
腎臓さん、いい子いい子、早く良くなってね。」
あんな小さい子が・・可哀想に・・
でも、自分の病気をはっきり説明してある。
そうよね、そうしないと何にも分からないままじゃ心配だもの。
ハルは・・
ハルはどう思っているのかしら?
あの子には、全く何も話していない。
その方が、心配かけないと思ったから。
付き添う自分の事も、しばらく家を空けるからとしか言ってこなかった。
何も聞かない子だから、それが私には都合が良かったのよ。
ハルの気持ちなんて、全然考える余裕がなかった。
馬鹿だわ・・
あの子が心配するから話さない。なんて建前で、本当はあの分からない子に説明するのが面倒だったのよ。
お祖父ちゃんなんて・・お父さんをお祖父ちゃんと呼ばせていたなんて・・
あの子が良く、混乱せずに呼べたものだわ。
バカだわ!私達家族、みんな馬鹿よ!
自分達の都合いいようにあの子を振り回して。
ああ・・何もかもがうまく行かない・・
誰か、誰か助けて・・
「うう・・ううう・・・」
「お母さん!誰か泣いてるよ!」
子供が、手を洗いながらびっくりして叫ぶ。
「シッ!悲しいことがあったからね、泣いてるのよ。さあ、行きましょう。」
「そっか、お化けかと思ったよ。」
子供が無邪気にそう言って出てゆく。
夏美は涙を拭きながら思わずくすっと笑い、明るい子供の声に心がほんの少し軽くなった気がした。
「ハル・・今度会ったら、謝ってちゃんと話してあげなきゃね。
さあ、泣いてばかり居られないわ。
芳ちゃんと変わらないと、今度はあの子が泣いちゃうわね。」
個室を出て、鏡の前で髪を整える。
パンッと一つ頬を叩き、気合いを入れて外へ出た。
強くなりたい。
何者にも負けない、強い心が欲しい。
大きな不安を抱えたまま、夏美には行き交うスタッフの白衣が眩しくて、それが今は何故か心強いように感じた。

 ホテルの一室で物思いにふけるレティナは、あれからあまり部屋を出ようとしなかった。
どこでハルと鉢合わせするかと言う不安に駆られて、部屋を出るときには大きなショールで頭を覆う。ホテルの中では不自然で、逆に目立つ格好だ。
十年前、洋秀の死をきっかけに、ようやくイギリスへ発つ決心をしたとき。
レティナにはハルの存在が頭の痛い問題だった。レティナにとって、ハルは洋秀の気を引くための子供でしかなくなっていたのだ。
洋秀が死んだ今、自由を求めるレティナにとってハルは邪魔でしかない。
それでこっそり秀一に会ったのだ。
ハルを引き取って欲しいと、相談のため。
しかし案の定、秀一はいい顔をしなかった。
五十にもなる自分に、五才の弟なんて世間体がある。まして障害児ならば、そのまま施設に入れたらどうかとまで言ったほどだ。
仕方なく、施設を探して資料を求め、電話をかけまくっていた。
もう、その頃には、ハルの顔も見たくなかった。
部屋に閉じこめ、おむつもろくに替えなかったので、おしりはただれ、臭くて不潔で、それで更に嫌いでたまらない。
食事はずっとコンビニのお弁当とパンと水を与え、自分は気晴らしに外食していた。
イライラして秀一を恨んでは悪態を付いて、抱きつこうとするあの子を何度も殴り・・あのころは、自分の人生でも最悪の状態だったろう。
あんな悪魔に魅入られたような自分を、二度と思い出したくない。
それが後に一緒に来た、美香子の一言で決まった。
ニコニコ笑いながら、ドアの隙間からそうっと不安そうに覗き込むハルの姿に、美香子は思わず手をさしのべて抱きしめたのだ。
「大人の都合で子供を不幸にしてはいけないわ。私が・・今度は私がこの子の母親になります。」
レティナは、その姿にハッと胸を打たれた。
私は、一体いつこの子をこんな風に抱きしめたかしら?
自分の事ばかりに追われ、子供を愛することを忘れていた。
すでに、手放す前からレティナは母親として美香子に負けていた。
恥ずかしくて、逃げるようにハルの元を立ち去ってしまった後も、考える以上に自責の念にかられ、後悔ばかりがズルズルと後を追う。
そして、ようやく今度こそ自分もこうして家庭を手に入れることが出来たのだ。
今度こそ、今度こそ・・
自分なりに愛情を注いで、懸命に子供を育てた。今度こそ道をはずさないように。
自由に外で遊ばせ、沢山学ばせて、子供のためにベアを作った。
ハルに出来なかった分を、後悔しないように。
そして、それで自分に納得させてハルを忘れようと勤めたのだ。
・・・何て浅はかな・・愚かな・・
神様は、全てお見通しなんだわ。
ハルに、晴美に謝らなければならないのは分かっている。でも・・・
怖い・・・・・
「ママ!ママ!プールに行こうよ!
ねえ!昨日から変だよママ!
あいつ等がきっと悪者なんだね?!
ママを虐めたんだ!そうだろう?」
ロビーが心配して、母親の手を握りしめてグイグイ揺らす。
心配と、怒りが入り交じった複雑な顔で、今にも部屋を飛び出していきそうだ。
「違うわ。あの人は、ベア関係のお友達なの。
少しね、日本で暮らしていた頃を思い出して、とても親しい方が亡くなった事を思い出すと悲しくなったのよ。それだけよ。」
「そっか、ならいいんだ。
ママ、悪い奴がいたら助けてって言うんだよ!
僕がやっつけるから!」
「ありがとう。」
鼻息荒く、正義感の強い男の子だ。
この子がハルの存在を知ったらどう思うだろう・・
レティナは力無く微笑んでロビーの頭を撫でると、頬にキスをした。
 光り取りの窓から、どんより曇った雲の間に青空が見える。風が強いのか、重そうな雲がスピードを上げて流されてはまた他の雲が流れてきた。予報通り、この後は晴れるのだろう。ここにいれば、天気に影響されることなく天気を楽しめる。
ここはホテルの最上階。その空中庭園が、ハルは一番のお気に入りだ。
夏美に何度か連れてきて貰ったが、ハルはいつもプールでふやけるまで水に浸かっている。
泳げないので、浮き輪でぷかぷか浮いているだけだ。
それが飽きないらしい。
しかし、今回は何故かプールに入る気がしないので、クーを抱いて庭園をうろうろ散歩していた。
春美は昼食を早い時間に食べた後、エステを予約して、ウキウキして部屋を出ていった。
一人でフラフラしていても、ここはホテルで必ず人の目があるし、ハルの後には少し離れて村樹がずっと付いている。
何も心配いらない。
しかし、危険はないが、村樹は別に相手をしてくれるわけではない。ハルは一人でホテルの中を散歩して時間を潰していた。
クーを抱いて、昨夜の春美の話を思い浮かべるとグッと悩んでしまう。
春美は昨夜、ベッドに入って部屋を暗くした後、ぽつんとこう聞いてきたのだ。
「ねえ、ハル。
ハルは本当のお母さんに会いたい?」
本当の、に首を傾げた。
お母さんに本当と嘘があるのだろうか?
「本当ってわかんない。」
「もう!ほら、生まれてから五つまで暮らした、クマさん作るお母さんよ。」
クマさん作る・・ママのことだ。
突然聞かれて、ハルの胸がドキドキ高鳴る。
「し、知らないよ!ママ知らない!」
ガバッと布団を被ったハルに、春美は起きて電気をつけると、ハルのベッドに座って布団をめくった。
小さく身体を丸めたハルの頭が見えてくる。
生みの母親の話になると、ハルは何故かとても緊張するのだ。
「ハル、会いたい?会いたくない?
本当のこと教えて。」
ギュッと閉じていた目を開き、ハルが春美の顔を見る。
「ハルが会いたいと思うなら、クーが願いを叶えてくれるかも知れないわよ。」
「クーが・・」
「そうよ、きっと叶えてくれるわ。」
違うよ、クーはお願い聞いてくれなかったんだ。
ハルはママと別れて何年も、ずっとクーにお願いしたのに聞いてくれなかった。
ミーカがお母ちゃんになってあげるって言うまで・・ママを待つの止めるまで、ずうっとお願いしたのに。
いつも庭の大きな石に座って、ずっと玄関の方を見ていたのにママは来なかった。
だから、ハルはずっと考えていた。
ママは、きっとハルに怒って、嫌いになったから来ないんだよ。
そうだ、ミーカも言ってたよ、ママはもう来ないって。
「お姉ちゃん、もう、いいの。もういいんだ。」
にっこり笑ってめくれた布団を直し、目を閉じる。春美は負けずに、飛びついて布団を引っ張った。
「もういいじゃないでしょ!ハルの気持ちを知りたいのよ!ね、どうなの?」
「ハルにはミーカがいるから大丈夫!
ママはもういいの!」
ハルがうるさいとばかりに布団に潜り込む。
「だから!もういいじゃないでしょって!」
このー!ガバッと春美が布団の上からハルにのし掛かかってきた。
「キャー!」
ハルが布団の中で悲鳴を上げてキャッキャッと喜び、春美はますますエキサイトして薄い羽根布団の上からハルの身体を抱きしめる。
「教えないとこのまま寝ちゃうぞ!」
「キャーキャー!お姉ちゃん重いー!
クー助けてー!ハル潰れちゃうよ!」
「ハル、ハル、お姉ちゃんに本当を教えて。
ね?ね?本当は会いたいんでしょ?」
ハルの身体が動きを止めて、そうっとハルが顔を出す。じっと顔を見つめてようやく口を開いた。
「だってね、ママ怒ってハルをおいてっちゃったんだ。
ハルが嫌いになっちゃったんだよ。
だから、ハルはもういいんだ。今はミーカやナッチンがいるから。」
「嫌いじゃないわよ!ハルのお母さんは・・」
春美がウッと言葉に詰まる。
どう言えばいいのだろう、この子は自分なりの結論で自分を納得させているのだ。
それを否定して、実は母親はハルを邪魔になっただけだ、と言うのも残酷できっとハルを余計に混乱させるに違いない。
「もういいの!ママはハルの事きっと忘れてるんだから!」
「それは違うわ!ママ、ハルの事はずっと覚えてて気になってるわよ。」
もういいっ!と、ハルが寝返りを打ち、背中を向ける。
「ぐーぐー、ハルはもう寝ました!お休みなさい!」
「えー!もっとはっきり教えてよ!もう!」
ボンッと布団を叩いて、春美も諦め大きな溜息を漏らしながら自分のベッドに帰っていく。
シンと静まった暗い部屋の中、目を閉じればママの幸せそうな微笑みが、宝石のように心の中で輝いてハルの心をぽっと暖かくさせる。
前は、どうして迎えに来ないのかと、苦しい胸の中でその理由を考えては、自分を責めていた。
 知らない『家族』の中で暮らし、迎えに来ない両親を諦め、この家で暮らそうと決意するのにだって、随分時間が必要だった。
美香子達の愛情を受け入れて、ようやくその家族の中の一人になれたんだと確信できたとき、ハルは本当に自分を解放できたのだ。
それでも、こうして母親の話が出るとハルは酷く動揺する。
ようやく諦められたと思っていても、ハルの心の中で「ママ」はレティナだけなのだ。
だからハルは結局そのことが気になって、昨夜はよく眠れなかった。
一晩中、レティナとの生活が思い出されて、心が揺れる。
何度も何度も母親と別れる最後の日から、去ってゆく母親の背中までが、映画のように繰り返し瞼に映し出されて、ハルを迎えに来ない理由を探すのだ。
十年も前のことが鮮明に。
 あれは最後の日の何日か前、ママはずっと泣いていた。
そして、ハルに怖い顔でパパはもう来ないって言ったんだ。
二度と会えないって。
いつだって、パパはバイバイしても何日かしたらまた会えたのに、絶対会えなくなったんだって。不思議だよねえ。
家にお写真はあるのに。
パパにもう一度抱っこして貰えば良かったよ。
まさか会えなくなるって思わなかったんだ。
ハルは本当にバーカだねえ・・
 小さなベンチに腰掛けて、植え込みのシダを一本引き抜く。
沢山の小さな葉っぱが、左右に規則正しく並んでいる。ハルはそれを一枚一枚、プチンプチンと千切っていった。
 それでママは、それから凄く家を出るのが多くなった。
ハルにはパンと水を置いて、朝から夜遅くまで帰らなかった。
ハルのオムツはウンコとシーコで重くって、気持ち悪くてお尻が凄く痛くてかゆかったのを覚えてる・・
ママは、お家で全然喋ってくれなくなって、いっぱい叩かれて、ハルはとても・・怖かった。
そして・・
あの日、最後の日の前の日、ママはびっくりするくらい本当に優しかった。
ハルが大好きなハンバーグ食べて、一緒にお風呂に入って、一緒にお布団で寝ていいっよって、ハルはびっくりでとても嬉しかった。
ママは珍しいニコニコで、ハルもとってもニコニコで、楽しい一日で、ママは一日中ハルと遊んでくれた。
あの日は、ハルの一番大事な日。
とってもいい日だったんだよ、クー。
でもね、次の日起きると、何故か凄くママは怒っていたんだ。
ずっと黙ってて、朝ご飯にパンと『ぎうにう』食べて。大きなカバン持ってあの家を出て、それからシュウチと会った後・・・
ママは・・・「じゃあね」ってどこかに行っちゃった。
すぐに迎えに来ると思ったのに、シュウチの家にはちょっとだと思っていたのに、ママは来なかった。
あれが、最後とは思わなかった。
ハルがあの時、ごめんなさいって言ったら良かったのに。ハルはバーカだから、ママのこと全然わかんなかったんだよ・・
きっとね、きっと、ハルに怒って、大嫌いになったんだよ。
それに・・もう・・駄目なんだ・・
「ママが、ハルに会うわけないよねえ。
だって、ハルはミーカをお母ちゃんって呼んじゃった。だからね、もう、駄目だよ。
ママもっと怒って、もう会いたくないって思っているよ。
きっとね・・もうハルの事なんか、だあれ?って、覚えてないよ。」
キラキラと窓からの日の光を、プールの水面が眩しく反射する。
ぼんやりとそれに見とれながら、立ち止まって今度は秀一の優しい顔が頭に浮かんだ。
ミーカがいなくなったとき、シュウチは何故かとても泣いていた。
ミーカは旅行なのに、凄く悲しいって言っていた。だからきっと、ミーカはとても遠い所へ旅行に行ったんだ。
シュウチでも会えないような所へ・・
でも、約束なんだよ。
ハルのお母ちゃんは、ミーカになったの。
ママも、パパももう来ない。
だからクー、ミーカと約束ね。
ハルはママを待つの止めて、ミーカをずっと待ってるよ。
シューチと、ずうっと待ってるよ。
一人じゃないから、だから・・
だから大丈夫なのに、シュウチがいないんだ。
シュウチ、会いたいよ、とても会いたい。
ギュッて、暖かくて大きい手で、抱きしめて。
ハルをポイして、いなくならないで。
シューチ、ねえお父ちゃんって呼んでもいい?ハルはちゃんとね、聞きたかったんだよ・・
 クーの顔をじっと見つめて、溢れる思いを抱きしめるようにギュッとクーを抱きしめる。そして立ち上がって、ゆっくり歩き出した。
途中小さな子供が、緑に囲まれた中で遊歩道に敷き詰めてある小石を積んで遊んでいる。
このホテルで子供は珍しい。
声を掛けようか迷っていると、子供の方が気が付いて手を止め、ハルににっこり笑いかけてきた。
「ハロー、こんにちはお兄ちゃん。」
はろお?はろおって何だろう?
「こ、こんにちは。」
「あっ!お兄ちゃん、ベアを持ってるんだ!
僕も持ってるよ!」
子供が傍らのベアを手に、タタッと駆け寄ってくる。
そしてそのベアを差し出し、クーと鼻を突き合わせ挨拶をした。
「こんにちは。」
「あ!そのクマさん・・」
ハルが思わず一歩引く。
子供の手にあるのは、鼻の頭に蜂が乗った、レティナが作ったハニーベアだったのだ。
しかし、子供は満面に笑顔を浮かべ、自慢気にハルに差し出す。
「これ、ママが僕に作ってくれたんだよ!
ママはね、有名なの。」
ママ?違うよ、ママは・・
じいっと子供を見ていると、子供はパッとハルの手を握る。そしてグイグイ引っ張った。
「お兄ちゃんも、一緒にやろう。どちらが石を高く積めるか競争しようよ。」
「う、うん・・・」
並んで座り、クーを片手に石を積む。
しかし、ハルが手にする丸い石は、なかなか重ならない。
「何だ、お兄ちゃんヘタだなあ。
平らな石を選ばないと駄目だよ。ほら、こんなの。」
「うん。」
成る程、同じような形を見つけて重ねると、難なく重なる。
「あっ!やったよ!ハルも出来た!」
「僕は、四まで出来たよ。」
「わあ、すごいすごい!」
「お兄ちゃんも、ママと来たの?」
「んーん、ハルはプーさんと、シーバとね、来たの。」
「ふうん、変なの。そのベアはママが作ったの?」
「ベア?」
「もう!お兄ちゃんバカだね!このクマだよ!」
子供がクーを指さす。
ハルはその場に座り、大事そうにクーの顔に頬をすり寄せた。
「違うの、クーはパパに貰ったの。でね、ママがお洋服をくれたの。
クーはね、ハルのパパとママなんだよ。」
「ふうん、お兄ちゃんハルって言うんだ。
僕はロビーだよ。」
ロビーの早口に、ハルは聞き取りにくくて付いて行けない。
首を傾げて聞き返した。
「・・ビー?」
「違うよ!ロビーだよ!もう!ほんとお兄ちゃん大きいのにバカだね。」
ゆっくりしたハルに、ロビーが少し苛立ちながら悪態を付く。ハルは戸惑いながら、にっこり笑うしかなかった。
「バーカでごめんね。あのね、ごめんね。」
ひどくバカにするロビーの言葉に、ハルが何となく落ち込みながら俯き、また石を積む。
横目でちらりと、転がっているロビーのベアに目が行くと、気が付いたロビーがベアを持って自慢げにハルに差し出した。
「このベアはね、ママが僕の誕生日にって特製なんだよ。特別品なんだ。
ほら、足の裏に愛するロビーへってママのメッセージが書いてある。
ママはすっごく有名なんだ。
日本にも、お仕事できたんだよ。凄いでしょ!」
「う、うん・・」
ロビーが差し出すベアを受け取り、じっと見つめる。
確かに、ずっと子供の頃に見ていた、母親が自分の部屋で作っていたベアにそっくりだ。
沢山部屋にはあったけど、さわることも出来ず、とうとう一つもハルは貰えなかった。
「お兄ちゃん!もう返してよ!」
ボウッとベアを見つめるハルに、怒った顔のロビーが手を出す。
ハルはハッと気が付いて、慌てて返した。
「ビーのクマさん可愛いね、はい。」
ハルがベアをロビーに返し、ギュッとクーを抱きしめる。
「ハルは、クーが一番いいの。
それにハルにはね、ママが三人も居るんだよ。」
「うそだあ!」
怪訝な顔で、ロビーがプイと積んだ石を崩す。
そしてドスンとその場に座り、足をばたつかせた。
「お兄ちゃん嘘つきだね!嘘つきは嫌いだよ!」
「ウソじゃないよ。あのね、最初のママと二番目のお母ちゃんは、今どこかにいるの。
旅行に行ってるの。
だからね、三番目はね、本当は叔母ちゃんだけど、お母ちゃんになってくれるって言ったもん。」
気に入らなかったのか、ポンとロビーが立ち上がる。そしてベーッと舌を出し、ハルが重ねた石をザッと蹴った。
「嘘つき!ロビーのママが偉いから、お兄ちゃん嘘付くんだね!ママが三人もいるもんか!
それに、お兄ちゃんのベアはボロじゃないか!ママのが最高だよ!バーカ!」
ダッとロビーが走り去ってゆく。ハルは呆然とそれを見送りながら立ち上がった。
「どうしたんだろうねえ、クー。」
キョトンと首を傾げ、クーに話しかける。
「何か、良くわかんなかったねえ、クー。
びっくりだよ、ビー、怒っちゃった。
また一人になっちゃったよ。
そうだ!クーにお願いしようか。
クーリン、クーリン、トッテンパッ!
シュウチに早く会えますように!
お家の誰かと会えますように!」
ナッチンも、オニババもいない。
いつも誰かと来る所で、いつだってここに来るのが楽しみだった。なのに、何だか寂しい。
「ねえ、ここはこんなに広かったかなあ。
ナッチンはどこに行ったんだろう。」
庭園からふらりとプールに出て、泳いでいる人に夏美がいそうな気がして覗いながらぶらぶら歩く。
「ハル!」
え!誰か呼んだ気がする?
しかし、片耳しか聞こえないハルには、方向が掴めない。
「晴美!おいで!」
キョロキョロ見回すと、エレベーターホールの方から正義が現れた。
「セーギッ!セーギだっ!クー!セーギだよ!
セーギッ!!・・あっ!」
ドザザッ!
ダアッと走りかけて、身体に足が追いつかずバタッと転んでしまった。
「ううー・・ううう・・痛いよう。ぐずっ!」
後ろから村樹が慌てて駆けてくる。それを制して正義が早足で歩み寄った。
「あーあ、ハルはやっぱり足が弱いなあ。
ほら、泣かないで立ちなさい。」
転がったクーを拾い上げ、正義が手を貸してくれる。ハルは立ち上がると、そのまま正義の懐に飛び込んで泣いた。
「ううううー、ううー・・セーギ、セーギ、どこ隠れてたの!うう、うう、ナッチンがいない、シュウチもどっか行っちゃった。」
「ごめんごめん、ハルに説明する余裕がなくて。心配かけたね。
でも、勝手に家を出たらみんな心配するじゃないか。親切な方にお世話になったから良かったけど、悪い人だったら大変なんだよ。」
「ううーー・・じゅるじゅる」
ハルは顔を涙でグシャグシャにして正義を見上げる。
「ご・・ごめ・・さい、ごめん、セーギ。
うーうー・・・セーギ、シーコ行きたい。」
「何?シッコ?よしよし、お説教は帰ってからだ。まずはトイレに行って、それから挨拶をしなくてはならないね。おいで。」
正義はハンカチでハルの涙を拭くと、手を引いて近くのトイレに歩いていった。
 ホテルマンが、正義達を春美の部屋に先導する。村樹も二人をガードするようにして一緒に歩いた。
「あのね、プーさんは綺麗になるってどっか行ったの。」
「そうか、挨拶しようと思ったのになあ。
ハルはいい子にしてたかい?」
「うん、おねしょしなかったよ。ちょっとしたけど、しなかったよ。」
「はは・・」
ハルは正直だ。
「どうぞ、こちらです。」
マスターキーで部屋を開け、うやうやしくお辞儀をしてホテルマンは戻ってゆく。
「お姉ちゃんのお許しも貰っているから、中で待つとしよう。」
「うん!あのね、お姉ちゃんはプーさんなんだよ!ウサギ小屋に住んでるの!」
「プーさん?」
この時期、どこにマスコミの目があるか分からない。女性の部屋だが、正義は許しを得ているので中で待つことにした。
二人が中に入ると、村樹は相変わらずドアの外で待機する。
「ムーキ!ムーキも一緒に入ろ!中においで!」
「ありがとうございます晴美様。村樹はお仕事ですので、どうぞお気遣い無く。」
「でもね・・」
村樹が首を振りながらハルの手の甲を取って自分から離し、軽く会釈してドアをそっと閉める。
閉じたドアの前で、村樹がじっと、ハルの手を握った手を見つめた。
男の子なのに、フワリと柔らかい手・・
誰もが・・ホームレスの男さえ、ハルの優しい純な姿に惚れ込んでいた。
姿を消したハルを探し回ったとき、知っていると答えたそのホームレスの男は、ハルと一晩を過ごしたと言った。
少ない食料を二人で分けながら食べ、暖め合って眠ったあの夜は、久しぶりに楽しかったよ。と、嬉しそうに答えたのだ。
「頭は弱いが、久しぶりに俺は頼られたよ。
俺を見てもちっとも嫌な顔しない。それどころか、とってもいい顔で笑って、可愛い子だったねえ・・」
どこか懐かしそうな目で、そう呟いていた。
変な話だがそれを聞いて、村樹も嬉しかったのを覚えている。
村樹が謝礼を渡すと、男はパッと光が差したような顔をして手を合わせていた。
いい子だ。
あの子には、幸せになって欲しい。
秀一の言葉が胸に浮かぶ。
村樹は厳しい視線を、再度部屋の周辺に戻しながら、嬉しそうなハルの笑顔を思い浮かべて思わず顔がほころんだ。
 ピルルルル・・ピルルルル・・
洋子のバックの中から、携帯がけたたましく泣き声を上げる。
洋子は、顧客の一人である会社の社長夫人と会食の予定で、郊外のレストランへ向かっていた。
付き合いの一つ一つの積み重ねも、この不況を乗り切る重要な手腕の一つなのだ。
洋子は大きな溜息をつきながら、バックを開けて電話を取った。
「はい、何?・・ああ、ドリームの・・
何ですって!!正義が来てるの?!
佐伯!会食はキャンセルよ!シティードリームへ向かって!」
運転している秘書の佐伯が、驚いて思わず振り返りそうになる。
「社長!この会食は大切な商談が・・」
「うるさい!キャンセルよ!旦那がくたばりかけているとか言って置きなさい!」
「し、しかし、旦那様の副社長は、本日伊豆で接待ゴルフですが・・・・わかりました、何か考えます。」
洋子の気まぐれも、いつものことだ。
そのたびに秘書は胃がキリキリ痛みながら、素早く対処しなければならない。
しかし、気まぐれにも思える洋子の行動が、今まで外れたことはないのだ。
野生の勘みたいな物だろう。
それが分かっているから、弱気の旦那を差し置いて、洋子がグループホテルのオーナーになっている。この不況、物ともせずに強気で切り抜ける洋子は、やはり父親譲りのやり手なのだ。
洋子が気を落ち着かせるために、ケースからタバコを一本取った。
くわえてライターで火をつける。
一息吸って、手の中のシガレットケースをひっくり返した。
ブランド物の高価な品なのに、そこにはマジックでオニババと下手な字で書いてある。
書かれたときは、頭に血が上ってハルを家中追いかけ回した。
しかし、見苦しいのに何故か消す気がしないのが自分でも不思議だ。
子供は、嫌いじゃあない。
ハルを最初嫌ったのは、やはり父に裏切られた気がして意地を張ってしまったと思う。
自分より若い女を・・しかも母が死んでまだ三年しかたってなかった。
あの子に罪はないのに、あの子を見るとどうしてもあのイギリス女が浮かぶ。
あの時反対しなければ、ハルは父と母に囲まれてもっと幸せに暮らせただろう。
猫いらずをまいたのは私じゃない。
家政婦かと思ったけど、あれは本当にハルの命を狙ってまいたんだ。そう直感した。
それが出来るのは・・
勘が外れればいいのだけど・・
都市高速に乗り、猛スピードを上げて佐伯がちらりとミラーで後ろを見る。
しかしそこに映った洋子の顔は、不安で押しつぶされそうに暗い顔をしていた。

 その頃正義は、そわそわと嬉しそうに春美や芝浦の話をするハルの言葉にも上の空で、ルームサービスでとったコーヒーを片手に落ち着かない。
ポケットに何度も手を入れては、深呼吸するように深い溜息をついていた。
「・・でね、お姉ちゃんの前はね、おじちゃんのとこなの。おじちゃんね、紙のお家で道に寝るんだよ。半分こしてパン食べたの。」
「そうか・・」
懸命に言葉を組み立てて話をしても、正義は上の空だ。ハルは心配そうに覗き込んで、だんだん声が小さくなってきた。
「セーギ、お迎え違うの?」
「あ、ああ、いや、うん。」
正義は大きな溜息を付き、コーヒーを飲み干す。セーギは、ハルをちっとも見てくれない。
お迎えだと思ったのに、何だか違うようだ。
ここに来て、春美もすっかり浮き足立ち、ハルを一人置いたまま頻繁に部屋を留守にする。
まるで、いなくなる前のママみたい。
「クーリン、クーリン、トッテンパ・・クー」
ハルが呟くと、ようやく正義が微笑みながら思いついたようにハルに問いかけてきた。
「なあ、ハル。ハルは・・・何か欲しい物はあるかい?好きな物を買ってあげようか?
そうだ、美味しいものを食べたいだろう?」
パッとハルが明るい顔で正義の足下に座る。
クーを抱きしめて、正義にニコニコいつものように笑って顔を覗き込んできた。
「あのね!ハルはね!欲しい物ないんだよ。
でもね、ずっとずっとクーにお願いしてるんだよ!」
「おや、何をかな?」
「あのね・・
あのね、お風呂にね、みんなで入るの。」
「お風呂?」
「うん、まーえね、ずうっとまーえね、パパ・・お祖父ちゃんと、ママと、遠くにね、お風呂に行ったの。
それでね、みんなと行くの。」
ふっ、何だ温泉か・・
正義が鼻で笑う。
くだらない。旅行なんて、いかにも考えそうなことだ。
子供は遊ぶことばかり考えている。
しかしハルはずっと昔を思い出して、懐かしそうに正義に話しかけた。 
「まーえね、ミーカの前のママがね、ピカピカでね、一番楽しかったって。
パパ・・お祖父ちゃんも嬉しそうでね、ハルも一番だったんだよ。
あの時が・・本当に一番だったんだよ。」
ハルが、昔に思いを馳せて遠い目をする。
小さな時の思い出なのに、今も鮮明に覚えているその二日間は、ハルにとって宝物なのだ。
家族三人で、近場にたった一泊の温泉旅行。
いつも不機嫌な母親は幸せそうに微笑んで、優しくハルを包み込み、父親は夜になっても本宅に帰る事もなく、一緒にお腹いっぱいご馳走を食べて風呂に入り、親子三人布団を並べて眠った。
信じられないほどの、輝いて見える。
あの、幸せな時間。
「きっとね、遠くのお風呂はみんな嬉しくて、楽しくて、ニコニコになるの。
だからね、シュウチと、ナッチンと、セーギと、オニババと、ヨッキと・・みんなみんな、みんなで、みーんなで行こうね。
あっ!ハルも置いてっちゃ駄目だよ。
みーんなで行こうね。」
「あ、ああ・・・そうだね。」
ハルがキラキラした目で正義にすり寄ってくる。
思わず正義は目をそらし、たまらずポケットの中の物を握りしめた。
駄目だ、この子と話していると、決心が鈍る。
そんな純粋な目で見ないでくれ!
俺は・・
ピーンポーン!
「あ!プーさんかな?」
タタッとハルがドアへ向かう。
しかし、鍵を開けると入ってきたのは芝浦だった。
「ハル、お姉ちゃんは?」
「プーさんはねえ、ピカピカになるって!」
「エステか?まったく、困ったプー太郎だ!あれ?」
ハルが手を引いて芝浦を誘い入れる。
正義が立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お世話になります、晴美の叔父です。」
「えっ!あっ!叔父さん?初めまして、俺は隣の芝浦と言います。彼女とは友人で・・」
「ええ、存じております。
ご迷惑をおかけしておりますが、大変助かります。この子も元気そうでホッとしました。」
「お迎えですか?」
「ええ、いいえ、よろしければもう少しと思いまして。家族の一人が体を壊していまして、家に誰もいない状態だもので・・」
「ああ・・それは大変ですね。」
成る程と芝浦が頷く。
ピーンポーン!
そこへ、丁度春美もエステから帰ってきた。
「あ!今度はプーさんだね!」
芝浦が、ドアへ出迎えに出る。
すると髪を綺麗に整え、綺麗に化粧して薄いブルーのロングドレス姿の春美が現れた。
「あーら、芝浦さんじゃなくって?
おほほほ!どお?」
春美がシナを作ってポーズを取る。
芝浦が呆れて首を振ると、クイッと後ろを指さした。
「ハルの叔父さんが来てるの、知ってるんだろ?」
「あら、そうだったわ。ホホ!何か色々して貰ったら気分良くってさあ!ドレスまで借りちゃったわあ。
あら、どうも遅くなりまして。」
そそくさと部屋に入り、ぺこりとお辞儀する春美の仕草には、やはり優雅さの微塵もない。
格好だけの見た目お嬢だ。
「失礼して部屋で待たせていただきました。
私は白川正義、晴美の叔父にあたります。
お世話になりながら、今まで挨拶が遅れまして失礼いたしました。」
「いえいえ、とんでもない。
私も丁度リストラにあったところで・・
いえ、それはいいんですけど、丁度手が空いたところだったので、一人暮らしに可愛いルームメイトが出来て楽しかったですわ。」
可愛い・・けど、おしっこまみれ。
ウンコの世話もしました。
「先程お電話で話しました通り、もうしばらくお願いできますでしょうか?謝礼は・・」
春美が、慌てて手をブンブン横に振る。
これ以上の金は、庶民感覚から外れる。
大金目当てにハルを預かると言うのも、何だか気持ちがすっきりしない。
金はあって困らないが、正当な理由以上に貰うのは何だか強請りたかりのようで気持ちが悪いのだ。
「もう、十分です。これ以上は破格すぎて貰う理由がありません。
それに、ハルがいてくれて楽しいのは確かなんです。どうぞ、お気になさらないで下さい。」
「そうですか・・それは良かった。
この子は障害児ではありますが、明るくて本当に人の心を和ませてくれます。」
ハルが、今度は正義の傍に走り寄る。
そしてギュッと手を握った。
「ねえねえ、セーギ。」
「セーギ?」
芝浦が不思議そうに傾げる。
正義はくすっと苦笑した。
「セイギと書いてマサヨシなんです。
妻が初めにそう教えた物で・・」
「ああ、なるほど。それと・・
ちょっと気になるんですが、ハルのお父さんは、白川グループの会長さんですか?」
正義が少し考えて、頷く。
「ええ、そうです。調べられたんでしょう?田中さんから聞きました。」
ドキッと、芝浦は何だか分が悪い。
しかし、相手も自分の事を調べたに違いない。
お互い様だ。
「それが・・ハルは旅行中のお母さんをずっと待っているという物ですから。
出来ればお母さんを捜してあげたいと・・」
しかし、正義は困った風に俯き、手を引っ張るハルの顔を見ている。あまり立ち入った事だからだろう。
「この子は、死の意味が良く分からないのか、五年前に死んだ兄嫁が旅行に行っていると信じていまして・・困った物です。
生みの母親の事は、暫く待ってはいたんですけど、諦めてくれたと思っていますが・・」
「え?!ハルは生みの母親を待っているんじゃないの?」
何だか、少し話が違う。
「いや、恐らく兄嫁のことです。
兄嫁が心臓で倒れた時に心配かけまいと、病院へ入院する時に、旅行に行くと言ってそのまま・・
まさか自分が死んでしまうとは思わなかったんでしょう。
葬儀の時、遺体を見せて説明はしたんですが、こちらもバタバタしていたので、結局はよく分からなかったらしくて。」
「ねえ、セーギ、シュウチは?ナッチンは?
お家に帰らないの?」
「ハル、家にはまだ誰もいないんだよ。
私も忙しいからお前の世話が十分出来ないしね。もう少しお姉ちゃんのお世話になろう。
ナッチンが家に帰ったら、すぐにお迎えに来るからね。」
「ハル、シュウチに会いたい。」
「シュウチは・・今、会えないんだ。
ほら、シュウチが出かける前にバイバイしただろう?もう少しの我慢だよ。」
「うう・・」
ハルががっかりと項垂れる。
春美が、思わずハルの前に出て諭した。
「お家の人が病気なんですって、だからもう少し家で待ちましょう?」
「びょ、びょーき?びょーきって・・風邪?」
「えーと、それは・・」
春美が正義の顔を見る。
正義は、溜息をついてハルの頭を撫でた。
「シュウチはね、お腹が悪いんだよ。
だからしばらく病院にお泊まりするんだ。」
「悪い?壊れたの?病院?ハルも行く!」
「駄目だ。シュウチが家に帰るまで待ちなさい。本当はね、ハルには秘密にしてくれと言われているんだよ。
シュウチは病気の顔をハルに見せたくないんだ。」
ハルが脳味噌を総動員で正義の言葉を考える。
何故秘密なのかは分からない。ただこれだけははっきりしている。
「ハルは、シュウチに会うの駄目なんだ。」
「今はね。もう少しの辛抱だよ。」
がっかり、
結局シュウチのいる場所すら教えて貰えない。
ハルは正義にしつこく聞く事も出来ず、ただ待つことしかできないのだ。
ハルにはどうして秘密なの?
胸の奥が、ちくんと痛む。
クーをギュッと抱いて、ハルは唇を噛んだ。
「大変なご病気なんでしょう?」
春美が少し心配そうに身体を乗り出す。
「いや・・そうですね。
ハルにも病名言って、察してくれれば本当に楽なんですけど。」
正義は、病名をはっきり口にしない。
大きな会社のトップが、病気で倒れたこと自体が極秘なのだろう。
ハルに教えたとして、それを黙っていることなど出来ないと思えるのも、ハルに何も教えない理由がある。
「ねえ・・セーギ、セーギきっとお迎え来るよね。きっと来るよね。ハルは待ってていいんだよね。」
正義がくすっと笑ってポンと頭を叩く。
「当たり前じゃないか。約束だよ、ちゃんと来るからもう少しの辛抱だ。」
約束・・信じていいんだよね、セーギ。
きっと約束だよね。
正義が、椅子に掛けているコートを手に取る。
ハルがビクッとそのコートにしがみついた。
「セーギ!もう帰っちゃうの?もういなくなるの?」
「え?あ・・ん、そうだな。」
正義が、ハルの顔を見て頭を撫でる。
ハルは正義の上着をギュッと握りしめて、寂しい顔で微笑んだ。
芝浦が、春美の肩をポンと叩く。
春美は芝浦の顔に軽く頷くと、ドレスの裾を踏みつけながら前に出た。
「あの・・よろしければもう少しゆっくりなさってください。
私達、食事を予約しているから上に行きますので。帰る時には、ハルを上のレストランへ連れて行くよう、ここのスタッフに預けてくださればいいですし。」
荷物みたいな言い方で、春美の顔が少し赤くなる。日本語は難しい。
しかし正義は、にこやかに春美の前に出て手を差し出した。
「じゃあ、お言葉に甘えて、もう暫くお邪魔します。ご迷惑をおかけしますが、ハルの事お願いします。」
「は、はい、分かりました。」
春美が慌ててその手を握って握手する。そのしっかりした手に、ポッと頬が赤くなった。
「じゃあね、ハル、叔父さんとごゆっくり!」
「うん、ごゆっくりする。」
二人がいそいそ出て行く。
カチャンッ!一旦閉まると、自動ロックのドアはもう外から開かない。何だか後戻りできないドアを見ると、芝浦は少し心配になった。
「なあ、いいのかな?」
「あら、あなたが気を利かせろって、小突いたんじゃない。」
「あれ?俺は別にそう言う気持ちはなかったんだけど。」
「まっ!何それ!じゃあ何で肩を叩いたのよ!」
「いや、別に意味はなかったんだ。
ただ何となく、少し思っていたのと違うなあと思ってね。金持ちって、冷たいイメージだったから。
ほら、ハルは愛人の子だって言うだろ?
結構、思ったより家族のみんなに可愛がられてるんだなあって思ってさ。」
しみじみと話す芝浦に、春美がプイッと背を向ける。
「あ、そう!私と二人っきりで食事に行きたくないの。あーそーですか。
せっかく綺麗にしてきたのに、あなたってほんっと気が利かないと言うか、変なところにしか目が向かないと言うか。
どうせ私より、テディーベアの方が魅力があるんでしょうよ。」
「へえ!俺のために綺麗にしてきたの。
へえー・・そうなんだ。」
プッと吹き出す芝浦に、真っ赤な顔の春美がますます顔を背ける。
「べ、別にあなたの為じゃないわよ!
思い上がるのよしてよね!」
芝浦はこみ上げる笑いを堪えつつ、着ていたよれよれのジャケットを脱いで彼女の腕に手を回した。
「まあまあ、美しいお嬢さん。
では、お食事に参りましょうか。」
あら、いやだ。
「ホホ!まあ許してあげるわ。
それじゃ、ディナーへレッツゴーッ!」
元気余って、春美が片足を蹴り上げる。
すると借り物のパンプスが、ポーンと廊下の先まで飛んでいった。
「あちゃ!」
キョロキョロ周りを見て、慌てて取りに行く。
「やっぱり、即席一日お嬢様だよなあ。」
その情けない後ろ姿に、芝浦はがっくり項垂れた。
 ドアが閉まり、再びハルと二人っきりになり、部屋が静粛に包まれる。
よろよろと正義はよろめきながら、ドスンと椅子に腰掛けた。
どうして俺を引き留めたんだ、ハル。
あのまま帰っていれば・・
ああ、ハル、とうとう・・・
ポケットの中の物を握りしめると、体中から汗がにじみ出る。
「セーギ、ヨッキはいつ帰るの?」
「え?ああ、帰ってるよ。夏美と一緒に病院にいるよ。」
「ヨッキも一緒なの?!じゃあハルも!
ハルもね、大人しくしてるから・・」
「駄目だ!駄目だと言っているのに何故分からない!」
突然大きな声を上げ、正義が立ち上がる。
ハルは驚いて思わず後ろに引きながら、泣きそうな気分を飲み込んで何とか正義の機嫌を取ろうと懸命に微笑む。
我に返った正義は、またドカッと椅子に座って頭を抱えた。
「すまない、悪かったなハル。」
「ううん。ね、ハルね、シーコ行くね。」
胸がドキドキ、何だかセーギが怖い。
そうっと、音を立てないように、項垂れる正義の邪魔にならないように、クーを抱いてトイレに向かう。
トイレに入ってクーを台に置き、しばし考えてズボンとパンツをモタモタと何とか降ろし、便器の蓋を開けおしっこを済ませた。
「良かった、パンツ汚さなかったよ、クー。」
上手に出来るとホッとする。急がない時は、ハル一人でもトイレは間に合う。
一息ついて手を洗っていると、鏡に不安と悲しみが入り交じった自分の顔が映っている。思わず背けるように俯き、傍らのクーを見てまた便座に座った。
台に乗っているクーは、真っ黒の瞳をハルに優しく投げかけて、微笑みかけているように見える。
クーはいつもハルに優しい。
クーだけには安心して心の内を話せる。
「ねえ、クー。セーギはハルを嫌いなのかな?
お家を一人で出たから、怒ってるのかな?
セーギ、とても怖いね。叩かないけど、怖いね。
ハルだけ違うは寂しいけど、プーさんもシーバもいるし、我慢できるよ。
ね、お迎えと違うでも、ハルは我慢しなきゃ。
ちゃんと、お迎えに来るって、約束だもん。」
クーは、そうだねと言っている気がする。
黒い瞳と微笑む口の刺繍が、がんばれ!とハルを励ましてくれる。
しかし立ち上がる気がなかなか出ない。
お腹の中に、不安で真っ黒な気持ちが渦巻いている。
やがて不安が、ブワッと涙となって押し寄せ、クーの顔が潤み、霞んで見えた。
「でもね、みんなね、約束なのに来ないの。
ハルはバーカだから、約束は約束じゃなくって、違うのかもしれないね。
でもね、ハルには違うのがわかんない。
クーはお利口だからわかるよね。
でも、ハルは信じるしかできないから、信じるんだ。 ハルにはね、それしかできないんだよ。信じるだけなんだ。
大きくなっても、バーカはちっとも良くならない。バーカは、みんな嫌いだよねえ・・
ハルは、どうしてバーカなんだろう・・」
涙が、ポロポロ流れ出て、ポタポタと膝頭を濡らす。
悲しくて、悲しくて、涙が流れ出る。
クーにだけは、作り笑いで顔色を窺わなくてもいい。安心して心の底をうち明けられる。
今までに、そうやって安心してゆだねられたただ一人の人、ミーカお母ちゃんは旅行に行くと言ったきり帰ってこない。
ミーカ、ママの代わりになるって、ハルのお母ちゃんになるって言ったのに。
『ハル、大丈夫だよ・・』
頭の中に声がする、クーの優しい声がする。
夢かもしれない。
でも、ハルにだけは聞こえるのだ。
ハルはトイレットペーパーをカラカラ引き出し、涙を拭いてにっこり微笑んだ。
「うん、うん、クー、ハルは信じるよ。
それでいいんだね。それしかないんだ。
本当はね、分かってるんだよ、クーリン。」
顔にボロボロになったペーパーのクズをつけたまま、持っていたペーパーを流し手を洗う。
そしてそっと大切にクーを抱き上げ、キスをしてドアノブに手を掛けた。
カチャン、
トイレを出て、ドアをきちんと閉める。
振り返ったとき、目前には正義が立っていた。
「あ、セー・・」
バシンッ!
無表情な正義の手が、ハルの身体に触れたとたん、ハルの身体が一瞬硬直して次の瞬間崩れ落ちる。
正義の手には、スタンガンが握られていた。
「セーギと、セーギと呼ぶな!呼ばないでくれ!」
震える声を漏らしながら、念を押すように正義は更に何度もハルの身体にスタンガンを押しつけた。
ビクン、ビクン、
痙攣が走り、ハルの口端から泡混じりの唾液が流れる。
「晴美!晴美!」
正義は完全に気を失ったことを確かめるため、ハルの両肩を握りガクガクと強く振った。
しっかり抱いていた、ハルの手からクーがころころと転がってゆく。
正義は急いで浴室のドアを開け、ハルの身体を抱き上げるとうつ伏せに頭から浴槽に投げ入れた。
ゴン!ガツン!
鈍い音を立て、頭を強打しながらハルが浴槽に頭をつっこんだ形で逆立ちになる。
正義ははみ出ているハルの両足を掴み、浴槽の中に放り込んだ。
はあ、はあ、はあ・・
正義の興奮した息使いが浴室に響き渡る。
浴槽の蛇口を握り、回そうとしても手が凍り付いて動かない。
ここまで来たんだ!
もう少しだ!もう少し!
正義はハルから顔を背け、シャッと浴槽のカーテンを引いて中が見えないようにすると、手だけを差し入れ一気に蛇口を全開にした。
ドドドドド・・
湯が勢いよく浴槽に溜まって行く。
いっぱいになるのに・・・・ハルが沈むのに、さほど時間はかからないだろう。
「う、う、う・・」
ムッと吐き気が登ってきた。
ヨロヨロと浴槽の横で四つん這いになって、思わず頭を抱えて床に伏せる。
これで・・これで事故に・・ごまかせる・・
恐ろしい・・俺は・・恐ろしい・・
この場から逃げ出したい思いに駆られ、正義は震えながら浴室を這い出そうとした。
その時、後ろで水の音がフッと消え、勢い良く出ていた湯が止まる。
「え?」正義はぽっかり口を開け、思わずカーテンを振り返った。

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